集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝 第49回・早大、昭和初の優勝!~昭和4年秋 早慶決勝戦~

2021-04-27 17:35:55 | 霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝
 慶大は初回、スロースターターの小川に猛然と襲い掛かります。
 先頭の楠見がいきなり三遊間を破るヒットで出塁すると、三番山下実、四番宮武三郎と連続ヒットが続いて楠見が生還して1点を先制。さらに五番井川に四球を与え、一死満塁の大ピンチを迎えた小川。
 しかし小川は一昨日の第1回戦同様、ここから神がかった投球。後続の町田・水原をいずれも投ゴロに仕留め、慶大の攻撃をなんと、1点で凌ぎ切ります。
 慶大は三回裏にも町田重信のタイムリーで1点を追加して2点をリード。しかし早大も四回表、一死満塁から小川のセカンドゴロの間に三塁ランナーが帰って1点を返し、前半戦を1-2で折り返します。

 七回裏、本日大当たりの町田がピッチャーライナーで1点をたたき出し、慶大が1-3と更にリード。
 八回表、死球で出塁した水原を進塁させるべく、われらがオッチャン、2番矢島の代打として登場。
 入念に短打法の素振りを繰り返し、打席に向かったオッチャンでしたが…ここは宮武の球威が勝り、オッチャンは平凡なセンターフライに倒れます。
 しかし、続く四番の森茂雄が左中間を深々と破る二塁打を放ち、水原が生還して2-3。早大の粘りに観客は総立ち。球場全体が騒然としてきます。
 慶大・腰本監督はここで、疲れの見え始めた宮武に代え、投手を三塁の水原にスイッチ。早大は一打同点のチャンスでしたが、ここは慶大の誇る宮武―水原の「黄金の継投」の前に後続を断たれ、点を奪えません。
 そして運命の九回を迎えます。

 九回表、早大の先頭打者は、この日3打席ノーヒット1四球と当たってない西村。
 早大・市岡監督はこの時に当たり、戦況を打開するための切り札を切りました。
 それは誰あろう、この試合スタメン落ちし、監督の真後ろから戦況をじーっと見つめていた、オッチャンの1年後輩・伊達正男。
 伊達は大阪の強豪・市岡中学で鳴らした強打の名捕手。入学直後の昭和3年春のリーグ戦で、いきなり最高打者賞(=首位打者)を獲得したことについては、第39回で触れたとおりです。
 しかし当時の早大には、伊丹安廣という不動の強打者&名捕手&主将がいたため、その後は捕手としての出場機会に恵まれず、控えの捕手や一塁の守備固めなどで、少しずつ試合出場していた時期。
 伊達はのち、捕手としてではなく、早大野球部史上に名を刻む「レジェンド名投手」に変身しますが、それにはもうすこし後のお話。

 「伊達、いくんだ!」
 まったく予鈴なし、突然の代打指名に、不敵で知られる伊達もビビり上げます。
「心臓がドキドキ大波を打つ。体も硬直するのが、自分でもわかった」。
 バット2、3本束ねて持ち、幾度か素振りを繰り返した伊達は、天地が振動するような大声援の中、バッターボックスに向かいます。
 伊達は好調水原の前に、たちまちツーストライクと追い込まれますが、4球目に投じたアウトコースのカーブをなんとかひっかけ、これがショートの頭を超すラッキーなヒットとなって一塁に生きます。
 ここから運命は、早大側に大きく舵を切ります。
 続く九番小川は一塁線にバントを決めますが、この処理を水原が誤り、一塁に悪送球。タマが外野を転々とする間に、伊達の代走佐伯喜三郎が三塁、小川が二塁に進塁し、ノーアウト二・三塁の大チャンスを迎えたのです。
 そして迎える打者は、8番の佐藤茂美。
 佐藤はこの年の春、長野・松本商業から入部したばかりでしたが、強打を買われ、このリーグ戦ではほとんどの試合に先発出場していました。
 しかしこの試合、佐藤はここまで3打数ノーヒットと全くいいところなく、「自信がないから、ベンチの後方にいて、監督の市岡さんの視線を避けて」おり、「代打を出してくれんかな」などと考えていました。
 しかし市岡は代打を告げず、そのままこの大一番の場に、佐藤をぶつけたのです。
 市岡監督の「お前、行け!」という目の合図に、360匁の重いバットをひっつかみ、ベンチを飛び出す佐藤。素振りを繰り返すうち、その眼には鋭い闘志が蘇っていました。

