座間コミニティー

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◆主は正しい者を試みる。

2013年09月03日 16時50分10秒 | 聖書

(詩篇一一・五英訳)

すべての出来事は摂理の支配下にある。したがって、私たちの外なる生活におけるあらゆる試練は、ただちに第一原因者までたどることができる。神の定めの黄金の門より、勢ぞろいした試練の軍隊が、鋼鉄のよろいかぶとに身を固め、武器を携えて進軍してくる。
すべての摂理は試練の入口である。あわれみにさえ、ばらのようにとげがある。人々は、患難の川でⅥれ死ぬのと同様に、繁栄の海においてもⅥれ死ぬ。誘惑が及ばないほど私たちの山は高すぎることはなく、私たちの谷は深すぎることはない。試みは至る所にひそんでいる。あらゆる所で、上にも下にも、私たちは危険に囲まれている。しかし、神の許しがなければ、一滴の雨も暗雲から落ちることはない。一つ一つの雨のしずくが地面に達する順序さえ定まっている。
神からの試練は、私たちに与えられている恵みを証明し、力づけるために送られる。そして神の恵みの力を明らかにし、私たちの徳の真実性をテストし、それに力を加える。無限の知恵と、あふれるばかりの愛をもたれる私たちの主は、その民の信仰をきわめて高く評価しておられるので、信仰を強める試練からかばうことをされない。もしあなたの信仰の試みが火のようでなかったら、決して、今あなたを支えている尊い信仰をもつことはできなかっただろう。あなたは広く根を張っている木である。しかし、もし風があなたを激しく左右に揺り動かし、恵みの契約の尊い真理にしっかり抱きつかせることがなかったならば、あなたは決して今日のようにはならなかったであろう。
世俗的安全は信仰の大敵である。聖なる勇気の関節をはずし、神にささげられた気力の腱を断ち切る。
患難は信じるたましいのためにこの重要な役目を果たす。麦は殻の中で心地よく眠っている間は、人間にとって無用なものである。麦の真価が知られるためには、その安息所からたたき出されなければならない。
このように、主が正しい者を試みられることはよいことである。なぜなら、彼らはそれによって神に向かって豊かに成長するからである。

 

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ヨシュア記19章32-39節

2013年09月03日 08時50分40秒 | 聖書

19:35 その城壁のある町々は、ツィディム、ツェル、ハマテ、ラカテ、キネレテ、
19:36 アダマ、ラマ、ハツォル、
19:37 ケデシュ、エデレイ、エン・ハツォル、
19:38 イルオン、ミグダル・エル、ホレム、ベテ・アナテ、ベテ・シェメシュなど十九の町と、それらに属する村々であった。


ここでは、ナフタリ族が相続した土地のことが語られています。

その土地は比較的大きな土地で、ガリラヤ湖の西側に隣接する土地として知られています。

豊かな土地で、作物が多くとれました。

しかし、この地は北方にあったために、外国からの侵入に悩まされました。

この地についてイザヤは、その書の9章1節で、「9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。
先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」と、預言しました。

外国の支配に脅され辱めを受けた地ですが、イエス様のお生まれによって、豊かな慰めを受けると伝えたのです。


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◆百千の言いわけ

2013年09月03日 07時08分06秒 | 聖書

なまけ者は言う。「獅子が外にいる。
私はちまたで殺される。」と。      (箴言二二13)

獅子が、実際に外でうなって待ち構えているなら、勇者ぶって出ていかないほうが安全でしょう。しかし、この聖書のことばは、なまけ者が、働きに出ない「言いわけ」を風刺しているのです。
ある刑事さんが、私にこう言いました。「犯罪人は、千も万も言いわけを考えます。でも自分は、三つのほんとうの理由しか信じない。第一は物欲、第二は色情、第三は怨恨です。」きびしい観察ですが、人がさまざまの理由にならない理由、つまり言いわけを見つけ出すことは事実です。子どもが「頭が痛い」とか「おなかが痛い」と言って学校に行かない場合、ほんとうの理由はほかにあることもあります。私なども、自分の手に負えないような仕事に直面すると、不思議と下痢をしたり、頭が痛くなったりします。
軍隊で私は、いろいろのつらい、いやな思いをしました。しかし、いま思い出しても、いい訓練になったことは、「言いわけをしない」訓練でした。お天気のせいにしたり、体の調子のせいにするのは、まだまだ、かわいげがありましょう。しかし、他の人に自分の責任をなすりつけて、自分の不幸・自分の不可能・自分の不実行の理由とすることは、人間らしくないことではないでしょうか。
ある若い婦人が、「もう自分は、教会になんか来ない」と豪語しました。牧師が理由を聞くと「教会には、偽善者が多くていやだ」と言いました。しかし、牧師が涙を流しながら、心を注ぎ出して祈りだしました。彼女は真っ青になってだまりこみましたが、とうとう「先生、私がその偽善者です」と言い、心をくだいて告白したのです。
言いわけをしないで、とにかくやってみる。ほんとうのできない理由を、神に正直に打ち明けて祈る。――このことが、人間らしいやり方だと思います。

