集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

岩国の隠れた?忘れられた名将と黒獅子旗(その11)

2018-12-23 21:44:51 | 周防野球列伝
 戦後の野球狂騒曲の追い風を受け、高校野球もプロ野球もかつてない人気ぶりを誇りましたが、その恩恵を最も受けていたのは、おそらく社会人野球だったでしょう。
 今でこそ不景気などのあおりを受けてチーム数が激減、しかも宣伝不足のため、よほどの好事家以外知る人のなくなった社会人野球ですが、戦後復興期の当時は
 「全国の街に実業団チームが誕生し、草野球のチームなら町とはいわず村にまであった。」(「青春」より)という状態であり、それが各種企業チーム・クラブチームの乱立に直結します。
 正規の会社が持つプロ顔負けのチーム、別々の会社に勤める人間同士が集って作り上げたクラブチーム、あるいは何が何だかわからんような零細企業のチームまで、実に多種多様なチームが日本全国に誕生。それはそのまま、沸き立つような野球人気の裏返しでもありました。

 岡村さんと東洋紡岩国の話に入る前に、戦前から昭和30年代ころまでにかけての中国地方の社会人野球事情をちょっとお話しします。

 戦前の中国地方社会人野球の牽引車は、なんといっても呉市(全呉―呉海軍廠)。
 呉海軍工廠の球史は古く、明治22(1889)年、当時の呉鎮守府造船廠(のち工廠造船部)と、同造機部にできた野球部が「呉の野球」の萌芽となります。
 もともとは職工への体育・福利厚生の一環として行われた野球ですが、設備・用具面のバックアップが大きかったことから、当初は各部ごとに存在したチームがたちまち激増、各工場ごとにチームを持つようになり、互いに激しくしのぎを削るようになりました。
 詳しい経緯は省きますが、大正5(1916)3月には、工廠倶楽部(呉海軍工廠の職員親睦会)所属のチームが中心となって「呉野球協会」が発足。これがそのまま「全呉」となり、たちまち全国区の強豪として名を馳せます。
 なにしろ都市対抗野球には昭和2年の第1回大会から、戦前最後となった昭和17年の16回大会まで、出場回数なんと10!まさしく戦前の中国地方の社会人野球=呉、という時代だったわけです。
 ところが終戦とともに海軍が消滅し、また、市内各地が爆撃で灰燼と化した呉は野球どころではなくなり、戦前最強を誇ったチームも自然消滅。そのまま後楽園に帰ってくることはありませんでした。

 終戦直後、呉市の後を受け中国地方社会人野球のリーダーとなったのは下関市(林兼商店-大洋漁業-全下関)。
 林兼商店(現・マルハニチロ)が硬式野球部チームを持ったのは昭和4(1929)年のこと。都市対抗出場を果たすなど、いきなり強豪の仲間入りをするものの、世界恐慌の影響で昭和7(1932)年、チームは軟式に格下げ。そのまま戦争を迎えます。
 しかし終戦直後、食糧難解消のために魚を大量に獲る必要性が生じるとともに、林兼商店の業績も向上。昭和22年ころ、再び硬式チームを持つにいたり、昭和22~26年の5年間で、都市対抗本選に4回も出場(後述の全下関含む)!国体も優勝!という強豪に成長しますが、思わぬ形で社会人野球から姿を消すこととなります。
 それは、プロ野球への参戦。
 昭和24年暮れ、プロ野球が2リーグ制になることが決定。これに伴い、社会人の有力選手の引き抜きが悪化。大洋漁業(昭和20年12月、林兼商店から改称)も自社チームの有力選手数名を毎日オリオンズに引き抜かれ、これに大洋漁業社長・中部兼吉が激怒!「ウチはプロの草刈り場じゃない!こんなことになるならウチがプロ球団を持つ!選手の年俸くらい、クジラを1頭取ったら出せる!」と鼻息荒く参戦を表明。大洋漁業は昭和24年末「まるは球団」を仮発足、それがそのまま「大洋ホエールズ」となりました。
(プロに行けなかった大洋漁業野球部は「全下関」の名前で、昭和26年まで活動)

