集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

警察術科(主に逮捕術と柔道、あと剣道ちょこっと)の長い長い歴史(第21回)

2021-07-29 19:28:12 | 雑な歴史シリーズ
【その35 戦争による「スポーツ武道」振興とナゾ多き護身術】
 さて、「捕手術」が世に出たあたりから、わが国は徐々に戦時体制へと移行していきますが、そうしたご時世の中武道、特に柔道と剣道は国威宣揚・戦意高揚の手段として、大いにもてはやされます。
 本連載第15回において、「警察は昭和初年頃から、『警察官は強いぞ!』というイメージ戦略のため、たくさんの著名柔・剣道家を選手として抱え、また、警察官の中からも、柔道・剣道の強い者は試合専用に強化するなどして、『警察選手』をどしどし大会に送り込んだ」という話をしましたが、その活躍の舞台の多くは、この時期のものです。
 特に「紀元二千六百年」ということで、国家全体が浮かれていた昭和15年には、2月に全国剣道大会と全日本東西対抗柔道大会、4月には橿原神宮奉納全国武道大会、5月には日満交歓剣道大会と東亜武道大会、6月には奉祝天覧武道大会…いわゆる「天覧試合」といった具合に、ほぼ毎月、全日本クラスの武道大会が行われているという、驚くべき過密スケジュールでした。
 しかし、こうした「試合に勝つ!ための柔・剣道」の推進は、必然的に逮捕制圧に効果のある「実戦テクニック」の沈滞を招き、結果として、【その34】でお話したように、捕手の形や捕手術が「演武始などの儀式用に終わってしまった」(「警視庁武道九十年史」より)という現象を招いたことは、逮捕術の歴史を語るうえで、決して看過してはならないと思います。
 
 蛇足ではありますが、陸軍でもこのころ、「剣道と実戦剣術の乖離」が悲喜劇を読んでいます。
 上海事変のみぎり、近代戦としては珍しく「斬り合い」が生起しました。
 爾後に戦死者を検案したところ、斬殺された日本軍人には、剣道の高段者が多く含まれていました。
 敵の十九路軍のいでたちですが、ナチス・ドイツ貸与のスチールヘルメットをかぶり、厚手の綿入れを着込み、両肩からは十文字に革製の弾帯を掛けた状態。
 これに対し、94式軍刀を握ったスポーツ剣道高段位将校は、剣道と同様「メーン!」「ドー!」と斬りかかっていったのすが、面を狙った斬撃はヘルメットにかすり傷をつけるだけ、「ドー!」は革帯や綿入れに切り傷をつけるだけ、というありさまで、逆に十九路軍の兵隊に青龍刀で逆襲されるという、情けない結末を招きます。

 この結果からは様々な「戦訓」が読み取れますが、単純に「剣道は実戦で使えるか否か」ということだけに特化して言えば、上海事変におけるこの出来事は、スポーツ剣道というものの限界を、明示して余りあるものといえます。
 この戦訓をもとに「将校の指揮刀なんか資源の無駄遣いだから、全部拳銃に替えてしまおう」とか「いやいや、近接戦闘なら刀が有効だ。ならば、実戦で役立つ技術を作って、軍の学校できちんと教育しよう」という話が出ればよかったのですが、残念ながらこの事実は、陸軍戸山学校剣術科教員のうち、心あるごく一部の教員の暗黙知にとどまり、集団知とはなりえませんでした。
 結果、大東亜戦争においてわが国軍の陸軍将校は、軍刀術の教育が一切為されないまま、軍刀を腰からぶら下げることとなります。
 これは、戦闘で役に立たない非戦闘員を増やし、且つ、本来なら火器・兵器の製作に回すべき鉄材の無駄遣いに直結し、大東亜戦争の敗因の一翼を担った…おっと、話が横にそれました。戻しましょう。

