今回は、ロス五輪における日本レスリング陣の大惨敗と、庄司彦雄の団体の消滅、そして講道館レスリング部の「潜伏」についてです。
五輪開会式を数週間後に控えた7月中旬、大日本体育協会・岸清一会長に率いられた選手団は2班に分かれてロサンゼルスに到着。レスリング選手として出場が決定した小谷・吉田も選手団とともに選手村に入村します。
日本選手団の監督は佐藤信一。小谷とは東京高師の先輩後輩の間柄でしたが、この佐藤は陸上の選手で、格闘技は全くの門外漢でした。これはおそらく、柔道選手ばかりの選手団にどこかの柔道家を監督にした場合、必ずケンカが起きると踏んだ体協の配慮と考えられます。
ちなみに主将は講道館レスリング部の鈴木英太郎。日本初のレスリング部を作った八田を差し置き、鈴木が主将になるといったあたりに、講道館が他2団体より頭一つ上のイニシアチブを取ったことが伺えます。
日本選手団の到着を待ちわびていた在米コーチ・モアー(小谷と吉田のコーチ&日本選手団公式コーチ)は「早速練習しよう」と持ち掛けますが、なんと驚くべきことに、選手7人による合同練習はけっきょく、競技開始のそのときまで、ついに行われなったのです。
今まで見てきましたとおり、7人の選手は利益を全く異にする団体から2:2:3で拠出された寄り合い所帯であり、お互いが「コイツらと一緒に練習なんかしたくない」というギスギスした空気を、バリバリ醸し出していました。
(※ この話のソースは小谷自伝。なお小谷自伝では、「早速練習しよう」と持ち掛けたのは小谷自身となっているが、小谷も所詮講道館の一味であり、信憑性に欠けることから取り上げず、コーチであるモアーが呼びかけた説を採用した)
驚くことはまだありました。
選手・役員の誰一人として「最新の国際式ルール」と「計量の詳細」を知らなかったのです。
五輪開会式を数週間後に控えた7月中旬、大日本体育協会・岸清一会長に率いられた選手団は2班に分かれてロサンゼルスに到着。レスリング選手として出場が決定した小谷・吉田も選手団とともに選手村に入村します。
日本選手団の監督は佐藤信一。小谷とは東京高師の先輩後輩の間柄でしたが、この佐藤は陸上の選手で、格闘技は全くの門外漢でした。これはおそらく、柔道選手ばかりの選手団にどこかの柔道家を監督にした場合、必ずケンカが起きると踏んだ体協の配慮と考えられます。
ちなみに主将は講道館レスリング部の鈴木英太郎。日本初のレスリング部を作った八田を差し置き、鈴木が主将になるといったあたりに、講道館が他2団体より頭一つ上のイニシアチブを取ったことが伺えます。
日本選手団の到着を待ちわびていた在米コーチ・モアー(小谷と吉田のコーチ&日本選手団公式コーチ)は「早速練習しよう」と持ち掛けますが、なんと驚くべきことに、選手7人による合同練習はけっきょく、競技開始のそのときまで、ついに行われなったのです。
今まで見てきましたとおり、7人の選手は利益を全く異にする団体から2:2:3で拠出された寄り合い所帯であり、お互いが「コイツらと一緒に練習なんかしたくない」というギスギスした空気を、バリバリ醸し出していました。
(※ この話のソースは小谷自伝。なお小谷自伝では、「早速練習しよう」と持ち掛けたのは小谷自身となっているが、小谷も所詮講道館の一味であり、信憑性に欠けることから取り上げず、コーチであるモアーが呼びかけた説を採用した)
驚くことはまだありました。
選手・役員の誰一人として「最新の国際式ルール」と「計量の詳細」を知らなかったのです。
何をしたらフォールになって、何をしたらなったら何ポイントを取られるか?試合は何分何ピリオドなのか?そして計量は前日軽量なのか、当日計量なのか?こうしたルールは参加国の利害によって、大会ごとにコロコロコロコロ変わりますから、しっかり確認しなければなりません。
特に日本の場合、レスリング競技の審判には日本人がいませんから、僅差判定の場合、「人種差別は当たり前、スポーツは白人様の娯楽」だった当時、日本人不利となるのは明白ですから、なおさら細かいルールをしっかり押さえておく必要があります。
しかし日本選手団のアタマのなかにあったのは、庄司彦雄がアメリカから持って来た「カレッジ・スタイル」という、国際式ルールとは似て非なるレスリングの知識と、「柔道の前にはレスリングなどひとたまりもない」という、神がかり的な頭の悪さだけでした。
お笑い沙汰なことには、講道館が満を持して海外派遣していた鈴木・小谷・吉田も結局は「カレッジ」の練習しかできておらず、国際式に対応する能力はなかったのです。
八田は五輪後、こう反省しています。
「大きな敗因はオリムピックルールがはっきり解っていなかった事で試合後に解ったルールなどもたくさんある」
八田は五輪後、こう反省しています。
