集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

「むっちゃん」の受難と最後の一弾  ~戦艦陸奥・艦体密引き揚げ事件異聞・その2~ 

2021-06-21 19:28:40 | 雑な歴史シリーズ
 今回のような捜査のセオリーとしては、まず被害に遭った「陸奥」の現状、つまり犯罪後の「アフター」状態を調べ、「実況見分調書」(任意捜査の場合。強制の場合は検証調書)にまとめて証拠化します。
 その後、「陸奥」が沈む直前の状況、つまり「ビフォアー」の状態を証拠化し、「ビフォアー&アフター」を比較し、それによって「どの箇所から、どのような部品や機械がなくなっている」ということを明確にし、被疑者にその事実を突きつけて取り調べる…という手順を取ります。

 しかし、 「陸奥」は水深40メートルの水底に沈んでいることから、まず、現場保存の第一歩として必要な「現状を見分して保存する」…つまり、先ほどお話しした実況見分を行うことができません。
 さらに、たとえ水中見分ができたとしても、「陸奥」はもともと爆発して沈んだものであるため、損傷箇所が「爆発時の損傷」なのか、「不法引き揚げの過程でつけられた損傷」なのかを明らかにすることができません。
 さらにさらに、「陸奥」艦内の全容は帝国海軍の機密事項であったうえ、その図面などは終戦と同時に焼却されていますから、「艦内のどこに何の部品が設置されている」という全容がわからず、従って「爆沈前」の状況の証拠化がほぼ不可能です。
 
 こうした事情から、合同捜査本部は警察は見分に頼る調査を早期にあきらめ、N海事工業が売り飛ばしたスクラップ類の行方を追うことで、犯罪の全容解明に近づこうという、いわゆる「ナシ割」と呼ばれる捜査に方針転換しましたが、これも難航します。

 実はN海事工業は、「ナシ割」でアシがつかないよう、様々な細工をしていました。
 金属類を運搬して売り飛ばす、特に戦艦の部品ともなれば、「グラム」「キログラム」ではなく、「トン」単位での輸送が不可欠となります。
 何トンもの凄まじい重さ&量となる後ろ暗い金属を、モタモタ運んでいたらすぐ人に気づかてしまいます。人に気づかれる前に売り飛ばすには、なんといってもスピードが命!
 N海事工業はそのことをよくわかっており、N運輸という運送会社を「スピーディーかつ『安全なところ』への輸送」の請負業者として抱き込み、輸送を一任していました。
 「安全なところ」とは…密引き揚げしたブツを買ってくれるスクラップ屋(;^ω^)。

 スクラップ屋などの古物商は、県から鑑札が交付されるのですが、終戦直後のゴタゴタの時代には、他人の鑑札を勝手に使って商売をしたり、あるいは認可外の不正品を取り扱ったりといった行為が後を絶たない状態であり、N海事工業はそうした不良業者に目をつけては、密引き揚げ品を売り飛ばしていました。
 密引き揚げ品を不正売買することで、N海事工業と不良スクラップ業者は「運命共同体」になるわけで、どちらもこの秘密を共有しなければなりませんから、警察がスクラップ屋の証言から密引き揚げの事実をあぶりだそうにも、N海事工業の片棒を担いでいるスクラップ屋は「知らぬ存ぜぬ」とシラを切るに決まっています。
 さらに被疑者Tは、密引き揚げのお目こぼしや黙認を請うため、政財界や、監督官庁の出先機関に出向き、ワイロ攻勢まで仕掛けていたのです。
(これは余談ですが、このころの公務員というのは本当にコンプライアンス意識が希薄であり、ちょっとワイロの匂いをかがせると、すぐにお目こぼしをするヤツが山ほどいた、と、死んだ爺さんほか、数名の死んだ年寄りから一次情報として聞いております)

 このため「ナシ割」も難航しますが、こちらは捜査本部による粘り強い捜査により、N海事工業が売り飛ばしたと思われるスクラップや機械類、その売買経路が少しずつ明らかになってきました。

 次に大切なのは、関係者の証言を証拠化=調書を作成すること。
 何しろ、肝心な「陸奥」艦体の見分ができないわけですから、ナシ割で明らかになったブツに関し、それをいつ、どこで、誰が運んだり売ったり買ったりしたか、というとを、少しでも関わった人間を探し出してはしらみつぶしに調書化し、その事実の断片をつなぎ合わせて全容をあぶりだす以外、捜査方法がありません。
 しかし今度は、その「調書を取る相手」の確保に手間取ります。
 
