集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

いにしえの「柔道試合審判規定」があぶり出す「東の柔道」の姿

2018-10-21 08:22:02 | 格闘技のお話
  「戦前、競技人口が今とは比べ物にならないほど多かった柔道において、特に圧倒的人気を得ていたのは、帝大柔道会が主催していた高専大会であり、講道館柔道ではなかった。講道館の勢力西限は永く名古屋で、以西への進行は事実上不可だった」という事実を発掘、一般に広めたのは、格闘技ノンフィクションの最高傑作と名高い「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(増田俊也・新潮文庫)です。
 同作品は、木村政彦政彦先生の強さに対し、著者のある意味無邪気で、悪い言葉でいえば「中二病」のようなイタいこだわりが鼻についたり、時折見られるアカ臭い(著者は北海道新聞や中日新聞にいたから仕方ない)文章に眉をひそめることもあり、全てを手放しでほめることはできないのですが、その詳細な調査内容、重厚なストーリー展開はすばらしく、また、高専柔道というものの存在と興亡を、一般人向けの書籍として初めて公にしたという点で、極めて優れた歴史書ともなっております。
 なので皆様、一家に一冊(上下巻なので、厳密に言えば二冊ですが(;^ω^))「木村政彦」を…って、それはともかく。

 同著でほぼ初めて明らかにされに記されている「昭和初期における、東西の柔道」の概要は、以下のようなものです。
①当時、柔道の統括団体は東の講道館以外に、京都に本拠地を置く半官半民の武道振興団体「大日本武徳会」と、高専大会を主管する「帝大柔道会」(京都帝大に所在)があった。
②当時高専大会の人気はすさまじく、ほとんどの学校は高専ルール(「決着は一本勝ちのみ・場外なし・待てなし」であったため、寝技が著しく発達した柔道)を選択、当時日本一の競技人口を誇っていた。これが柔道のMMA化を進めたい嘉納治五郎の頭痛のタネであった。
③講道館を筆頭とする東の柔道と、寝技中心の西の柔道は大正時代に激突し、結果は西の柔道、特に高専柔道の圧勝に終始した。
 その寝技の強さは、西の柔道の一方の雄である武徳会をも完全凌駕した。
④これに対し講道館は「立ち技の比重を増やせ」と主張のうえ、政治的圧力も辞さない姿勢を取った。帝大柔道会は「寝技偏重の何が悪い。これも立派な競技形態だ」として対抗。話し合いは平行線に終わった(結果、講道館は帝大柔道会に容喙しないということで決着)。
 講道館は仕方なく東京の私大を中心とした東京学生柔道聯合会(現・東京学生柔道連盟)なるものを発足・完全掌握するも、帝大柔道会参画校に比してその数は圧倒的に少なく、帝大柔道会には敵するべくもない状態。結局大東亜戦争終結というタナボタで主導権を握るまで、講道館は永く西への進出と、寝技への容喙が不可能であった。

 高専ルールは「一本勝ち以外認めない」であり、反則事項が少なく、ある意味分かりやすいルールなのですが、では、講道館を中心とした当時の「東の柔道」とはいかなるものであったのか…を調べていると、面白い資料が出て参りました。

 ここに「柔道試合審判規定」(昭和8年7月訓令甲第58号)というものがございます。
 これは警視庁が制定した警察柔道大会における試合審判規則であり、その創設当初より、講道館柔道の色彩を明確に持つ警視庁柔道は、ほぼほぼ講道館の柔道と見て差し支えないでしょう。そんな警視庁柔道のルールを知ることは、これすなわち当時の講道館ルールや、その組織運営の方針を知るうえで有用だと思いますので、つらつら考察していきたいと思います。