 左打席に入った佐藤に対し、八回表からマスクをかぶった岡田貴佳は、スクイズを警戒してウェストボールを2球連続で指示。佐藤はこれを悠然と見送ります。
 この態度に冷静さを欠いたのか、バッテリーは佐藤との勝負を選択。
 3球目のアウトカーブを佐藤は強振し、これはファウル。バッテリーは「タイミングが合っていない」と判断、4球目も同じコースに同じ球を投じました。
 佐藤はこれを見逃さず、体をタテに二つ折りするようなダウンスイング一閃!
 打球はほぼライナーでセンターに飛びますが、俊足のセンター・楠見幸信が抑えた!…と観客の誰もが思ったその瞬間、タマはまるで、打った佐藤の意思が乗り移ったかの如く、ほんの少し球威を弱めたのです。
 打球は楠見のグラブの下を抜け、芝生の上で大きくワンバウンドしたのち、フェンス方向に勢いよく転がり、左中間フェンスに当たって停止します。
 佐伯、小川は悠々のホームイン。打った佐藤も激走。三塁を回ったあたりで、外野からタマが返ってきますが、佐藤がホームに滑り込む方がほんの少し先でした。
 逆転のスリーランホームラン!
 一塁側の早大応援席からは地鳴りのような大歓声。帽子が舞い、コートが飛び、靴までもが投げられます。
 2点をリードした早大は攻撃の手を緩めず、再び投手に戻った宮武から、伊丹がその足元を抜き、センター前に運ぶタイムリーを放って1点を追加。
 最終回の慶大の攻撃は、代打伊藤・山下実・宮武三郎といった強力打者陣を、小川が見事三者凡退に切って取り、6-3にてゲームセット。
 こうして早大は、大正15年秋以来となる、5シーズンぶりの優勝を成し遂げたのでした。
 
 この日3タコで、まったく当たっていなかった佐藤を、市岡監督はなぜ大勝負の舞台に引っ張り出したのか?実は、この起用には伏線がありました。
 以前もお話ししましたとおり、当時の東京六大学野球部は、技術振興と青田買いを兼ね、オフシーズンに全国の中等学校野球部をコーチして回るのが普通でした。
 佐藤の出身校・松本商業(現・松商学園)は、伝統的に早大のコーチをずっと受けており、市岡もコーチのひとりとして松商の指導に当たっていたのですが、そこで見た佐藤の非凡な打撃センスにほれ込みます。
 このリーグ戦、佐藤は28打数6安打(打率.214)とたいした打率ではありませんでしたが、選球眼がいいこと(四死球6)や不敵な勝負強さが市岡監督に評価され、辛抱強い起用が功を奏しての劇的ホームラン!と相成ったわけです。
 
【第49回 参考文献】
「早稲田大学野球部五十年史」飛田穂洲編
「日本の野球発達史」河北新報社
「真説日本野球史 昭和篇その1」大和球士 ベースボールマガジン社
「私の昭和野球史 戦争と野球のはざまから」伊達正男 ベースボールマガジン社

【通常営業】AI VS 演算しかできない(弊社の)バカ大学生&OB

2021-04-26 11:44:16 | 兵隊の道・仕事の話
 最近のAIくんはとても賢く、YoutubeでもAmazonでも、「なんでここまでわかるの?」というレベルの精度の高い検索結果を出してくれますし、「おすすめ」なんかを見ると「なんでこんなに、ワタクシの趣味嗜好がわかるの?」というものを表示してくれます。
 また、わけのわからん外国語でも、Google翻訳君が「うん、言わんとするところは、まあまあわかるね」という程度の翻訳を瞬時に行ってくれます。
 いや~、世の中進歩したものです(しみじみ)。
 
 わが国のAI研究に目を転じてみましても、平成23年から開始された「ロボットは東大に入れるか?」という人工知能プロジェクト、いわゆる「東ロボくんプロジェクト」は、わが国のみならず、世界中からAI研究の白眉として多くの耳目を集め、平成28年にはNetexpo Awardという賞も受賞。その結末(10年計画だそうです)に注目が集まっております。
 で、今回のお話はその「東ロボくんプロジェクト」から伸ばしていきます。

 同プロジェクトリーダー・新井紀子氏が「東ロボくんプロジェクト」を進める過程で判明した数々の「真実」をまとめた「AI VS 教科書の読めない子供たち」(東洋経済新報社刊)は、非常な驚きを以て世間に迎えられ、大きな話題を呼びました。
 その「真実」は面白くも恐ろしく、また、「知能とお勉強」の深奥をズバリと衝いたものばかりであり、瞠目させられるところ大であったのですが、そのうちワタクシが着目したのは「演算の速さと知性の間には、何の関係性もない」という点です。

 同著いえらく。
「物凄いスパコンが登場したら、あるいは量子コンピューターが実用化されたら『真の意味でのAI』ができる、とか、シンギュラリティ(=singularity。真の意味でAIが人間の能力を超えること)が到来するという人がどうしてこんなにたくさんいるのか、以前から不思議でなりませんでした。1秒間の演算処理の回数と知性に、科学的な関係があるとは思えないからです。」
「頭の良い人のことを、『頭の回転が速い』と言いますよね。それは、単なる言葉の綾に過ぎません。ですが、それを科学的な事実だと誤解すると、『1秒間の演算処理回数=頭の良さ』と思い込んでしまう」
 
