集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

君はなぜ走るのか?それは君が●●(←悪い意味の言葉(;^_^A)だから!

2020-06-29 10:15:00 | 兵隊の道・仕事の話
まず冒頭にてお断りさせていただきますが、本稿は、長距離ランを楽しんでおられる一般の方を貶める目的で書かれたものでないことを申し上げます。
 本稿はタイトルにもありますように、あくまでもワタクシが現在進行形で勤めている会社における、頭の悪い長距離ランナーに対する繰り言だ、ということをご理解したうえで読み進めて頂ければ、幸甚に存じます。
 タイトルだけで不快の念を生じせしめるような場合、爾後読み進めることをおやめになることをお勧めいたします。

 弊社では、長距離ランニングを趣味としている、あるいは趣味以上のものとして行っている者が結構な数存在します。
 その理由は様々なのですが、彼らが部内誌で得々と語っている「オフィシャルの理由理由」を列挙すると、だいたい以下の2つに収斂されます。
・業務に資する体力をつけるため
・健康に資するため
しかし「上記2つを達成するための手段として、長距離ランを継続的にやる」ということの是非について、単純にコスパという観点からのみ論ずれば、はっきり言って最悪としか言えません。
 これはエビデンス的にも、そしてワタクシ自身の経験からも明らかです。

 ワタクシはもとは長距離ランニングが好きで、かなりの量を自発的にも強制的にも(;^_^A走り込んできたという自負しております。おそらく現在まで、いわゆるい一般市民ランナーの方の一生分のランニング量の倍~3倍は走っているでしょう(その中には「業務で走らされた」のも相当量あるのが実に情けないのですが(-_-;))。
 しかし30歳をいくつか過ぎたころから、長距離ランニングによる体力向上・あるいは維持効果は低下するばかり。ランの量自体は増え、タイムもどんどん向上するいっぽうで、上半身の筋力はガタ減りし、全身のアジリティ能力も落ち、何より健康診断の結果も加速度的に悪化…「ただ長距離走が早くなっている」という以外、何一つラントレによる効能が認められない時期が長く続きました。
 「これは本気でヤバいぞ、そろそろ目先を変えないと…」と思っていたそのころ、具体名や実施頻度は明かしませんが(かなり高強度で、ぜんぜんラクなもんじゃないです。ちなみにウェイトトレじゃありません)全く別なトレーニングを実施してみました…すると、なんとわずか1年で、ランニングをいくらやってもダメだった「なんとかしたいなあ」という弱点が、かなりの割合でパっ!と消失したのです。体力も健康診断の結果も、ほぼ復旧しました。

 お断りしておきますと、ラントレをしていたときと、某別のトレーニングをやっているときとで、食べるものは特段変えていませんし、飲酒量も全く変わっておりません。変化したことはただ1点、トレーニング手法のみです。
 なのにこれだけの違い…ワタクシは、「ワタクシは今まで、人生の貴重な時間をドブに捨てた…もっと早くトレーニングの断捨離をすればよかったんだ…」と、悔恨の情でいっぱいになりました。
 そして、なぜ長距離ランがトレーニングとしてダメなものなのかというのを調べれば調べるほど、漫然とそんなことを続けていた自分の馬鹿さ加減に暗澹たる思いがしました。

 「長距離ランの健康に対するネガティブな要素」について、現在では様々な書籍やネット情報で知ることができるのでこちらでの解説は省略しますが、要するに長距離ランで得られるものはただひとつ、満足感と達成感だけ。あとは痩せにくく、疲労しやすくなった体と、ガタガタの関節だけが残る、ということです。
 
 彼らがそれでも走る理由…。冒頭には彼らが人前でだけ語る「タテマエ上の理由」を描きました。
 実はワタクシ、これまで30人は下らない弊社の長距離ランナー共、しかもかなりのガチ勢と出会い、その理由について訊く機会がありました。

