集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

警察術科(主に逮捕術と柔道、あと剣道ちょこっと)の長い長い歴史(第30回)

2022-02-26 21:17:28 | 雑な歴史シリーズ
【その46 なぜ? のっけから「警棒技」掲載の理由】
 初代逮捕術の術技を見ていてまず不思議に思うであろうことは、冒頭いきなり警棒所持状態における「下段の構え」(現存)、その状態のままの「前進・後退」が入っていることだと思います。
 ちなみに「前進・後退」とは、前進あるいは後退しながら警棒を打つ要領なのですが、現在はそのうち「前進」の一部が、警棒の「中段打ち」として残っています。
 
 このことに関する謎解き…なぜ警棒操法が逮捕術の一番アタマにやってきたのか?という理由ですが、その第1は「進駐軍の顔を立てたから」です。

 当時の警察、特に首都を守る警視庁にとって最大にして最多の敵は、共産主義革命を標榜する日本共産党と、その手下となって暴れる在日朝鮮人の組織的抵抗…要するに暴力デモでした。
 終戦後から続発したそれらのデモはもはや「騒擾・内乱」といっていいレベルの激突だったのですが、進駐軍がその「騒擾・内乱」の鎮圧に際して日本の警察に対して与えた武器はなんと、バットのように先太になった、長さわずか45cmの警棒、そして旧軍接収のボロ拳銃だけでした(米軍貸与の雑種雑多な拳銃がお目見えするのは、昭和24年以降)。
 このチンケな警棒を持たされた警察官は、進駐軍(=民生局=アメリカン・アカ)の手引きにより「緊急警備訓練」、通称「一名暴鎮」なる訓練をやらされていました。どんなものかといいますと、現在の警棒操法に、現在の機動隊で行われている警備隊形訓練が加えられたようなものですね。

 当時の状況を、「警視庁武道九十年史」では、このように伝えています。
 「総司令部の指導によって緊急警備訓練が行われていた。『くさび形隊形』『右斜隊形』『横隊形』と夜を日につぐ猛訓練に明け暮れていた。」
 この訓練の中には「警棒操法」なるものがあり、これがのちに、逮捕術の先輩格となる「警棒術」になるわけですが、進駐軍はなぜかこの45センチの短い警棒の使用を日本警察に強い、並行して警杖など「警棒の地位を脅かす」と目される、他の制圧用具をやたらと敵視していました。
 そうした流れの中で昭和24年6月、警杖の使用が一時的とはいえ差し止めとなり、この頭の悪い措置がのちに「血のメーデー」事件で、警官多数の負傷という痛ましい結果を招いてしまうわけですが、そこは余り深く突っ込まないでおきましょう。

 逮捕術成立当時の昭和22年における警察行政は「(進駐軍から内務省に対する)指令の一方通行時代」(「警視庁武道九十年史」より)ですから、進駐軍が「警棒を使え」といえば当然その優先度合いを挙げざるを得ません。
 ですから初代逮捕術の冒頭に、不自然な状態で「警棒」がポンと置かれている原因の筆頭は「進駐軍に対する忖度」であることは、ほぼ間違いないでしょう。

 いまひとつ「警棒」が冒頭に来ている理由としましては、「実力行使による暴徒鎮圧」が絵空事ではなく、今日・明日にも訪れるにリアルな現実だった当時、徒手で制圧するということの優先順位が低かった、ということが挙げられます。

 現在の警察逮捕術は、個人で習得しておくべき基礎(構え、体捌き、離脱、受身、当て身、警棒突き・打ち、警じょう突き・打ち、逆(関節技)、固め技、追い掛け、捜検・連行・施錠)を「基本訓練実施要領」として順序立てて学べるようにし、その応用編となる制圧要領を「複合訓練実施要領」としてまとめております。
 初代逮捕術と現行逮捕術比較してみますと、現在の「基本訓練実施要領」が初代の「第1 基本技」、現在の「複合訓練実施要領」が初代の「第2 応用技」に相当する構成となっていますが、初代「第2」に掲げられた技術をひとつひとつ見てみますと、すべての項目で「警棒技」のほうが徒手技に先んじてナンバーリングされています。
 これは今まで申し上げてきましたとおり、当時の日本国内では犯罪規模の大小を問わず、「実力を揮って抵抗してくる」という性質の人間がごくごく普通に存在し、そうした抵抗の鎮圧には徒手制圧の技術はほとんど使用できず、警棒などの制圧用具を使用しなければどうしようもなかった、という切迫した事情があったものと思われます。