 といいますのも、本件発覚後、主犯のTほか、N海事工業の取締役クラスの重要参考人たちが、縁故を辿って転々と逃亡し、特に主犯Tの身柄確保には「目に見えぬ苦労と時間的犠牲を強い」(「山口県警察史」下巻より)られました。
 また、先ほども申しましたが、N海事工業が密引き揚げのブツを不正売買していたスクラップ屋や輸送屋は、その秘密を共有する一蓮托生のワル集団ですから、当然そう簡単に口を割るわけもなく、これまた証言を得るのに一苦労も二苦労もします。
 のちに判明したことですが、この不法引き揚げブツの横流しには、金属業者49人、ブローカー98人という、実に大勢の「ワル」が関わっていました。そりゃ、容易にしゃべらないのも当然っちゃー当然です。

 合同捜査本部はこうした困難を乗り越え、主犯Tほか、のべ260名の関係者から事情を聴き、それを調書化して浮かび上がった事実…今回はそれを送致書の「犯罪事実」欄の書きぶりに即してやってみます(;^ω^)。
 事件の送致書類一式のいちばんアタマには「送致書」という書類がくっつき、そのうち、「犯罪事実」という欄には、本件の犯罪事実が簡潔に?書かれてあるわけですが、今回は「犯罪事実」欄にはこんなことが書いてあったのでは?ということを想像しつつ、記載してみたいと思います(被疑者Tの、業務上横領の部分のみ。不明な箇所は●で表示しました)。

 被疑者Tは、広島市に所在するN海事工業株式会社(以下、N海事工業と呼称)の代表取締役社長であり、主として潜水工事等を業として営む者であるが、昭和●年●月●日、厚生省援護局(たぶん(;^ω^))より、山口県大島郡東和町伊保田地先海域に沈没している戦艦陸奥(以下、同艦と呼称)艦内に残置された同艦乗組員の遺骨及び遺品類並びに非鉄金属30トン分の揚収業務を依頼されて契約請負することとなり、昭和●年●月●日、●×(←許認可権を持つ監督官庁の名前)より同作業にかかる潜水工事作業許可を受け、昭和25年●月●日より着手したものであるが、昭和25年10月10日、引揚げ許可を受けていない物件である油冷却器(重さ5トン)を取り外して揚収したことを手始めに、以後、昭和26年4月●日までの間に、同艦第●推進機、各種機関付属品、艦体鋼板等の引き揚げ許可外物件を計120回に亘り同艦から取り外して引き揚げ、これを契約主である厚生省援護局(たぶん(;^ω^))の許可なく不法に占有するとともに、金属類古物商●らに売却、その代金を占有して会社の運営資金及び遊興費等として消費することにより、もって業務によって得られた他人の財物を横領したものである。

 …こんな感じでしょうか?むろん、これだけの大事件ですから、実際にはもっと膨大な「犯罪事実」が書かれていたんでしょうけど、私の手元にある資料からは、そして無学&別に警察関係者でもなんでもない(マヂ卍っスヨ~!)のワタクシでは、この程度の文章しかヒネり出すことができません。ごめんなさいm(__)m。
 
 主犯Tほか21名は昭和26年6月24日、山口地検に送致され、一審の山口地裁で懲役1年6か月(執行猶予3年)の判決を受けます。
 Tはこれを不服として最高裁まで争いますが判決は覆らず、刑が確定しております。

 犯罪事実や量刑についての感想ですが、主犯Tの罪状については、本当はもっとたくさんの罪(たとえば、収賄とか窃盗とか贓物故売とか…)を問うてもよかったと思います。
 しかし先述しました通り、本件はTとその取り巻きの証言だけが頼りという捜査を余儀なくされているうえ、「商売人」「ヤクザ」「政治家」の距離感が今では想像がつかないくらい近かった当時、「収賄」「窃盗」「贓物故売」にまで捜査の手をを広げると、ただでさえ困難な捜査が、ますます難航することは必至です。
 そうした背景から捜査本部は、「今はとにかく、社会正義のために、N海事工業を確実に立件することが重要」と判断し、送致後の公判維持が可能な「業務上横領」だけを全・集・中!(←流行りものにはとりあえず乗っかる浅い男・珍山(;^ω^))で攻めることとし、ほかの罪の捜査・立件をあきらめざるを得なかったのではないか、と推察します。

