【その46 なぜ? のっけから「警棒技」掲載の理由】
初代逮捕術の術技を見ていてまず不思議に思うであろうことは、冒頭いきなり警棒所持状態における「下段の構え」(現存)、その状態のままの「前進・後退」が入っていることだと思います。
ちなみに「前進・後退」とは、前進あるいは後退しながら警棒を打つ要領なのですが、現在はそのうち「前進」の一部が、警棒の「中段打ち」として残っています。
このことに関する謎解き…なぜ警棒操法が逮捕術の一番アタマにやってきたのか?という理由ですが、その第1は「進駐軍の顔を立てたから」です。
当時の警察、特に首都を守る警視庁にとって最大にして最多の敵は、共産主義革命を標榜する日本共産党と、その手下となって暴れる在日朝鮮人の組織的抵抗…要するに暴力デモでした。
終戦後から続発したそれらのデモはもはや「騒擾・内乱」といっていいレベルの激突だったのですが、進駐軍がその「騒擾・内乱」の鎮圧に際して日本の警察に対して与えた武器はなんと、バットのように先太になった、長さわずか45cmの警棒、そして旧軍接収のボロ拳銃だけでした(米軍貸与の雑種雑多な拳銃がお目見えするのは、昭和24年以降)。
このチンケな警棒を持たされた警察官は、進駐軍(=民生局=アメリカン・アカ)の手引きにより「緊急警備訓練」、通称「一名暴鎮」なる訓練をやらされていました。どんなものかといいますと、現在の警棒操法に、現在の機動隊で行われている警備隊形訓練が加えられたようなものですね。
当時の状況を、「警視庁武道九十年史」では、このように伝えています。
「総司令部の指導によって緊急警備訓練が行われていた。『くさび形隊形』『右斜隊形』『横隊形』と夜を日につぐ猛訓練に明け暮れていた。」
この訓練の中には「警棒操法」なるものがあり、これがのちに、逮捕術の先輩格となる「警棒術」になるわけですが、進駐軍はなぜかこの45センチの短い警棒の使用を日本警察に強い、並行して警杖など「警棒の地位を脅かす」と目される、他の制圧用具をやたらと敵視していました。
そうした流れの中で昭和24年6月、警杖の使用が一時的とはいえ差し止めとなり、この頭の悪い措置がのちに「血のメーデー」事件で、警官多数の負傷という痛ましい結果を招いてしまうわけですが、そこは余り深く突っ込まないでおきましょう。
逮捕術成立当時の昭和22年における警察行政は「(進駐軍から内務省に対する)指令の一方通行時代」(「警視庁武道九十年史」より)ですから、進駐軍が「警棒を使え」といえば当然その優先度合いを挙げざるを得ません。
ですから初代逮捕術の冒頭に、不自然な状態で「警棒」がポンと置かれている原因の筆頭は「進駐軍に対する忖度」であることは、ほぼ間違いないでしょう。
いまひとつ「警棒」が冒頭に来ている理由としましては、「実力行使による暴徒鎮圧」が絵空事ではなく、今日・明日にも訪れるにリアルな現実だった当時、徒手で制圧するということの優先順位が低かった、ということが挙げられます。
現在の警察逮捕術は、個人で習得しておくべき基礎(構え、体捌き、離脱、受身、当て身、警棒突き・打ち、警じょう突き・打ち、逆(関節技)、固め技、追い掛け、捜検・連行・施錠)を「基本訓練実施要領」として順序立てて学べるようにし、その応用編となる制圧要領を「複合訓練実施要領」としてまとめております。
初代逮捕術と現行逮捕術比較してみますと、現在の「基本訓練実施要領」が初代の「第1 基本技」、現在の「複合訓練実施要領」が初代の「第2 応用技」に相当する構成となっていますが、初代「第2」に掲げられた技術をひとつひとつ見てみますと、すべての項目で「警棒技」のほうが徒手技に先んじてナンバーリングされています。
これは今まで申し上げてきましたとおり、当時の日本国内では犯罪規模の大小を問わず、「実力を揮って抵抗してくる」という性質の人間がごくごく普通に存在し、そうした抵抗の鎮圧には徒手制圧の技術はほとんど使用できず、警棒などの制圧用具を使用しなければどうしようもなかった、という切迫した事情があったものと思われます。
初代逮捕術は見れば見るほど「格闘技を全く知らない人間を、一から教えて強くする」というより、「目の前の相手をとにかく早期に鎮圧できる技」を固めて作ったような印象がありますが、それもこれも、初代逮捕術が制定された時期には「暴力」というものが、警察業務のごく直近に存在していたということを忘れてはならないでしょう。