 同規則からまず、一本の規定を見てみましょう。
「第五条 投技、固技ニ於テ一本ト為スヘキ場合左ノ如シ但シ一本ニ至ラサルモ対手ニ相当ノ効果ヲ及ホシタル技ハ「技アリ」トシ「技アリ」二回ハ之ヲ併合シテ一本ト見做ス」
 高専大会は、一本以外の判定がなかったところ、東では既に「合わせて1本」が確立しています。このあたり、投げ技に比重を置いている東の柔道らしさが伺えます。
 次に気になるのは、反則行為行為の規定。「第七条 試合中左ノ事項を禁止スル」として、以下の技を禁じています。
「イ 胴絞 ロ 直接両足ヲ用ヒ頭又ハ頸ヲ絞ムル技 ハ 頸椎又ハ脊柱ニ負傷ヲ及ホス技 ニ 手足首、手足指、膝ノ関節 ホ 直接ニ肩関節ヲ取ル技 ヘ 足がらみ(糸へんに咸) ト 蟹挟 チ 衣ノ襟以外裾又ハ帯等ヲ用ヒ対手ノ頸ヲ絞ムル技」
 「イ」の胴絞とは、その名の通り、寝技で下になった相手が、両脚で胴を絞める技。
 「ロ」が示す技は、高専柔道の主武器である前三角絞め(創設当初の名称は「松葉搦」)。
 同技の初登場は大正11年。木村政彦が拓大時代に創始した横三角絞めは昭和12年の登場ですから、この規定はもう、前三角のみを目の敵にしていると断定できます。
 大正12年、講道館秋季紅白戦に六高選手4人が出場。前三角におびえる講道館はなんと六高の選手が出てくる直前、突如試合進行を止め、主審三船久蔵が「三角締めの逃げ方講座」を開くという、異例の事態まで起きています。
 なお、そこで教えられた「逃げ方」の実態ですが「技が効く方への逃げ方じゃったので皆んなで苦が笑いした」(六高柔道師範・金光弥市兵衛の回想)という、なんともオソマツなものであったそうです(;^ω^)。
 「ハ」は、現在の言葉でいうバスター。これは柔道でもBJJでも禁止技ですので、禁止は当然でしょう。
 「ニ」に掲げられた「膝ノ関節」は、おそらく当時「足の大逆」と呼ばれた膝十字固め(これは後、高専大会でも禁止となる)、「ホ」は当時「三角がらみ(「がらみ」はイトヘンに咸)」と呼ばれ、現在はBJJの主武器となっているオモプラッタ、「ヘ」はいわゆるヒールホールド…とまあ、とにもかくにも、高専柔道が開発、あるいは得意とした技を全否定していることがわかります(;^ω^)。
 「ト」の蟹挟は、日本全土統一ルールで完全禁止となったのは平成6年と意外に遅かったのですが、「東の柔道」では戦前の早い時期に早々に禁止を決めている、というのが興味深いですね。

 このほか、同審判規定では、寝技に引き込むためのタックルを禁止(講道館が寝技への引き込み行為を禁止したのは大正15年)するなど、とにかく徹底的に寝技と、その付属技を排除しようという姿勢が鮮明になっています。これは、「東の柔道」が、西の寝技柔道に対して、全く歯が立たなかったという恐怖心の裏返しでもあります。

 審判規定ひとつとっても、当時の「東の柔道」の実態がよくわかり、また、「木村政彦は…」で紹介された時代背景がしっかり裏付けられましたので、本当に興味深かったです。

【本稿参考文献】
「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」増田俊也著 新潮文庫
「警視庁武道九十年史」警視庁警務部教養課編
フリー百科事典ウィキペディア「蟹挟」「膝十字固め」「オモプラッタ」の項目
 

以上終了?もっと進化?フルコンの役割(その3)

2018-10-17 18:47:42 | 格闘技のお話
 フルコン論、ちょっと間が空きましたがようやく最終回です。

  最後はフルコンの現時点における最終形態「空手の形をした、いち競技形態への収斂」についてです。

 「最強幻想」崩壊後、フルコン諸派は今後の行く末をなかなか定められずにいましたが、最終的にその迷走を救ったのは、フルコンの唯一にして最大の財産である「試合・大会」でした。
 「その1」でお話ししましたが、フルコンはその成立過程において基本・型・組手を繋ぐ技術体系を持つことを放棄しています。ですからフルコン諸派は概ね「試合で勝つノウハウ」だけが突出して進化している…というより、試合ありき、スパーありきの技術以外何も持たない、というところがほとんどです。
 そこでフルコン諸派が取った方針は、もともとフルコンにとって、まさに「木に竹を接ぐ」ような存在でしかなかった空手本来の技術を一部放棄し(基本とか約束組手などには多少その色が残っている)、最大にして唯一の財産である「試合・大会」の存在をよりクローズアップし、気軽に試合や組手を楽しめる形態を作ことによって門下生の門戸を広げる、というものでした。
 最強幻想が完全崩壊し、壊走を続けるフルコン諸派が最後に拠った牙城「フルコン試合」でしたが、これは意外にも「家貧しくて孝子顕る」とでも言うべき効果を発揮します。

