集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

サバキ・ふしぎ発見!(それはサバキの進化?退化? サバキ護身術編)

2019-09-16 18:02:45 | 芦原会館修行記
 ちょいと前に、「サバキ」を表芸として頂くカラテ流派のうち、「レベルの低いサバキ試合」をする流派の問題点についてお話しましたが、今回はサバキを「レベルの低い護身術」に魔改造してしまった流派についてお話し致します。

 芦原会館で正規にサバキを習う場合、その多くは「相手の攻撃を受けて発動する」という、約束組手形式の練習をやり込むことが求められます。
 サバキという技術は「自分は安全な状態を保ち、様々なカウンターやブラフ、時にはアタックを入れつつ相手を安全に制する」というコンセプトがありますから、そうした技術を習得するのに最も親和性が高い練習法が約束組手であることについては論を俟ちません。

 しかしそれをただ漫然と繰り返していると、「相手の攻撃を受け、カウンターを入れることだけがサバキの全て」という思考停止に陥る修行者を続出させてしまう、という実に困った側面も持っており、この点については「試合編」でお話しした通りです。
 上記のような「約束組手で習ったサバキや、『実戦!芦原カラテ』の本やビデオにある内容の上っ面だけを覚えて、それを聖書やコーランのように奉じ、それ以外は『全て間違っている、先代の遺志に反している』と判断する人々」を、ワタクシは勝手に「サバキ原理主義者」と呼んでいますが、先代の死から年月が経ち、その著書の補填をしてくれる高弟が次々といなくなっている現在、原理主義者は芦原会館の内外を問わずズルズルと増え続けているように思います。

 「原理主義者」の行う試合が非常にアレであることについては「試合編」でお話しした通りですが、では、サバキと比較的親和性がある「護身のサバキ」を標榜する流派のほうはいかがなものか?と目を転じてみますと、これまた笑ってしまうくらいの悪しき「サバキ原理主義」です。いや、試合という不確定要素がなく、シロウトにいい加減なことを教えてもバレないことを教える側が認識しているぶん、、こっちのほうが悪質かもしれません。
 「サバキ原理主義者」による護身のサバキのうち、一番多いパターンは「芦原会館の型や約束組手パターンを、強引に護身にあてはめている」というもの。これに「Aバトンらしきもの」がくっつけばカンペキ!です(;^_^A。
(Aバトンとは、先代が死の直前まで情熱を燃やして作っていた、トンファータイプの伸縮式警棒。現在は芦原会館の子会社・ディフェンスが販売しているが、芦原から離脱したいくつかの流派でも似たようなものを販売している。芦原会館は文句を言わないのかなあ…)

 「サバキ護身術」だの「護身サバキ」だのと銘打っている流派の技術を動画で(今はこういう便利なものがあって、とても助かります)確認しますと、驚くべきことに、犯人役の攻撃が完全に合気道のそれと同じ「徒手でただ突く」「徒手で掴む」という体のものばかりであり、凶器による攻撃は全く想定されておらず、しかもそのカウンターとなる「サバキ」は、あきれたことに芦原会館の型の丸写し(または劣化コピー)なのです。
 たとえば、とある流派の動画にアップされていた「護身のサバキ」ですが…
 いきなり何もしていない暴漢に左ハイ!(さすがに面白すぎて出典不明( ´艸`))
 暴漢の右ローキックにスネ受けから右肘打ち!(おそらく初心の型1における9の挙動)
 暴漢の背後からの首絞めを時計回りに回転して回避し、なぜか右のミドルキック!(これはこじつけ臭いが、たぶん実戦の型1における3の挙動)
 暴漢の左ハイキックに対する軸足ストッピング!(たぶん組手の型5における6の挙動)