 初代逮捕術は見れば見るほど「格闘技を全く知らない人間を、一から教えて強くする」というより、「目の前の相手をとにかく早期に鎮圧できる技」を固めて作ったような印象がありますが、それもこれも、初代逮捕術が制定された時期には「暴力」というものが、警察業務のごく直近に存在していたということを忘れてはならないでしょう。 

警察術科(主に逮捕術と柔道、あと剣道ちょこっと)の長い長い歴史(第29回)

2022-02-18 06:57:54 | 雑な歴史シリーズ
【その45 警察組織における「逮捕術」の立ち位置と、初代「逮捕術教範」の術技】
「逮捕術は警察官がその職務を執行するに当り、犯人より攻撃を受け、実力を行使しなければならないとき、これを制圧逮捕するについての方法を定めたもので、基本的人権を尊重し、最も合理的、安全且つ能率的にその目的を達成しようとするものである。」(文章は原文ママ、漢字は現用の漢字に改めている)
 これは初代「逮捕術教範」第1条に書かれた逮捕術の理念ですが、「基本的人権」という文言をわざわざ持ち出しているあたりに、当時の世相を偲ぶことが出来ます(現行「逮捕術教範」からは削除)。
 
 そんな「基本的人権を尊重」した、初代逮捕術とはいかなる技で成立していたのか?をまずは確認したいと思います。

【初代逮捕術教範 術技一覧】
第1 基本技
【1 姿勢と体の運用】
1 警棒を所持する場合
(1)構え…下段の構え (2)進退…前進、後退
2 徒手の場合
(1)構え…正面の構え、右の構え、左の構え (2)接近…斜進、継足
(3)体さばき…前さばき、後ろさばき (4)受身…後方、前方、側方
(5)起き方…後方、前方、側方
【2 当身技】
1 突き…(1)前突(2)前進順突(3)前進逆突
2 けり…(1)横けり(2)前けり(3)膝けり(4)踏付
3 投技…(1)浮腰
4 逆技…(1)小手返 ※現在は「わき固め」追加
5 施縄技…(1)両手縛

第2 応用技
【1 離脱制圧】
(1)警棒捕小手打(2)片手捕顔面当(3)抱付浮(4)前えり捕わき固(5)後えり捕ひざ当(6)後抱捕体落(7)後脇下捕肘当
【2 防御制圧】
1 匕首に警棒でむかう場合…(1)先手小手返(2)振上起打(3)突込はすし打
2 長物に警棒でむかう場合…(1)振上飛込打(2)八相押打
3 両者とも徒手の場合…(1)顔面突き大外刈(2)腹部突浮腰(3)斜打浮腰(4)蹴上蹴返
4 匕首に徒手でむかう場合…(1)先手甲止(2)斜突小手返(3)突込小手返
5 拳銃に徒手でむかう場合…(1)正面近間捕(2)正面手首逆捕(3)腕くじきわき固(4)後電光右捕
【3 先制逮捕】
1 居捕…(1)気捕(2)前捕
2 立合…(1)片手かすみ小手返(2)すれ違い腕くじき(3)追懸
【4 引立】…(1)警棒引立片手捕(2)小手捕(3)腕捕
【5 捜検】…(1)両手あげ(2)壁かかり

 おそらく、技名を一見して「これは、これこれこういった技だ!」とわかる人は、日本国民の中でもそう多くないと思いますし(;^ω^)、だからといって、列挙した技のやりかたを「初代」教範の記述を丸写しして1つずつ紹介していたら、あまりに退屈過ぎて読者離れが起きてしまうと思われますので(大した数の読者がいないくせに…(-_-;))、以後は「初代」の技が、現在の警察逮捕術にどういった形で引き継がれているか、滅亡した技はどういったものだったか、ということを中心に、トピックでお送りしたいと思います。

雑記・空手「超人伝説」はこう意訳しましょう!押忍!