 その中でワタクシは、彼らが一様に、自分好きで地頭が悪いということに気づきました。 

 そうです。要するに彼らは、何かの目的があって走っているわけじゃないんです。
 彼らはただ漫然・漠然と走ることで「頑張る自分」に酔っ払い、走ることでドバドバ出てくる脳内麻薬の気持ちよさに心と体をゆだねているか、かつてのワタクシのように「ランニングを止めたら何かよくないことが起きそうで怖い」という現状維持バイアスに毒されているかのいずれかであり、それ以外のエビデンスに裏打ちされた「何か」を持って走っている人間は、弊社長距離ランナーに限って話をすれば、いままで1人もそうした人に会ったことがありません。
 彼らと話をすればすぐにわかりますが、走る理由を尋ねても明確な説明が返ってくることはなく、ほとんどはいつの間にやら話題が変わっており、「いついつのどこのマラソン大会でね…」とか、「どこそこのマラソン大会でね…」とかいう会話に終始することがほとんどで、まともな会話が成り立つこと自体が少ない。
 彼らの走る理由は「安易に快感・達成感を得る」「現状維持バイアス」いずれか以外の何物でもなく、それを説明できない、あるいは知っていても認めたくないという頭の悪さに、ワタクシは呆れを通り越し、そぞろに哀れを催すのでした。

 弊社において恐ろしいのは、そういっ「「こんなに苦しくて生産性のないことを頑張る俺って、チョーカッコイイ…」と考える馬鹿が仕事で要職に就き、長距離ランで培った腐った思考や神経を、そのまんま仕事に持ち込んでいること。
 つまり、目的が判然とせず、やる意味のないムダ極まりない「クソ仕事」を平然とやらせ、それに快感を覚えるということを常態化させているのです。
 大局的な観点からものを見ることなく、自分の狭い価値観だけで物事を推し進めるというのを「単純価値バイアス」といいますが、エライヤツの長距離ランは、先ほど申し上げた「現状維持バイアス」のほか、このバイアスも助長しており、百害あって一利ないといって過言ではありません。
 
 「ほんとうに大切なものは目に見えない」とは、たしか星の王子様が言っていたような気がしますが、そのデンでいえば、弊社の長距離ランナーは須らく「明きメクラ」と呼んで差し支えないでしょう。
 そしてワタクシが以後の人生で長距離ランニングをやることは、エビデンス的な観点からも、弊社にいるバカ長距離ランナーと大きく距離を置くという意味でも、もう絶対にないでしょう。

「人の好き嫌いをなくしましょう」という虚言

2020-06-23 12:26:10 | 兵隊の道・仕事の話
 ワタクシは生まれつき、食べ物に好き嫌いはありませんが、付き合う人間に関してはかなり好き嫌いが激しく、それは現在進行形で続いています。
 ですからガキのころから「友達」なんてものはほぼ存在せず、ガキの時分にはそうした姿勢をよく教師から責められていました。しかし「みんな仲良く」というのが生理的にムリなワタクシの「友達なんていらん」という姿勢が変わることはありませんでした。

 ワタクシの好きなとある作家さんの著作の中に、こんな一節があります。
「人を嫌ってはいけないという教えは、
『食事をしてはいけません』
『寝てはいけません』
というダメ出しと同様、本能に背くものだから実現不可能である」
 これを初見したとき、我が意を得たりと膝を打つとともに、自分の今までの選択が間違っていなかったと、大いに意を強くしたものであり、また同一作者の別著作の中では「一人になりたい人間を無理にドッジボールの仲間に入れる教師がいたが、あれは犯罪に等しい」といったことも主張しており、これまた我が意を得たりとの意を強くしております。

 で、大人になった今、バカ教師やバカ上司が言っていた「みんな仲良く」が出来なくて人生何か困ったか?…ということを自問したとき、ワタクシは即座に「何も困らなかった」と答えます。
 むしろ大人になってからこそ、「人の好き嫌い」を鮮明にし、自分より馬鹿なヤツ、ダメなヤツとの付き合いをどんどん切るべきだと思っています。
 なぜかといえば、「人は年を取るごとに様々なことを勉強・経験するため、どんどん賢くなっていく生き物」ではなく、「人は勉強や鍛錬、修身を怠れば、年を取るごとに生来持っている愚かさが顕在してきて、どうしようもなくなる生き物」だからです。