 時代は下り、大東亜戦争の戦況はどんどん悪化、もはや柔・剣道大会どころではなくなった終戦間際、警視庁は「徒手護身術」なるものを発案します。
 この「徒手護身術」が、「捕手の形」や「捕手術」と大きく違うのは、警察で作られた技術のくせに、その用途は逮捕制圧のためのものではないという点、そして、その技術を明示した資料が一切なく、その実態を知る者が誰一人いないという点です。

 このナゾ多き「徒手護身術」の概要ですが、「警視庁武道九十年史」によりますと、「犯罪者等を対象とした逮捕制圧という基本概念は薄れて、敵前上陸を敢行するのであろうと予測された米英の軍隊を相手に、徒手空拳で国土防衛にあたろうという悲壮な感じ方が強かったように思う」とあることから、純粋な逮捕・制圧の技ではなく、「神州不滅!米英撃滅!」というスローガンを満足させるために作り出された、竹槍訓練のようなものだったのでは?と考えられます。
 そのため、この製作に携わった人間は終戦後、「米英撃滅!」の護身術を作ったせいで戦犯にされることを恐れ、一斉に口をつぐんだことから、その概要を知る者が誰もいない状態になった…といったところでしょうか。
 そうでなければ、終戦のその日、全国に93,935人もいた警察官(数字は「山口県警察史 下巻」による)にやらせていた?(警視庁だけでやっていたことかも知れません。知っている方がおられましたら、ご指導お願いします。)「徒手護身術」が、わずかな期間で雲散霧消した理由を、合理的に説明できません。
 しかも幸いなことに、終戦と同時に、内務省や警視庁にあった武道関係の書類の殆どが焼却処分され、「徒手護身術」のテキストなどもすべて灰燼に帰したわけですから、証拠隠滅は完璧です(;^ω^)。

 以上長々とお話ししましたが、大正~昭和戦前・戦中の時期における警察武道の流れや要点をまとめますと、
① スポーツ柔・剣道の振興に重点が置かれたため、「実戦で使える技術」の開発は全く振るわなかった
② それでも現場警察官は「実戦で使える逮捕術」の設立を要望し、結果「捕手の形」そして「捕手術」が作られたが、スポーツ柔・剣道家に諮問したのが運の尽き、いずれも実戦に堪えうるものとはなりえなかった
という2点に集約されます。

【その36 終戦~現行警察組織成立までの概略説明】
 昭和20年8月15日、わが国は大東亜戦争に敗れます。
 百冊一文のしょうもない歴史関係本では、「進駐軍の進駐や、政治権の移行は極めて整然と行われた」みたいなことが書かれていますが、これは「進駐軍史観」に染められたクソ人間による歴史改ざんです。
 まず、ウソ偽りのない「進駐軍による日本進駐」の実態を振り返ってみましょう。

 日本敗北から僅か10日後の8月25日、「鬼畜米英」の国民に対する乱暴狼藉を強く懸念した内務省は、全国各新聞に、5か条の「進駐に対する心構」、8か条の「進駐後の心構」を掲載、国民に必要以上の不安を抱かせないよう努力するとともに、「決して進駐軍人と個人接触するな。特に婦女子は隙を見せるな」と警告しています。

 米進駐軍の日本進駐はその3日後の8月28日、先遣部隊が厚木飛行場に飛来したことにより始まります。マッカーサー元帥がコーンパイプを咥え、輸送機「バターン号」からノソノソ降りてくる写真。皆さんも教科書などでご覧になられたことがあると思いますが、まさにあのときです。