 フルコンルールの利点はなんといっても「スパー参加への間口が低い」「スパーをさせても安全」「場所のコスパがいい」です。以下詳解。
 まず「スパー参加への間口が低い」「スパーをさせても安全」について。
 フルコンには手技による顔面攻撃がないため、他の打撃系格闘技に比べてかなり早い段階で、打ち合いのフリースパーに参加できるようになります。
 人間、顔面に何かが飛んでくるものを避け、リターンを入れるというのは、きちんとしたドリルをかなり反復しつつ、先天的な恐怖心に打ち勝つ必要があります。したがって顔面ありの打撃系格闘技は、フリーの打ち合いができるようになるまで相当な時間を要しますし、また、人によって習得度合いに恐ろしいほどの差が生じますが、フルコンはある程度の突き蹴りを覚えれば、それなりに「打ち合っている」という形になります。とくに、きちんとプロテクターをつければ、ほぼ痛みなく技の応酬が可能となります。
 フリースパーに早い段階から参加できるというのは、修行者にとってはかなりの励みになりますし、指導・管理する側からしても、頭部に危険な衝撃がかかりやすい手技の顔面攻撃がない、というのは安全を担保する上で非常に有益なことです。

 次に「場所のコスパがいい」について。
 顔面ありの打撃系格闘技はどうしても間合いが遠くなりがちであり、当然、スパーをする場所の確保が大変なのですが、フルコンは近接しての殴り合いが主となりますので、けっこう狭い場所でもスパーが可能。ボクシングのリングがあれば、フルコンなら3組くらいはスパーができる。実にコスパがいいのです。
 実は組技でも同じように「スパー参加への間口が低い」「スパーさせても安全」「場所のコスパがいい」の条件を満たすことで、驚異的な門下生を抱えるに至った格闘技があります。ブラジリアン柔術です。
 BJJの場合は、組技における「顔面パンチ」とでも言うべき「投げ」の価値を極限まで下げる(どんなにきれいな投げでも、BJJでは2ポイントにしかならない)ことによって、上記の3要素を満たすことに成功し、それが結果として、組技界における修行者数ひとり勝ち現象を生んだのです。
 ちゃんと統計を取った訳ではないのですが、学校の部活動を除き、街中の打撃系道場の実施競技人口は、おそらくフルコンが最多。その原因は上記3つの条件を満たすがゆえ…フルコンのルールは、練習時間にも練習場所にも余裕がない現代に、意外とマッチしたものであったわけです。

 以上3回に亘ってフルコンの変遷をたどっていきましたが、現在のフルコンは、「空手チャンプルー促進者」の時期を過ぎ、「最強幻想」の重荷を下ろし、打撃系格闘技のいち形態として多くの人が楽しむスポーツとなりました。これは立派な進化、進歩であり、あるべき姿にやっと落ち着いたということで、ワタクシはとてもいいことであると思っています。
 このまま時代に逆流することなく、奇妙な武道臭さ、空手臭さを出さず、いち格闘スポーツとして単純に発展していって下さい、と祈るばかりです。

以上終了?もっと進化?フルコンの役割(その2)

2018-10-06 08:15:13 | 格闘技のお話
フルコンの次なる役割は「最強幻想の担い手」としての役割。今回はこれについてお話しします。

 「チャンプルー」の話でもちょっと触れましたが、「空手バカ一代」を嚆矢としたいわゆる極真ブームは、昭和の終わりごろに入ると今度は「フルコンカラテブーム」、それに基づく「フルコン最強伝説」へと姿を変えます。
 極真の大山総裁はことあるごとに、「空手は格闘技最強、その中でも極真カラテは地上最強なんタヨー!キミイ!」とよく仰っておられましたし、その当時、フルコン最強信者の鼻息も、地上最大に荒かったですね(-_-;)。
 フルコン最強派の言い分は、要約するとこうです。
「フルコンは素手、素足で相手を殴ったり蹴ったりすることが通常なので、グローブをつけないとダメなキックやボクシングより撃力(殴る蹴るの力)があり、相手に当てない寸止めより実戦性が高い。ましてやグラップラーなんか、組まれる前に殴ってしまえばいい。だからフルコンは最も実戦的なルールであり、他の格闘技と比べても最強だ」