 短い時間に強力な二大牽引チームを失った中国地方の社会人野球ですが、雨後のタケノコのように出来た多数の社会人チームが、すぐにその穴を埋めていきます。

 下関市なきあと、中国地方の社会人野球をリードしたのはまず岡山県。
 中国地方の出場枠は昭和39年まで、記念大会を除けばずっと1枠でしたが、昭和27年の23回大会に岡山市(岡山鉄道局)が出場したのを皮切りに、以後倉敷市(倉敷レイヨン)・玉野市(三井造船)などが広島・山口を抑え、出場権を独占し続けます。
 当時の岡山にはこのほか、のちに三菱自動車水島(現・三菱自動車倉敷オーシャンズ)となる「新三菱水島」がありました。
 対する広島県はといいますと、県内都市の多数が空襲で破壊されていたため、強い野球部を持てるような企業がなかなか勃興せず、また、ようやく現れた有力選手が広島カープ(現・広島東洋カープ)に安い給料で引き抜かれたということもあり、都市対抗を伺うチームがなかなか育たず、広島のチームが恒常的に後楽園に出場するようになるのは、昭和40年代まで待たなければなりませんでした。
(なお、昭和30年代の広島のチームは国鉄中国(現・JR西日本)、新三菱三原(のち三菱三原。廃部)、帝人三原(廃部)、東洋工業(廃部)、三菱造船広島(現・三菱重工広島など。)

 山口県は大都市が少なかったせいか(;^ω^)戦後の立ち直りが比較的早く、県内には岩国市(東洋紡岩国、帝人岩国)、下松市(山門鉄工所)、光市(当時、八幡製鉄光。現在の光シーガルズ)、防府市(協和発酵防府、航空自衛隊防府)などの有力チームが次々と姿を現します。
  
 岡村さんは、たった1つの出場枠をめぐって、本物の強豪がしのぎを削る中国地区に戻り、ここから黒獅子旗を目指そうと、本気で考えたのです。

【参考文献】
・「都市対抗野球六十年史」日本野球連盟 毎日新聞
・「軍港・呉における野球発展過程の考察 ‐呉海軍工廠が果たした役割-」
 広島経済大学経済学部教授 渡辺勇一(広島経済大学研究論集 第38巻第4号 2016年3月)
・ブログ「MBC野球発信局-袖番号96 伊藤勉のページ」
・フリー百科事典ウィキペディア「横浜DeNAベイスターズ」の項目

【改定修正版】昔の記事が伝える「実戦で使える技」???

2018-12-18 21:01:18 | 格闘技のお話
 記者の腕が落ちたのか、最近の新聞はどうしようもないフェイクニュースを垂れ流して(全国紙クラスでは産経・読売除く)おきながら、それがバレれば謝るどころか開き直って愧じるところがなく、堂々と「報道しない自由」を謳歌。これだからネットに駆逐されるんだよ…との思いを新たにする昨今でございます。

 さて、ほんの少し前、「杉田屋守伝」取材のため、「興風時報」(大正6~昭和34年にかけ、現在の山口県岩国市で発行されていた地方新聞)を、大正11年~昭和5年分まで全てイッキ読みするという機会がございました。
 そこには「報道しない自由」というイジマシイ精神など全くなく、大きな事件からどうしようもない小さな事件までが細大漏らさず報じられており、現在のバカタレ新聞記者は大いに愧じてほしいところですが、そんな「どうしようもない小さな記事」のなかに、ひときわ目を引くものがありました。
 「岩国ニュース興風時報」第245号(昭和4年11月6日付)に掲載されたベタ記事です。以下引用。
(旧仮名遣い・旧漢字は全て現代仮名遣い・漢字に変換し、人名は一部伏字としておりますm(__)m)

「喧嘩口論の果 睾丸をしめる
 本籍(愛媛県)今治自称廃兵売薬業者中山●一(四六)は麻里布町高杉木賃宿に止泊中四日夜同宿の左官職森●助(四二)と口論し森の睾丸をウンと掴み治療八日を要す傷を負わした。」

 まず、「廃兵売薬業」なる、今では完全な死語となった職業について解説いたします。
 明治の末から昭和初期にかけ、ハデハデしい軍服に身を包んだ一団が、薬の効用を読み込んだ歌をにぎやかな音楽とともに歌いつつ、「オイチニー!オイチニー!」と練り歩く、通称「オイチニの薬売り」なる薬の街頭宣伝販売がありました。
 この「オイチニの薬売り」は、日露戦争で負傷した傷痍軍人の社会復帰と雇用を兼ねた商売で、これこそがこの記事に出てくる「廃兵売薬業」。ただ、「傷痍軍人」なる言葉は昭和6年から使われるようになったものであるため、事件が起きた昭和4年当時は「傷痍軍人売薬業」でなく「廃兵売薬業」と表現していたのです。

 すみません、ちょっと脱線しましたので話を戻しますm(__)m。

 世の中に「ケンカでの必殺技は目つぶしか金的攻撃だよ!」などとしたり顔でいう人は多いですが、一般人レベルで「実行」に至った人は本当に少ないと思います。
 そうした意味でこの記事は、一般人による「金的攻撃の有効性」を余すところなく?伝えており、大いに参考に…いや、あまり参考にしちゃイカンな。「こういう結末になる」ということを示す、きわめて貴重な記事だと思っております。
 