「大きな敗因はオリムピックルールがはっきり解っていなかった事で試合後に解ったルールなどもたくさんある」
そうしたシビアな点に戦後気づいたのは、八田だけでした。
さらにさらに、出場選手の中に小谷と吉田が割り込んだため、もともとフリースタイル5階級に1人ずつ出場する予定が大幅に狂い、イチから出場する枠を再調整しなければならなくなりました。
これを意地悪く見れば、講道館は自分たちが送り込んだ「隠し玉」によって、自分たちのメダル獲得の可能性を狭めてしまったと云えます。「策士、策に溺れる」とはまさにこのことでしょう。
さらにさらに、出場選手の中に小谷と吉田が割り込んだため、もともとフリースタイル5階級に1人ずつ出場する予定が大幅に狂い、イチから出場する枠を再調整しなければならなくなりました。
これを意地悪く見れば、講道館は自分たちが送り込んだ「隠し玉」によって、自分たちのメダル獲得の可能性を狭めてしまったと云えます。「策士、策に溺れる」とはまさにこのことでしょう。
けっきょく日本選手団はドロナワの出場調整をせざるを得なくなり、以下の競技・階級での出場となりました。
※八田一朗の記録に依る。段位は柔道のもの。なお当時は「フリースタイル」ではなく「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」が正式呼称。
①フリー・ライト級 鈴木栄太郎(四段・講道館レスリング部)
②フリー・フェザー級 八田一朗(五段・アマレス協会)
③フリー・ウェルター級 河野芳男(四段・レスリング協会)
④フリー・ミドル級 小谷澄之(六段・講道館レスリング部)
⑤グレコ・フェザー級 加瀬清(五段・レスリング協会)
⑥グレコ・ライト級 宮崎栄一(三段・アマレス協会)
⑦グレコ・ウェルター級 吉田四一(四段・講道館レスリング部)
⑥グレコ・ライト級 宮崎栄一(三段・アマレス協会)
⑦グレコ・ウェルター級 吉田四一(四段・講道館レスリング部)
この7人のうち、1勝以上を上げたのは小谷だけ(5位)。あとは皆、1ポイントも取れずに惨敗を喫しました。
ちなみにそのほかの講道館勢ですが、鈴木はハンガリーの選手を相手に何もさせてもらえず惨敗、吉田は慣れないグレコに出場した挙句に、フィンランドの選手にフルネルソンという、初歩中の初歩の固め技を食らって肩を負傷、これまた惨敗しています。
日本国外で練習していないアマレス協会やレスリング協会の選手ならさておき、講道館が考えた「海外レスリング留学」っていったい、何だったんでしょうか(;^ω^)。
この惨敗の評価については、レスリングの門外漢でありつつも、当時日本で一番「スポーツ」というものを真剣に考えていた大日本体育協会のものが最も的を射ているので、少し長くなりますが抜萃して紹介します。
「羅府大会に、多くの柔道高段者を送り乍(なが)ら惨敗を喫した事は、日本のレスリング技術を再検討せしめる好機となった。
すなはち、従来の日本のレスラーは、柔道家なるが故にレスリング技術を研究しなくても、柔道を奥の手として勝てる―と云った自信を持ちレスリングのマットの上で尚、柔道を頼り、柔道の技術を有効として信じて疑わなかったことだ。
所が、この柔道信頼が実際は、案外無効であり、レスリングは矢張(やはり)、全然柔道とは別個のものである事を、羅府大会参加の失敗が如実に認めさせてくれた。」
体育協会は次いで、アメリカ式のアマレスである「カレッジ・スタイル」をちょっとかじっただけのアメプロ・マニアでしかなかった庄司彦雄を、名指しで批判しています。
「また庄司が日本に伝えた従来のレスリングは米国流レスリングで有って、オリムピック・レスリングと相当開きのあることを発見した等惨敗を喫したとは雖(いえども)、羅府大会参加はレスリングに対する正しい認識を収穫として齎(もたら)した。」
ちなみにこのロス五輪における日本勢は、南部忠平や西田修平といった陸上陣、宮崎康二・北村久寿雄・清川正二・鶴田義行ら競泳男子陣、馬術の西竹一らが大活躍。最終的に金7・銀7・銅4という、戦前最大のメダルラッシュとなりました。
その成功の裏で、最後の最後まで日本選手団の足を引っ張り回してくれたレスリング勢、とりわけ後になってノコノコ出てきてレスリング界を引っ掻き回してくれた庄司のレスリング協会、そして講道館レスリング部に対し、体協はかなり怒りを覚えていました。
庄司の団体に対しては上記のとおり、「体育協会史」で静かな言葉ながら「このインチキヤローが!」と名指しで批判しています。
講道館レスリング部については、嘉納治五郎大先生が体協の生みの親であり、且つアジア人唯一のIOC委員ということもあり、名指しでの批判こそ避けましたが、「柔道信頼が実際は、案外無効であり、レスリングは矢張(やはり)、全然柔道とは別個のもの」として、講道館の柔道式レスリングは「失敗」と言い切っており、また、五輪後の大会報告・戦評を、監督の佐藤でも主将の鈴木でもなく、五輪においてはいち選手でしかなかった八田に書かせているあたり、体協がいかに「講道館レスリング部」を嫌っていたかがわかります。