 …いやいやいやいやいやいや(;^_^A(;^_^A(;^_^A、どこの世界に、相手を襲撃する手段としてハイキックやローキックをやる暴漢がいるんですか(;^_^A。いるとしたらよほどのバカか達人のどっちかで、遭遇率はおそらく、宝くじで7億円当てるより少ないですよ!
 しかも首絞めに対するカウンター攻撃がミドルキックって何なんですか…首絞めはどう考えてもそれはショートの間合いでしょう…そこでミドル…この「護身サバキ」を立ち上げた人は、芦原会館で練習したこと、あるのかなあ…_| ̄|○_| ̄|○_| ̄|○。

 こういった「サバキ」の名を悪用した護身術は世の中にけっこうございますが、これらが腹立たしいのは、「護身」という言語をもてあそんでいることと、それに付随して「サバキ」の名を冒涜していることです。
 
 ちょいと前に「護身術と公務術」の稿で申し述べました通り、いやしくも護身という名を名乗る以上、「現在行われている犯罪や襲撃に関する方法・使用される凶器」の研究と、それに対して自流がどのようなカウンターができるかという研究は常にアップデートすべき当然のことです。
 これら「サバキ原理主義者」の「サバキ護身術」が腹立たしいのは、自らが最も先代の教えを奉じているという、宗教の信心に似た思い込みの下、「サバキ」と「バトン」をもてあそぶことで「この世のすべての暴力行為が制圧できる」と考えているお花畑のような思考。
 それを罪のない素人さんに教えて恥じないとなれば、これはもう公害といっていいレベルです。

 ワタクシは道場の外で「サバキ」を名乗る者はすべからく、その内容を一定以上理解し、どのような形態に変化させても、高いレベルで使用に堪えるものと示せなければならぬ、と心得ています。
 不肖の末席初段であったワタクシでさえも、芦原OBとして「サバキ」を語る以上、允許された段位である初段以上の技術を死ぬまで維持・向上させていることを以て、ようやく弊ブログで「サバキ」を語っていいものであると、常に自戒しております。 
 だからこそ、無理解・無責任極まりない原理主義者による、技術本や技術ビデオ・DVDの上っ面だけをなぞった「サバキ」の安売りは本当に腹が立ちますし、また、護身というものを根底からナメているとしかいいようがありません。
 こういった手合いは、表向きには「実戦的なサバキによる護身術」を標榜するいっぽうで、そのワザが護身に役立たなかった場合「武道の技は修業が必要で、護身できなかったのはキミの腕が悪かったから」などと言い訳をする可能性が非常に大きいので、本当に気を付けてください。

 近年はネット環境の向上に伴い、海外発の非常に実戦的な護身術がどんどん入ってきており(これもまた、玉石混交じゃーあるんですが(;^_^A))、道場こそ都会にしかないものの、そのシンプルかつ真に実戦的な技術、システマチックな教授方法、動画やオンラインレッスンによる「道場に依らない教授」などを展開して、人気を博しています。
 しかし、この時に至って、日本伝武道に端を発する「護身」は未だに「道場に依拠、状況をよほど固めないと実現できない絵空事のワザ」に寄り掛かるほかない、あるいは「開祖は伝説的に強かった」というレジェンドにすがるほかないという、実に情けない状況に陥っています。
 それはすべて、「護身」というものをナメ、その言葉をもてあそぶことで自らの稽古不足・勉強不足・覚悟不足を隠し、ガラパゴス化した末路(そもそも、ガラパゴス化しないと組織が守れないのであれば、最初から「護身」というカンバンを掲げないことですな(-_-;))としか言いようがなく、寸毫も同情の余地はないのですが、そこに「サバキ」が仲間入りしそうなのは、修行者として、本当に心が痛みます。

