「戦前、競技人口が今とは比べ物にならないほど多かった柔道において、特に圧倒的人気を得ていたのは、帝大柔道会が主催していた高専大会であり、講道館柔道ではなかった。講道館の勢力西限は永く名古屋で、以西への進行は事実上不可だった」という事実を発掘、一般に広めたのは、格闘技ノンフィクションの最高傑作と名高い「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(増田俊也・新潮文庫)です。
同作品は、木村政彦政彦先生の強さに対し、著者のある意味無邪気で、悪い言葉でいえば「中二病」のようなイタいこだわりが鼻についたり、時折見られるアカ臭い(著者は北海道新聞や中日新聞にいたから仕方ない)文章に眉をひそめることもあり、全てを手放しでほめることはできないのですが、その詳細な調査内容、重厚なストーリー展開はすばらしく、また、高専柔道というものの存在と興亡を、一般人向けの書籍として初めて公にしたという点で、極めて優れた歴史書ともなっております。
なので皆様、一家に一冊(上下巻なので、厳密に言えば二冊ですが(;^ω^))「木村政彦」を…って、それはともかく。
同著でほぼ初めて明らかにされに記されている「昭和初期における、東西の柔道」の概要は、以下のようなものです。
①当時、柔道の統括団体は東の講道館以外に、京都に本拠地を置く半官半民の武道振興団体「大日本武徳会」と、高専大会を主管する「帝大柔道会」(京都帝大に所在)があった。
②当時高専大会の人気はすさまじく、ほとんどの学校は高専ルール(「決着は一本勝ちのみ・場外なし・待てなし」であったため、寝技が著しく発達した柔道)を選択、当時日本一の競技人口を誇っていた。これが柔道のMMA化を進めたい嘉納治五郎の頭痛のタネであった。
③講道館を筆頭とする東の柔道と、寝技中心の西の柔道は大正時代に激突し、結果は西の柔道、特に高専柔道の圧勝に終始した。
その寝技の強さは、西の柔道の一方の雄である武徳会をも完全凌駕した。
④これに対し講道館は「立ち技の比重を増やせ」と主張のうえ、政治的圧力も辞さない姿勢を取った。帝大柔道会は「寝技偏重の何が悪い。これも立派な競技形態だ」として対抗。話し合いは平行線に終わった(結果、講道館は帝大柔道会に容喙しないということで決着)。
講道館は仕方なく東京の私大を中心とした東京学生柔道聯合会(現・東京学生柔道連盟)なるものを発足・完全掌握するも、帝大柔道会参画校に比してその数は圧倒的に少なく、帝大柔道会には敵するべくもない状態。結局大東亜戦争終結というタナボタで主導権を握るまで、講道館は永く西への進出と、寝技への容喙が不可能であった。
高専ルールは「一本勝ち以外認めない」であり、反則事項が少なく、ある意味分かりやすいルールなのですが、では、講道館を中心とした当時の「東の柔道」とはいかなるものであったのか…を調べていると、面白い資料が出て参りました。
ここに「柔道試合審判規定」(昭和8年7月訓令甲第58号)というものがございます。
これは警視庁が制定した警察柔道大会における試合審判規則であり、その創設当初より、講道館柔道の色彩を明確に持つ警視庁柔道は、ほぼほぼ講道館の柔道と見て差し支えないでしょう。そんな警視庁柔道のルールを知ることは、これすなわち当時の講道館ルールや、その組織運営の方針を知るうえで有用だと思いますので、つらつら考察していきたいと思います。
同規則からまず、一本の規定を見てみましょう。
「第五条 投技、固技ニ於テ一本ト為スヘキ場合左ノ如シ但シ一本ニ至ラサルモ対手ニ相当ノ効果ヲ及ホシタル技ハ「技アリ」トシ「技アリ」二回ハ之ヲ併合シテ一本ト見做ス」
高専大会は、一本以外の判定がなかったところ、東では既に「合わせて1本」が確立しています。このあたり、投げ技に比重を置いている東の柔道らしさが伺えます。
次に気になるのは、反則行為行為の規定。「第七条 試合中左ノ事項を禁止スル」として、以下の技を禁じています。
「イ 胴絞 ロ 直接両足ヲ用ヒ頭又ハ頸ヲ絞ムル技 ハ 頸椎又ハ脊柱ニ負傷ヲ及ホス技 ニ 手足首、手足指、膝ノ関節 ホ 直接ニ肩関節ヲ取ル技 ヘ 足がらみ(糸へんに咸) ト 蟹挟 チ 衣ノ襟以外裾又ハ帯等ヲ用ヒ対手ノ頸ヲ絞ムル技」
「イ」の胴絞とは、その名の通り、寝技で下になった相手が、両脚で胴を絞める技。