 わが国民には古来から「我々の想像もつかないような賢い人が、すばらしい知恵で我々を導いてくれる」といった思想が常に蔓延していますが、新井先生が指摘している通り、多くの国民が思う「賢い人」は「計算が早い人」とほぼ=で結ばれているため、その結果、教養やビジョンを持たない「計算だけ早い人」「お勉強だけできる人」をリーダーに頂きがちであり、そのせいで国や組織を傾けたこと、一度や二度ではありません。
 それがもっともわかりやすい形で表れたのが、皆様ご存じの大東亜戦争。
 シナ事変→大東亜戦争開戦→敗戦まで流れにおける本質を要約しますと、「お勉強しかできない、無教養な秀才君」が、戦略・戦術学や地政学、政治の力学といった、演算に先んじるべき「知性」の部分を全てすっ飛ばし、省益の確保だけを目的とした「演算」を行い、その「演算の解」以外の何も持たずに無計画にものごとを進め、わが国を未曽有の国難に叩き込んだ、と言い換えることが可能です。
 そうでなければ、あれほど場当たり・無責任・いい加減・優柔不断・中途半端・無慈悲な戦争指導ができるはずがありません。

 大数学者でもある新井先生が同著で指摘していたこととして、いまひとつ重要なポイントがあります。
 「数学」という学問が表現できることは論理・確率・統計の3つだけ、という点です。
 同著いえらく。
「数学が説明できるのは論理的に言えることと、確率・統計で表現できることだけだということです。つまり、数学で表現できることは非常に限られているということです。
 論理、確率、統計。これが4000年以上の数学の歴史で発見された数学の言葉のすべてです。そして、それが科学が使える言葉のすべてです。」
 
 確かに数学を用いれば、物事を論理的に証明でき、確率を正確に割り出し、正しい統計を取ることができます。 
 しかし残念なことに、人間様は論理的に動くことがほとんどありません。確率・統計のとおりに物事が進むこともありません。だいいち、人間様が論理的に動く生き物であれば、「行動経済学」とか「社会心理学」みたいな学問が立ち上がり、隆盛するはずがないでしょう(;^ω^)。
 同著によると「東ロボくんプロジェクト」で最もネックになっているのがこの箇所で、要はAIというのは、どれほど性能が向上しても、その根本は単なる「計算機」であり、論理・確率・統計の枠からはみ出たもの…つまり、フレームが決まっていないものに対して「的確な判断」を下すものに進化することは未来永劫絶対ありえない!とのこと。
 そのため「東ロボくん」は、理数系科目や暗記系科目には抜群に強いのですが、国語や英語の文章問題には極めて弱いという特色を有し、東大合格レベル…つまり、国立S級大学に合格できる読解力に到達することは「絶対に不可能」だそうです。
(ちなみに東大合格レベルの国語・英語の点数は『センター試験で9割以上を取ること』…最終学歴が自動車学校ワタクシは、30回くらい転生してもムリですね((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル)
 
 と、ここまで解説してきて、ワタクシの脳の中に、いまだに「1秒間の演算処理回数=頭の良さ」との価値観を墨守し、没知性・無教養な幹部(患部?)を輩出し続けている学校が思い起こされました。
 そうです。弊ブログではおなじみになりました、弊社直轄・バカ養成大学です(;^ω^)。広島県の某所に所在してますですよ。

 弊社バカ大学で、学生に最重要課題として与えられるのは「高級海技士試験に合格すること」。
 海技士資格は1~6級まで存在し、1級に近づくほど難しくなっていくのは論を俟ちませんが、海技士資格の本質というのは、1~6級に至るまで「フレームが決まった勉強」でしかなく、決まりきったドリルをこなすことでなんとかなる、という程度のものでしかありません(←四級しか持ってないくせに…というご指摘は甘受いたします(;^ω^))。
 そしていくら高級な免状を持とうとも、それは「ドリルをこなして資格を取った」というだけの話であり、「その人の知性が高いから合格した」わけでもなければ、「その人の論理的思考力が高いから合格した」わけでもなく、ましてや「その人の操船能力が高い」ということの担保には、まったくなり得ていないのです。

 しかし、同じ大学で教育を受けたバ幹部(患部?)は、自らが受けてきた「1秒間の演算処理回数=頭の良さ」という認識を断ちがたく、その価値観から発展した「高級海技士試験に合格している=知性が高く、論理的な思考ができ、操船もうまい」という価値観に固執し続けています。
 そのゆがんだ価値観によって訓育された未熟・未完成なバカ学生が、卒業と同時に要職に就き、同じように「お勉強のできるバカ」であった先輩に職業訓練?を施され、ますます馬鹿に磨きがかかっていき、組織をダメにする…というスパイラルが、高いレベルで完成されたりしちゃってるんですねこれが(←昭和の名声優の故・広川太一郎さん風に読んでください(;^ω^))

