戦後の野球狂騒曲の追い風を受け、高校野球もプロ野球もかつてない人気ぶりを誇りましたが、その恩恵を最も受けていたのは、おそらく社会人野球だったでしょう。
今でこそ不景気などのあおりを受けてチーム数が激減、しかも宣伝不足のため、よほどの好事家以外知る人のなくなった社会人野球ですが、戦後復興期の当時は
「全国の街に実業団チームが誕生し、草野球のチームなら町とはいわず村にまであった。」(「青春」より)という状態であり、それが各種企業チーム・クラブチームの乱立に直結します。
正規の会社が持つプロ顔負けのチーム、別々の会社に勤める人間同士が集って作り上げたクラブチーム、あるいは何が何だかわからんような零細企業のチームまで、実に多種多様なチームが日本全国に誕生。それはそのまま、沸き立つような野球人気の裏返しでもありました。
岡村さんと東洋紡岩国の話に入る前に、戦前から昭和30年代ころまでにかけての中国地方の社会人野球事情をちょっとお話しします。
戦前の中国地方社会人野球の牽引車は、なんといっても呉市(全呉―呉海軍廠)。
呉海軍工廠の球史は古く、明治22(1889)年、当時の呉鎮守府造船廠(のち工廠造船部)と、同造機部にできた野球部が「呉の野球」の萌芽となります。
もともとは職工への体育・福利厚生の一環として行われた野球ですが、設備・用具面のバックアップが大きかったことから、当初は各部ごとに存在したチームがたちまち激増、各工場ごとにチームを持つようになり、互いに激しくしのぎを削るようになりました。
詳しい経緯は省きますが、大正5(1916)3月には、工廠倶楽部(呉海軍工廠の職員親睦会)所属のチームが中心となって「呉野球協会」が発足。これがそのまま「全呉」となり、たちまち全国区の強豪として名を馳せます。
なにしろ都市対抗野球には昭和2年の第1回大会から、戦前最後となった昭和17年の16回大会まで、出場回数なんと10!まさしく戦前の中国地方の社会人野球=呉、という時代だったわけです。
ところが終戦とともに海軍が消滅し、また、市内各地が爆撃で灰燼と化した呉は野球どころではなくなり、戦前最強を誇ったチームも自然消滅。そのまま後楽園に帰ってくることはありませんでした。
終戦直後、呉市の後を受け中国地方社会人野球のリーダーとなったのは下関市(林兼商店-大洋漁業-全下関)。
林兼商店(現・マルハニチロ)が硬式野球部チームを持ったのは昭和4(1929)年のこと。都市対抗出場を果たすなど、いきなり強豪の仲間入りをするものの、世界恐慌の影響で昭和7(1932)年、チームは軟式に格下げ。そのまま戦争を迎えます。
しかし終戦直後、食糧難解消のために魚を大量に獲る必要性が生じるとともに、林兼商店の業績も向上。昭和22年ころ、再び硬式チームを持つにいたり、昭和22~26年の5年間で、都市対抗本選に4回も出場(後述の全下関含む)!国体も優勝!という強豪に成長しますが、思わぬ形で社会人野球から姿を消すこととなります。
それは、プロ野球への参戦。
昭和24年暮れ、プロ野球が2リーグ制になることが決定。これに伴い、社会人の有力選手の引き抜きが悪化。大洋漁業(昭和20年12月、林兼商店から改称)も自社チームの有力選手数名を毎日オリオンズに引き抜かれ、これに大洋漁業社長・中部兼吉が激怒!「ウチはプロの草刈り場じゃない!こんなことになるならウチがプロ球団を持つ!選手の年俸くらい、クジラを1頭取ったら出せる!」と鼻息荒く参戦を表明。大洋漁業は昭和24年末「まるは球団」を仮発足、それがそのまま「大洋ホエールズ」となりました。
(プロに行けなかった大洋漁業野球部は「全下関」の名前で、昭和26年まで活動)
短い時間に強力な二大牽引チームを失った中国地方の社会人野球ですが、雨後のタケノコのように出来た多数の社会人チームが、すぐにその穴を埋めていきます。