2022-02-14 20:33:29 | 格闘技のお話
 空手がまだ沖縄だけのものだったころの「名人」たちがやったと言われる超人伝説には、いろいろと凄まじいものがあります。曰く。
「天井に向かって飛び蹴りをして、天井を蹴り抜いた」
「天井の桟を指で掴んで移動した」
「孟宗竹を手で握って割り、割った竹をむしって竹細工を作った」
「巻藁での稽古に飽き足らず、墓石を組んである石垣の石を正拳でゴツンゴツンと殴っていたら、石が抜けた」
「盗賊が家に忍び込んできたとき、雨戸を正拳でぶち割って、雨戸の向こうの盗賊の首をそのまま鷲掴みにした」
 いずれも一聴して、人間技とは思えません。
 これら「超人伝説」は現在も手を変え品を変え、形を変えして、令和の現在も様々な空手書籍に登場しますが、これらの「超人伝説」の対象者たちとメチャクチャ身近に接していたが故に「それは話を盛り過ぎだ」と異を唱えた方がおられます。

 その名人は、長嶺将真(ながみね・しょうしん)。

 長嶺師は明治40年7月那覇生まれ。若いころ、兵役で大分の歩兵連隊にいたとき以外は徹頭徹尾沖縄に住み続け、警察官として奉職しながら、手(てぃー)の修行に励んでこられた名人。
 最初に師事した師匠は「マヤー(猫)新垣」と謳われた新垣安吉師、次いで「喜屋武ミー小(チャンミーグァ)」こと喜屋武朝徳師、さらには晩年の「本部サール」こと本部朝基師といった、明治~昭和初期にかけて活躍した、空手界のレジェンドたちから直接教えを受けています。 
 長嶺師は昭和15年、大日本武徳会が新設したばかりの「空手術」師範(かなりレアな称号)となり、翌16年には沖縄県空手道専門委員として「普及形Ⅰ」を創案。ちなみにこの「普及形」とは現在、フルコン諸派では「太極」という名で行われている形で、沖縄県では今も運動会などで盛んに演武されています。
 昭和36年から44年まで沖縄県空手道連盟会長(4期8年)、沖縄の本土復帰後となる昭和52年には世界松林流空手道連盟を創設、昭和58年、新たに編成された沖縄空手道連盟の初代会長…という、昭和の沖縄空手界を代表する大先生です。

 先生の著作「史実と口伝による沖縄の空手・角力名人伝」(新人物往来社)は、実際に師事したレジェンドたちの実像の紹介や、遠い昔の名人の遺族を訪ね、調べ上げた資料などが惜しげもなく公開されているという、史料価値の極めて高い名著なのですが、その中で「力の実証」と銘打ち、冒頭に掲げた眉唾な「武勇伝」にたいする管見を述べておられます。

「史実から伝説へ、更に神話的物語へと誇大、拡張されて伝えられていく古人の武伝に対し理論的に納得できない、と訴える若者は多い。
 たとえば…(中略)…指先で天井板を捕まえて渡ったとか、生牛の股肉を手刀でもぎとったとか、50キロくらいの小兵がその体重より重い砂糖樽を足で蹴り上げたとか、握力で孟宗竹を割ったとか、その他多くの超人的な話が伝えられている。」
 ちなみに昔の沖縄において、名人たちの「超人伝説」が盛りに盛られて語られるようになった最大の理由は、昔の沖縄における「手の達人」は、現在でいう芸能人クラスの有名人であった、ということ。
 だからこそ、その有名人の技や力のスゴさを、大勢の座の中でいかに大袈裟に話すかということは、娯楽の少ない当時、座を持たせるための重要なスキルのひとつであったりしたわけです。
 これについて長嶺師は同著で、「話シンカイヤ、歯ヤネエラン(話というものは誇張されてこそ面白い)」という沖縄の俚諺を紹介していますが…まさに!そういうことですね(;^_^A。

