集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

日本レスリング黎明史≒講道館の激烈!黒歴史(その4)

2024-01-22 18:37:33 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 早大柔道部や講道館から白眼視されたため、ありとあらゆる道場から締め出され、練習場所を持たなかった早大レスリング部ですが、現在の新宿区小滝橋に所在した中沢六段(当時)の道場が全面協力を表明したことでようやく練習拠点ができ、その後、部員・佐藤竹二の姉(出版社・日映社の社長)が600円(現在の200万円弱)もの大金をポンと寄付してくれたことにより、大隈講堂の横に「三十坪の倉庫のような」(「私の歩んできた道」八田一朗)ジムが作られたこともあって、意気は非常に軒昂でした。
 ただ、前回お話ししたとおり、庄司コーチにレスリングの基礎知識はないに等しかったことから、せっかく常設道場ができたにも関わらず、そこで当時の早大レスリング部が行っていた練習は、どこからどう見ても「裸の柔道」(「大日本体育協会史 下巻」)でしかありませんでした。
 こんにちの我々から考えますれば、「こんな状態でよくもまあ、来年開催のオリンピック出場を企図したものだ」と呆れるばかりであり、その無鉄砲さは、ひと昔前の少年ジャンプやコロコロコミックの主人公すら凌ぐ!としか思えません。
 しかし、当時の早大レスリング部のメンバーは素朴に純粋に、本気の本気で五輪出場を狙っており、熱心に「裸の柔道」の練習を繰り返していました。

 日本唯一のレスリング部だったため、対外試合もなく、同じメンバーで同じ練習を繰り返すこと数か月。いろいろ煮詰まった早大レスリング部は「五輪出場を視野に入れるなら、国際試合をしなければ!」と思い立ち、本邦から最も近いレスリング競技国国…当時アメリカの植民地だったフィリピンのレスラーと国際試合をやろう!と衆議一決します。
 さっそく大学当局に「国際試合をやりたい。カネの援助を」との申し入れましたが、大学の正式な「運動部」として認可されていない、現代でいう「サークル」扱いだったレスリング部の要望など承認される道理がなく、「何を夢みたいなことを。ふざけんな」の一言であっさり却下。
 しかし八田主将と庄司コーチは全く気落ちすることなく、「されば、我々が自力でやろう」と決意。政治家志望の庄司コーチはここで「無から有を生ずる経済学」なるものを唱え、この国際試合開催にも、それを当てはめようとしました。
 その軽薄な考えが、早大レスリング部を存亡の縁に追いやります。

 庄司コーチが言う「無から有を生ずる経済学」なるものの実態を簡単に言えば「野球部の部費を、うまいこと言って掠め取る」ことでした。
 弊ブログで連載中(長期休載中でゴメンナサイm(__)m)「霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝」でも書きましたが、昭和ヒトケタ初年のこのころ、東京六大学野球、とりわけワセダの試合は驚くべき集客数を記録しており、当然部費は潤沢そのもの。昭和2年の時点で、鉄筋コンクリート製の1軍合宿所がいとも簡単に作られていたくらいですから、その潤沢さは、今日のプロ野球球団に伍するほどでした。
 それに目を付けた庄司は、野球部に対しては「レスリング部の国際試合開催計画が、レスリング部の喜多部長から総長に対して申請され、総長は『野球部の部費を一部回してやれ』とおっしゃった」、大学総局側に対しては「国際試合開催について野球部に話をしたところ、快く『部費の一部を回してやってもいい』と言っていただいた」と説明することで野球部費をくすね、それを試合の開催費用に充てようとしたわけです。

 双方にとりあえず説明を済ませたことで「計画成功」と踏んだ庄司コーチと八田は、フィリピンのレスリング連盟に対して「大会開催決定、アゴアシマクラ完備」を通知。フィリピン側はこれを受け、わざわざ予選会まで行ったうえで、5人の選手の派遣を決定。ジュアン・ビネダ監督に率いられた5人のフィリピン選手は昭和6(1931)年11月12日に来邦しました。

 この「日比対抗戦」は、12月18日~昭和7(1932)年1月15日にかけ、東京・名古屋・横浜の6会場を巡るツアー形式で行われました。
 その結果を「勝ち負けの数」から単純にいえば「日本側の圧勝」でしたが、試合ルールは「試合会場はリング」「フォールは3カウント」「体重制無視」という完全なアメリカン・プロレス。
 当時フィリピンは米領であったため、選手がアメプロに近い「カレッジ・スタイル」のレスリングに慣れていたことや、アゴアシマクラを日本側に持ってもらっているという弱みがあったため、フィリピン側はこの珍妙なルールに従いましたが、今こんなことをやれば、大問題間違いなしです。
 「大日本体育協会史 下巻」はこの試合を
「各試合を通じて、深く省察すれば、多くの場合比島選手は日本選手より重量軽く、重量の差が相当勝敗に影響している」
「日本選手も、レスリング技術を十分消化しているものは少なく、裸の柔道からあまり遠いものではなかった」
と評しており、技術的に全く見るものがない試合であったことが伺えます。