下関市なきあと、中国地方の社会人野球をリードしたのはまず岡山県。
中国地方の出場枠は昭和39年まで、記念大会を除けばずっと1枠でしたが、昭和27年の23回大会に岡山市(岡山鉄道局)が出場したのを皮切りに、以後倉敷市(倉敷レイヨン)・玉野市(三井造船)などが広島・山口を抑え、出場権を独占し続けます。
当時の岡山にはこのほか、のちに三菱自動車水島(現・三菱自動車倉敷オーシャンズ)となる「新三菱水島」がありました。
対する広島県はといいますと、県内都市の多数が空襲で破壊されていたため、強い野球部を持てるような企業がなかなか勃興せず、また、ようやく現れた有力選手が広島カープ(現・広島東洋カープ)に安い給料で引き抜かれたということもあり、都市対抗を伺うチームがなかなか育たず、広島のチームが恒常的に後楽園に出場するようになるのは、昭和40年代まで待たなければなりませんでした。
(なお、昭和30年代の広島のチームは国鉄中国(現・JR西日本)、新三菱三原(のち三菱三原。廃部)、帝人三原(廃部)、東洋工業(廃部)、三菱造船広島(現・三菱重工広島など。)
山口県は大都市が少なかったせいか(;^ω^)戦後の立ち直りが比較的早く、県内には岩国市(東洋紡岩国、帝人岩国)、下松市(山門鉄工所)、光市(当時、八幡製鉄光。現在の光シーガルズ)、防府市(協和発酵防府、航空自衛隊防府)などの有力チームが次々と姿を現します。
岡村さんは、たった1つの出場枠をめぐって、本物の強豪がしのぎを削る中国地区に戻り、ここから黒獅子旗を目指そうと、本気で考えたのです。
【参考文献】
・「都市対抗野球六十年史」日本野球連盟 毎日新聞
・「軍港・呉における野球発展過程の考察 ‐呉海軍工廠が果たした役割-」
広島経済大学経済学部教授 渡辺勇一(広島経済大学研究論集 第38巻第4号 2016年3月)
・ブログ「MBC野球発信局-袖番号96 伊藤勉のページ」
・フリー百科事典ウィキペディア「横浜DeNAベイスターズ」の項目
今でこそ不景気などのあおりを受けてチーム数が激減、しかも宣伝不足のため、よほどの好事家以外知る人のなくなった社会人野球ですが、戦後復興期の当時は
「全国の街に実業団チームが誕生し、草野球のチームなら町とはいわず村にまであった。」(「青春」より)という状態であり、それが各種企業チーム・クラブチームの乱立に直結します。
正規の会社が持つプロ顔負けのチーム、別々の会社に勤める人間同士が集って作り上げたクラブチーム、あるいは何が何だかわからんような零細企業のチームまで、実に多種多様なチームが日本全国に誕生。それはそのまま、沸き立つような野球人気の裏返しでもありました。
岡村さんと東洋紡岩国の話に入る前に、戦前から昭和30年代ころまでにかけての中国地方の社会人野球事情をちょっとお話しします。
戦前の中国地方社会人野球の牽引車は、なんといっても呉市(全呉―呉海軍廠)。
呉海軍工廠の球史は古く、明治22(1889)年、当時の呉鎮守府造船廠(のち工廠造船部)と、同造機部にできた野球部が「呉の野球」の萌芽となります。
もともとは職工への体育・福利厚生の一環として行われた野球ですが、設備・用具面のバックアップが大きかったことから、当初は各部ごとに存在したチームがたちまち激増、各工場ごとにチームを持つようになり、互いに激しくしのぎを削るようになりました。
詳しい経緯は省きますが、大正5(1916)3月には、工廠倶楽部(呉海軍工廠の職員親睦会)所属のチームが中心となって「呉野球協会」が発足。これがそのまま「全呉」となり、たちまち全国区の強豪として名を馳せます。
なにしろ都市対抗野球には昭和2年の第1回大会から、戦前最後となった昭和17年の16回大会まで、出場回数なんと10!まさしく戦前の中国地方の社会人野球=呉、という時代だったわけです。