 その直後から厚木基地付近では、えらい騒ぎが連続して発生します。
 まず、付近民家に進駐軍兵士が押し入り、娘を凌辱しては家財道具を持ち逃げするという強姦・強盗事件が多発します。
 それと同時に多発したのが、進駐軍の警備にあたる警察官が、進駐軍人からサーベルを取り上げられる事件。
 日本の警官が佩用しているサーベルは、アホで無学な米兵にとって「とても珍しいオモチャ」であり、そうしたアホが「勝った国は負けた国に何をしてもいい」という毛唐の常識を丸出しにした結果、サーベルの強奪事件件数は、8月29日~9月1日までのわずか4日間で40件!1日あたり10件!という多数に上りました。
 この事件の少し後に「日本警察の武装は治安維持の観点から残置する」という命令が発出(後述)されるのですが、これはその直前のことであり、警察官は「敗戦国の警察官としての屈辱に、唇をふるわせて耐えたという」(「山口県警察史 下巻」より)。
 余談ですが、進駐軍人による警察官のサーベル略奪、そして婦女暴行・強姦はその後、全国規模で多発。婦女暴行・強姦については、米兵が厚木に到着したその日の晩から発生し、多い時には1日当たり46件も発生。家族に対する暴行・強姦を救わんとして殺害された夫・父親・息子の数は驚くなかれ、講和発効までの間に、2536人もの多数に上りました。
 戦時国民が挙って敵愾心を燃やした「鬼畜米英」は絵空事でもなんでもなく、本当に、それそのものだったのです。
 
 このように、進駐軍の暴虐から始まった「日本の戦後警察史」ですが、終戦から現行組織に至るまでの間には、以下に示したような改編を経ております。

【①進駐軍直轄時代(終戦~昭和23年6月まで)】
 進駐軍による各種の指令を、戦前そのままの組織図を持つ日本警察が代行する形であった時代。
 昭和20年9月2日付「一般司令第1号」内「追テ指示アル迄、日本国土内ニ在ル日本国警察機関ハ、本武装解除規程ノ適用ヲ免ルルモノトス」により、当面の間、旧内務省時代の警察体制の維持が決まるも、進駐軍は「戦前・戦中から続く中央集権体制をやめろ」と各種の組織改編指示を連発、混乱が続く。
 なお、警察官の武装については、昭和21年1月16日付「日本警察の武装に関する件」という指示文書により、警察官の武器の携帯、とりわけ拳銃の携帯をオフィシャルに認めることとなった。
 またこのころ、各種警察武道が一時中断の憂き目を見る(のち詳述)。 

【②国家地方警察・自治体警察時代(昭和23年7月~29年2月まで)】
 進駐軍による「警察組織の政治介入不可・治安組織への回帰、民主化」という強硬な指示を受け、時の片山哲内閣の下、
・村落部の治安維持は国家地方警察の管轄とし、国の予算で運営
・そのほかは自治体ごとに設置する自治体警察の管轄として自治体の予算で運営。予算確保の観点上、さしあたって人口20万人以上の都市から同警察行政を実施する
という、国家地方警察&自治体警察による二本立ての警察行政を具体化することとしたが、まずは進駐軍内において、民生局と民間情報部公安課との見解がまったく一致せず、また、アメリカ人独特のクソいい加減さもあいまって、自治体警察を人口5000人クラスの零細町村にも置くこととなり、また、東京都の管轄を警視庁で一本化する案も却下されるなど、現実に即さないおかしな改編がなされた。
 昭和23年12月17日、この制度を明文化した警察法施行。同日付を持って内務省は消滅し、業務引継ぎの暫定組織として内事局が設置される。

【③現行警察組織への改編 (昭和29年6月~現在まで)】
 国警・自治警方式はわが国の国情や現状にそぐわず、制度開始数年にして以下のような問題が生じた。
① 国家地方警察と自治警は、親元となる組織が全く違うため、1つの国内に2つのまるで違う警察が存在する状態となり、各種の連携が全く取れない状態に陥った。
② ①に付随し、広域犯罪への対処がうまくいかないことが頻発した。
③ 一部自治警が財政難により、運営自体が厳しくなった。
  大都市はともかく、地方の零細な町村が持つ自治警察は経済基盤が脆弱であり、運営資金窮した挙句の給料の遅配・欠配が続いた。また、こう した警察官の窮乏に乗じ、ヤクザ等が金品で不良警察官を手なづけるといった癒着が、全国で頻発した。
④ 国運営と地方自治体運営2つの警察、いずれもが国民の税金から成り立っているが、その税金が2つの警察に別々に流れているという「無駄遣い」への批判が殺到した。