初代逮捕術の術技を見ていてまず不思議に思うであろうことは、冒頭いきなり警棒所持状態における「下段の構え」(現存)、その状態のままの「前進・後退」が入っていることだと思います。
ちなみに「前進・後退」とは、前進あるいは後退しながら警棒を打つ要領なのですが、現在はそのうち「前進」の一部が、警棒の「中段打ち」として残っています。
このことに関する謎解き…なぜ警棒操法が逮捕術の一番アタマにやってきたのか?という理由ですが、その第1は「進駐軍の顔を立てたから」です。
当時の警察、特に首都を守る警視庁にとって最大にして最多の敵は、共産主義革命を標榜する日本共産党と、その手下となって暴れる在日朝鮮人の組織的抵抗…要するに暴力デモでした。
終戦後から続発したそれらのデモはもはや「騒擾・内乱」といっていいレベルの激突だったのですが、進駐軍がその「騒擾・内乱」の鎮圧に際して日本の警察に対して与えた武器はなんと、バットのように先太になった、長さわずか45cmの警棒、そして旧軍接収のボロ拳銃だけでした(米軍貸与の雑種雑多な拳銃がお目見えするのは、昭和24年以降)。
このチンケな警棒を持たされた警察官は、進駐軍(=民生局=アメリカン・アカ)の手引きにより「緊急警備訓練」、通称「一名暴鎮」なる訓練をやらされていました。どんなものかといいますと、現在の警棒操法に、現在の機動隊で行われている警備隊形訓練が加えられたようなものですね。
当時の状況を、「警視庁武道九十年史」では、このように伝えています。
「総司令部の指導によって緊急警備訓練が行われていた。『くさび形隊形』『右斜隊形』『横隊形』と夜を日につぐ猛訓練に明け暮れていた。」
この訓練の中には「警棒操法」なるものがあり、これがのちに、逮捕術の先輩格となる「警棒術」になるわけですが、進駐軍はなぜかこの45センチの短い警棒の使用を日本警察に強い、並行して警杖など「警棒の地位を脅かす」と目される、他の制圧用具をやたらと敵視していました。
そうした流れの中で昭和24年6月、警杖の使用が一時的とはいえ差し止めとなり、この頭の悪い措置がのちに「血のメーデー」事件で、警官多数の負傷という痛ましい結果を招いてしまうわけですが、そこは余り深く突っ込まないでおきましょう。
逮捕術成立当時の昭和22年における警察行政は「(進駐軍から内務省に対する)指令の一方通行時代」(「警視庁武道九十年史」より)ですから、進駐軍が「警棒を使え」といえば当然その優先度合いを挙げざるを得ません。
ですから初代逮捕術の冒頭に、不自然な状態で「警棒」がポンと置かれている原因の筆頭は「進駐軍に対する忖度」であることは、ほぼ間違いないでしょう。
いまひとつ「警棒」が冒頭に来ている理由としましては、「実力行使による暴徒鎮圧」が絵空事ではなく、今日・明日にも訪れるにリアルな現実だった当時、徒手で制圧するということの優先順位が低かった、ということが挙げられます。
現在の警察逮捕術は、個人で習得しておくべき基礎(構え、体捌き、離脱、受身、当て身、警棒突き・打ち、警じょう突き・打ち、逆(関節技)、固め技、追い掛け、捜検・連行・施錠)を「基本訓練実施要領」として順序立てて学べるようにし、その応用編となる制圧要領を「複合訓練実施要領」としてまとめております。
初代逮捕術と現行逮捕術比較してみますと、現在の「基本訓練実施要領」が初代の「第1 基本技」、現在の「複合訓練実施要領」が初代の「第2 応用技」に相当する構成となっていますが、初代「第2」に掲げられた技術をひとつひとつ見てみますと、すべての項目で「警棒技」のほうが徒手技に先んじてナンバーリングされています。
これは今まで申し上げてきましたとおり、当時の日本国内では犯罪規模の大小を問わず、「実力を揮って抵抗してくる」という性質の人間がごくごく普通に存在し、そうした抵抗の鎮圧には徒手制圧の技術はほとんど使用できず、警棒などの制圧用具を使用しなければどうしようもなかった、という切迫した事情があったものと思われます。
初代逮捕術は見れば見るほど「格闘技を全く知らない人間を、一から教えて強くする」というより、「目の前の相手をとにかく早期に鎮圧できる技」を固めて作ったような印象がありますが、それもこれも、初代逮捕術が制定された時期には「暴力」というものが、警察業務のごく直近に存在していたということを忘れてはならないでしょう。