 ちなみに同著によると、フレームの決まったドリルを繰り返しても論理的思考力や読解力は一切身につかず、逆にどこかの時点で、成績がダダ下りしていくそうです。
 そういえば、あのバカ大学の卒業生が発出する指示文書って、支離滅裂で意味不明な文書が多いよな…あっ…(察し)。
 また、このバカ大学が、教育の金科玉条として掲げる「演算の速さと記憶」という分野、実は計算機であるAIが最も得意とする分野であり、その技能をベースとする仕事は今後、AIに駆逐される可能性が最も高いとされています。
 …個人的な要望としては、「AI VS バカ大学」が実際に勃発し、AIにバカ大学を瞬殺してもらいたいなあ…(;^ω^)。

 ワタクシが拳拳服膺しているユダヤのことわざがあります。
「馬鹿に大きな学問を持たせてはいけない」
 本稿をここまで読んでいただいた方におかれましては、この言葉が持つ意味を、少しくご理解いただけたかな?と思っております。

 最後に余談ですが、ワタクシが専門とする武道・格闘技と雑文書き、そしてお絵描き(←ヘタクソ)は、AIくんがいくら発達してもダイジョーブな分野なので、少し安心してます(;^ω^)。

霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝(第48回・早大、優勝への苦闘~昭和4年秋 早慶1・2回戦~)

2021-04-17 09:55:36 | 霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝
 チョーひさびさの「杉田屋守伝」をお送りいたしますm(__)m。

 運命の早慶1回戦、早大は序盤、あらゆる意味で「先手」を奪い、慶大を圧倒します。
 1回裏慶大の攻撃。
 マウンドに登ったのは早大の絶対エース・小川正太郎。
 以前もお話ししたとおり、小川は腺病質であり、そのため大抵立ち上がりが悪かったのですが、この早慶戦では、初戦であるこの試合から最終3回戦まで、終始神懸かった投球を見せます。
 先頭打者の楠見幸信を四球で歩かせ、続く本郷の送りバントで一死二塁。ここで迎えるは三番・山下実…この連載をご覧の方には既におなじみとなった、日本野球史上に残る怪物打者です。
 小川絶体絶命のピンチ!だったのですが、ここから圧巻の投球。
 見逃し・ファウルでツーストライクを取った小川。構える山下。山下は小川のウイニングショットであるインドロ(現代でいう縦のカーブ)にヤマを張り、投球を待ちます。
 小川の投じた一球はまさにそのインドロ!読み通りの球種に迷わず強振する山下…でしたが、なんと小川のインドロは見事山下のバットをかいくぐりました。
 怪物山下、スイングアウトの三振!
 続く四番・宮武三郎も、山下の三振に気圧されたか、あえなく一塁ファウルフライに倒れ、小川はこのピンチを見事無失点で凌ぎます。

 この試合の帰趨はここで決まった、と言っても過言ではありませんでした。

 早大はその裏となる2回表、1年生ながら打撃のいい佐藤茂美(松本商業)のタイムリーで1点を先取。その後は小川・水原による息詰まる投手戦となりますが、9回表、死球で出塁した水上、三塁強襲安打で出塁した小川を置いて、左打者今井がライトフェンスを直撃する長打で2点を追加。
 早大は3-0にて完勝。早慶戦復活以後、早大が慶大を完封したのはこれが初めてのことであり、小川の投球内容は被安打2・四死球3という完璧なものでした。

 しかし、勝ち慣れしている試合巧者慶大は翌14日の2回戦で、早速のリベンジ。
 慶大は初回から早大先発・高橋外喜雄に猛然と襲い掛かります。
 慶大の頼れる斬り込み隊長・楠見幸信の二塁打から始まり、山下実の大三塁打など、集中打を喰らわせて高橋をKO。早大は多勢正一郎をあわてて送り込むも、火に油を注ぐ結果としかならず、この回4点、2回までに5点を奪われます。
 早大は高橋外喜雄―多勢正一郎―松木賀雄(今治中)―清水光長(柳井中)とつなぎますが、5回・8回にそれぞれ1点ずつを献上。攻撃も振るわなかった早大は結局0-7で完敗。
 昨日は小川が完封したものの、今度は宮武に完封され返される、というおまけつき。
 早慶がっぷり四つに組んでの勝負はついに、第3回戦までもつれ込みました。