 わが国の主権回復を契機に、これらの問題を解決すべく諸々検討がなされ、国警・自治警の一本化が図られることとなった。
 比較的経済的余裕のある自治警は反対意見をブチ上げたものの、最終的には一本化の方向でまとまり、昭和29年6月8日に「警察法」が改正され、国家公安委員会の下に警察庁、その下に都道府県警本部がぶら下がる現行形式となる。

 以上掲げた①~③時代のうち、「警察武道受難の時期」といえるのが、①~②の時期だったのです。


警察術科(主に逮捕術と柔道、あと剣道ちょこっと)の長い長い歴史(第20回)

2021-07-26 19:13:38 | 雑な歴史シリーズ
【その34 実戦からの乖離を強めた「警視庁捕手術」】
 いろいろと悪評芬々だった「捕手の形」はそれでも一応の完成を見、警視庁管内では施行と同時に、直ちに各署の柔道助手に対して訓練が実施され、同助手たちによって各署警察官に伝授されることとなりました。
 しかし、もともとが講道館の作った「極の形」の亜流であった「捕手の形」は現場警察官、特に剣道修行者方面からの受けが非常に悪かったようで、「捕手の形」制定からわずか5年後の昭和5年、警視庁内に「警視庁捕手術制定研究会」なるものが発足します。
「当庁ニ於テハ大正十三年柔道捕手ノ形ヲ制定シ爾来之ヲ練習シ来タリスガ今形ハ主トシテ柔道ヲ基本トシテ制定シタルガ為、剣道練習者ニ於テハ之ヲ練習スル者少ク、従テ同形ヲ一般警察官ニ於テ容易ニ之ヲ修得シ、且ツ実際ニ活用可能ナル実務ニ即シタル捕手術ヲ考案制定…」という、まるで剣道出身者の恨み言のような設立趣意の下、警視庁は技術制定委員として、このような当代一流のメンバーを招へいし、技の選定にあたります。

【剣道】中山博道・桧山義質・齋村吾郎・堀田捨次郎各師範
【柔道】永岡秀一・三船久蔵・中野正三・佐藤金之助・川上忠 各師範

 委員のひとり、堀田捨次郎師範の言によれば、各師範の体験談のほか、現役警察官の逮捕・制圧体験談をもとに諸々技を検討し、とくに心を砕いたのは「この術を如何なる素人にでも活用せしめ得るようにという点」であり、これは警視庁側たっての要望でもありました。
 各師範が約6か月間「午後八、九時ごろまでも繰り返して研究」(堀田師範談)を続けて作られた「警視庁捕手術」は、前捕・後捕・摺違小手挫・摺違腕挫・袖捕・突込・切掛・追捕・下突刺・中断・脚斬・上段・切下・突出・脚払の15技から成立するものでした。
 ただ、これらの技術は「陽の目を見ることもなく机中深く塵埃に塗れている」(「警視庁武道九十年史」)そうで、おそらく警察部内のどこかに資料が一応存在するのでしょうが、その全容を知る人は令和の現在、誰一人存在しないと断じていいでしょう。
 
 しかし、「捕手の形」の欠点を補填せんとの高い志を抱き、大先生方が熱く検討して作った「捕手術」ですが、残念ながら、これまた一般警察官には見向きもされないシロモノとなります。
 「警視庁武道九十年史」に曰く。
「『捕手の形』や『警視庁捕手術』も実のところ、演武始などの儀式用に終わってしまったようである。」
「たまに役に立つと思われても、訓練に精を出す気にはなれなかったろう。」
 こうなってしまった原因は明白で、ひとつは上記の「有識者」たちが、明治維新から遠く離れ、みんな純正純粋な「柔道マン」「剣道マン」だけになってしまっていたこと、そしてその「柔道マン」「剣道マン」たちが、型というものに対してあまりに無知無識だったため、です。
 