 本当に、なんとかならないもんですかねえ…。

「綱紀粛正」が必要なのは、オッサン、お前の方だ

2019-09-14 17:58:28 | 兵隊の道・仕事の話
 ここ数年、弊社内では各種の労務災害や非違行為が打ち続いたことを受け、「職場での倫理観を糺そう」「労務災害をなくそう」みたいな研修やキャンペーンが、本当~にしょっちゅう行われています。
 しかし、このキャンペーンを張っている上の奴らには、なぜ職場の倫理観が乱れたのかという本当の原因が見えていません。というか、わかっていて、あえて見えていないふりをしています(ほんとうにエライヤツは本質を見て見ぬふり、腰巾着の中途半端にエライ雑魚はただバカだからわかっていない、というのが正しい表現かもしれません)。
 職場の風紀が乱れ、労務災害が続発するようになったその元凶は、キャンペーンを張っている奴らとその世代のオッサン達だからです。

 話はちょいと飛びますが、アメリカの人材育成研究機関・ロミンガー社のマイケル・ロンバルトとロバート・アイチンガーは、個人の能力開発に関し、「70:20:10」なる法則を唱えています。

 これは職場の能力開発における「影響を受けたもの」の比率を洋の東西・文化・宗教を超越して表した普遍的な数値であり、「70」は職場における仕事とその解決によって得られる知識、「20」がいわゆる「師匠の背中」を模倣することで得られる見識、「10」が職場で行われるフォーマルな各種研修を指します。
 この法則を裏読みすれば、併せて以下のような見解も導き出されます。

①「70」の部分にフォーカスして勘案すれば、職場の各種研修でいくらキレイごとや絵空事を教えても、仕事に取り組む人的・質的・倫理的環境がハチャメチャな職場では人が育たない。
②「20」の部分にフォーカスして勘案すれば、職場の各種研修などがいくらハイレベルでも、「この人なら」というモデルになる人間がいない職場では人が育たない。

 つまり「労災が多い、非違行為が多い、倫理が乱れている」の要因は「70」「20」の部分がちゃんと機能していないということ。もっと言えば「70」「20」が機能していないということは、「オッサン達が仕事力・段取り力・職場倫理を持っておらず、堕落しきっている」「若い者から見て、『この人についていこう』と思わせるオッサンが職場内にいない」ことであるといえます。
 なのに既得権益を持つオッサン達は、その「70」「20」の個所にあえて目をつぶっている。見て見ぬふりをしている。
 これでは綱紀粛正もクソもあったものではありません。

 何かのビジネス書で読んだ内容の中に「何らかの『数字』を人格の上に頂いて、その出来不出来を評価する方式の組織は、不可逆的に上層部や既得利権者の劣化が起きる」というのがありました。
 同著によると「『数』はある意味衆愚の象徴だが、『数』がパワーとなる現代の市場や組織において『数』を集めることができるのは、三流の人気を得た二流以下の人間だけ」であり、その二流と、二流の下に集まった三流が人事を固め、さらにレベルの低い人間を集めるから組織が劣化する、とありました。

 そういえば最近、日本のいたるところでいいトシをしたオッサンやジジイが、若い者から眉を顰められるような下劣な犯罪や汚職をやらかし、逮捕されてもバレたとしても言い訳ばかりを繰り返し、恬として恥じない下劣極まる姿が諸諸報道されておりますが、今まで述べた「オッサン自体の劣化」の構図をみれば納得のいく話であり、先にお話しした「70」「20」が職場で涵養されない理由も、理解できようというものです。

 ワタクシも人からは「オッサン」と呼ばれる年齢であり、昨今話題の「煽り運転馬鹿」の犯人が、大抵ワタクシの同級生であることに、本当に恥ずかしさを隠せないところではありますが、ワタクシの小さな自慢は「小・中・高・職業訓練校と、同窓会には一貫して一度も出席していない」ことと「職場に友達がほぼいない」ことです。

 これは別にワタクシが一流だ、という思い上がりではなく、知らず知らずのうちに「二流、三流と交わらない措置を取っていた」ということに安堵している、ということでご理解お願いいたします。
 余計な知り合いがいないかわりに、道場と「泉州」で得た師匠や友人は、私の人生におけるかけがえのない「一流の知己」として、とても大切にしています。