 しかし時代が下って「科学」が生活に馴染んできますと、その手のホラ話に「そんなこと、人間にはムリだろ」という懐疑の目が向けられるのは当然のこと。
 幸いにも長嶺師は、本業が警察官(しかも定年近くまで永く勤め上げた)であったため、伝説や伝承に捕らわれない「窮理の目」を持っておられたことから、「これは人体実験をして実証し、『ここまでは鍛錬次第で成し得て、これはもうムリ』という線引きをしなければ、若い修行者がソッポを向くだろう」と考え、実際に実証実験をしております。すばらしい!

 長嶺師が実証実験を行った伝説とは「孟宗竹を素手で割った」というもの。
 実験を行ってくれたのは、当時沖縄県警察官として勤務しつつ、パワーリフティングで全日本優勝4回、世界大会3位という成績を収めていた仲村昌英氏(いずれも昭和60年当時の話)。
 ベンプレス・スクワット・デッドリフトの3種目トータルで815キロを差すというワールドクラスの力持ちであり、重量物を挙げることにおけるプロであった仲村氏は、空手の名人である長嶺師範も認める、当代随一の「握る」ことの達人でもありました。
 仲村氏は長嶺師の要望に応え、直径5センチほどの琉球竹を素手で割ることにトライしましたが、残念ながら失敗します。
 仲村氏によると、竹は「手で握る」ように、全周から締め付けるような圧力が加った場合には内側の繊維が締まり、却って強度が増してしまうとのことで、「5トン車で轢いても割れないでしょう」とのことでした。

 まあこれは、竹というものを一度でも切ったり割ったりしたことがある人は、すぐ実感としてわかるのではないでしょうか。

 5月ころの若竹ならともかく、夏を経て秋になるころの繊維の締まった竹は、人間が上から乗ったぐらいでは容易に割れず、それを割るには鉈などで繊維の目に沿って刃物を入れるか、どうしても横から割らないといけない時には、外郭の一点に強い打撃力を加える(でかい石を落とすなど)しかありません。
 しかもそれが、直径5cm…となればおそらく、生えて1~2年は経過したものでしょうから、全周から圧力を加えて割れるシロモノではなくなっているはずです。
 さすが握りが死命を決するパワーリフター、握っただけで竹の本質を鋭く見抜いています。

 ここまで読んで、「大昔の空手に幻想を見る神秘系ドリーマー」的な方は、「いや、昔の名人と今のスポーツマンでは、鍛え方やトレーニング量がまるで違うから、現代のパワーリフターでは役不足だ!」みたいなことを言うかもしれません。
 …それもまあ、理屈と言えば理屈ですが、長嶺師はそのテの人たちの「反論ともいえない反論」を覆す話を、上掲著でちゃんとしております。
 内地では「力石」、沖縄県では「力差石」と呼ばれる、タマゴ形をした力試し又は鍛錬用の石があるのですが、長嶺師が戦前、中頭地方(沖縄本島の真ん中あたり)の力差石を調べ歩いたところ、そのほとんどは重さ百斤(60キロくらい)のもので、二百斤(120キロ)のものは極めてまれにしか存在しなかった、とのことでした。
 もし、古の名人が、本当に竹を握りつぶし、石垣を殴って抜くようなパワーがあるのなら、基本的には「全身供応力の力試し」の道具であった力差石については、120キロと言わず、もっと凄まじい重さのものがあってしかるべきなのですが、実情は上記の通りだったわけです。