 捜査終結直前の昭和26年3月、山口県は「金属屑類回収業に関する条例」(県条例第28号)を制定します。
 これは、金属くず類の売買を公安委員会の許可業種とすることにより、贓物(要するに盗んだもの)の売買ルートがウヤムヤになることを防ぐという、要するにスクラップの違法売買の取り締まりを強化するための条例です。
 この条例の制定にこの事件が影響していることは間違いなく、同条例は戦艦陸奥が沈没後に最後に放った、小さな小さな「一弾」、でも、県条例として千古に名をしたという点では、大きな殊勲の「一弾」でもありました。

【「『むっちゃん』の受難と最後の一弾 参考文献】
・「山口県警察史」 下巻 山口県警察史編さん委員会 編
・HP「探検コム」内記事「沈没船を引き揚げろ!」
・フリー百科事典ウィキペディア「陸奥」の項目
・「サルベージ業界伝説の生き証人が語る戦艦陸奥引き揚げ 花戸忠明・深田サルベージ建設中国支社長補佐に聞く」ダイヤモンドオンライン

「むっちゃん」の受難と最後の一弾  ~戦艦陸奥・艦体密引き揚げ事件異聞 その1~ 

2021-06-20 09:04:34 | 雑な歴史シリーズ
 数年前に流行ったソシャゲ「艦隊これくしょん」で、ショートカットが可愛い「むっちゃん」として人気を博した、帝国海軍戦艦「陸奥」。
 その実物は全長225メートル・基準排水量4万トンの艨艟であり、姉妹艦「長門」とともに帝国海軍の象徴として、永く国民の信頼と、畏敬の念を一身に集めました。

 「陸奥」は、大東亜戦争開戦から約1年半を経た昭和18年6月8日正午、山口県大島郡東和町(現・周防大島町)伊保田沖に停泊中、第四砲塔の火薬庫が突如爆発。「不沈の城」と謳われた巨体は、第三砲塔と第四砲塔の間から真っ二つに折れて轟沈。乗組員約1100名とともに、永遠にその姿を地上から消しました。
 陸奥爆沈については353名の生存者、そして火葬場となった柱島(山口県岩国市所在)の住民に対して固い箝口令が敷かれ、さらに、海軍部内でも「陸奥爆沈」の情報を取り扱うことが禁じられたことから、あの「陸奥」が戦争全般を通じていったいどうなったのか、ということを知る者はほとんどいませんでした。

 ところが戦後、陸奥は思わぬ形で、再び人々の目の前に現れてきます。それは「栄光ある帝国海軍の戦艦」としてではなく、終戦直後の山口県下を大いににぎわせた、一大密引き揚げ事件の舞台として…です。

 昭和25年6月25日、北朝鮮軍の南侵により、朝鮮戦争の火ぶたが切って落とされます。
 「国連軍=ほとんど米軍」の最前線基地となったわが国は、国連軍に供給する武器や、その原料となる鉄鋼類の生産によって、「金偏(カネヘン)景気」と呼ばれる未曽有の好景気に沸き立ちます。
(※ご存じない方のために解説しますと、「金偏景気」の名の由来は、鉄・銅など、カネヘンの漢字で表記される金属は、すべからく高値で取引されるようになった、という意味で命名されたものです。)

 実はその「金偏」の主要産出場所として、人々(特に悪い方の(;^ω^))が狙いを定めていたのは、いまやフネではなく、単なる巨大な金属の塊として転がっていた、旧帝国海軍の艨艟たちでした。
 とくに、日本海軍を象徴する軍港であった広島県呉市とその周辺海域には、米軍の空襲によって大破・着底した多数の軍艦がゴロゴロしており、こうした艦艇に付属していた金属(特に非鉄金属である銅や真鍮など)は、終戦すぐの頃から、合法・非合法を含めた多数の有象無象によって引き剝がされ、売り飛ばされていました。
(これは死んだ爺さんから聞いた一次情報でもありますので、確かな話です)
 これがどのくらい大きな取引だったかといいますと、映画「仁義なき戦い」に出てくる、当時の呉のヤクザのシノギのひとつが、こうした「かっぱらった金属類」ビジネスの上前をハネることだったといいますから、その規模がわかると思います。