 昭和4年10月15日火曜日。
 神宮球場は徹夜のファンが取り囲み、混乱を懸念した球場側は開門時刻をかなり繰り上げ、なんと午前7時に開門してしまいますが、これが思わぬ悲喜劇を生みます。
 試合開始の午後2時までは相当な時間があるため、お客は当然、球場売店で何かを買って腹ごしらえ…と考えます。
 ところが球場売店の貼り紙には「葡萄パンお一人様2個限り」…売店が来場者数を完全に見誤り、仕入れの個数が全く追い付いていないがゆえのハプニングでしたが、ブドウパン2個で7時間も待たされた客は、さぞかし空腹を覚えたことでしょう。
 この人気を当て込んだニセ切符売りも横行します。
 正規価格1円の切符を5円、あるいは6円で購入させられ、挙句に「これは偽切符だから入場できません」と言われた哀れな?客も続出したそうです。
(「私の昭和野球史」では5円、「真説日本野球史」では6円と記載(;^ω^))
 なお、正規の割り印が捺された切符は、最高20円(!)の値がついたとか…。

 数々の苦難を乗り越え、神宮球場の観客席に座れた幸運な観客は、試合に先立って行われた先発メンバー発表…当時はスコアボードへの選手名表示がなく、試合開始前に、スタメンを表示した板を首からぶら下げたサンドイッチマンが、グラウンド内をウロウロ歩いて周知していたのですが、それを見た客からどよめきが起きます。

 先発投手は早大・小川正太郎。慶大・宮武三郎!まさに竜虎の一騎打ちです。
 この記念すべき早慶決勝戦のスターティング・ラインナップは以下のとおりです。
【先攻・早大】
1番ライト水原義明・2番センター矢島粂安・3番キャチャー伊丹安廣・4番サード森茂雄・5番セカンド水上義信・6番ファースト西村成敏・7番ピッチャー小川正太郎・8番レフト佐藤茂美・9番ショート富永時夫
【後攻・慶大】
1番センター楠見幸信・2番セカンド本郷基幸・3番ファースト山下実・4番ピッチャー宮武三郎・5番ライト井川喜代一・6番レフト町田重信・7番サード水原茂・8番キャッチャー川瀬進・9番ショート加藤喜作

 …ここまで見て「あれ、主人公のオッチャンは?」と思った方も多いと思います。
 実はこの記念すべき秋のリーグ、オッチャンはわずか4試合の出場にとどまっています。
 実はこのリーグ戦、外野手が頻繁に入れ替わっており、最終的に固定されているのが水原義明・佐藤茂美・矢島粂安の3人。その後塵を拝する形となったのがオッチャン、三原修、今井雄四郎の3人でした。
 おそらく、早大のアキレス腱である投手力を補うため、打撃でパンチを効かせられるメンツを集めた結果、というところだと思料されますが…しかしこの采配が、早大に思わぬ幸運をもたらすことになろうとは、この先発メンバーを決めた早大・市岡監督ですら予測不可能だったでしょう。

【第48回 参考文献】
「早稲田大学野球部五十年史」飛田穂洲編
「日本の野球発達史」河北新報社
「真説日本野球史 昭和篇その1」大和球士 ベースボールマガジン社
「私の昭和野球史 戦争と野球のはざまから」伊達正男 ベースボールマガジン社

警察術科(主に逮捕術と柔道、あと剣道ちょこっと)の長い長い歴史(第15回)

2021-04-06 11:24:21 | 雑な歴史シリーズ
【その28 「大正時代」と関東大震災がもたらした、治安戦略の変化】
 大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災は、帝都東京を含む関東一円の甚大な被害を与えました。
 東京府だけで死者7万以上、全半壊・焼失家屋20万戸というこの災害により、帝都・東京府付近の治安は一気に悪化、大規模騒擾状態に陥ります。
 治安の維持に関し、警察だけでは全く手が足りない状態となったことから、政府は戒厳令を発出、軍隊まで出動させて治安維持に当たります。
 この間、警察官の武装はサーベル1丁…しかも、抜刀することが殆ど許されないサーベルでの警備実施ですから、その困難は察するに余りあります。
 事実、この騒動の中で、警察は保護した被災者を暴徒に奪取され、そのまま行方不明になったという事案や、たった1つの糧秣倉庫をガードするのに数十人もの警察官を割かなければならなかったりするなど、とにかく「警察力」の不足が大きな課題となりました。

 また「その27」で、大正時代は「中流階級」という階層が勃興したというお話をしましたが、ヒマとカネをある程度持て余している彼らは、いわゆる「市民意識」なるものに目覚めるのも早く、新たな権利を求めてワーワーと騒ぎ立てます。いわゆる「大正デモクラシー」というヤツですね。
 アホな歴史教科書では、それがさもいいことのように書かれていますが、要は生活にあまり不自由のない階級が、面白半分に社会を扇動したわけであり、そのため、明治時代には考えられなかった大小各種の騒擾事件が相次いで発生(その最たるものが米騒動)。
 警察は、関東大震災以前からその対応に手を焼いており、実は「警察力のさらなる増強」は、大正時代全般を通じ、喫緊の課題だったわけです。
 そこへ降ってわいてきた関東大震災。
 ことここに至り、一刻の猶予もないと判断した内務省(警察を統御していた官庁。今は消滅)は、警察力の増強と、「警察官は強いぞ!!!!」というイメージ戦略を大々的に打ち出す作戦に打って出ます。