 …弊ブログをお読みの賢明な皆様は、この理屈、すぐに「???」と感じたと思います。おそらく、最も違和感を感じたのは「フルコンは実戦的、実戦に供与しても最強だ」という箇所でしょう。
 まず格闘スポーツというのは、多くの人が安全に練習できる形態を持ち、整備されたルールの下できちんと大会が開かれている時点で、既に「実戦」からは遊離してます。
 弊ブログでは幾度か話題として取り上げていますが、実戦で使える技とは、周囲の環境を存分に生かし、自分が「技の起こり」を支配し、相手へのエネルギー投射を極限まで高めた、極めて単純なものだけ。
 逆に格闘スポーツはルールを厳密に定め、禁止行為を明らかにし、ルール内でのみ有効な洗練された技を競うもの。実戦性からはどんどんかけ離れていって、当然なのです。
 そういえばこの時期、フルコンはフルコンという呼称とは別に「実戦空手」なる呼称も持っていました。今から考えると大風呂敷も甚だしい!のですが、当時はまだまだ、その程度の理解だったのです。

 また、極真の大山倍達総裁はことあるごとに「文句があるなら、極真の大会に出てこい!そこで勝ってから極真に文句を言え!」「極真は後ろを見せない!」という意味合いのことを言っていました。これは総裁の名前で書かれた数々の著書にたいがい書かれていることなので、十分にウラがとれています。
 この言葉は永く、フルコン最強幻想信者をシビレさせ、その心の拠り所でもあったわけですが…いくら同じ打撃系格闘技にカテゴライズされるものであっても、ルールが違えば技術がまるで異なってくるわけですから、極真の大会に出場するのであれば、そのルールに慣れている極真の選手が最も有利なのは自明の理。だから「他の格闘競技の練習しかしていない選手が極真ルールの大会で負けたから、その格闘競技は極真より弱い」なんて単純な比較論には決してならないはずなのですが…考えれば考えるほど、矛盾だらけですね(;^ω^)。
 ちなみに現在、ネットの格闘技掲示板あたりで、その手の「フルコンは最強だ!」みたいな問題提起をすれば「もの知らず、情弱www m9(^Д^)プギャー」とバカにされること必至です。

 しかし、当時はそうした事実が格闘技人口に膾炙していませんでしたし、また、格闘技マスコミが「格闘技はルールが違えばテクニックが変わる。フルコンルールが格闘技トップ最強だなんてナンセンス」という問題提起をわざと避けて通っていたという点も見逃してはいけません。
 当時、格闘技雑誌は極真を取り上げれば部数が伸びることを十分認識していました。ただ、極真の心証を害するような記事を書けば当然出禁を食らいます(けっこうチェックが厳しかったと仄聞します)。だから、ヤミの部分にあえて目をつぶり、格闘マスコミ全体が「極真のスポークスマン」と化していた。それが中身の脆弱な最強幻想を一層書き立てたわけですが…実に罪深い話です。

 ただ、その「最強幻想」の崩壊はあっけないものでした。
 まず、大山倍達総裁の死去により極真が子別れ、孫別れして組織が細分化してしまったこと。
 これまで自ら最強を謳い続け、フルコン最強幻想を支えた最大の担い手がバラバラになってしまったことは、「フルコン最強」を謳う人たちの心の拠り所を大きく削減し、混乱を招いたことは想像に難くありません。
 フルコン最強の看板凋落にさらに拍車をかけたのが、平成フタケタの初め頃、極真勢がK-1に参戦し、凡戦に終始したこと。
 前回も紹介した「吉田豪の空手☆バカ一代」(白夜書房)には、「K-1参戦極真勢」の一角を担ったニコラス・ペタス先生がK-1に出場した際の内幕が暴露されております。
 とある空手の先生(誰かはなんとなく察しが付くが、確信がないので言いません(~_~;))がペタス選手(当時)のコーチになったようですが、「『コンディションをよくしないとダメだ』と言って、走り込みや水泳をガンガンやらされたけど、スパーリングは直前に2回しかしていない。グローブ対策なんてあってない状態だった」という、大変お粗末な練習内容であったそうです(-_-;)。
 弊ブログをお読みの賢明な皆様は「フルコンでのKOのしかた」「ボクシンググローブ等のKOのしかた」「オープンフィンガーでのKOのしかた」が、それぞれ全く違うことをよくご存じのことと思います。これはもう、全く違うスポーツと言って過言ではないレベルで違います。
 K-1を主宰していた正道会館には湊谷コーチという、キックに精通した名伯楽がいたので、選手がグローブに移行するに際し特段の支障はなかったのですが、極真にはそれが全くなかった。わからんもの同士が「わからん、わからん」と言いつつ適当なことをやるのは、何事にもよらず、一番の負けパターンです(-_-;)。
 なんの研究や対策もなく、最強幻想に自らが幻惑された状態のまま、安易な多角化を目指したことが、「最強幻想の担い手」としてのフルコンを地に落としてしまったことになります。
 また、時を同じくしてネット社会が急速に進み、格闘技の好みも多様化。フルコンさえやっとけばいい、フルコンさえ押さえておけば最強幻想は健在、という時代はあっという間に終結してしまいました。