 近年の研究結果によりますと、人間はその性格形成において、少なく見積もって5割、多く見積もってなんと9割が親の遺伝子がダイレクトに反映される、とされています。
 繰り返しになりますが、だからこそバカやクズは年をとればとるほど激化するいっぽうであり、治ることはありえない。だからこそ年を重ねるごとに、ダメなヤツ、バカなヤツとの付き合いはどんどん絶っていくべきなのです。

 ワタクシが現在「付き合いを断つべき輩」としているのは以下の3通りの人間です。

①「仕事のスキルを身に着ける=会社に認められている、ひいては社会に認められている」と勘違いしている
②自分の仕事以外における「普通」を知らない
③「小人の交わりは甘きこと醴(よう)の如し」を地で行くような人づきあいを快としている

 ①~③に共通するのは「愚かな人間が虚栄心を安易に満たすことができる」という点であり、いずれにせよ、これらに該当する人間と付き合いを断つことは、はっきりいっていいことづくめ。何も悪いことはないと断言できます。

 バカ人間やクズ人間と付き合わない。
 これは「うがい、手洗い」レベルの予防策ですが、皆様の人生をバカ・クズの魔の手から守るためには、必要不可欠にして最も効果的な予防策であると、少なくともワタクシは信じて疑っておりません。

 それを実践しているワタクシは…職場内における「心を許して話や相談ができる先輩・後輩」が片手で数えられる程度しかいないですね(;^ω^)

レベルアップ!?「男の有意義な時間の過ごし方」

2020-06-16 12:14:37 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 山本五十六元帥のご子息・山本義正氏が著した「父・山本五十六」(光文社カッパブックス・昭和44年初版。当然絶版)には、義正氏の幼少期に元帥が放った、このような言葉が残されています。
「男にとって有意義な時間のすごし方は、勉強すること、運動すること、寝ることの3つしかない。それ以外の時間の使い方は、中途半端で役に立たない。」
 この「勉強」の箇所について義正氏は「父の場合、この『勉強すること』の意味がくせもので、遊ぶことも、広い意味での勉強の中に含めていたのではないかと、私は邪推している。」としていますが、なるほど、位人身を極めた人のいうことは一味違う…と考えております。
(余談までに、ワタクシは「軍人・戦略家」としての山本五十六を全く評価していませんが、「一箇の男・社会人」としての山本五十六は高く評価しています←一介の兵隊がナニヲエラソウニヽ(`Д´)ノ)

 さて私儀、実家のある山口県から、遠い遠い八重山に来てから今年でなんと4年目になります。
 八重山に来てよかったことは様々に存在しますが、トップクラスによかったことは、仕事自体が単調であるため「ひとりの時間」の捻出がしやすく、読書の質をより高めることができた、ということです。
(「もともとのレベルが低すぎるんじゃね?」というツッコミもあると思いますが(;^ω^)、あくまで「ワタクシ内比」ということでご寛恕お願いいたします)
 読書はこれまでも、凡百の人間が言う「趣味」以上の趣味?ではありましたが、八重山に来るまでのワタクシの読書は、読むジャンルをかなり限定したものであった、ということは否めません。
 しかし八重山に来てから、何がどうしたのか、いかなる心境の変化があったのか自分でもよくわからないのですが、今まで一顧だにしなかったような書物…例えばビジネス書、心理学や経済学、その他今までは顧みることもなかった専門書…といったものを手当たり次第に読むようになっていました。
 今まで理解できなかった、購読する気もなかった本をふと手に取って読んで理解ができるようになり、「これって意外と面白いな、面白い類本ないかな」と思った時、それがすぐに目につく。そしてまた、面白い次の類本がすぐに目につくようになる…といった「本が本を呼ぶ」みたいな現象が、べつに読書家でもなんでもない、不肖の船員であるワタクシの身の上にも(かなり低いレベルではありますが)発生するに至りました(;^ω^)。

 詳細を書くと膨大な紙数になりますし、誰かに語る性質のものではないので話しませんが(;^ω^)、じつは読書以外にも、トレーニングの方法や格闘技の技の研究といった部門にも「類が友を呼ぶ」的な同様の現象が発生しており…なんとも不思議なものです。

 以上のことは誰かとその度合いを比較したり、あるいは喜びを共有するような種類のものでなく、結果としては単純に自己満足の世界に類するものですから、この手のお話を人様にするのは、恥ずかしいのでこれっきりで終わりです。
 ただワタクシは、そういう現象が身の上に起きた、山本元帥が言う「男にとって有意義な時間の使い方」がレベルアップしたただそれだけで満足しています。おわり。

ブルハの「夢」を深読み? その2 「限られた時間の中で 借り物時間の中で」見る夢は…意外と楽しい?