 ただ、呉から南にかなり離れた、柱島沖の海底、しかも潮流がキツく、おいそれと潜水もできないところに眠っている「陸奥」だけは、こうした金属ドロの被害に遭うことなく、終戦後もしばらくは静かに眠りに就いていたわけですが、わが国が金偏ブームに沸くなか、「陸奥」は、その艦体に埋め込まれた金属を狙う悪いヤツによって、「永遠の眠り」の枕を蹴っ飛ばされることとなります。

 「陸奥」艦内に遺る遺骨収集・遺品回収のプロジェクトは、終戦後比較的早い時期から計画されていましたが、進駐軍の許可がなかなか下りず、昭和24年にようやく着手されます。
 しかし、213体の遺骨を収集したところで事業継続費用に行き詰まり、すべての遺骨収集を終えることなく、作業中断と相成りました。

 この中断直後、「遺骨・遺品揚収にあたったN海事工業株式会社が、許可外のものを不正引き揚げし、それを売り飛ばしている」とのうわさが人の口の端に上るようになりました。
 山口県の岩国市警察(現在の山口県警岩国警察署。当時は現在のように、警察庁に都道府県警察本部がぶら下がる形式ではなく、国警・自治警が全国にゴチャゴチャ状態で蟠踞していた時代だったため、こう呼ぶ)がこの噂を受け、請負業者であるN海事工業株式会社(広島市所在)の身辺を洗ったところ、「許可外の品である金属や機械類を密引き揚げした」「引き揚げたブツは、関西方面に売り飛ばされた」といった証言がワンサカ出てきました。
 事態を重く見た岩国市警は、国警県本部(現在の山口県警本部)に協力を要請。合同捜査本部が立ち上がり、本格的な捜査に乗り出します。
 当初は身辺情報の多さやその確度の高さなどから、捜査は簡単に終結するものと目されていましたが、その予想とはうらはらに、この捜査は出だしから大きく難航します。

 ではなぜ捜査が難航したのか?
 これを考察するためには「刑事事件の立件・送致」に関する基礎知識が、ほんの少しだけ必要となりますんで、ここでちょっと紙面を割いて、事件の立件にかんするお話と、この捜査のポイントをお話ししておきます。

 結論から先に申し上げて恐縮ですが、本件主犯のN海事工業社長・Tは最終的に、「業務上横領」で立件・送致・起訴されています。
 「業務上横領」は刑法253条ですので、条文をちょっと確認してみましょう。
「業務上自己の占有する他人の物を横領した者は、十年以下の懲役に処す」
 つまり、個人または法人を「業務上横領」という罪で送致するには、
イ 被疑者の「業務」によって「占有」することになった
ロ 「他人の物」を
ハ 何らかの方法で「横領」した
という事実を明らかにし、被疑者に認めさせ(否認を貫く場合は、状況証拠を積み上げ)、それを全て文書・証拠化しなければならず、どれか一つが欠けても、送致が出来ない=TとN海事工業を罪に問えない、ということになります。

 以上を踏まえ、本件捜査のポイントをまとめますと、こんな感じになります。
【① N海事工業のスクラップ売買の記録を明確にせよ!】
 N海事工業が売り飛ばした金属または機械類の種類・量・売買時期を、細大漏らさず明らかにすること。
【② 今回「業務」に付随して引き揚げられたブツを特定せよ!】
  N海事工業は「遺骨収集」のほか、余禄として「非鉄金属30トン」の引揚げ許可を受けていたため、①のうち事件として立件可能なのは、「遺骨収集」「非鉄金属30トン」を引き揚げる業務の陰で引揚げられたものであって、「遺骨」「非鉄30トン」以外のブツだけ、ということになる。
 ①のなかからそれを特定すること。
【③ ②が、「陸奥」についていたものであることを証明せよ!】
 N海事工業が売り飛ばした金属類が、間違いなく「陸奥」にくっついていた部品だったこと、また、どの部分についていた何の部品だったかを明らかにすること。
【④ 「占有」の事実を明らかにせよ!】
 N海事工業が、契約主(遺骨収集は現在、厚生労働省の管轄なので、当時は厚生省が契約主だったと思料)にバレないよう、陸奥付属の金属類と、それを売り飛ばして稼いだお金を「占有」していた状況を明らかにすること。