「ロ」が示す技は、高専柔道の主武器である前三角絞め(創設当初の名称は「松葉搦」)。
同技の初登場は大正11年。木村政彦が拓大時代に創始した横三角絞めは昭和12年の登場ですから、この規定はもう、前三角のみを目の敵にしていると断定できます。
大正12年、講道館秋季紅白戦に六高選手4人が出場。前三角におびえる講道館はなんと六高の選手が出てくる直前、突如試合進行を止め、主審三船久蔵が「三角締めの逃げ方講座」を開くという、異例の事態まで起きています。
なお、そこで教えられた「逃げ方」の実態ですが「技が効く方への逃げ方じゃったので皆んなで苦が笑いした」(六高柔道師範・金光弥市兵衛の回想)という、なんともオソマツなものであったそうです(;^ω^)。
「ハ」は、現在の言葉でいうバスター。これは柔道でもBJJでも禁止技ですので、禁止は当然でしょう。
「ニ」に掲げられた「膝ノ関節」は、おそらく当時「足の大逆」と呼ばれた膝十字固め(これは後、高専大会でも禁止となる)、「ホ」は当時「三角がらみ(「がらみ」はイトヘンに咸)」と呼ばれ、現在はBJJの主武器となっているオモプラッタ、「ヘ」はいわゆるヒールホールド…とまあ、とにもかくにも、高専柔道が開発、あるいは得意とした技を全否定していることがわかります(;^ω^)。
「ト」の蟹挟は、日本全土統一ルールで完全禁止となったのは平成6年と意外に遅かったのですが、「東の柔道」では戦前の早い時期に早々に禁止を決めている、というのが興味深いですね。
このほか、同審判規定では、寝技に引き込むためのタックルを禁止(講道館が寝技への引き込み行為を禁止したのは大正15年)するなど、とにかく徹底的に寝技と、その付属技を排除しようという姿勢が鮮明になっています。これは、「東の柔道」が、西の寝技柔道に対して、全く歯が立たなかったという恐怖心の裏返しでもあります。
審判規定ひとつとっても、当時の「東の柔道」の実態がよくわかり、また、「木村政彦は…」で紹介された時代背景がしっかり裏付けられましたので、本当に興味深かったです。
【本稿参考文献】
「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」増田俊也著 新潮文庫
「警視庁武道九十年史」警視庁警務部教養課編
フリー百科事典ウィキペディア「蟹挟」「膝十字固め」「オモプラッタ」の項目
同作品は、木村政彦政彦先生の強さに対し、著者のある意味無邪気で、悪い言葉でいえば「中二病」のようなイタいこだわりが鼻についたり、時折見られるアカ臭い(著者は北海道新聞や中日新聞にいたから仕方ない)文章に眉をひそめることもあり、全てを手放しでほめることはできないのですが、その詳細な調査内容、重厚なストーリー展開はすばらしく、また、高専柔道というものの存在と興亡を、一般人向けの書籍として初めて公にしたという点で、極めて優れた歴史書ともなっております。
なので皆様、一家に一冊(上下巻なので、厳密に言えば二冊ですが(;^ω^))「木村政彦」を…って、それはともかく。
同著でほぼ初めて明らかにされに記されている「昭和初期における、東西の柔道」の概要は、以下のようなものです。
①当時、柔道の統括団体は東の講道館以外に、京都に本拠地を置く半官半民の武道振興団体「大日本武徳会」と、高専大会を主管する「帝大柔道会」(京都帝大に所在)があった。
②当時高専大会の人気はすさまじく、ほとんどの学校は高専ルール(「決着は一本勝ちのみ・場外なし・待てなし」であったため、寝技が著しく発達した柔道)を選択、当時日本一の競技人口を誇っていた。これが柔道のMMA化を進めたい嘉納治五郎の頭痛のタネであった。
③講道館を筆頭とする東の柔道と、寝技中心の西の柔道は大正時代に激突し、結果は西の柔道、特に高専柔道の圧勝に終始した。
その寝技の強さは、西の柔道の一方の雄である武徳会をも完全凌駕した。
④これに対し講道館は「立ち技の比重を増やせ」と主張のうえ、政治的圧力も辞さない姿勢を取った。帝大柔道会は「寝技偏重の何が悪い。これも立派な競技形態だ」として対抗。話し合いは平行線に終わった(結果、講道館は帝大柔道会に容喙しないということで決着)。