 それはともかく、「国際試合」を勝利のうちに打ち上げた早大レスリング部一同は得意満面だったのですが…その直後から一転、早大レスリング部、とりわけ八田主将には、強烈な試練が待ち構えていました。

 「無から有を生み出す」庄司コーチの謀略???は完全なる不首尾…どこからも全く相手にされず、当然、アテにしていたカネは一銭も入ってきません。
 まず困ったのは、フィリピン選手団を帰国させる船賃がない!
 驚くことに早大レスリング部は、フィリピン選手団が帰国する船賃を全く用意しておらず、「カネがない、カネがない」と騒いでいる間に、フィリピン選手団が乗るはずだった客船は横浜を出港。置いてけぼりを食らったフィリピン選手団は、アメリカ領事館に「早大に騙された!」と駆け込み、大騒ぎとなります。
 領事館からはレスリング部に対し「カネを出せ!」と矢の催促。こうした場合、まず対応すべきは喜多部長、あるいはコーチの庄司なのですが、喜多部長は部を学校側に認めさせるための「お飾り部長」であり、この対抗戦自体あずかり知らぬこと。となれば、次はコーチである庄司が金策の責を負うべきなのですが、なんと庄司はこの事態に際し…なんと、トンだのです。
「『無から有を生む』の先生、庄司は逃げてしまい、行方不明である。」(「私の歩んできた道」八田一朗)
 いまだ本邦に滞在しているフィリピン選手団の滞在費、そして帰国のための船賃を賄う責務は、主将・八田の双肩にかかることとなりました。

 八田は「早大レスリング部の不始末は、親である早大が負うべきだ」との甘い認識のもと、まず早大本部に駆け込みますが、当然一切相手にされません。さればということで、田中総長邸前で座り込みをしますが、これまた門前払い。その足で八田が一縷の望みをかけて訪問したのは、部長・喜多壮一郎教授宅でした。 
 深夜に強引な訪問を受けた喜多教授は、怒りを露わにしながらも、八田をこう諭します。
「キミのやったことは悪いとはいわん。(中略)だがそれは、学生の分に過ぎたことだ。勝手に借金をつくっておいて、それを学校に尻ぬぐいさせようなどと考えたって、そうはいかない。」(「私の歩んできた道」より抜粋)
 喜多教授は「レスリング部は庄司と縁を切る事」を条件に、総長や監事に話をつけることを承諾。なんとか千円の旅費を借り受けることに成功した八田は、フィリピン選手団を汽車に乗せ、神戸港で予定していた船に乗せることに成功しました。
 しかしこの千円も、大学当局が「立て替えた」という性質のカネであり、借金であることに変わりはなく…それ以外にも、早大レスリング部が合宿で食べたソバの代金、選手たちの銭湯代などなど、この「国際試合」に関連した、ありとあらゆるカネが八田の下に請求され…その負債額、当時の金額で実に5000円!現在の貨幣価値に換算すると、2000~3000万円の大借金です。
 けっきょくこの借金は、八田が一芝居打って、はっきり言えば「踏み倒す」形で決着しましたが、この一大事に際して逃亡した庄司と早大レスリング部は完全決裂しました。
 しかし庄司の離脱は金銭面だけではなく、思わぬ形で早大レスリング部に負の影響を与えます。
 
 といいますのも、もともとロス五輪の出場を目的に結成された早大レスリング部ですが、そのためにはまず、早大レスリング部を大日本体育協会(現在のJOC。以下体協)配下の団体として登録しなければ、五輪に代表選手を出すことはできません。
 実は早大レスリング部を体協統括団体とするための交渉の一切は庄司が請け負っていたため、「庄司の逃亡=早大の体協加盟が宙に浮く」ということとなってしまったのです。
 八田は「こうなったら、自分が全てやるしかない」と発奮し、庄司逃亡の直後となる昭和7年4月12日、大日本アマチュア・レスリング協会を設立します。
会長が早大を卒業したばかりの八田、そしてあの怪著「レスリング」の翻訳者・山本千春、宮崎米一といった早大レスリング部関係者が幹事となり、早大・慶大・明大レスリング部が参画しました。

 体協は「これで初めての統括団体ができた」ということでホッとしたわけですが、八田の協会発会を面白く思わない2勢力が、開催まで残り3か月となったロス五輪出場に向け、猛スパートをかけてきます。
 その2勢力とは、まだまだレスリングに色気と未練を残している講道館、そしてこのときは逐電中なれど、まだまだ燃える野望だけは満々と持している庄司。
 ようやく安定化に向かい始めるか?と思われた日本レスリング界は、講道館と庄司の野望の顕在化により、にわかに混迷の度を増してきました。



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