 こうした取り組みのうち、ガチの「警察力の増強」対策の最右翼となったのは「警察官のけん銃携帯」でしょう。

 大正12年10月20日、勅令第450号により「警察官消防官服制」が改正されます。
 この改正により「土地の状況または勤務の性質により、必要あるときは樺太庁長官又は庁道府県長官(=現在でいう都道府県知事の意)は主務大臣(=内務大臣のこと)の認可を受け拳銃を帯用せしむることを得」との文言が追加され、警察官の拳銃携帯・使用が許可されることとなりました。
 しかし、関東大震災の発災が同年9月1日ですから、改正があまりにもスピーディーすぎる…実は、関東大震災の発災前から、内務省は米騒動などの反省をもとに、すでに警察官の拳銃携帯について法制化の下準備を済ませており、関東大震災を契機に、一気に制度化したという説があるにはありますが…閑話休題。

 拳銃の使用・携帯のトレーニングについては、全国の警察で様々な取り組みがなされましたが、警視庁については大正12年12月、近衛騎兵連隊下士官集会所において、65名の警察官が東京憲兵隊・水野保憲兵中佐の指導を受けています。
 ただ、戦前における警察官の拳銃携帯は全国どこでも「警察署に保管し、必要があったら持ち出す」形式であったことから、その配備状況はかなりしょっぱいもので、終戦直後、昭和21年時点における警視庁全体の保有拳銃挺数は、警察官18,718名に対し、なんとたったの572挺!充足率0.03%!
 この充足率では、治安維持の役に立つとは思えませんし、じっさい、戦前に「警察官が拳銃を使用して相手を制圧した」という事案を、ほとんど見聞きしたことがありません(知っているという方は教えてください)。
 しかしわが国では江戸時代から、「捕縛」の現場における実力行使に、異様なほど気を遣うという実に不思議な文化・伝統があり、その風潮は当然、大正時代にも続いていました(現在も、警察官が極悪犯人を相手に、ほんの少し拳銃を使ったくらいでガタガタぬかすバカがいますが、それは、こうした伝統のせいでしょう…たぶん(-_-;))。
 そういった伝統・社会文化のなかで「拳銃携帯」を成立させ、「警察官は拳銃を持っているから、抵抗してもムダだぞ!」というイメージ戦略を行ったのは、わが国の治安を語るうえで、実にエポックメイキング的なできごとだったのです。
 
 もう一つの取り組みは、「武道の強い警察」の世間へのアピール。
 大正末年ころには、「その27」でお話しした「武道スポーツ化」の流れを受け、各種の大規模柔道・剣道大会がバンバン行われるようになりつつありました。
 柔道のほうを見てみますと、大正12年には朝鮮・満州対抗柔道大会、翌13年には明治神宮大会や都下高専柔道大会(おそらく、有名な京都帝大の高専柔道ではなく、東京府とその近辺の高校・高等商工・専門学校の大会)、14年には、幼き日の木村政彦も胸躍らせたという、伝説の福岡VS熊本の対県柔道大会といったあんばい。

 こういった大試合に警察、特に、内務省の直轄であった警視庁はどういった態度であったかというと…選手をバンバン送り込んでいました。
 大正・昭和前期を通じ、全国の柔・剣道修行者が仰ぎ見た大会と言えば、明治神宮大会、そして不定期に開催されていた天覧試合。ここでは、天覧試合における警視庁の動きを見てみることと致します。

 昭和最初の天覧試合は昭和4年5月4~5日にかけて行われた「御大礼記念天覧武道大会」。
 本稿では柔道だけに話を限ってお話ししますが、このとき柔道は「府県選士の部」「指定選士の部」に分けて実施されました。
 警視庁からは、川上忠六段(33歳・師範)・佐藤金之助六段(32歳・師範)山口孫作五段(35歳・師範)の3名が指定選士(総員32名)として参加を許され、このうち佐藤六段が予選リーグを突破、準々決勝へ駒を進めます。
 佐藤六段はその準々決勝で牛島辰熊(当時・熊本医大柔道教師)に敗れますが、警視庁柔道の強さを内外に示したことは「強い警察」のアピールにはもってこいであり、その反響はかなりのものでした。ちなみに指定選手の部・優勝は、武道専門学校の栗原民雄でした。