 いっけんして、「これは難しいぞ…」と思わされるものばかりですが、予想通り合同捜査本部の捜査は、いきなり暗礁に乗り上げました。
(その2に続く)

警察術科(主に逮捕術と柔道、あと剣道ちょこっと)の長い長い歴史(第17回)

2021-06-11 19:47:05 | 雑な歴史シリーズ
【その30 「警視庁捕手の形」制定に至るたくさんの事情】
 「警視庁柔道基本 捕手の形」なる小冊子があります。
 これは警視庁警務部企画課が編纂のうえ、以前お話しした自警会が大正15年4月28日に発行したものであり、この中で紹介されている居捕8本・立合10本・引立6本の合計24技から成る「捕手の形」こそが、現在の警察逮捕術と一直線につながる「嫡流」の技術になります。

 「捕手の形」制定の経緯につきましては、石井保警務部長(明治21(1888)~昭和51(1976))の筆による序文に、ホンネの部分がありありと現れていますので、ちょっと引用してみます。
「蓋(けだ)シ、警察官ノ心身修養ニ最モ有効ナルハ武道ノ練磨ニ在リ、之ガ指導奨励ニ関シテハ我警視庁ニ於テハ夙(つと)ニ留意ヲ懈(おこた)ラザル所ニシテ近似著シキ進歩ノ跡アリト雖(いえど)モ、之ガ実務ニ於ケル応用ノ点ニ於テハ尚遺憾ノ少カラザルモノアリ」
 要するに、「警察官の心身修養には柔・剣道がいいから、バリバリ稽古やってるんだけど、それを実際の制圧現場でそのまま使おうとしても、使えないことが多くて困ってるんですよね…」ということが書いてあります。

 【その29】で、講道館柔道は生まれたときから体操であり、且つ、わが国史上初の「実戦性を持たない武道」だったという話をしましたが、じつは明治以降、「竹刀スポーツ」に成り下がっていた剣道も、ほぼ同様の状況でした。
 ただ剣道の場合、「竹刀スポーツ」に成り下がっていたということのほか、警官が佩用していたサーベルという武器、そしてその「使用規則」にも大きな欠陥がありましたので、今回は「捕物用具としてのサーベル」の問題点を、少し詳しくお話ししておきます。

 まず、サーベルの構造からお話します。
 サーベルの柄(つか)は両手握りができない長さ(長さの規程は特になし)で、警部補以上はナックルガードつき、それ以下はナックルガードなし。
 鞘は朴の木を鉄板で巻いたもので、その中の刀身は片手で振れるくらいの細身軽量…といった感じです。
(サーベルの拵(こしらえ。要するに柄・鞘を含めた刀の外装のこと)については「警察官及消防官服制」(昭和10年6月21日勅令第167号)により細かな規定がなされていますが、刀身については特段、何の定めもありません。)
 警察官はこれをベルトの吊具に結着し、一点吊りして携帯するわけですが、同じ剣であっても、片手でしか振れないサーベルの操作は、日々剣道で使用している竹刀とは全く勝手が違いますし、それに何より、戦前における「警察官の制圧時における抜刀」は、こんにちの「警察官等けん銃使用及び取扱い規範」(昭和37年5月10日国公委規則第7号)に定めるけん銃使用規定以上に厳しかったことが、サーベルが捕物用具として欠陥品であることに、さらなる拍車をかけていました。

