集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

ふたりの「嘉納」が別々に目指した、柔道の武術化(のようなもの(;^ω^))その3

2023-10-07 08:52:33 | 雑な歴史シリーズ
 健治親分がボクシング修行に明け暮れていた明治40年代、偉大なる叔父・治五郎大先生が造った柔道は、日露戦争後の第二次武道ブームの追い風を受け、宿願の学校教育採用を果たし、全国あちこちに武徳殿ができて柔道の稽古が盛んになり…という爛熟の時代を迎えていました。
 「その1」でお話ししましたとおり、健治親分は嘉納塾にブチ込まれていた時期があり、そのため柔道を人並み以上に修めてはいましたが、斬った張ったの世界に生きる健治親分の柔道に対する目は、極めて冷ややかなものでした。大正9(1920)年10月21日付大阪朝日新聞には、健治親分のこんなコメントが掲載されています。

「近頃の柔道は殆ど捻合(ねぢりあい)ばかりの骨抜き試合となって了(しま)って当身に対する防御のワザが閑却されている」
「犯罪は毫も縮小又は全滅されないのに近時警察官の帯剣を短縮又は全廃せう論議されているやうである、トコロが今の骨抜き柔道で以て警察官はよく困難な職務を遂行することができるであろうか」

 このコメントは、健治親分がこの前年(大正8年)10月に神戸において開催し、たちまち大ブームを巻き起こした「神戸柔拳」の運営趣旨を語った記事からのもので、翌22日付の同紙では「嘉納健治氏が拳闘に対して柔道の尚多少の欠陥あるを覚(さと)り(中略)其の欠陥の除去を努めつつ機会ある毎に拳闘家と競技を行ひ」、その精華こそがこの柔拳興行だと結んでいます。
 確かに健治親分はスミスを始め、神戸に上陸してくる外国人を片っ端から自分のジムに引っ張りこんではガチスパーを繰り返していたわけですから、こと打撃系格闘技の研究に関しては、当時の本邦におけるかなりの有識者になっていたことは、疑う余地がありません。
 この発言は「自らの興行に社会的意義を持たせる」というタテマエも多少はあったと思われますが、「打撃系格闘技を研究しないと、柔道はカタワになる。もっとしっかりしろ!」という本気の問題提起でもありました。

 健治親分の「神戸柔拳」は大ヒットを博し、神戸だけでも合計28回もの興行が打たれるロングランとなりましたが、このころ偉大なる叔父・治五郎大先生も、留まることを知らない「柔道のスポーツ化」に悩んでいました。

 治五郎大先生はもともと、自己の創出した柔道を「体育法」から始まり、「修心法」を経て、「勝負法」に至るものとしていました。
 健治親分が「捻合ばかり」と批判した、当て身のない乱取りはあくまで、柔道のイロハを学ぶためのものであり、治五郎大先生が唱えた本来意義からすれば、修行の基礎段階の過程という位置づけです。
 しかし実際はそうならず、明治時代に2度訪れた武道ブームのなかで、「捻合ばかり」の乱取りこそが「柔道のすべて」という刷り込みが全国民になされてしまいます。治五郎大先生が「いや、そうじゃなくて」といくら著作で訴えても、それを教えられるお弟子…そう、元祖講道館四天王の横山作次郎のように、手刀で馬を気絶させられるような「打撃も修めた猛者」は、大先生の周囲から完全に姿を消していました(横山作次郎は大正5年没)。

 ここで「勝負法」の定義についておさらいします。
 大先生が明治22年、当時の文部大臣榎本武明らの前で行った講演において、その定義をこう述べています。
「柔道勝負法デハ勝負ト申スコトヲ狭イ意味ニ用ヒマシテ、人ヲ殺ソウト思ヘバ殺スコトガ出来、傷メヨウト思ヘバ痛メルコトガ出来、捕ヘヨウト思ヘバ捕ヘルコトガ出来、又向フヨリ自分ニソノ様ナコトヲ仕掛ケテ参ッタ時此方デハ能ク之ヲ防グコトノ出来ル術」
 要するに大先生の「勝負法」とは「どんな相手にも使える、強力な護身術」。その護身術の中に、打撃技がないなんてことは考えられない…というより、「あって当然のもの」でしょう。

 では翻って、大先生のこのころのお弟子たちが、大先生の説く「勝負法」をどの程度理解していたか?
 「現代柔道と修練法」(金丸英吉郎、淳風書院 昭和4年刊)に書かれた「勝負法」の定義を見てみましょう。
「柔道稽古に依って技量の熟達を図り、他人の技量と勝負によって比較し、其の長所を知り己の技量を磨き、技術の進歩に努むる法は之を勝負法と云ふ。」
 …これって完全に「捻合ばかり」柔道の練習方法に関する話ですよね???ってか、上に掲げた大先生のお言葉のどこをどう捻れば、こんなトンチンカンな「勝負法」の解釈になるのでしょうか?しかものこのころ、大先生はまだ存命中なんですよ???
 ナゾは深まるばかりですね(;^ω^)。

 この不肖すぎるお弟子の言葉が示すとおり、柔道はこのころ既に「人の殺傷ができる武術」に回帰できる能力を完全に喪失していました。
 そのことは治五郎大先生が誰よりも深く知っていたはずなのですが…嘉納先生と不肖のお弟子たちはこの後、柔道が「武術」に戻る橋を、自分たちの手で切断する事態を引き起こします。

1 コメント

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Unknown (老骨武道オヤジ)
2023-10-08 21:52:36
不詳、昭和20年代後半生まれの私は団塊の世代:昭和20年代前半に生まれた文武両道=優秀でたくましい先輩方(大学空手道部OB)の背中をみて伝統空手にどっぷり浸かり、現在も老骨にむち打ちもがいております。その先輩方もボチボチ鬼籍に入られる方が多々おられますが・・幾多の大学空手道部出身先輩方の愚痴は「姿三四郎」です、これには柔道家:姿三四郎は善玉、某空手使いは悪玉とし描かれており、「俺たちはその悪名をを払しょくするために空手普及に頑張ってるんだ」と酒席のたびに言われました。よって高校柔道あがりの私は空手道に転向したのでした。この道に悔いはありません・・年寄りの戯言ですね・・チャンチャン!!

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