 ワタクシもフルコン最強幻想が生きていた時代に、いちおうフルコンに分類される芦原カラテをやっておりましたので、当時の息吹はなんとなく覚えておりまして…それだけに「フルコン最強幻想」は思い出すだけで懐かしく、そして現在、モノが分かるようになってから分析すると、ちょっぴり物悲しくなってしまいます。


以上終了?もっと進化?フルコンの役割(その1)

2018-10-01 08:52:58 | 格闘技のお話
 俗に「フルコン」と呼称される、空手のいち形態がございます。
 こんな書き方をすると、現在進行形でフルコンに燃えている方が「(クールポコの小野まじめ風に(;^ω^))なーにー!俺たちのやっているのがホントウのカラテだ!門外漢は黙ってろー!」などとファビョるかもしれませんが…ワタクシいちおう、芦原会館及び某関西系フルコンとで合計10年(取得段位は初段と三段)ばかり「フルコン」に分類されるカラテをしておりました(;^ω^)ので、本稿は「フルコンに全く関係者ない人間による、無責任なフルコン批判」ではなく、「いちおう有識者」「いちおう在野の研究者」による、ごく私的なフルコン研究の一端、という色合いをもつ読み物…に分類されると思います(;^ω^)。
 また文中、極真の技術体系に対して若干厳しめの意見ととらえられそうな記載もありますが、それは極真の組織としてのありかたを批判しているのではなく、あくまで書籍で裏取りができたもの、あるいは自分で見聞きした客観的事実からの感慨を列挙しているだけであるので、その辺りをお含みおき頂ければ幸甚です。


 これは完全な私見による仮説ですが、フルコンは極真がそのスタイルを創始して以降、以下の三段階を踏んで現在に至っていると考えます。
 最初は「空手文化のチャンプルー促進者」としての役割。
 その次が「最強幻想の担い手」としての役割。
 そして現在、最終形態といっていい形が、冒頭に掲げましたが「競技空手の一形態への収斂」。
 その詳細につき、以下順を追って説明します。
 
 まず第一段階、「空手文化のチャンプルー促進者」としての役割について。
 「空手文化のチャンプルー」とは、ワタクシが言い出したことではありません。沖縄空手の大家にして、空手研究の第一人者でもあった金城裕先生が平成21年ころ、「月刊武道」(日本武道館刊)の取材を受けた際に用いた言葉です。
 空手が本来の姿を離れ、様々な改変やアレンジが加えられることを、金城先生は「チャンプルー化」という言葉で表現していました。「チャンプルー」は皆様もご存知の沖縄料理「ゴーヤーチャンプルー」でもお馴染みの沖縄方言であり、原意は「ごちゃまぜにする」とかそういう意味。
 金城先生は当該インタビューで「いくらその競技が空手らしい格好をしていても、空手の技が本来持つ意図や目的がわかっていなければ、それは空手ではない」というようなことを仰っておられました。
確かに伝統派の稽古というのはだいたいどこでも、基本から型、約束組手、自由組手に至るまでの流れに無駄がなく、基本が生きる稽古体系を見事に作り上げています。
 それに比べてフルコン、特にフルコン史のトップランナーでもあった極真の稽古体系を見てみますと、基本稽古は剛柔流、型は剛柔流と松濤館の折半、組手はショートレンジのみでバチバチ当てる方式…と、基本・型・自由攻防の間をつなぐものが何もない、実に不思議な稽古体系を有しています。なんでこんなことになったのでしょうか?