 資料として、抜刀が許された事案を、「山口県警察史」から紹介します。
 終戦直後の山口県下関市には、朝鮮への帰国を希望する在日朝鮮人が大挙して押し寄せてきましたが、その一部は闇商人・闇ブローカーと化して駅前を不法占拠。闇市を開いて暴利をむさぼっていました。
 昭和21年1月28日、山口県警はこの闇市の一斉手入れを実施。彼我入り乱れての一大捕物劇が展開されますが、人数は朝鮮人闇商人のほうが圧倒的に多く、警官隊はたちまち包囲され、四周からで棒で殴られたり、投石を受けたりと防戦一方となります。
 これに対し、「警備主任の来島警部は遂に部下警官隊に抜刀を命じ、自分はピストルの威嚇射撃を行って、決死の大捕物陣を展開」(「防長新聞」昭和21年1月30日)しました。
 ことほど左様にサーベルというのは、終戦直後の大混乱期にあってすら、警察官側がこれくらい切迫状態にならなければ抜くことを許されないという、実にめんどくさいシロモノだったわけです。
(※ 余談として、サーベルの廃止は全国一斉に21年7月。山口県警にあっては7月17日を期して一斉廃止。
 なお、終戦直後~21年ころにかけ、わが国では進駐軍兵士による強盗・強姦・窃盗事件が多発しましたが、「山口県警察史」によると、なんと「警察官のサーベルを強奪」という事件までもが多発。進駐軍がわが国に入ってきた昭和20年8月28日から9月1日までのわずか5日間だけで、40件〔1日平均8件!〕も発生していたとのことです。
 皆さん、他国の侵入を許すということは、そういうことなのですよ…。余談が過ぎました。話を元に戻します。)

 従いまして戦前・戦中の警察官は、凶器を持った相手への制圧に際しては鞘に納めたままの状態で腰から外し、鞘から刀身を抜くことなく、相手を鞘ごと殴りつける…といった情けない状態を強要される結果となり、結果、少なからぬ数の警官が逮捕・制圧現場で負傷、悪くすれば死亡という悲惨な状態となっていました。
 石井警務部長が柔道のみならず、剣道に関しても「之ガ実務ニ於ケル応用ノ点ニ於テハ尚遺憾ノ少カラザルモノアリ」と評するのもむべなるかな、といったところです。
 さらに石井部長は同序文で「柔道ノ如キハ殊ニ実地ノ応用ヲ主トスルノ要アリ」(柔道は特に、実戦で使えるよう応用する必要がある)と言っており、これは言い換えれば「今の柔道の非実戦的だ!」と言っているのにほかならず、【その29】でお話しした「柔道はわが国史上初の、実戦技を持たない武道だった」ということを裏付ける資料と考えて、差し支えないと思います。

 こうした現状を受け、警察は警視庁首席師範にして、「講道館四天王」のなかでも知勇兼備を以て知られる山下義韶に、「警察官ノ実務ニ立脚」した「此ノ種必要ニ適応スル柔道ノ基本」…要するに、柔道を応用した制圧術の考案を依頼します。
 山下師範が苦心して編み出した「制圧術」は大正13年9月1日、警視庁において行われた武道講習会において披露され、これをもとに、警視庁全師範の間で2年弱の合議を経て発表されたものこそ、「警視庁柔道基本 捕手ノ形」だったのです。

警察術科(主に逮捕術と柔道、あと剣道ちょこっと)の長い長い歴史(第16回)

2021-06-09 09:21:11 | 雑な歴史シリーズ
【その29 「武術を適者として生存させる道」=「柔道」だった】
 「その29」は、またしても柔道の話に戻ります。
 「いつになったら逮捕術の話になるんだ!」というご批判もあると思いますが、実は今からお話しする内容は、のちに「逮捕術の大きな欠陥」と≒でつながる事項でもありますので、お付き合いお願いいたします。また、今まで語った内容と重複する箇所もけっこうございますが、その点については、ご寛恕頂きたく存じます。

 これまで見てきましたとおり、柔道は明治の最末年以後、怒涛の勢いで競技・スポーツ化の一途を辿りましたが、ではなぜ柔道は以後、「スポーツ化」以外の発展ができず、嘉納治五郎が提唱した「勝負法」の枝が伸びなかったのか?
 このクエスチョンに対する回答は実に簡単です。
 講道館柔道は生まれたときから既に「体操」=「スポーツ」だったからです。
 ではなぜ講道館は「スポーツ」として生まれなければならなかったのか?
 答えはこれまた簡単、「そうしなくては、生き延びることができなかったから」です。

 明治維新によって、社会的地位が大幅に下落した武術界が、何よりも切実に求めたもの。それは「武術の学校教育化」でした。
 社会的地位の下落により、糊口をしのぐことすら困難になった武術界にとって、「武術の学校教育化」こそは、その存在意義と地位を再び社会に認めさせるための、大いなる後ろ盾となるものでした。
 ですから「武術の学校教育化」は、種類や流派や種類の垣根を超えた悲願であり、これを実現するための働きかけは当然、様々な方向から行われていましたが、その眼前には、高くて大きな壁がそびえたっていました。