 戦前のケンカは「けんかえれじい」(鈴木隆・岩波現代文庫)によると、「宣戦布告の応酬(やりとり)に始まり、やがてこぶしの腕車が回りだし、ようやく合戦動作に移行するのが通常であった」と、「わりあい悠長に進行していた」そうですが、格闘技に習熟していない一般人が、頭に血の登った状態になるとだいたいトンネルビジョン(視野狭窄)に陥りやすく、戦前戦後を問わず、だいたい上半身のつかみ合い、殴り合いになるのはあまり変わらない事実。
 であれば、視野狭窄の目ン玉では完全に視野の外に置かれる「睾丸」を攻撃するのは極めて理にかなった攻撃方法であり、いやしくも格闘を志す者は、その研究を怠るべきではないと思っております。

 なお、今回公示した記事の転載は、これをフリーとしておりますので、研究の題材としていただければ幸甚に存じます。

【「廃兵売薬業」参考文献】
「300枚のユニークな広告が語る こんなに明るかった朝鮮支配」但馬オサム ビジネス社

腐れ「全国大会」の終了に寄せて

2018-12-17 09:26:23 | 兵隊の道・仕事の話
 つい先日、うちの会社のタイーフォ術全国大会なるものが終了したらしいです。
 らしい、というのは、ワタクシの知ったこっちゃなく、全く興味もないからです。

 ワタクシは、9月に行われた同大会の地区予選の主審&運営助言をやったのですが、もう、頭痛のするようなことばかりでした。
 まず、担当者が運営の仕方を一切知らない。
 ルールはおろか、試合会場の正確な大きさ、開始線の引き方、紅白旗の寸法、選手や用具の繰り出し、スコアボードの設置方法やスコアの付け方に至るまですべてを教えなければならず、個人的には、ため息以外何も出ない出ない大会となりました。

 それ以上にため息いっぱいだったのが、会社のエライヤツの態度です。
 日頃はタイーフォ術なんて見向きもせず、ろくに練習の機会も取ろうとしない、当然練習場所の確保も一切しないくせに、こうした大会があるときだけデカイ面をして「タイーフォ術は仕事の必要事項であり、継続して磨かなければいけない!」なんておためごかしばかり言い、しかも、選手に何一ついいことをしてやらないくせに、自分のところの所属選手の勝ち負けには異様にこだわる…。
 残念なことに、うちの会社にはタイーフォ術に関し、こんな腐った態度をとる上司ばかりが存在し、実際の運用にあたる我々を失望させ続けてくれます。
 地区大会ですらそうだったのですから、全国大会ともなれば、薄汚いエライやつが、どれだけチンケなプライドをガチガチ際立たせ、ほかのバカと「うちの選手は強い自慢」をしているか、想像するだに気色悪い、おぞましいことです。

 ワタクシの座右の書である「おれたちゃ高校の野球バカ」(まき・ごろう(清水治一)著 黎明書房)のなかに、このような一説があります。
「花咲き、花はうつろう…
 咲き誇る花は、賞賛の的となるが、散り落ちた枯枝は見向きもされない。
 花が咲いたのを知って集まるのは酔客に過ぎない、それよりも、枯れ木に水をやり、幹を育てながら黙々と見守ってきた人の尊さを忘れてはならない。」

 これは著者の清水氏が、史上最年少監督として春のセンバツを制した(昭和24年・大阪府立北野高校)とき、優勝祝賀会にて思ったことをつづった一説です。
 こうした大会があるときに限って「タイーフォ術は必要だ!社員は鍛えなければ!」などというバカタレ幹部は、清水氏のいう「酔客」以外の何物でもない。きれいに咲いた花の下でガバガバ酒を飲み、ゲロを吐き、ゴミを散らかして帰る、不愉快極まりない「酔客」です。
 
 ワタクシはタイーフォ術のいちおう指導者です。
 「武道・格闘技をやるひと」としてのワタクシは、わが社のタイーフォ術(警察の本物は違いますよ)なんて、レベルが低く、どうしようもない使えない「体操」としか思っていませんが、指導者として、信じてついてきてくれる若い者を失望させない、選手をミスジャッジで泣かせない、選手が試合だけに集中できる環境をつくりたいということだけは、常に念頭に置いております。