 1つ目の説明はなんとなくわかると思いますが、2つ目に掲げた原因については、少し説明が必要でしょう。
 柔術・空手を問わず、型というものは古ければ古いほど実戦的です。
 これは、型を作った古の武芸者が、一歩間違えば殺し、殺されるという環境に身を置いていたことを考えれば、至極当然のことでしょう。
 そういった古い型の動作はものすごく地味であり、動きも必要最小限ですが、これは「少しでも無駄な動きをすれば、相手にすぐ付け込まれる」という、実戦ならではの状況を勘案すれば、当たり前のことです。
 たとえば、古い型には「跳ぶ・跳ねる」という動作がほぼ存在しません。現代格闘技では当たり前以前のものである、跳ねるようなフットワークなんて、まったく存在しません。これは「無駄な動きをしない」「相手に動き出しを悟られない」ということを考えれば、ごく当然の帰結でしょう。
 こうした古い型は、単に「技のかけ方を覚える」というだけではなく、「実戦」というものの流れをパターン化して読み取る、技に適した身体を練るなどといった、実に多様な効果がある、精妙なものなのです。
 
 翻って、捕手術を作った「名人」たちは、確かに当代では随一の名人ではあったと思いますが、いかんせん、柔・剣道が「スポーツ柔道」「スポーツ剣道」に偏したあとに「名人」となった方々ばかりであり、自らが型を練った経験がありません(昇段審査などのため、仕方なく覚えたことはあるんでしょうが…)。
 たとえば、「捕手術」制定員のひとりで、当時「剣聖」と謳われた中山博道先生は、自らを「スポーツ剣道のヒトであって、撃剣のヒトではない」ときちんとカテゴライズしており、撃剣系の名人と立ち会うことは、終生ありませんでした。
 このころ、中山先生と同じく、剣道系の名人として名高かった高野佐三朗が、剣の解釈を巡って撃剣系無敵の名人・鹿島神流の国井善弥と揉め、直接対決することとなり、高野は2太刀目で、国井の突きを喉に食らって完敗します。
 それを聞いた中山はポツリと一言。「高野さんもつまらないことをしたものだ。自分なら立ち会わない。」

 ともあれ、「捕手術」選定委員のお歴々…つまり、「型」によって技や身体を練り上げた経験がなく、若いころから「試合に勝つ!」ための練習だけに明け暮れていたスポーツ柔・剣道の名人?たちが、古伝並みの完成度を持った「型」を構築し得たとは到底考えられません。
 あくまで個人的な見解ですが、捕手術とは「立ち関節技のかけ方を、適当に羅列しただけの、陳腐なもの」であったと思料されます。
 このあたりの病理は【その32】で見た、「捕手の形」のそれとまったく一緒であり、何の改善もなされていません。

 以上見てきましたとおり、「捕手の形」と「捕手術」は、その成立過程で同じ過ちを同じように繰り返し、「実戦に供する」という所期の目標を全く達成し得なかった、無用の長物であったと断ずることができましょう。

警察術科(主に逮捕術と柔道、あと剣道ちょこっと)の長い長い歴史(第19回)

2021-07-15 19:03:18 | 雑な歴史シリーズ
【その32 「捕手の形」の原型・「極の形」の成り立ち】
 次に、「捕手の形」の運命を決定づけ、ひいてはその後の警察逮捕術の運命をも決定づけたといって過言ではない「講道館 極の形」は、いったいいつごろ成立したか?ということについてお話しします。