 明治16(1883)年5月、文部省は体操伝習所(現・筑波大学)に対し「本邦剣術柔術等ニ就キ教育上ノ利害適否ヲ調査スヘキ旨」…つまり、わが国の撃剣・柔術を学校教育に採用することの可否を調査しろ」という命令を下し、伝習所は1年以上の歳月をかけて答申をまとめました。
 伝習所が出した結果は…「不適」。
 さらには明治29年の「学校衛生顧問会議答申」においても、前回「答申」の結果をなぞり、その内容を確認するだけというかたちで、武術は再び正科不採用となります。
 既に技術がフィックスしきっていた当時の武術界には、この「不適」判定を超えるイノベーションは生まれず、これが先ほど申し上げた「高くて大きい壁」となっていたのです。

 ここで「月刊●伝」のような神秘系格闘雑誌や、そこに寄稿している神秘系武道家の皆々様は「ここでわが国は、近代軍を設立するために西洋風の身体操法を推進し、わが国独自の身体操法を捨てた」「そしてわが国は、武の深奥を忘却した」などと主張するんでしょうが、わが国ではこの「答申」以降も、古流に撃剣にと、驚くような名人が多数輩出されている事実から鑑みて、そういった陰謀論的主張は「虚妄」と断言していいと思います。
 伝習所の教官たちは、本気で「国家の元気」ということを追求していたのであり、けっして武術をあだやおそろかにしていたわけではありませんが、なにぶんにも伝習所の教官は「西洋式体操」の専門家ではあっても、武術の専門家ではありません。
 その「西洋式体操専門家」の目には、武術の持つ閉鎖性や難解さ、そしていやらしいほど高い専門性、因循な教授体制は、国民に「体育」をわかりやすく広めるためのツールとしては不適!と映ったのでしょう。
 おそらくワタクシが当時、伝習所の教官であったとしても、同じような判断を下したと思います。

 武術家たちも新たな型を創設したり、体操を作ったりといった試みをしますが、それらはすべて「長い歴史と伝統のなかですでにフィックスした、これ以上いじりようのない技術を、ほんの少しだけ妥協的にいじってみました」という、いわば小手先の取り組みばかりであり、武術界に対して「国民の元気」を求める伝習所の教官が頷首するには、到底及ばないものばかり。
 このような平行状態のなか、唯一伝習所の答申に見合うムーブを取ることができたのが、ほかならぬ講道館でした。

 嘉納は武術のインサイダーであると同時に、当時の武術界で唯一といっていい、文部省の「中身」を知ることが出来る有識者、いわば、ダブルのインサイダー。
 その嘉納だからこそできた、武術界起死回生の一手は「講道館柔術(=柔道)の技術体系を、『体操』側に寄せて構築する」ことでした。
 「柔道」の「体育法」の部分を先鋭化させることで、まずは上記答申をクリアし、柔道、ひいては武術の社会認知を復活させる。嘉納の描いた青図はおおむねこのようなものでした。
 武術&教育界のダブルインサイダーであり、また、当時流行していた「社会ダーウィニズム」(要するに、「適者生存」を謳う主張)を深く知悉していたインテリの嘉納は、武術を古臭い、因循なものと位置付けていた明治日本において、武術を「適者」として一本立ちさせるには、これしか道がない!と固く信じていたはずです。
 