 さらに、また少し時代が下りますが、昭和9年5月4~5日にかけて行われた「皇太子殿下(現在の上皇陛下)御誕生奉祝天覧武道大会」においても、警視庁からは指定選手16名中6名もの多数を拠出する栄に浴します。
 とはいっても、これは警視庁が、天覧試合や明治神宮大会の優秀選手を片っ端から師範や教師として引っこ抜いていたから、という注釈付きではありますが…(;^ω^)。
 それはともかく、このとき「警視庁」の肩書で参加した6選手はこちら。
・皆川国次郎 教士五段(34歳) 柔道教師
・飯山栄作 精錬証五段(28歳) 柔道教師
・川上忠 教士六段(38歳) 柔道師範
・曽根幸蔵 六段(32歳) 柔道教師
・牛島辰熊 教士六段(31歳) 柔道師範
・菊池揚二 教士五段(29歳) 柔道教師
 このほか、府県選手(東京代表)として、村田与吉五段(32歳、本富士警察署助教)が出場しています。
 
 試合結果のほうですが、指定選手のほうは残念ながら、いずれも予選リーグで敗退。
 特に第3部予選(牛島六段・菊池五段参加)では、この天覧試合優勝の栄冠を勝ち得た、大谷晃(樺太庁警察部柔道教師)の前に善戦するも惜敗、苦汁をなめます。
 しかし府県代表として出場した村田五段は無人の野を行く活躍を見せ、決勝まで進出。決勝で惜しくも平田良吉(武道専門学校学生・錬士五段)に判定で敗れますが、天覧試合での準優勝は「警視庁強し!」のアピールに、格好の戦果となりました。

 このように警察、とくに警視庁は、柔道・剣道の強い学生さんを警察官として採用して鍛え、あるいは既に名の売れている柔道・剣道選手を武道師範としてスカウトし、著名試合で活躍してもらうことによって「警察官は柔道や剣道で鍛え上げているから、そんじょそこらのチンピラが絡んできたところで、一発で制圧されるんだぞ!」という「強い警察官」のイメージづくりを行っていました。
 有名選手を師範や教師として迎えた意味は「イメージ戦略」だけではなく、警察官を本当に厳しく鍛えてもらおうという親心も、あるにはあったとは思います。
 しかし、プロ野球もプロサッカーもなかった当時、柔道の一流選手というのは、野球でいえば早慶戦のヒーロー(昭和の初期なら、宮武三郎〔慶大〕や小川正太郎〔早大〕レベル)や、相撲の世界でいえば三役以上の知名度があり、警視庁がその大多数をお抱えしているというのは、「武道に強い警察」をアピールしようとしていたとしか思えない…のであります。

 ただ、このイメージ戦略を優先させるあまり、「その27」の対署試合で浮き彫りになった「柔道・剣道が実戦から遠ざかり、試合に勝つことだけに血道をあげている」という問題提起に対する有効な対策はけっきょく講じられず、棚上げという状態になってしまいました。
 この時点で警察武道は「有名な柔道・剣道試合で勝って勝って勝ちまくって、『警察強し!』というイメージを国民に植え付けよう」という方向で固定されてしまったわけです。
 
 しかし、そのイメージ戦略が激化する陰で、実際に困っていたのは現場の警察官でした。
 1920年代~1930年代は、戦前で最も治安の悪かった時代で、昭和8(1933)年における人口10万人当たりの刑法犯発生件数は、戦前最多の2,301件。当然、警察官の職務執行に際して凶悪な抵抗を示す人間も増え、警察官の受傷事故は、増加の一途を辿っていました。
 しかし、犯人に対してサーベルをみだりに抜くわけにもいかず、競技柔道の技では、十分な制圧力とは言い切れない… 

 ここに至り警察は、柔道でも剣道でもない、第3の「警察武術」創設のやむなきに至ったのです。

警察術科(主に逮捕術と柔道、あと剣道ちょこっと)の長い長い歴史(第14回)

2021-04-03 12:17:52 | 雑な歴史シリーズ
【その26 盛り上がり、そして続くよ対署試合】
 大正11年に開始された警視庁の対署試合は、思いのほか盛り上がりを見せ、警視庁管内で大きな話題を呼ぶようになります。
 雑誌「自警」には、対署試合に関する以下のような珍エピソードが掲載されており、その過熱ぶりがうかがわれます。
「●●署では選手を激励するため、ビール(!)や卵をふんだんに準備し、存分に飲み食いさせた」
「対署試合への往路は選手の疲労軽減のため官用車を使って送っていったが、負けたら『せっかく車で送ったのに負けやがって!電車で帰れ!バカタレ!』と言われ、電車で寂しく帰った」
「妻帯者の選手は、帰宅後に無駄な精力?を使わぬよう、試合前夜は署に監禁された」
「いくつかの署では、25名の選手の大将を、署長自らが務めた」
 
 この「対署試合騒動」をご覧いただいて、皆さん、なにか違和感を感じませんでしょうか?
 これまでの警察の柔道・剣道は、その稽古に関する内実はともかく、表向きには「気力・腕力を鍛え、あくまでも相手を一撃のもとに制圧すること」に主眼を置いたものでした(←「大阪府警察史」には警察剣道に関し、そう書いてあります(;^ω^))。
 しかし、上記の状況を見ればわかりますとおり、対署試合に参加する警察官各員の間に、そういうゴタクが入り込む余地は一切なく、「試合に勝つ!」ことだけに熱中している様子がはっきりと分かるでしょう。