 この力差石の重さから推察されることは「いにしえの『手』のトレーニングにおいて、『筋量を増やす』ということは全く重要なことではなかったうえ、物理的に不可能に近かったのではないか」ということです。
 古い空手のキモ、特に首里・泊の手にとってのキモは「形を練って、正確に使いこなす」ことですから、未熟な技をパワーでごまかすなんてもってのほかですし、また、現代とは比べ物にならないほど、食糧事情や衛生状態が悪かった昔の沖縄で、「筋量アップ」が可能となるほどのタンパク質…1食あたりのタンパク質含有量が20グラムを超える食事を摂るなんて、おそらく尚家の王様ですら難しかったんじゃないか、と推察します。
 ですから、当時の稽古形態や栄養状態などから推察すれば、伝説で語られるようなパワーの発露は、「完全になかった」とは言えませんが(人間には遺伝というものがあるので、生まれつき何をしなくても怪力の人は存在する)、「鍛錬の結果、スゴいパワーが発揮できるようになった」という伝説については、ヨタ話として片付けていいのではないか、と思ったりします。
 
 まとめです。
 古の名人が何を以て「名人」と云われていたかと言いますと、正しい形を正しく伝承していること、その流派に伝わる「鍛え」(巻藁とか、小手鍛えとか、力石など)をしていること、それらを一体化させて「実戦」で自在に使えることであって、竹を握りつぶすとか、天井板を飛んで蹴り破るとかいったことは、はっきり言って「修行に関係ない、やらなくてもいいこと」です。
 そんな曲芸じみたことをしたいと思うのなら、空手の稽古じゃなく、雑技団の稽古をするほうが絶対に早く、目標に到達しますよ(断言)。
 ただ、昔の沖縄における「手」は、武士とか、お金やヒマのある人がやるもので、庶民や農民にとっては目にすることは多々あっても、習得の機会にはあまり恵まれなかった格闘技でもあります。
 そうした「手を習えない」一般ピープル同士が、あこがれの念をこめて「手」を語る場合、まったく理解の埒外である「手の深奥」なんかどうでもよく、「跳び蹴りで天井を蹴り破る」とか「石垣の石をぶんなぐって抜く」とか「牛を一撃で昏倒させる突き」とかのほうが、手の威力を伝えるヨタ話として面白く、わかりやすかった…いわゆる「超人伝説」ができた背景とは、そんなもんなんじゃないでしょうか。
 明治時代ころまでの手の達人たちは、人体の合理的動作の極致ともいえる、古い「形」を極め、しかも1日10時間くらいは稽古していた(これは内地の専門武芸者も同様であり、当時としては普通のことだった)わけですから、そのことをよく知る街の人々が、「この名人だったら、これくらいのことはできるかも…」と、尾ひれ歯ひれをつけて話を創作するのもむべなるかな、と思います。

 しかし、そういった尾ひれはひれの付いた話は、その対象になっている「名人」が強くなければ絶対に生まれることはありません。 
 いまなお語られる「超人伝説」は、荒唐無稽な話であればあるほど、話の対象になっている名人が如何に武の深奥に近づいていたか、ということを推しはかるバロメーターではないかと、ワタクシは考えております。

 今はSNSや動画サイトといったものがあるため、クソみたいなヤツやどうでもいいヤツが自己アピールしやすい状況にありますが、そうした自己アピツールがなかった大昔に、荒唐無稽な「アイツは強い伝説」が語られた名人は、いずれも間違いなく「名人」だったことを忘れてはいけないでしょう。

雑記・某高等教育機関OBの「コメ食うな」論を排撃するの文

2022-02-02 20:19:46 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 先般の投稿で取り上げたクサレホストは、中学校もろくすっぽ通わないまま奈良県の生家を勘当されたという、典型的な低学歴DQNでしたが、今日のお話は「高学歴のくせにバカ」を取り上げます。

 毎度おなじみ・弊社の某高等教育機関のOBには卒業時期の古今、出身地の東西を問わず、いくつかの悪臭芬々なクセがあるのですが、その中のひとつに「自らのチンケな成功体験や、聞きかじりを基にした誤解がひどい」というものがあります。
 ワタクシも弊社に入って今年で27年目。その種のバカは、スコップで掬ってトロ箱に入れ、量り売りできるくらい(;^_^A出会ってきましたが、今回はそんな中でも、特級品ともいえるクソバカ&下劣なヤツをご紹介します。