 本連載でこれまで紹介してきた講道館の各種の技術を振り返ってみれば、嘉納が起こしたイノベーションの本質が理解できます。
 たとえば、畳の上という整地でのみ有効な足さばきと受身。
 たとえば当身や締め・関節技といった痛みや苦しみを伴う技を極端に制限し、取っ組み合いだけで当身がないスパーリング。
 たとえば、女子や少年への柔道普及促進用の「柔道体操」。
 これら諸々はすべて、柔道を「相手を殺傷する武術」ではなく「武術の体操化」というメガネをかけて見たとき、はじめて納得のいく事ばかりであり、さらにいえば、上記「答申」で、武術が体育化不適と判断された9つの理由のうち、①「身体の発育往々平均均一を失はん」②「実修の際多少危険あり」③「身体の運動強度を得しむこと難く強壮者脆弱者共に過劇に失し易し」という指摘に対して放ったカウンターと考えた場合、より深く納得できます。
 また⑦「演習上毎人に監督を要し一級全体一斉に授けがたし」⑧「教場の坪数を要すること甚大なり」⑨「柔術の演習は単に稽古着を要するのみなれども剣術は更に稽古道具を要し且常に其衣類及道具を清潔に保つこと生徒の業には容易ならず」という指摘に対して嘉納は
「⑦については、受身教育の徹底によって監督者の数を減らすことが可能であり、同時に安全対策ともなる」
「⑧⑨については、講道館の考案した『体操の形』を授業で用いることにより、場所も道具もいらない授業ができる」
との反論を行い、これらは「武術の学校教育化」推進への、強力な有効打となります。
(余談ではありますが、明治30年代の沖縄県において、学校体育に空手を採用した際にも、ほぼ同様の「体操化」改造が行われています。関係者は多いのですが、最大の立役者は糸洲安恒です。興味ある方は関連資料や動画をご覧になられると、この「体操化」ムーブメントがより深く理解できると思います)

 以上見てきましたとおり、「社会適者」として生き延びるために「体操」として生まれた柔道は、以前もお話ししましたが、日清・日露戦争という追い風にも助けられて社会的に深く認知され、一躍、武道界のトップランナーとなります。
 ただこれは、わが国武道史上初となる「実戦性を持たない武術の誕生」と言い換えてもよく、少なくとも明治期における講道館柔道に、相手を殺傷するための技術、嘉納の言葉でいうところの「勝負法」のテクニックを見ることは全くできません。
 しかし、大正時代には「門弟4万人」と称された多くの柔道修行者は、講道館が持つそうした本質や宿痾を見抜くことはできませんでした。それどころか「当身のない取っ組み合いだけが柔道のすべてであり、それがひいては真の武道なのだ」という、とてつもない勘違いが平気でまかり通ってしまうようになったのです。

 実は嘉納だけは柔道を、ゆくゆくは実戦テクニックや棒術なども包含した「総合武術」のようなものにしようと考えていました。
「講道館は武術として見たる柔道に対しては、(中略)、先ず権威ある研究機関を作ってまず我が国固有の武術を研究し、又広く海外の武術も及ぶ限り調査して、最も進んだ武術を作り上げ、それを広く我が国民に教ふることは勿論、諸外国の人にも教へる積りである。」(「講道館の使命について」昭和2年)
 大正末年以降、嘉納は柔道の「総合武術化」にむけ、沖縄のローカル武道であった「ティー(手。のちの空手)」を発掘したり、大東流合気柔術から分離独立した合気道に弟子・武田二郎&望月稔を派遣したり、はては棒術までも研究させるなど、なんとか柔道を「勝負法まで含めた総合武術」とするため苦闘しますが、先述のような勘違いが門弟に、ひいては社会全体に蔓延してしまい、けっきょく嘉納の苦悩とは裏腹に、柔道は「実戦性を持たない武道」のまま、何もかもが固定化してしまったのです。

 さて、話は変わりまして。
 ちょっと前の本連載でも取り上げましたが、大正時代は「大正デモクラシー」の時代…つまり、官憲の権威が落ち、警察官に平気で食って掛かる、あるいは抵抗する輩が激増した時代でもあります。
 警察官の受傷事故がかつてないペースで増えてきたこの時期、警視庁は新たな警察官用の護身術の開発に迫られます。
 その開発は大変重要なことではありますが、警察の対応がマズかったのは、その技術を、「実戦性を持たない武道」である、柔道に求めたことでした。
 明治期の警察幹部は、幕末維新の斬った張ったを潜り抜けてきたツワモノも多かったため、「実戦に使える、使えない」ということを見極める目も確かだったのですが、このころになると受験秀才の内務官僚ばかりが幅を利かせるようになっていたため、柔道が「実戦性を持たない武道」だということを見抜くことができなくなっており、そのため、安易に柔道に解を求めたわけです。

 警察が「護身・制圧」の答えを、柔道に求めた「悪手」ともいえる初代逮捕術。
 その名を「警視庁捕手(とりて)の形」といいます。