 全く好きではないタイーフォ術ですが、「枯れ木に水をやり、幹を育てる」を黙々と…いや、文句は人一倍垂れているから黙々じゃないんですけど(;^ω^)、「酔客」の非理非行にガンガン非を鳴らしながら、若い者を育てることもしっかりとやっていきたいと考えております。


霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝(第39回・野心時代をさまようオッチャンと優秀な後輩)

2018-12-15 08:52:43 | 霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝
 明けて昭和3年度。
 監督市岡忠雄、主将井口新次郎の下始動した早大野球部には頼もしい新入部員が多数入部。うち、現在氏名がわかっているのが以下の11名です。
伊達正男(市岡中)・相川一太(修猷館中)・福家正二(神奈川商工)・山田良三(根室商業)・小野寺省蔵(早稲田中)・宮脇環(鳥取一中)・芝野利(宇都宮中)・島田晴任(関西学院中)・萩原寛男(松山中学)・弘世正方(甲陽中)・矢島粂安(松本商業)

 入学早々大活躍を見せたのは、捕手・伊達正男。
 大阪の名門・市岡中学時代から、強肩強打の名捕手との誉れ高かったアゴの長い新人はなんと入学早々、春のリーグ戦にスタメン出場。8試合(昭和3年春は慶応が渡米したため、10試合ではなく8試合)全てでマスクをかぶり、なんと4割6分9厘という驚異のハイアベレージで、いきなり最高打者に輝きます。
 また、オッチャンが柳井中学時代、ベスト4に入った大正15年のセンバツで「信州のベーブ」と称され、個人賞を総なめにした(連載第26回参照)矢島粂安も、センターの定位置をいきなり奪って大活躍。伊達と同じく8試合すべてに出場。打つ方でも、打率3割8分2厘と大当たりし、打撃10傑に名を連ねます。
 …対するオッチャンは二塁手としてわずか1試合の出場に留まり、寂しいことこのうえない状況でした。
 早大は慶応がいないリーグ戦であるにも関わらず、6戦全勝で迎えた明治との首位攻防戦で連敗して2位に甘んじますが、この明治の優勝には、ひとりの新入りが大きく貢献しています。
 その名は田部武雄。天才的な野球技術と、そして何とも複雑な家庭事情を持ったが故、広陵中-大連実業団-広陵中出戻りという、実に変わった経歴を持つ22歳のオールドルーキーはいきなり二番ショートに抜擢され、早明1回戦で明治が挙げた9点のうち、実に4点をたたき出すなど攻守に活躍。1年生にして神宮をわが庭のように駆け回るその姿は、早大OBの橋戸頑鉄をして「新人にしてかくの如く振舞ったのはおそらく記録破りである」と感心せしめたほどでした。
 まあ、六大学OBだらけの大連実業団で、普通にレギュラーで活躍していた田部を純粋に「新人」として扱うのもアレな話ではあるんですが…

 懊悩のまま迎えた秋のリーグ。オッチャンの不調ぶりは頂点に達します。
 二塁のレギュラーポジションを新入生の島田晴任や萩原寛男に奪われ、出場機会は9月24日の帝大戦での守備固め、10月6日実施の早慶戦において代打出場(しかも三振)のたった2回だけ、という憂き目を見たのです。
 早大も早慶戦に連敗するなど意気上がらず、慶応・明治の後塵を拝し、3位に甘んじます。

 いっぽうのライバル慶應は、黄金時代を迎えていました。
 既に活躍している宮武、山下、福島、林といった面々に加え、早大に負けず劣らずの優秀な新入生を迎えた慶應はさらに戦力充実。春のアメリカ遠征を24勝15敗1分という優秀な成績で終え、秋のリーグ戦に復帰するや否や、なんと東京六大学野球史上初となる、10戦10勝の完全優勝を成し遂げます。
 これは当時言われていた「アメリカ遠征後のチームは低迷する」というジンクスを覆して余りあるものであり、当時の慶應の強さ、戦力の充実ぶりは尋常ならざるものとなっていました。
 
 戦前最高の黄金時代を迎えた慶應、戦力充実で連続優勝を果たした明治。対する早大の…そしてオッチャンの苦悩は増すばかり…どん底です。


【参考文献】
・「早稲田大学野球部五十年史」 飛田穂洲編 早稲田大学野球部
・「日本の野球発達史」 広瀬謙三 河北新報社
・「真説 日本野球史 昭和篇その1」 大和球士 ベースボールマガジン社
・「昭和3年スポーツ年鑑」大阪毎日新聞社・東京日日新聞社
・フリー百科事典ウィキペディア「田部武雄」の項目

霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝(第38回・慶應と明治のライバルたち)