ロス五輪後のレスリング3団体ですが、まず庄司は日比対抗戦で大借金を作って逐電したときと同様、すぐさま行方をくらませました。庄司の作った団体には、「類友」…つまり庄司と同じく、レスリングを出世や売名の手段としか考えていないヤツばかりで、八田のような気骨ある男は皆無。
こうして「大日本レスリング協会」はすぐさま瓦解しました。
(ちなみに庄司はその後地元・鳥取に戻り、日本社会党から国会議員に立候補し、衆院議員を1期務めました。ちなみに9回立候補して当選は1回だけ。やはりこういう図々しく、しぶといヤツって政治家に向くんですね( ゚Д゚))
次いで講道館レスリング部ですが、こちらは「何かあったらすぐトンヅラ」の庄司と違い、やることに手が込んでおり、従って非常に見苦しい「往生際」を見せました。
最終回となる次回は、少し長いエピローグになりますが、「五輪後の講道館レスリング部とそのゾンビに、最後までカラまれ続けた八田一朗」のその後を見てみます。
この惨敗の評価については、レスリングの門外漢でありつつも、当時日本で一番「スポーツ」というものを真剣に考えていた大日本体育協会のものが最も的を射ているので、少し長くなりますが抜萃して紹介します。
「羅府大会に、多くの柔道高段者を送り乍(なが)ら惨敗を喫した事は、日本のレスリング技術を再検討せしめる好機となった。
すなはち、従来の日本のレスラーは、柔道家なるが故にレスリング技術を研究しなくても、柔道を奥の手として勝てる―と云った自信を持ちレスリングのマットの上で尚、柔道を頼り、柔道の技術を有効として信じて疑わなかったことだ。
所が、この柔道信頼が実際は、案外無効であり、レスリングは矢張(やはり)、全然柔道とは別個のものである事を、羅府大会参加の失敗が如実に認めさせてくれた。」
体育協会は次いで、アメリカ式のアマレスである「カレッジ・スタイル」をちょっとかじっただけのアメプロ・マニアでしかなかった庄司彦雄を、名指しで批判しています。
「また庄司が日本に伝えた従来のレスリングは米国流レスリングで有って、オリムピック・レスリングと相当開きのあることを発見した等惨敗を喫したとは雖(いえども)、羅府大会参加はレスリングに対する正しい認識を収穫として齎(もたら)した。」
ちなみにこのロス五輪における日本勢は、南部忠平や西田修平といった陸上陣、宮崎康二・北村久寿雄・清川正二・鶴田義行ら競泳男子陣、馬術の西竹一らが大活躍。最終的に金7・銀7・銅4という、戦前最大のメダルラッシュとなりました。
その成功の裏で、最後の最後まで日本選手団の足を引っ張り回してくれたレスリング勢、とりわけ後になってノコノコ出てきてレスリング界を引っ掻き回してくれた庄司のレスリング協会、そして講道館レスリング部に対し、体協はかなり怒りを覚えていました。
庄司の団体に対しては上記のとおり、「体育協会史」で静かな言葉ながら「このインチキヤローが!」と名指しで批判しています。
講道館レスリング部については、嘉納治五郎大先生が体協の生みの親であり、且つアジア人唯一のIOC委員ということもあり、名指しでの批判こそ避けましたが、「柔道信頼が実際は、案外無効であり、レスリングは矢張(やはり)、全然柔道とは別個のもの」として、講道館の柔道式レスリングは「失敗」と言い切っており、また、五輪後の大会報告・戦評を、監督の佐藤でも主将の鈴木でもなく、五輪においてはいち選手でしかなかった八田に書かせているあたり、体協がいかに「講道館レスリング部」を嫌っていたかがわかります。
ロス五輪後のレスリング3団体ですが、まず庄司は日比対抗戦で大借金を作って逐電したときと同様、すぐさま行方をくらませました。庄司の作った団体には、「類友」…つまり庄司と同じく、レスリングを出世や売名の手段としか考えていないヤツばかりで、八田のような気骨ある男は皆無。
こうして「大日本レスリング協会」はすぐさま瓦解しました。
(ちなみに庄司はその後地元・鳥取に戻り、日本社会党から国会議員に立候補し、衆院議員を1期務めました。ちなみに9回立候補して当選は1回だけ。やはりこういう図々しく、しぶといヤツって政治家に向くんですね( ゚Д゚))
次いで講道館レスリング部ですが、こちらは「何かあったらすぐトンヅラ」の庄司と違い、やることに手が込んでおり、従って非常に見苦しい「往生際」を見せました。
最終回となる次回は、少し長いエピローグになりますが、「五輪後の講道館レスリング部とそのゾンビに、最後までカラまれ続けた八田一朗」のその後を見てみます。