2020-06-13 10:19:23 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 続きになります(;^_^A。歌のことで2部構成になるのは、300本以上(閉鎖した前ブログから通算すれば500本くらい)の記事のなかで、おそらく初のことじゃないでしょうか(;^_^A。
 それはさておき。

 ブルハの「夢」以外の「夢」を歌った歌は、「夢をあきらめるな」「思い続ければ夢が叶う」などと無責任なことばかり言っていますが、自分の「夢」に人生の全てを賭け、本当にその「夢」を実際に叶え、その結果として、金銭的にも精神的にもな暮らしができている人って、いったい何人いるんでしょうか?
 それは絶対に多くない…いや、宝くじの高額当選者より数が少ないはずです。

 まず、夢を叶えるには特定の才能が必要となりますが、その「才能」なるものは、凡人がいかなる努力を払おうとも、全く手に入れることができない性質を持つことを理解しなければなりません。例えるならば、「数字のゼロにいくら大きな数を掛け算しても、ゼロはゼロのまま」みたいなモンでしょうか。

 1993年に発表されたある研究によりますと、人間の性格形成に関連し、遺伝が働きかける割合は、幼少期で4割~6割、成人後にはなんと9割にも達する、とのこと。
 このことから、下記のような真実が浮かび上がってきます。
「人間の性能は遺伝で9割方決着がついている。だから身の丈に合わないことや、自分にとって才能のないことで夢をつかもう、成功しようとしても、それは絶対に叶うことはない」
 こんなことを言うと、なんだかワタクシがひどい薄情者のように思われるかもしれませんが(実際そうだったりする点もあるんですがね(;^ω^))、世の中は意外とそんなものです。

 恥を忍んでお話ししますが、ワタクシは若い時期のごく一瞬だけ「武道・格闘技でメシを食う」という夢を持っていました。
 仕事でさまざまな転機が訪れたことや、いろいろなところで道場経営の厳しさを目の当たりにしたことによりこの「夢」は早々に放擲しましたが、今ではそうしておいてよかった、とつくづく思っております。
 
 永く武道・格闘技をやるうえでよくわかったことは、「格闘技でメシを食う」という夢を実現できるのは、以下の2つ(+1)の才能を持つ人だけだ、ということでした。
① 社会的に高い認知度を誇る武道・格闘技で好成績を挙げ続けることで企業・学校などの庇護を受けることができている「メジャー競技の抜きんでた強者」。
② 人を集めて世話をする商売がうまい、いい意味でも悪い意味でも「武道商人」。
③ 【番外編】後ろ暗い資金を運営できる才能を持った「あまり近寄りたくないヒト」
 ワタクシの場合、「試合に勝ってうれしくなく、負けて悔しくない」という我ながら不思議な性格をしており、そのためメジャー競技の強者など、夢のまた夢…というか、そんなもの最初っから望んでいませんから①はまるでダメ。
 ②についても、ワタクシは人付き合いが極めて悪いうえ、商才なんてカケラも持ち合わせていない。だからこれもまるでダメ。
 結果的には、ワタクシにとって「武道・格闘技でメシを食う」ということは、いくら努力しても実現しえない、そういった夢を見ることすらしてはいけない、身の丈に合わない話だったんですね。
 まあ、③に至っては論外ですが(-_-;)。

 なのでワタクシは身の丈に合わないことはやめ、「限られた時間の中で 借り物の時間の中で」、小さな夢を見続けることにしています。

 じゃあ、今のワタクシが武道・格闘技に対して何の夢も希望も持たず、ただ師匠への申し訳のためだけにトレーニングを続けているのか…というと、それも違います。 
 ワタクシは武道・格闘技の練習や、それに付随するフィジカルトレをやっているとき…まさに「限られた時間、借り物の時間」のなかでトレーニングをしているとき、とても幸せな夢を見ることができています。
 それ「弱くでダメな『ほんとうの自分』なるものを、ほんの少しでもマシにする」という、全然大それたものではなく、他人にとってはどうでもよく、とても小さいものですが、本人にとってはとても大切で、かけがえのない「夢」です。