 そいつの名前をT山といいます。昨年春、横浜地方本社の社長を最後に定年退職したので、いまはもう弊社にいないんですが。
 コイツが部下に盛んに啓発していたことは「米を食うな」でした。
 おそらく、T山という人間をご存じない方はここまで読んで「は?T山というのは池沼(←ネットスラングです(;^_^A)なの?」と思うでしょう。ワタクシもそう思います。しかし盗人にも三分の理、T山がこんな愚劣なことを言って愧じない背景には、T山の極めてチンケな成功体験が隠れているのです。

 T山が得々と語っていた「成功体験」とは、T山が高等教育機関の実習船に科長(航海長や機関長といった、船務各パートの親玉)として乗り組んでいた頃の思い出話。
 弊社のフネは大抵ご飯の質がいいのですが、某高等教育機関実習船は(ワタクシから見ればゴミのような)エライヤツが多数乗っているうえ、(ワタクシから見ればお金の無駄遣い極まりない)国際航海を行う関係上、腕利きのコック長が乗っており、三食非常にいいものが食べられます。
 それまで霞が関の本社で、1食300円くらいの安弁当を食っていたT山は調子に乗り、ガツガツと乞食のように貪り食う生活を始めたところ、たちまち体重増加。それを気にしたT山は、当時流行っていた「糖質制限ダイエット」を始めます。
 ちなみにT山が糖質制限を選択した理由ですが、当時T山は国際航海に従事していた関係上、当時流行っていた「朝バナナ」や「朝リンゴ」ができなかったことから消去法で残っただけ、とのことです。
 T山がやったことは、「米を食わない」を徹底しただけだったんですが、T山の体にはこれが見事にハマり、もとの体重に戻ったのことでした。
(ほかにも「剣道の素振りを、毎日●回やった」的なことも書いていましたが、そんなもん、全然大した運動量じゃないので取り上げません)
 ワタクシがT山の「糖質制限話」を知ったのは、本人がこの経緯を部内誌に掲載したことがきっかけなのですが、その文体はまるで、ネットワークビジネスの親玉が「僕と一緒に金持ちになろう!」と訴える文章と同じくらいのバカさと軽薄さがギットギトに浮き上がっており、ワタクシはただただ、失笑を禁じ得ませんでしたwww。

 しかし、T山の米嫌いはこの体験談を部内誌に載せたあたりから、いかがわしい宗教の信者の如き生臭さを帯びてくるようになります。

 T山はその後、幾度かの転勤を経て八重山支店長になりました。
 現在も同支店員であるワタクシですが、じつはワタクシの赴任とT山が支店長就任が同タイミングでした。
 そのため、ヤツが異動するまでの1年ちょっとの間、ヤツの動きを子細に(遠くから)見ていましたが、このころヤツの「コメ食うな」病膏肓に入っていました。
 本人がコメを食わないのは勝手なのですが、手下にも「コメは毒だから食うな」「コメを食うと太る」「ダイエットしろ」とキャンキャン吠え、「私はコメを食わず、週に1回、すばらしいトレーニングをしているからこんなにスリムなんだ!」と自慢することを忘れませんでした。驚くべきことに、それを地元の新聞にまで自慢し、記事にしてもらっていたのですから(極めて悪い意味で(;'∀'))スゴいです。
 ちなみにワタクシは当時、T山が週に1回、某フィットネスクラブで行っているトレーニング内容を関係者から聞きいたことがありますが、「グラウンドゴルフをやっているジイさんバアさんの方が、よほど気合が入っている」という、極めて低レベルなものでした( ´艸`)。
(この「ショボい運動を自慢する」というのも、某高等教育機関OBに共通することです。学生の頃、よっぽどレベルの低い運動しかしてなかった証拠ですね)