 「極の形」は、講道館という組織自体の成立過程に不明点が多いのと同様、その成立過程に不明な点が実に多く、いつごろどのような過程を経てできたモノなのか、まったくわかりません。
 いくつかの柔道クラブHPでは、その成立年次を「明治21年」としていましたが、これはおそらく、「警視庁柔術形」の制定が明治21年6月である(成立自体は明治19年ころ。諮問に時間がかかったため、制定はその2年後)ことから、「極の形」と「警視庁柔術形」を同一のものと誤解し、明治21年説を主張しているのではないか?と推察します。
 それはともかく、後述の「大日本武徳会で諮問にかけられた」という事実から勘案して、「極の形」の成立時期が明治28年5月(武徳会発足の時期)より前だった、ということだけは間違いなさそうです。

 「極の形」は当初13本で構成され、「真剣勝負の形」などと称していましたが、のちに7本を加えて現在の形となっており、以後の改編はありません。
 「極の形」は成立後、大日本武徳会において「柔道の形として、斯道の発展に寄与するであるか、否か」ということを諮問する委員会にかけられます。
 この委員会には講道館出身者のみならず、古流からも17名が委員として名を連ねており、古流側からは当初、かなりの反対意見が出ました。
 なにしろ当時の講道館は【その29】でお話ししましたとおり、全力を挙げて技術体系のすべてを「体操化」しようと血道を上げている真っ最中なのですから、「極の形」が「実戦に使えないシロモノ」になるのは、ごく当然のなりゆきだったのです。

 しかし最終的に「極の形」は全会一致で「柔道の形」として採用されます。
 モノの本には「古流と比べることで優劣を確かめ、その優秀さから採用された」とありますが、この時の「優劣」の基準とは何か?と言いますと、本連載をお読みの方はもうわかりますね…そうです!【その29】で紹介した「武道の体操化」にともなう「一般人への教えやすさ・わかりやすさ」の優劣であり、実戦で使えるとか、殺傷能力が高いかなどといったことは、大した問題じゃなかったのです。

 しかし、そういった経緯で制定された「極の形」の化けの皮がはがれるのは意外と早く、大正時代のアタマには「『極の形』は実戦で使えない!時代に即していない!」という声が澎湃と沸き起こります。
 しかもその発言者たちは、タタミ柔道をやっていれば事足りる一般人ではなく、柔道で厳しく鍛えるいっぽう、さらに厳しい制圧現場に臨む警察官からだったのですから、事態は深刻です。
 この「声」に呼応するために生み出されたのが、ほかでもない「警視庁柔道基本 捕手の形」だったわけですが、「実戦で使えない」と名高い「極の形」をプロトタイプに創造されたわけですから、全国の警察官が希求した「実戦で使える型」という命題に、まるで応えることができていないシロモノ、身もフタもない言い方をすれば「一体誰のために、何のために作ったのかわからない型」でしかなかったのです。

【その33 本末転倒、有名無実「捕手の形」】
 【その31】では「柄取(「捕手の形」では「柄捕」)」を例に、「捕手の形」の技の至らない部分…要するに技の完成度が極めて低く、「実戦で敵を制する」という目的に全く達していないものだ、という話をしましたが、その続きから始めます。

 次に着目すべきは「当身の粗末さ」です。
 いにしえの柔術において、顔面への当身は烏兎(うと。眉間のこと。「烏兎」の表記は「逮捕術詳解」に拠る。「兎鳥」とする記述もあり)や霞など、技に応じて適切な当身を用いるべきところ、「右掌を以て受の顔面を打ち」(斜突下、突込における当身の解説)といった極めて雑な技術に成り下がっています。
 古の柔術において「烏兎を打つ」場合、本来は現在使われているゲンコツではなく、指の第二関節付近で「合わせる」ように打つ、という作法があります。
 これは柔術が編纂される過程において生み出された、最も効果的な当身であり、改善の余地はほぼないものです。
 しかし「捕手の形」はこれを、ただの平手打ちにしてしまいました。
 また、【その31】でも述べましたが、「柄取」にあっては、その技におけるキモであるところの「霞(目つぶし)を入れる」という箇所を完全に抹消してしまってもいます。