 「限られた時間の中で 借り物の時間の中で」夢を見続けるのも、決して悪いもんじゃありませんよ(;^ω^)。

ブルハ「夢」を深読み?その1 名曲を名曲たらしめたフレーズ

2020-06-12 22:03:43 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 ちょっと前投稿から時間が経ってしまい、申し訳ございませんでしたm(__)m。

 前稿「実感!!『テレビを見過ぎるとバカになる』」の巻末、THE BLUE HEARTS名曲中の名曲「夢」に触れる機会がございました。
 この歌詞には「ヒトと自由」との相関関係を、平松政次のカミソリシュートくらい鋭く抉った(古い!古すぎる!)

 ワタクシが「夢」のなかで、「ヒトと自由の相関関係を実に鋭く衝いている!」と感じた一節はこちら。
 「限られた時間の中で 借り物の時間の中で 
  本物の夢を見るんだ 本物の夢を見るんだ」(1番)
 「俺には夢がある ときどきビビってる
 何だかんだ言われたって いい気になってるんだ 
  夢がかなうその日まで 夢見心地でいるよ」(2番)

 実は「夢」は「限られた時間」「借り物の時間」…つまり、夢の実現のためにバイトをしながらレッスンを頑張っている、受験勉強を重ねている、勉強をしている…といったように、「夢に自分の身を全て預けず、保険をかけた状態で夢を追っかけているとき」が実は一番楽しい。ワタクシは「限られた時間の中で 借り物の時間の中で 本物の夢を見るんだ」をこのように解釈しています。

 ではその努力の結果、夢がかなってしまったら?
 これは多くの「夢を叶えた人」が直面する現実…例えば「売れっ子の芸能人になる」「メジャーな作家になる」「大企業を作る」などなど、夢を見ているときには美しい夢だったことが現実になったとき、かつての「夢」は次々に過酷な事実を容赦なくつきつけます。
 芸能人や作家の夢を叶えた人には「面白くない」「マンネリ」「パクリ」、大企業を作った人には「もうけ過ぎ」「やり方が汚い」などといった心ない批判がバシバシ押し寄せますし、生活の全てが自分の双肩にのしかかる重圧…ああ、夢なんてかなえなきゃよかった、逆に自分の首を絞めしまったと後悔…なんてことは、枚挙にいとまありません。
 
 ドイツ生まれの碩学・エーリッヒ・フロム(1900~1980)の名著「自由からの逃走」において、「自由」を謳歌するには、個人の成長・幸福を実現するために自分自身でモノを考え、感じ、話すことが重要であると論じています。要するに、それなくして「自由」の裏側にある猛烈な孤独と責任感を跳ね返すことはできない、といった意味のことを話しています。
 世の中には二言目には「自由、自由」と軽々しく言うヤツもたくさんいますが、そういった手合いに限って実は「自由の重荷から逃れて新しい依存と従属を求めやすい性格」、ひらたくいえば何かの庇護の下で、奴隷の自由を好む性格をしている、と断じています(フロムはこうした連中の性格を「権威主義的性格」と表現しています)。

 「夢」を実現し、何者からも解き放たれた「自由」を手にした時に感じる嬉しさ…その直後に襲ってくる「オレはこの夢にすべてをかけて大丈夫なのか?夢を夢のままにしておいたほうが安定した人生が送れるんじゃないか?オレの土性骨はその重さに耐えられるのか???」…といった自問自答が、必ずあるはずです。
 それを「ときどきビビってる」と表現したことこそが、ブルハの「夢」を、世間にマスで量って車に積んで売れるくらい溢れている、凡庸な「夢」の歌とは大きく一線を画するものたらしめた、とワタクシは思っておりますし、だからこそワタクシはブルハの「夢」がいまだにダイスキなんですね(;^ω^)。

 もちろん、「ときどきビビってる」を別口で解釈されている方も大勢いると思いますが、とりあえずワタクシはこのように解釈している、というお話でございました。