 T山は八重山支店長から鹿児島地方本社長に移り、先述のとおり横浜地方本社長で定年しましたが、当時の鹿児島地方本社員や横浜地方本社員に聞きますと、T山は退職するその日まで「コメを食うな」とうわ言のように唱え続け、手下にも強要していたとのことでした。
 これらT山による、一連の「コメ食うな」の動きをワタクシなりにまとめますと、こんな感じでしょうか。 
「T山は60歳になるまで、『糖質制限とは如何なるものか』という本質を学ぶことなく、自らのチンケな成功体験を、さも万人にあてはまる真実のように唱え続けた愚か者であり、また、自分がコメを食わないならまだしも、『コメは毒』などいう人として間違った言説を唱え、米の生産・流通・消費に携わる人を愚弄し続けた。
 これは人間として決して許されざる所業であり、その下劣な人間性は、犬畜生どころか、虫にも劣るものである。」
 T山がいかに知識的にも、人間的にも間違っているか。ここからはその点をお話しします。
 
 まず、T山が全く学ばず、また、これからも学ばないであろう「糖質制限の機序」について触れておきます。
 食べ物には「PFCバランス(Pがタンパク質、Fが脂質、Cが炭水化物)」というものがありますが、食事における最適なPFCバランスはC(炭水化物)60:F(脂質)25:P(タンパク質)15であり、これは各種論文でも証明されている「公理」でもあります。
 糖質制限ダイエットとは、一般的な食事において60%を占める炭水化物の割合を任意にカットする、あるいはタンパク質や脂質で代替することによって、食事全体に於けるカロリー摂取量を減らし、ダイエットを企図するというものです。
 このダイエット法は、飢渇感を感じることなく「栄養失調状態」を簡易に作り出せることから、「体重の数字を減じる」ということについては高い即効性を持ちますが、その反面、身体にとって最も必要・即効性の高い炭水化物=糖質が体に入らない状態を安易に継続すると、身体に種々の悪影響が出ることも失念してはいけません。

 糖質はご存じのとおり身体活動エネルギーの根源であり、「すぐに使える」スクランブル用糖質は、グリコーゲンという形で肝臓に蓄積されています。しかしこれは活動開始から15分程度で消失してしまい、その次は筋肉を分解して水と糖質に変換する、という現象が起きます。ボディビルダーが嫌う「カタボる」というヤツですね。
 ちなみに身体活動時において、「脂肪の燃焼によるエネルギ―供給」と「筋肉分解によるエネルギー供給」を比べた場合、優先度は断然、後者に軍配が上がります。そうです。「脂肪燃焼」とは「筋肉分解によるエネルギー供給」が呼び水となって、ようやく開始されるのです。
 つまり糖質制限を長く続けますと、脂肪燃焼の呼び水となる筋肉が消失し、脂肪がより燃えにくい体になるうえ、筋肉の合成には糖質が不可欠であるべきところ、その糖質がないため、筋トレをしても筋肉がつかないという悲惨なことになります。
 糖質制限ダイエットを試した人間のうち、人前に出てこない多くの方が「体重は落ちたけど、体がしぼんだだけで、全然カッコよくならなかった」と言っていますが、これはこういう理屈に基づくものです。
 この症状が膏肓に入れば、トレーニングやスポーツのような体力を消耗する運動のみならず、日常生活動作すらしんどくなってきます。最近介護関係で人口に膾炙してきた「サルコペニア(筋肉の減少による動作障害)」っつー、これが起きるのです。恐ろしいですね~。

 次に挙げる糖質不足による障害は「ボケてバカになる」。
 もっと詳しくお話ししますと「脳の栄養が不足し、脳が正常な働きをしなくなる」ということです。
 まず最初に申し上げておきますが、脳を活動させるのに必要な栄養素は、ブドウ糖だけ!です。
 ブドウ糖は炭水化物を原料に体内で生成され、GI値(食物中に含まれる糖質値)がほぼ100という、純度の高い糖分です。
 これだけ純度の高い糖分を作るには、原料も当然それなりに摂取しなきゃならんわけですが、糖質制限をすると、当然その供給が断たれますので、脳が正常な活動をしなくなります。
 よく、減量期のスポーツ選手が「頭が一日中ボーっとしている」とか、「意識が飛びそうになった」と言うことが多々ありますが、これは今お話したとおり、脳の栄養不足に起因するものです。
 このような場合、スポーツ選手ですと、ブドウ糖入りの飲料をすぐに摂るなど、専門知識に基づくリカバーができるのですが、生半可な知識で糖質制限をしている一般人に、そんなことがわかるはずもありません。
 栄養不足の状態が続くと、脳は恐ろしいことに活動を縮小=容積もシュリンクしていきます。つまり「ボケてバカになる」のですね。