2018-12-14 10:34:01 | 霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝
 さて、オッチャンが早大第二高等学院に入学、早大野球部の一員となった昭和2年、これまで早大の後塵を拝してきた慶應・明治が驚きの戦力充実ぶりを見せ、大正の最末期まで最強を誇った早大の牙城を大きく揺さぶります。
 それは、オッチャンが甲子園で出会った強敵たちとの再会・再戦のはじまりでもあり、東京六大学野球が国民注視の人気行事となるはじまりでもありました。
 慶應には、すでにご紹介した宮武三郎(高松商)、山下実(第一神港商)といった、オッチャンより1学年上のスーパースターが入学。二人とも1年次からスタメンに名を連ね、しかも二人そろって戦前の広い神宮球場でいきなりフェンスオーバーのホームランをブっ飛ばすなど、投打に大活躍。
 昭和2年春にはすでに、四番山下・五番宮武を擁する慶大の強力打線は他校脅威の的となっており、そのほかにも町田重信(第一神港商)、梶上初一(広島商)、楠見幸信(岡山一中)、堀定一(高松商)など、充実の陣容が脇を固めていました。
 
 さて、明治大学に目を転じますと、こちらも驚きの戦力充実ぶり。
 投手では絶対エース中村峯雄、中津川昇二、安田義信、中村国雄といった複数エースが大車輪の活躍を見せ、野手のほうも桜井修(高松商)、桝嘉一(同志社高商)、銭村辰巳、角田隆良(広陵中)といった名手が守りを固めます。
 また明治には、オッチャンと同時期に甲子園で活躍し、宮武や山下とともにその豪打を謳われた傑物も入学していました。その名は松木謙治郎(敦賀商)。
 のち、職業野球大阪タイガースの初代主将・阪神監督・東映監督など、球史に残る役職を歴任する大立者は、新入り時代からいきなりの大活躍を見せ、ファンを魅了します。
 昭和2年秋は結局、その戦力充実の明治が優勝を飾ったことは既に36回で触れましたが、早慶両校にはリーグ戦とは別に、大事な大事な戦いが残っていました。
 そう、リーグ戦の掉尾を飾る、伝統の早慶戦です。
 
 明治36年以来早慶(慶早戦)での勝利がない慶應は、とにかく打倒早大!の悲願に燃えていました。宮武・山下といった超ド級の選手を苦労の末獲得したのも、ひとえに早慶戦(慶早戦)に勝つ!ということが主目的であったほどです。
 先述の通り戦力をガッチリ充実させた慶應ですが、このリーグ戦からいまひとつ、力強い味方が参加しました。 
  今も慶應ボーイの間で歌い継がれる名曲「若き血」です。

 「若き血」は、慶大OB作曲家の口利きにより、当時、東京中央放送局(JOAK,現在のNHK東京)音楽担当をしていた作曲家・堀内敬三が作詞作曲双方を請け負いいました。
 堀内は「『都の西北』の譜をにらみながら、それを歌い負かす節を考えた(慶應義塾大学野球部史に寄せた堀内の回想)」と、早慶戦(慶早戦)一本に用途を絞ったスピーディーでアップテンポな曲を制作したところ、たちまち慶大生に認知され、神宮球場に押しかけた慶大生は声を限りに、「ケイオー!ケイオー!陸の王者ケイオー!」の大合唱。
 今までにない語呂とテンポの良い応援歌に後押しされる形で、慶應の選手は目覚ましい活躍を見せます。
 早慶戦第1回戦は、福島鐐のランニングホームランを始めとして、梶上初一、楠見幸信ら、打つべき選手が早大先発原口清松を打ち込み、投げては身長こそ低いものの、老練(若いんですけどね(;^ω^))の投球を見せるエース・浜崎真二が早大打線を完封して6-0の圧勝。
 慶大は2回戦でも、1回戦の勢いそのままに、宮武三郎-浜崎真二が早大を完封リレーで押さえ込み、3-0で完勝。慶大は大正14年の復活以来初となる早慶戦完全制覇を達成。慶應の学生は試合終了後一斉に銀座繰り出してこれを埋め尽くし、ありったけの酒を飲みほして大騒ぎとなった…そうです。

 また、10月15日に行われた早明2回戦において、東京六大学史上初の実況放送がJOAK東京放送局によってはじまり、東京六大学野球は「見て楽しむ」のほか、「聞いて楽しむ」こともできるようになり、国民注視の人気行事となっていきます。
 
 オッチャンはその渦中にあって、ひたすら自己の行くべき道を模索し続けていたのでした。

【参考文献】
「日本の野球発達史」広瀬謙三 河北新報社
「真説日本野球史 昭和編その1」大和球士 ベースボールマガジン社