 じつは対署試合が始まった1920年代ころは、「スポーツ」というものが、国民的に広く認知された時期でもありました。

 大正時代の初めころ、第一次世界大戦による景気の向上により、それまで国民の約8割が農家・漁家だったわが国に「中産階級」…いわゆるサラリーマンというものが誕生し、都市部に人が集中し始めます。
 サラリーマンは、農家漁家に比べれば生活に余裕がありますから、「子弟に高等教育を受けさせたい」と望むのは無理からぬことです。
 しかしこの当時、現行官立高校・大学の数はものすごく少なく、従って高等教育を受けるためには、恐ろしい倍率の過当競争を勝ち抜かないといけません。
 ここに至り、官立高等教育機関に受かるだけの学力はないけど、なんとか高等教育を受けたい…という子弟のため、「そこそこ勉強して、そこそこの学歴をつけられる」学校を設立する必要性が、澎湃と湧き上がってきました。
 この声を受けて政府は、「高等教育機関拡張計画」なるプロジェクトを発動。これはその後「大学令」(大正7年12月6日勅令第388号)として法律化され、これによって私立大学の数が激増→大学生・大卒者の数も激増、となります。

 それまで、わが国の大学生というのは非常なエリートであり、「大学卒業→殆ど全員が官僚になる」であったところ、私立大学卒業生の増加とともに、サラリーマンを志向する者も増加の一途を辿ります。
 サラリーマンとなった元大学生たちは、高校・大学時代に熱中した「スポーツ」というものを、一般社会でも実践。彼らは良くも悪くも、大正時代の社会にスポーツというものを広く知らしめる原動力となります。
 そんな彼らが社会に広めた「スポーツ競技」の中には、「試合に勝つことが価値観の全てである、学生さんの柔・剣道」も、当然存在していたのです。

 彼らが広めようとした「学生さんの柔・剣道」は、晩年の嘉納治五郎が提唱した「柔道」(例の「勝負法」がくっついている柔道)や、古くから伝わる「撃剣」の観点から見れば、とんでもない心得違いの柔・剣道なのですが、専門知識を持たない一般の柔・剣道修行者は、エリート様が教えてくれる柔道や剣道こそが「ナウなヤングにバカウケ(←死語中の死語(-_-;))な柔・剣道」と広く認識されるに至ります。
 結果、武道は「実戦に役立つ身体と技を練るもの」から「試合に勝つ!ためのもの」に変質し、「各種の試合に勝つことこそが最も尊い」という価値観がガッチリ根付いたわけであり、警察の柔道・剣道も、そのムーブメントの中に完全に飲まれてしまっていたのです。
 
 しかし、警察幹部のお歴々の中には、そうした風潮に危機感を感じている人もたくさんいました。 

 大正からそろそろ昭和に世替わりせんとしていた頃、警視庁警務部長は管下各署長に対し「対署試合の利弊及将来永続施行の可否」というお題目で意見を照会しました。要するに「対署試合の利点・欠点を挙げ、続けるべきか廃止すべきかという意見を徴する」ということです。
 対署試合に反対する署長連中は、下記のような理由を挙げ、ここぞとばかりに対署試合廃止の論陣を張ります。

1 時日永きに失したること
2 本務を困却する嫌いありしこと
3 勝敗にのみ重きを置き、精神を没却する嫌いありしこと
4 選手たる者のみ発達して一般に発達せざること
5 選手を優遇する結果、諸種の弊を生ずること
6 演武公傷者を激増すること

 このうちの3~5が、「学生さんのスポーツ柔・剣道」に異論を唱える意見であり、このとき「試合継続絶対不可」を唱えた署長は、実に12名にも上りました。
 しかし「試合方法や表彰方法を検討のうえ、対署試合を継続すべき」との意見が大勢を占めたため、対署試合は廃止されず、そのまま続行されることが決議されました。
 「警視庁武道九十年史」には、その後の対署試合の運営につき「いろいろと改善を加え、いたずらに競技化することを避け、武道本来の目的に反しないような方法をとることにして継続することとなった」と記載されています。
 ではこの時、警視庁が対署試合にどのような「改善」を加え、試合と実戦との間に立ちはだかる壁を越えようとしたのか?
 「九十年史」には、その具体的取り組み内容が何も記されていないため不明なのですが…その後の警察武道と試合との関係性を見る限り、「特に何もしなかった」という結論以外、導き出すことはできません。
 
 いや、「何もしていない」というのは語弊がありました。
 じつは警察武道が「試合に勝つ!」の潮流に抗わなかったのには、ちゃんとした理由?があるのです。しかも治安維持の観点からも、ほんの少し重要なものが…

 「その28」ではそのあたりをお話し致します。