 おそらく「捕手の形」の編集者たちは「烏兎への当身や霞は、過剰な警察力の行使にあたる」とか、「烏兎への精密な当身は、一般警察官が習得するには難しいので、より習得が簡単な平手に替えた」などと考えたことは想像に難くありません。
 しかし、こうした考え方はいずれも間違っています。

 今回取り上げた「斜突下」「突込」は徒手対短刀、前回取り上げた「柄取」は、サーベルを奪われるという、いずれも警察官にとって非常に不利なシチュエーションです。
 こうした侵害に対し、警察官が顔面への当身を企図することは当然の帰結であり、「過剰な警察力の行使」などという議論は、お門違いも甚だしいものです。
 また、「習得が簡単な平手に替えた」というのは、型稽古に対する知識や認識がいい加減すぎる、としか言いようがありません。
 型稽古は、教伝とともに反復練習することで精妙な技術を身に付け、さらにはその裏表、応用を学ぶためのもの。技の設計図であり、取扱説明書でもありますから、無学な者の思い付きや浅慮で、安易に変更してはなりません。
 しかし、「タタミ柔道」に毒された大正時代の無学な柔道家は、「捕手の形」において、その超えてはならない一線を、容易に超えてしまいました。

 以上見てきましたように、「捕手の形」は、「極の形が使えない、柔道は制圧で使えない」という現場警官の声を受けて作成にかかったものの、編者の無知無学から、使い道のない型を1個余計に増やしてしまっただけ、という、なんとも空しい結果を招きました。
 詳しい経過は【その34】で述べますが、「捕手の形」と、それに続く後進の「型」「術」は、すべてが演武祭用のお飾りへと堕していきます。
 
 余談ではありますが、「捕手の形」が成立したころの嘉納治五郎は「柔道を中心とした総合武術」を立ち上げるため、各種の武術に対して様々なアプローチをしていた、という話をしたことがございます。
 凡百の評伝や論文では、「嘉納の死がもうすこし遅ければ、すばらしい武道ができていたであろう」などと評していますが、ワタクシの評価は、まったくの逆です。
 嘉納が終戦くらいまで生き延びたとしても、そして出典となる武術の技がいくら奥深く、すばらしいものであっても、生まれたときから「タタミ柔道」だった講道館の関係者が、その奥深さを理解することは不可能であり、最終的に出来上がった「嘉納式武術(仮)」は、闇鍋のような、キメラのような、訳の判らん使えないモノしか作り上げることはできなかったであろう…「捕手の形」における一連の流れを見るに、ワタクシはそうとしか、考えられないのです。

警察術科(主に逮捕術と柔道、あと剣道ちょこっと)の長い長い歴史(第18回)

2021-07-03 17:32:32 | 雑な歴史シリーズ
 【その31 「極の形」の亜流だった「捕手の形」 その概要】
 【その30】において名前だけ紹介した「警視庁柔道基本 捕手ノ形」。
 この型につき、「警視庁武道九十年史」は「柔剣道の訓練以外に、逮捕制圧の術技が必要となるわけである。その嚆矢がこの柔道基本『捕手ノ形』となって誕生したものである。この意味において『捕手ノ形』は非常に貴重な、意義深いものと言えよう。」とし、一定の評価をしているいっぽう、「講道館『極ノ形』が基本となっていることは推測できる。いや、『極ノ形』中に既存する技そのものを取り入れた術技も少なくない。」と、「捕手ノ形」最大の特徴にして最大の問題点を見逃していません。

 「捕手の形」と「極の形」における技をいちいち書き出して比較対照しますと、こんな感じになります。

【捕手の形・居捕8本】
両手捕・面当・横打・突込・切下・横腕捕・前腕捕・後腕捕
【極の形・居捕9本】 
両手取・突掛・突上・摺上・横打・後取・突込・切込・横突
(「とり」の漢字は、捕手の形では「捕」、極の形では「取」で統一されいる)