 これはT山本人が語っていたことなのでほぼ事実だと思いますが、ヤツの食事は「コメを食わず、肉多め、野菜少し」だそうです。
 T山が毛嫌いする白米ですが、白米のGI値はいちおう「高」のカテゴリにはあるもののそんなに問題視するほどではなく(ある調査では76。フランスパンやベーグルより低い)、また、それ以外の部分は良質な食物繊維でできているため身体への吸収も割合ゆるやか、というかなりの健康食です。
 してみればT山の食生活とは「筋肉を減らし、脳みそを縮小させ、しかも便秘を招く食事」であり、だからアイツは八重山支店長のころ、あんなに頭がおかしかったのか…と、妙に納得してしまいました(;^_^A。
 さらに専門的な話をすれば、「糖質制限ダイエット」は、腸内環境によってハマる人とハマらない人がはっきり分かれます。
 日本人は乳糖不耐性…つまり、牛乳を飲むとハラが下る人が多いですが、あれは腸内に乳糖を分解する菌が少ないために起きる症状であり、実は糖質の分解・吸収にも全く同じことが言えます。
 糖質を分解してくれる腸内細菌が多い人は、少しの糖質摂取でも消化吸収がなされてしまいますから、ダイエット方法として「糖質制限」を選択してもハマりますが、もともと糖質を分解する菌が少ない人の場合、摂取した糖質が腸内を抜けやすいですから、これらの人には「糖質制限ダイエット」は何の効果ももたらさないことなります。
 そういう方の場合は、アトキンスダイエット(PFCのうち、F(脂質)をカットするダイエット)のほうがハマったりしますから、誰でも彼でも「糖質制限」で痩せるわけじゃないのです。
 ここまでの説明で、誰でも彼でも「糖質制限でヤセる」と言っていたT山の言説が、いかに一知半解のバカ発言だったかおわかりいただけたでしょうか。

 次にT山に関し断じるべきは、コメ嫌いが昂じるに従い、「コメは毒だ」などと公言して憚らなかったことです。
 コメを食う、食わないといったことはあくまで個人裁量であって、テメエがコメを食べないからと言って、第三者に対して「毒だ」「食うな」などとほざくのは、米農家・米流通者・米消費者に対する侮辱以外の何物でもありません。
 国民のだれもがその存在を知らない、ゴミのような三流企業のクソ社長のクセにこんな発言をするなど、恥さらし以外の何物でもありません。
 また、ダイエットのそもそもの原因は自分の不注意・不摂生で太ったことにあるくせに、その原因を「コメが悪い」などと言うのは、小学生レベルの因縁のつけかたであり、その低劣ぶりに呆れるばかりです。
 これらのことからも、T山の下劣極まる人間性は明白であり、その主張は一顧だにする価値はない、と断じてよいでしょう。

 お米は「豊葦原の瑞穂」であり、わが国の象徴ともいうべき食物です。
 自らの無知・無責任な言動を棚に上げ、その「瑞穂」を悪しざまに言うに至っては、もはや日本人の誇りを自分からドブに捨てたのも同じであり、できることならわが国の国民としての資格を全てはく奪してシナや朝鮮に放逐すべきだと思いますし、このような腐ったOBを多数輩出する某高等教育機関は、すでにわが国の教育機関と呼んではならないゴミです(断言)!
 個人的に某高等教育機関は、現住地である海軍の都・広島県呉市ではなく、シナの奥地とか、北朝鮮とか、そういうところに移転(そして、そのまま日本に帰って来るな!)すべきものだと心得ます。