講道館は仕方なく東京の私大を中心とした東京学生柔道聯合会(現・東京学生柔道連盟)なるものを発足・完全掌握するも、帝大柔道会参画校に比してその数は圧倒的に少なく、帝大柔道会には敵するべくもない状態。結局大東亜戦争終結というタナボタで主導権を握るまで、講道館は永く西への進出と、寝技への容喙が不可能であった。
高専ルールは「一本勝ち以外認めない」であり、反則事項が少なく、ある意味分かりやすいルールなのですが、では、講道館を中心とした当時の「東の柔道」とはいかなるものであったのか…を調べていると、面白い資料が出て参りました。
ここに「柔道試合審判規定」(昭和8年7月訓令甲第58号)というものがございます。
これは警視庁が制定した警察柔道大会における試合審判規則であり、その創設当初より、講道館柔道の色彩を明確に持つ警視庁柔道は、ほぼほぼ講道館の柔道と見て差し支えないでしょう。そんな警視庁柔道のルールを知ることは、これすなわち当時の講道館ルールや、その組織運営の方針を知るうえで有用だと思いますので、つらつら考察していきたいと思います。
同規則からまず、一本の規定を見てみましょう。
「第五条 投技、固技ニ於テ一本ト為スヘキ場合左ノ如シ但シ一本ニ至ラサルモ対手ニ相当ノ効果ヲ及ホシタル技ハ「技アリ」トシ「技アリ」二回ハ之ヲ併合シテ一本ト見做ス」
高専大会は、一本以外の判定がなかったところ、東では既に「合わせて1本」が確立しています。このあたり、投げ技に比重を置いている東の柔道らしさが伺えます。
次に気になるのは、反則行為行為の規定。「第七条 試合中左ノ事項を禁止スル」として、以下の技を禁じています。
「イ 胴絞 ロ 直接両足ヲ用ヒ頭又ハ頸ヲ絞ムル技 ハ 頸椎又ハ脊柱ニ負傷ヲ及ホス技 ニ 手足首、手足指、膝ノ関節 ホ 直接ニ肩関節ヲ取ル技 ヘ 足がらみ(糸へんに咸) ト 蟹挟 チ 衣ノ襟以外裾又ハ帯等ヲ用ヒ対手ノ頸ヲ絞ムル技」
「イ」の胴絞とは、その名の通り、寝技で下になった相手が、両脚で胴を絞める技。
「ロ」が示す技は、高専柔道の主武器である前三角絞め(創設当初の名称は「松葉搦」)。
同技の初登場は大正11年。木村政彦が拓大時代に創始した横三角絞めは昭和12年の登場ですから、この規定はもう、前三角のみを目の敵にしていると断定できます。
大正12年、講道館秋季紅白戦に六高選手4人が出場。前三角におびえる講道館はなんと六高の選手が出てくる直前、突如試合進行を止め、主審三船久蔵が「三角締めの逃げ方講座」を開くという、異例の事態まで起きています。
なお、そこで教えられた「逃げ方」の実態ですが「技が効く方への逃げ方じゃったので皆んなで苦が笑いした」(六高柔道師範・金光弥市兵衛の回想)という、なんともオソマツなものであったそうです(;^ω^)。
「ハ」は、現在の言葉でいうバスター。これは柔道でもBJJでも禁止技ですので、禁止は当然でしょう。
「ニ」に掲げられた「膝ノ関節」は、おそらく当時「足の大逆」と呼ばれた膝十字固め(これは後、高専大会でも禁止となる)、「ホ」は当時「三角がらみ(「がらみ」はイトヘンに咸)」と呼ばれ、現在はBJJの主武器となっているオモプラッタ、「ヘ」はいわゆるヒールホールド…とまあ、とにもかくにも、高専柔道が開発、あるいは得意とした技を全否定していることがわかります(;^ω^)。
「ト」の蟹挟は、日本全土統一ルールで完全禁止となったのは平成6年と意外に遅かったのですが、「東の柔道」では戦前の早い時期に早々に禁止を決めている、というのが興味深いですね。
このほか、同審判規定では、寝技に引き込むためのタックルを禁止(講道館が寝技への引き込み行為を禁止したのは大正15年)するなど、とにかく徹底的に寝技と、その付属技を排除しようという姿勢が鮮明になっています。これは、「東の柔道」が、西の寝技柔道に対して、全く歯が立たなかったという恐怖心の裏返しでもあります。
審判規定ひとつとっても、当時の「東の柔道」の実態がよくわかり、また、「木村政彦は…」で紹介された時代背景がしっかり裏付けられましたので、本当に興味深かったです。
【本稿参考文献】
「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」増田俊也著 新潮文庫
「警視庁武道九十年史」警視庁警務部教養課編
フリー百科事典ウィキペディア「蟹挟」「膝十字固め」「オモプラッタ」の項目