集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

ふたりの「嘉納」が別々に目指した、柔道の武術化(のようなもの(;^ω^))(その2)

2023-09-30 08:54:02 | 雑な歴史シリーズ
 横浜柔拳を見て衝撃を受けた健治親分は早速行動に出ます。
 柔拳を行うにはまず、ボクシングを知らなければなりません。
 そのためにはまずトレーニングするジムが必要ですが、これは健治親分が自分の邸宅内にボクシングジムを造ってあっさり解決( ゚Д゚)!
 このジムはのちに「大日本拳闘倶楽部」通称「大日拳」となり、戦前の日本ボクシング界における「西の横綱」となります。

 次に、ボクシングをよく知る専門家…つまりコーチが必要ですが、ここで健治親分はなんと、外国人コーチを雇い入れます。
 そのコーチは誰かというと、前回の原稿で「スミス柔拳」として紹介した興行の中心人物となったアメリカ人ボクサー、エドワード・スミス。
 スミスは当時、アメリカで大きな話題となっていた異種格闘技戦無敗の「コンデ・コマ」こと前田光世の試合を見て日本の柔道に興味を持ち、柔道を学ぶことで、柔道をボクシングと「比較研究し彼我の長所を取りて帰国の上は本国に柔拳倶楽部を設立」(明治44年10月10日付時事新報)するため来日し、「エール大学卒で、武道を修めた紳士」という触れ込みでしたが、後のわが国における動きを見る限り、ガイジン慣れしていない日本で一山当てようとした、無学な山師だったとしか思えません(本邦入国がアメリカ本国からではなく、当時の米植民地だったマニラからだった辺りが怪しい)。それはさておき(;^ω^)。

 ともあれ、スミスを雇った健治親分がどのようにボクシングに取り組んだのか。当時を語る健治親分の貴重なインタビューが「明治事物起源」に掲載されていますので、見てみましょう。
「明治四十二年頃、講道館の名物男だった紺野君(≒昆野陸武のこと)が、横浜在住の拳闘外人と、日本最初の柔道対拳闘の一騎打ちをやって一勝一敗に終わったことがあった。成る程これは面白いスポーツだと感じ、翌四十三年、神戸に上陸したエール大学出身のスミスといふ外人を、御影の私の道場まで引張って来て、柔道をやらせて見やうと計画した。」
 これだけ読みますと、健治親分はたまたま日本にやってきたスミスを臨時的に雇い入れ、ボクシングを教えてもらっただけのように見えますが、そこは一流の経済ヤクザだった健治親分。おそらく独特の嗅覚で「スミスは山師」ということと「ボクシングの腕は間違いなくある」ということを見抜き、一挙両得を狙ったと思われます。
 その一挙両得とは「スミスを使って興行を打って儲ける」「スミスからモダン・ボクシングのテクニックを学ぶ」です。

 スミスにはクレー(アメリカ人)及びハウス(ドイツ人)という仲間がくっついてきていました。特にハウスは身の丈190センチ近い大男で、見世物興行の柱としてはうってつけ。
 これを見た健治親分は早速、一行を用いた柔拳興行を打ちます。先ほどのインタビューの続き。
「難波の相撲場を借りて、リングと称し、まあ柔拳の試合といふところまで漕ぎ付けた。」
 この「難波の相撲場」とは、当時大阪にあった相撲常場所のことであり、健治親分は相撲頭取・朝日山四朗右衛門に諮ってこの場所を借り、明治44年6月2日~4日にかけて柔拳興行を打ち、かなりの人気を博しました。

 一行はこの後中国・四国地方を回ってそれなりに評判を呼びましたが、一行は調子に乗ってカネを使いすぎてスカンピンとなり、もう一山当てるために上京。
 10月11日から3日間の興行はそれなりに好評を博しましたが、以後興行は全く振るわず、窮した3人は、投宿先のホテルから代金を払わずにドロン。その1か月後の11月、ハウスが横浜において無銭飲食で逮捕され、20日間の拘留を打たれています。

 スミス一行の動きを見る限り、健治親分が一行のケツ持ちをしていたのは、おそらく大阪興行~スミス一行の上京あたりまでと思われます。
 当時、日本トップクラスの親分だった健治親分がケツ持ちを続けていれば、スミスたちが東京で食い詰めることも、ホテルから脱走して無銭飲食することもなかったはずですし、だいいち、健治親分がケツ持ちをしているのにヘタに逃亡すれば、いくら外国人とはいえ、親分の手下たちがたちまち一行を(物理的に)消してしまうでしょう(;^ω^)。しかし、そうはならなかった。
 
