集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

警察術科(主に逮捕術と柔道、あと剣道ちょこっと)の長い長い歴史(第23回)

2021-09-27 19:56:49 | 雑な歴史シリーズ
【その39 警棒・警杖術採用の立役者は、アイディアマン教養課長】
 終戦直後の劣悪極まる治安に対抗するため、内務省≒警視庁が実戦的な制圧技術を希求していたことは既に述べましたが、戦後真っ先に出現した制圧技術は逮捕術にあらず、警棒術と警杖術でした。

 昭和21年7月、わが国の警察官の腰からサーベルがなくなり、代わりに長さ45cmのバット状警棒が貸与されました。昭和の大作詞家・阿久悠先生の御父上(当時、兵庫県警察官)が、小説「無冠の父」において「これで、撲れちゅうんか」と深いため息をついていた、あの警棒です。
 ともあれ、武道は略禁止状態、拳銃携帯は許可されていたものの、絶対数不足により「携帯火力」の支援も受けられない当時の警察は、このバット警棒と、当時はまだ使用禁止となっていなかった警杖にすがって警察力を維持するほかなく、同年10月、「警棒警杖取扱規程」(内務省訓令第37号)によってその操法を制定。各都道府県警代表者に対して講習会を行い、各都道府県警察官への技術普及を図りました。
 このうち、警棒については相手の各種攻撃(徒手・匕首・長物)に対する各種カウンター攻撃を17種類にまとめたものを、警杖については立杖(りつじょう)・支杖・抱杖・提杖などを訓練したそうです。
 なお、警杖操法については現在も「警じょう操法訓練要領」(平成2年3月22日警察庁丙教発第65号)として、ほぼ当時のまま…というよりは、昭和ヒトケタ時代、警視庁に初めて警杖術が導入されたときのまま、現存しています。

 警視庁が「警棒術」を立ち上げたもうひとつの理由は「剣道技術者と、剣道技術の保護」です。
 【その37】でお話ししましたが、昭和21年8月、進駐軍の命令により、社会体育としての剣道が禁止の憂き目を見ました。
 警察武道としての剣道はまだ禁止されていませんでしたが(警察武道としての剣道禁止は昭和24年5月~28年5月まで)、いずれ来るであろう剣道禁止の際には、剣道関係の師範・教師・助教といった、いわゆる「剣道でメシを食える」職員(昭和24年時点における警視庁の剣道師範・教師・助教の総数は約120名だった)が路頭に迷うことは必至であり、また、これらの技術者を路頭に迷わせれば、警察剣道の火は消えてしまい、容易に復興できなくなります。
 これを懸念した警視庁教養課長・吉田太吉郎が、剣道技術者たちの保護場所として、また、剣道的なテクニックを何らかの形で残すことを企図して作成したものこそが「警棒術」だったのです。
 吉田課長は「大・中・小の得物に対する警棒使用術を研究考案せよ」と達しますが、この「大・中・小」とは大=警杖、中=竹刀、小=短刀であり、このうち「中」の得物に対する警棒術を訓練する過程で、手下たちが少しでも竹刀を握れるように、という暖かい心遣い?を見せていました(;^ω^)。
 この技術を引っ提げて進駐軍総司令部詣でを繰り返すこと数十回。実はこのころ、警棒術と並行して逮捕術のほうも技術開発・進駐軍詣でが繰り返されていたのですが、警棒術のほうが一足先に、合格を勝ち取りました。

 合格を勝ち取った吉田課長は、剣道保護のため、さらにひと手間を加えます。
 進駐軍に警棒術のデモンストレーションを行った際の演武者のいでたちは、頭には面金のかわりにフェンシングのネットを張った剣道の面、体には剣道用の胴と、肩パッド・腿パッド・小手、といったもの。
 フェンシングとも剣道ともつかない、異様にゴチャゴチャしたこの格好も、吉田課長の深慮遠謀のひとつだったのです。
 吉田課長は、進駐軍にこう掛け合います。
「警棒術は、相手の全身が有効打突部位となる性質を持つ。
 従って本来、訓練実施者は身体防護のため、このようなゴチャゴチャした防具を着けるべきであるが、なにぶん敗戦後のこととて、この防具を購入するカネもなければ、新たに作る材料もない。
 しかし、各警察署にはこれに代わるものとして、剣道の防具がたくさんあるから、これを代用品として訓練をしたい。」
 単細胞な進駐軍人は「あ、そうなの」と思い、毛唐にしては多少知恵の回る幾人かの進駐軍人は「しまった!」と思ったでしょうが、既に「合格」のお墨付きを出してしまった以上撤回は不可能。
 けっきょく吉田課長の深慮遠謀どおりコトは進み、「警棒・警杖術の訓練」は、各署の片隅でホコリをかぶっていた剣道用具に再び命を吹き込み、剣道技術者の保全にも大いに役立ったのです。
(個人的にはこの吉田太吉郎課長、もっと名を知られてよい傑物だと思います。)

コメントを投稿