 プロインタビュアー吉田豪先生畢生の名著「吉田豪の空手☆バカ一代」(白夜書房)には、極真の前身である大山道場の草創期、師範を務めた渡邊一久先生のインタビュー記事があります。
 同記事で渡邊師範が説明していた、草創期の大山道場空手とは「(それまで大山総裁が習っていた)剛柔流、松濤館流とあらゆるものを習って総合したものに大山道場と位置づけよう」としたものだそうですが…「空手の体系論」という一点だけに立脚して考えてみますと、剛柔流と松濤館流は、技の理合いも、練磨に必要な型も全く異なりますので、くっつけようとすること自体に無理があります。仮にその2つをくっつける技術・稽古体系を作ったとしても…おそらく技の理合いに全く整合性のない、キメラのようなとんでもない体系しかできなかったことでしょう。
 ただ、大山道場の「あらゆるものの総合化」は、幸か不幸か、技術を深く掘り下げて体系化していく方に指向することはなく、「とにかく早く強くなること、町場での実戦に特化して強くなること」のほうにウェイトが置かれました。これは国民諸氏のごく近くに「暴力」が常在した昭和30年代当時の世相を鑑みれば、当然の処置であったと思います。
 その結果、大山道場では「ほかの空手や格闘技から、とりあえず即効性があって使えそうなものを手当たり次第に持ってきて、組手で実験を繰り返す」ということが最優先事項となりました。
 そうしたムーブメントのひとつの実証例として、昭和39年に行われたムエタイへの挑戦と、それによる技術導入があります。
 それまで空手の蹴りは中足による蹴り以外がなく、スネでの蹴りが存在しませんでしたが、これ以降スネによる蹴りが普通の技術として用いられるようになりました。これは「人に攻撃を当てる」という前提がなければ絶対に導入されない性質の蹴りであり、そうした技術をどん欲に吸収しようとしていたことが伺えます。
 また、「空手のトレーニング」として、サンドバッグやミットが導入され、常態化していったのも、この時期を以て嚆矢とすると仄聞しております。
 これら他格闘技から導入した技術を用いて、「相手を直接殴る」という組手方式を生み出し、マスコミ媒体を通じて大々的に売り出したものが、のちにフルコンと言われる競技形態になったわけですが…そして、その売り出しは見事に成功し、極真カラテとフルコンは社会現象にまでなりました。が…これこそまさに、金城裕先生指摘するところの「空手のチャンプルー化」以外の何物でもなかったのです。

 大山道場のころに掲げられた、「あらゆるものの総合化」のうち、「稽古技術の体系化」はその後、極真がひとつの団体として安定期に入ってからも、全くなされることはありませんでした。
 あくまでもワタクシの私見ですが…その原因は2つ。
 まず1つめは、「技術のチャンプルー」が行き過ぎ、基本→型→応用稽古を繋ぐ線が断線していることはみんなが知りつつも、試合成績を偏重した結果、その断線を繋ぐ作業自体が「開けてはいけないパンドラの箱」と化してしまい、誰も触れたくなくなったため。
 2つめは、極真が団体としての安定期に入り、入門者の最優先事項が「試合に勝つこと」に変質したため、「開けてはいけないパンドラの箱」を開けない代わりに、試合に勝つメニューやテクニックばかりを先鋭化させたこと。
 その結果、「基本と応用とが乖離して、全く連携していない」ということが極真という組織全体に宿痾のようにずっと付きまとうこととなり、のちに組織分裂の原因になる「一人一派」の風潮を醸成する一因となったと愚考しております。
 極真の技術体系が「基本と応用が乖離して連携していない」「伝統に基づいたきちんとした体系がない」ことにつき、大ヒット作家であり、「空手道今野塾」を主宰している空手家でもある作家・今野敏先生は、著書「琉球空手、ばか一代」(集英社文庫)のなかで、このように評しています。
「根っこが脆弱なのに、大きく枝葉を広げ過ぎた木のようなものだ。根っこは大山倍達のカリスマ性だったのだ」
「支部によってやることが違ったり、指導者によって体系が違ったりする実態をどう説明するのか。それでひとつの流派と言えるのだろうか。」

 また、こうした「技術をチャンプルーした、空手のようなもの」ものを「これは、今まで鍛えた空手の技を試すために考案した、競技の一形態です。」とせず、マスコミを通じて「これが正しい空手だ!従来の空手は空手ダンスだ!文句のあるやつはかかってこい!」などと吹聴、これをバカなマスコミが無批判に、面白おかしく宣伝したせいで、空手を知らない一般人は極真こそが空手と勘違いするようになり、歴史と伝統のあるほうの空手をやっていた諸派は様々な誤解に永年晒され、この解消に長い時間を費やした…これは極真という団体が行った事柄の功罪を論じる中で、「空手文化を正しく伝える」という観点からすれば、明らかに「罪」のほうに分類されるでしょう。
(極真という組織を維持発展させる、という観点からは「功」だったのでしょうが…)

 だいぶ長くなりましたが、以上が、フルコンの「空手文化のチャンプルー促進者」たる理由となります。

 次回は「最強幻想の担い手」としてのフルコンをクローズアップしたいと思います。