【捕手の形・立合10本】
両手捕・片手捕・横打・蹴上・後捕・斜下突・切下・突込・振上・柄捕
【極の形・立合12本】
両手取・袖取・突掛・突上・摺上・横打・蹴上・後取・突込・切込・抜掛・切下

【捕手の形・引立6本】
襟捕腕挫・引立腕挫・袖捕・腕十字・小手捕・小指捕
【極の形には「引立」の該当箇所なし】

 技のひとつひとつまで解説していたら、いつまでもこの連載が終わらないので止めておきますが(;^ω^)、各技を子細に見分するに、やはり「捕手の形」は「極の形」の技に、ほんの少し「講道館流のアレンジ」を加えただけのもの、といって差支えありません。
 そして、ここで云う「講道館流のアレンジ」とは「実戦に必要なプラグマティズム(実証主義)が全く失われた、タタミ柔道風アレンジ」という、非常にネガティブな意味でございます。

 たとえば、「捕手の形」の立合技の10番目に「柄捕」という技があります。「柄捕」とは読んで字のごとく、我の刀を奪わんとする敵を排除する技なのですが、明治21年制定の「警視庁柔術形」にも「柄取」という同名同種の技が存在しますので、比較してみます。
 
 まず、「警視庁柔術形」の「柄取」は、
①敵が我の柄を両手で握る→②我は鍔に親指をかけて抜刀を防止するとともに右足を一歩踏み出し、右手で相手に「霞」(=目つぶし)を食らわし、そのまま右手で柄頭を下手で握る→③我から見て2時方向に相手を引き崩しつつ、柄を握っている相手の左手小指球を順手で握る→④我はいったん「気を付け」のような形で立つ(この動作によっ敵は左手が略極まり、のけぞった体勢となる)→⑤投げる
という順序です。
 技の開始から終了まで徹頭徹尾、左手親指で鍔をホールドし続けることで絶対に刀を抜かせない!という安全管理、必要最小限かつ効果的な当身の使用、実効的な「我」の手の内と体捌きなど、実戦を知っている人でないとわからないプラグマティズムがあふれており、その高い完成度に感嘆します。
(なおこの技は、天神真揚流と新陰流の同名称の技を、警視庁柔術師範の久富鐵太郎がアレンジしたものだそうです)

 これに引き換え、「捕手の形」における「柄捕」は、「警視庁柔術形」のそれと比べた場合、こんなに問題があります。

【問題点1】
 「警視庁柔術形」では「左手親指による鍔の抑え」により、刀の奪取防止を図る同時に、「霞」を食らわせて相手の視界を奪うことで、刀を鞘走らせず制圧動作に移行できるが、「捕手の形」では「左手親指による鍔の抑え」が「左手で、柄にかかった敵の右手首を握る」に代わっているうえ、「霞」も用いていない。
 「捕手の形」どおりに施術した場合、「霞」を当てていないうえ、ただ敵の手首を握って対処しているだけなので、相手の力が上回る場合、容易に刀を抜かれてしまう。
【問題点2】
 捕手の形は「左手で、柄にかかった敵の右手首を握」ったのち、いきなり大外刈で相手を投げつける。
 これでは、上記③④に見られる「敵の体を崩す」という体捌きが全くないため、力任せの大外刈になる蓋然性が極めて高く、また、敵の手が刀の柄から離れていないため、投げた拍子に刀が鞘走ってしまう可能性が高いが、そのことへの防止措置が全くなされていない。
【補足】
 ただし、「柔術形」だと相手を投げっぱなしにしてしまうので、逮捕制圧という意味では「捕手の形」のほうが便利かも知れない。この部分のみ、「捕手の形」が唯一、「柔術形」より優れている。

 以上見てきましたとおり、「警視庁柔術型」ではあたりまえのように見受けられた「実戦に供するための目の付けどころ」みたいなものが、「捕手の形」からは見事に抜け落ちているのです。

 ここでいったん「捕手の形」の技術に関する各論を一旦措き、【その32】では、「捕手の形」のもととなった「極の形」について論じたいと思います。