ところが終戦とともに海軍が消滅し、また、市内各地が爆撃で灰燼と化した呉は野球どころではなくなり、戦前最強を誇ったチームも自然消滅。そのまま後楽園に帰ってくることはありませんでした。
終戦直後、呉市の後を受け中国地方社会人野球のリーダーとなったのは下関市(林兼商店-大洋漁業-全下関)。
林兼商店(現・マルハニチロ)が硬式野球部チームを持ったのは昭和4(1929)年のこと。都市対抗出場を果たすなど、いきなり強豪の仲間入りをするものの、世界恐慌の影響で昭和7(1932)年、チームは軟式に格下げ。そのまま戦争を迎えます。
しかし終戦直後、食糧難解消のために魚を大量に獲る必要性が生じるとともに、林兼商店の業績も向上。昭和22年ころ、再び硬式チームを持つにいたり、昭和22~26年の5年間で、都市対抗本選に4回も出場(後述の全下関含む)!国体も優勝!という強豪に成長しますが、思わぬ形で社会人野球から姿を消すこととなります。
それは、プロ野球への参戦。
昭和24年暮れ、プロ野球が2リーグ制になることが決定。これに伴い、社会人の有力選手の引き抜きが悪化。大洋漁業(昭和20年12月、林兼商店から改称)も自社チームの有力選手数名を毎日オリオンズに引き抜かれ、これに大洋漁業社長・中部兼吉が激怒!「ウチはプロの草刈り場じゃない!こんなことになるならウチがプロ球団を持つ!選手の年俸くらい、クジラを1頭取ったら出せる!」と鼻息荒く参戦を表明。大洋漁業は昭和24年末「まるは球団」を仮発足、それがそのまま「大洋ホエールズ」となりました。
(プロに行けなかった大洋漁業野球部は「全下関」の名前で、昭和26年まで活動)
短い時間に強力な二大牽引チームを失った中国地方の社会人野球ですが、雨後のタケノコのように出来た多数の社会人チームが、すぐにその穴を埋めていきます。
下関市なきあと、中国地方の社会人野球をリードしたのはまず岡山県。
中国地方の出場枠は昭和39年まで、記念大会を除けばずっと1枠でしたが、昭和27年の23回大会に岡山市(岡山鉄道局)が出場したのを皮切りに、以後倉敷市(倉敷レイヨン)・玉野市(三井造船)などが広島・山口を抑え、出場権を独占し続けます。
当時の岡山にはこのほか、のちに三菱自動車水島(現・三菱自動車倉敷オーシャンズ)となる「新三菱水島」がありました。
対する広島県はといいますと、県内都市の多数が空襲で破壊されていたため、強い野球部を持てるような企業がなかなか勃興せず、また、ようやく現れた有力選手が広島カープ(現・広島東洋カープ)に安い給料で引き抜かれたということもあり、都市対抗を伺うチームがなかなか育たず、広島のチームが恒常的に後楽園に出場するようになるのは、昭和40年代まで待たなければなりませんでした。
(なお、昭和30年代の広島のチームは国鉄中国(現・JR西日本)、新三菱三原(のち三菱三原。廃部)、帝人三原(廃部)、東洋工業(廃部)、三菱造船広島(現・三菱重工広島など。)
山口県は大都市が少なかったせいか(;^ω^)戦後の立ち直りが比較的早く、県内には岩国市(東洋紡岩国、帝人岩国)、下松市(山門鉄工所)、光市(当時、八幡製鉄光。現在の光シーガルズ)、防府市(協和発酵防府、航空自衛隊防府)などの有力チームが次々と姿を現します。
岡村さんは、たった1つの出場枠をめぐって、本物の強豪がしのぎを削る中国地区に戻り、ここから黒獅子旗を目指そうと、本気で考えたのです。
【参考文献】
・「都市対抗野球六十年史」日本野球連盟 毎日新聞
・「軍港・呉における野球発展過程の考察 ‐呉海軍工廠が果たした役割-」
広島経済大学経済学部教授 渡辺勇一(広島経済大学研究論集 第38巻第4号 2016年3月)
・ブログ「MBC野球発信局-袖番号96 伊藤勉のページ」
・フリー百科事典ウィキペディア「横浜DeNAベイスターズ」の項目