 先ほども申し上げましたが、健治親分が一時的とはいえ、スミス一行のケツ持ちをした理由は「スミスたちを使った興行を打つこと」「最新のモダン・ボクシングのテクニックを教えてもらうこと」であり、それが終わればスミス一行なんて、どうなろうと知ったこっちゃなかったのです。
 スミスたちが日本から強制退場させられた後、健治親分の手元には、大阪・中国四国興行の儲けと、スミスから習ったボクシングのイロハがガッチリ残りました。当時日本最強の経済ヤクザの面目躍如といえましょう。

 スミス一行の柔拳興行は、わずか数か月でうたかたの如く消え去りましたが、健治親分のボクシング熱はその後も留まるところを知りませんでした。
 健治親分インタビューの続き。
「(スミスたちが去った)その後、神戸に上陸する外人で、暇のある連中を、どしどし御影の道場に連れて来て、懸命に拳闘術の習得に勉(つと)めた。いや、全く真剣だった。」
 健治親分の「道場」での練習ですが、その実はろくなガードテクニックも知らず、満足な道具(グローブや防具)もなく、ガチで殴り合うことばかりを繰り返すという、実に殺伐としたものでした。
「嘉納氏自らグローヴを嵌めてガンガンやられるし、練習する連中が世評なんか糞喰ヘで行(や)る連中だから稽古の荒っぽかったこと(中略)。
何しろ練習中に『殴ったな、何糞ッ』『来いッ』ってな調子だったんだから、皆強いには強かった。」(拳闘読本一問一答 昭和7年より)
 そのため健治親分は「今でも自分の鼻柱は折れてグニャグニャ」(先述インタビュー)という生涯消えない傷を負います。後になって野球のキャッチャーマスクをヘッドギア代わりに使うようになりましたが、ケガが日常茶飯事というムチャクチャな練習は、一定期間続いたようです。
 現在に残る健治親分の肖像写真を見ますと、右目が左目とは明らかに違う方向を向いていることがわかります。もしかするとこの時の猛練習が仇になったのかも知れません。
 
 親分自ら鼻をヘシ折りしながら習得したボクシングは、のちに健治親分のドル箱となる「神戸柔拳」を生み出すわけですが、このころの健治親分にとってボクシングは、もはや興行の道具という範疇を越え、自己のアイデンティティを形成するための欠かせざるものとなっていました。
 この「スミス柔拳」のときもそうなのですが、健治親分は生涯に亘って格闘技大好き、特に当て身を巧みに駆使する術者を非常に珍重していました。
 じつはこの「当て身を駆使する武道家好き」というのが、歴史的にも有名な本稿のオチになるんですが…それはのちのお楽しみとして(;^ω^)、次回は健治親分が本気で乗り出した「神戸柔拳」と、そのころ偶然?必然?的に時を同じくして始まった偉大なる叔父様・治五郎先生の「勝負法」の動きをトレースして見ていきたいと思います。

ふたりの「嘉納」が別々に目指した、柔道の武術化(のようなもの(;^ω^))(その1)

2023-09-23 08:28:23 | 雑な歴史シリーズ
 弊ブログをご高覧の諸賢におかれましては、柔道創始者である嘉納治五郎大先生(万延元(1860)年~昭和13(1938)年)の来歴や業績について、もはや説明は不要と思います。
 「長い長い歴史」でも少し触れましたが、嘉納大先生は晩年、柔道の「勝負法」すなわち、実戦で使える打撃ありの柔道の体系化に腐心していました。そのムーブメントの中で、お弟子に合気道や空手、棒術などを習わせて「最も進んだ武術を作り上げ、それを広く我が国民に教ふる」(「講道館の使命」より。昭和2年のお言葉)つもりでした。
 ただ残念なことに、当時の柔道は既に「取っ組み合いゲーム」の体制が完全に確立された後であり、誤解を恐れずはっきり言いますれば「勝負法を考えられる指導者が全然いない」状態でした。
 「そんなことはない!」という方もおられるかもしれませんが、大正15年に制式化した「警視庁柔道基本 捕手ノ形」が、柔道の「極の形」を改悪した、全く実戦に使えないシロモノだった(しかも技術の総監修が、「四天王」山下 義韶だった)のことをもってしても、柔道は大正末期ころまでには、「実戦への対応能力」を生み出す力がゼロになっていたことが明確にわかります。
 そのため、嘉納大先生の大いなる志に反して「勝負法」体系化は遅々として進まず、けっきょく大先生の客死を以て沙汰止みとなりました。

 さて、こうした柔道の「雑巾踊り」(←戦前、柔道を揶揄した悪口。鈴木隆の名作「けんかえれじい」に出てくる)化を苦々しく思い、果敢なムーブメントを起こしたのは嘉納大先生だけではなかった、しかもそれが、嘉納大先生のものすごく近しい親戚で、さらにいえばその人物は、超がつく大物ヤクザだった…信じられますか?こんな出来すぎた話…ワタクシもビックリしましたよ!