 

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◆私の愛している人。

2013年09月03日 07時07分10秒 | 聖書

(雅歌一・七)

多くの人々はイエスについて、主を愛することを願うとか、主を愛していると信じているとか言うだけで、貧弱な、浅薄な経験に満足している。このような死活にかかわる重要な問題については、たましいが全き確信を得るまで休んではならない。私たちは、イエスと私たちの愛の関係において皮相な望み、あるいは空虚な信頼で満足してはならない。昔の聖徒たちは、「しかし」「もしも」「……であることを望む」あるいは、「であることを信じる」などという一般的な表現は用いなかった。彼らは無条件に、明白に語った。パウロは「私は、自分の信じて来た方をよく知っており」と言い、ヨブは「私は知っている。私を贖う方は生きておられ」と言った。イエスに対するあなたの愛の明確な知識を得よ。イエスに対する関心を現実的なものとして語ることができるまで満足するな。あなたが聖霊の証しを受け、信仰によって聖霊の印をたましいのうちに受けた時、あなたはそれを確かなものとすることができる。
キリストに対する真実の愛は、常に聖霊の働きによるものであり、聖霊によって心にもたらされなければならないものである。聖霊はその動因であられる。
しかし、私たちがイエスを愛する論理的な理由は、イエスご自身のうちにある。なぜ私たちはイエスを愛するのか。イエスがまず私たちを愛され、「私たちのためにご自身をささげられた」からである。私たちはイエスの死によっていのちを得、イエスの血によって平和を得た。イエスは富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられた。なぜ私たちはイエスを愛するのか。主のご人格が卓越しておられるからである。私たちはイエスの美によって満たされ、イエスの魅力をたたえ、イエスの無限の完全を意識する。イエスの偉大性、善良、麗しさは、一つのきらびやかな光線となって結合し、たましいをとらえ、ついには「あの方のすべてがいとしい」と叫ぶに至らせる。この愛は絹よりも柔らかい鎖で心を縛るが、それは金剛石よりも堅固である。このような愛は祝されよ。

 

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箴言27章1-2節、テモテへの手紙 第一 3章7,16節(聖書本文は口語訳)

2013年09月03日 07時05分40秒 | 聖書

★  箴27:1-2  あすのことを誇ってはならない。一日のうちに何がおこるかを知ることができないからだ。
自分の口をもって自らをほめることなく、他人にほめさせよ。自分のくちびるをもってせず、ほかの人にあなたをほめさせよ。

★  1テモ3:7,16  さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう。

確かに偉大なのは、この信心の奥義である、「キリストは肉において現れ、霊において義とせられ、御使たちに見られ、諸国民の間に伝えられ、世界の中で信じられ、栄光のうちに天に上げられた」。

■O:今日のコラム

9月3日の朝です。今日1日も、神様を賛美していきましょう。神様こそ賛美を受けるにふさわしいお方だからです。

唯一栄光誉れ賛美を受ける方はただ神様だけです。僕らは、1分後のことも知らない者です。霧のようにすぐに消え去ってしまうような小さな小さな者です。この様な小さな者のために、天のお父さんは、イエス様を肉において現され、十字架と復活により霊において義とせられ、御使たちに見られ、諸国民の間に伝えられ、世界の中で信じられ、栄光のうちに天に上げられたのです。

先日、富士山に登山をさせて頂きました。無事登頂し、下山の時、本当の過酷な時間が始まりました。

下山道には、8合目から6合目まで山小屋はなく無機質な緊急避難所と一つのトイレがあるだけでした。だんだんと暗くなり明かりもヘッドライトだけで、いつまで続くか見通しがつかめない急勾配に、弱った足腰はさらに悲鳴をあげていました。もともと下山が苦手だと思っていたのですが、本当に辛い時でした。

その時、イエス様は教えてくださいました。「わたしも下ったよ。」と。イエス様は、天国での権威のすべてを一切捨て、この地にまず下ってくださいました。そして、背負う必要のない全人類の罪の十字架に架かられ、地獄まで下られたのです。

この言葉を頂き、主のありえない下り方に驚嘆し、愛の深さの一部を知ることができ、自分には誇ることがないと悔い改め、イエス様の十字架と復活を感謝する賛美を歌うと、自然と力が与えられ、無事下山することができました。 僕らは、どんな時でもどんなことでも賛美する材料に変えることができます。

そして、イエス様は、僕らの内側に聖霊様を住まわせてくださいました。天のお父さんが僕らを「イエス様だ!」と見てくださるのです。ありえない祝福です。

イエス様が僕らと共に歩んでくださるならば、教会外の人々にもよく思われている人になることができます。イエス様によって悪魔のわなにかからないように歩むことができます。

だから、今日1日も、神様を賛美していきましょう。イエス様と共に歩んでいきましょう。聖霊様を歓迎しましょう。

■A:考えてみよう

自分に誇ることはありますか?イエス様に栄光をお返ししましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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