 今回は、ピストン堀口先生の人生をほじくっていたら発掘された、そんな大物ヤクザのお話を一席。

 今回のお話の主人公、名前を嘉納健治(以後、嘉納大先生との差別化を図るため「健治親分」と呼称します(;^ω^))
 健治親分は明治14(1881)年、当時の兵庫県神戸市御影町浜東に所在する、「浜嘉納」の四代目・嘉納治一の次男として生まれます。
 嘉納本家はあの有名な日本酒「菊正宗」の蔵元であり、そこから銘酒「白鶴」で有名な「白嘉納家」、嘉納大先生を生んだ廻船業の名門「浜東嘉納家」、そして健治親分を生んだ「浜嘉納家」(こちらも正業は「菊正宗」の蔵元)に分家しており、いずれの家も近畿圏随一の名家です。
 父・治一の早逝を受け、健治親分は東京の医者に養子縁組され、当時のインテリへの近道・ドイツ語習得のため、獨逸学協会学校(獨協中学の前身)に進学します。

 ところが健治親分は、親戚の治五郎先生ほど勉強が好きではありませんでした(;^ω^)。
 上京後、わりかし早い段階で学業からドロップアウトした健治親分はまず、不良船員にワタリをつけて拳銃を入手(!)、猛練習を行って射撃の腕を大いに上げ、「ピス健」としてその名を知られるようになりますが、息子のグレっぷりの尋常ならざることに驚いた養父は、健治親分を偉大なる叔父・治五郎大先生が経営する嘉納塾にブチ込みます。

 このころの嘉納塾は、黎明期のような貧乏苦学生のたまり場ではなく、名を挙げ功を成した嘉納大先生の威明を慕う華族など上級国民が、自らの師弟をよりよく鍛えてもらうための「エリート養成塾」になっていました。
 従ってその生活スケジュールはわりかし厳しく、朝は4時45分に起床して徹底的に掃除。学校から帰ると2時間の柔道の稽古と自習。土曜日は午前午後の柔道二部稽古、たまには長距離行軍や水泳もやり…という感じ。
 おそらく治五郎大先生も、この生活によって健治親分の性根が治ることを期待していたのでしょうが、結果は真逆で、縛られることが嫌いだった健治親分は嘉納塾を早々に脱走。神戸に戻ります。

 神戸に戻った健治親分はその男っぷりと拳銃の腕でたちまち名を挙げ、一端の親分として知られるようになります。特に、名門商家の出身で学もある健治親分は「経済に明るい親分」として知られ、様々なシノギを成功させます。
 そんな健治親分は明治42(1909)年、横浜で衝撃的な興行と出会います。
 それは日本人柔道家と、イギリス水兵ボクサーが折衷ルールで戦う異種格闘技戦。世にいう「柔拳興行」です。
 イギリス艦隊水兵ボクサー・ガレットVS講道館四天王・横山作次郎の愛弟子だった昆野睦武(こんの・むつたけ。1885~1917)とのミックスド・マッチは大盛況であり、その後約1年に亘って散発的に興行が打たれますが、外国艦隊が横浜に入港しないとボクサーが確保できないなど、安定を欠く興行だったことが響き、すぐ沙汰止みになってしまいました。
 しかし武術・格闘技が大好きだった健治親分はこの興行に大いに触発され、自分の力による恒常的な「柔拳」の自主興行を思い立ちます。

 「柔拳興行」の歴史は、おおむね以下の3つの時期に分けられます。
①横浜で最初に行われた、艦隊ボクサーを相手にした興行(以下、「横浜柔拳」)
②明治44(1911)年、日本柔道に挑戦するため現れたアメリカ人ボクサー、エドワード・スミスら一行を頂いて行われた興行(以下、「スミス柔拳」)
③大正8(1919)年以降、健治親分が全面的に打ち出した興行(以下「神戸柔拳」)

 以下、この歴史と健治親分の動きをトレースしつつ、柔拳興行の興亡、そこに「ヤクザのシノギ」以上の熱い思いを抱いて取り組んだ健治親分の「柔道の武術化」の取り組みを見ていきたいと思います。