【その37 警察武道に立ちはだかる、進駐軍「バカの壁」】
終戦後、文部省は進駐軍から「日本古来の武道は、軍国主義的・超国家主義的なものだ」という指摘を受け、昭和20年11月6日、文部次官通牒(文部省発体第40号)により、学校における武道を全面禁止します。
警察は別に、進駐軍から「やっちゃダメ」と言われたわけではありませんが、後難を恐れて文部省に「右倣え」しました。
ただこの「右倣え」は内務省からの命令ではなく、都道府県単位による「自粛」でしかありません。内務省は逆に「各都道府県警が勝手に、武道訓練を自粛した」ということを聞いて驚きます。
昭和20年11月、内務省は警保局教養課長名で「警察官の武道練習は、従前どおり実施して差し支えない」との通達を出します。
じつはこの「警察武道の復興」というお題目が、現在に続く「逮捕術」作成の源泉となるのですが、終戦直後のこの時期には警察だけではなく、一般の武道界にも、進駐軍の無知に由来する各種の口出し・改編の嵐が吹き荒れ、非常に混沌とした状況でした。
しかし、その「混沌」を少しでも詳細に説明しないと、逮捕術の生まれた経緯が全くわからなくなりますので、少しずつお話していきます。
「警察武道復興」に向け、内務省のお膝元にあった警視庁の動き出しは早く、昭和21年5月には、戦災を免れた警察練習所道場において「監察官方面柔剣道対抗試合」という大会が実施されます。
この試合は、警視庁方面隊チーム同士による23人団体戦で競われ、柔道は第一方面、剣道は第三方面が優勝します。
昭和17年の対署試合以後、武道大会は戦争のために永く絶えていたことから、復活第1号であったこの大会の熱狂ぶりは大変すさまじいものだった、と当時の記録は伝えています。
この大会の成功に気をよくした警視庁は、翌22年、対署試合の復活を宣言。戦災で焼失した得剛館(かつて存在した警視庁の武道場)ではなく、宮城内の済寧館で行われた戦後初の対署試合は、警察官の士気(警視庁のみ)を大いに上げたのでした。
しかし、「これで警察武道、そして日本武道復活だ!」と無邪気に喜んでいたのは、警視庁のお歴々だけ。無知・無教養な進駐軍による日本武道への魔の手は、直前まで忍び寄っていました。
昭和21年8月、まず社会体育としての剣道が全面禁止の憂き目を見ます。
進駐軍にとっては、日本軍将校の腰にぶら下がっている刀=日本軍国主義の象徴であり、剣道をかなり悪意の目で見ていました。進駐軍占領時代の7年間、剣道は弾圧に次ぐ弾圧を受けますが、これはその第一歩となります。
次いで同年11月、日本の武道振興の総本山であった、大日本武徳会に解散命令が出されます。
第8回でお話ししましたが、武徳会は発足から大東亜戦争開戦までの間、会員からの会費と寄付によって成り立つ、半官半民の団体でした。
しかし昭和17年3月21日、政府は戦時における国民武道の振興を図るため、政府外郭団体としての「大日本武徳会」を別途設立。その傘下に糾合される形となります。
(政府外郭団体としての武徳会は、皮肉の意味を込め、会発足当時の首相・東条英機の名を冠し「東条武徳会」と呼ばれておりました。本稿でも、既存の武徳会との差別化を図る意味で、その名称を使用します。)
これが武徳会にとって「大凶」と出ました。絶対に乗ってはいけない、とてもビッグな負け馬に乗ってしまったのです。
終戦後にわが国を占拠した無学な進駐軍は、東条武徳会の存在を知り、これを直ちに「軍国主義・反民主主義的集団、因循な暴力集団」とレッテル貼りし、この解体にかかります。とうぜんその眼中に、東条武徳会以前の武徳会が積んだ陰徳は、一切映っていません。
武徳会は自主解散すら許されず、「進駐軍の命令による解散」という非情の扱いを受け、多数の武徳会系武道教員が、あちこちで公職追放の憂き目を見ます。その中には、かつて警察で師範、教師あるいは助教として、柔剣道を教えていた大先生方が多数いました。
このようななか、進駐軍は柔道だけにはなぜか寛大であり、地方によっては進駐軍人と警察が柔道交流を行った(昭和20年11月、於山口県防府市)、なんてこともありました。
おそらく「剣道は刀を持つ軍国主義の象徴だけど、柔道は徒手だし、打撃系の技もないから安全」という、ごく単純な発想でそうなったことと思われますが、とにもかくにも、警察武道の火を絶やさないためには、
① わりかし寛大な措置を取られている柔道の社会的地位を固守する
② 進駐軍に毛嫌いされている剣道については、師範・教師・助教といった専門職を保護する場所を確保し、且つ、技術の火を絶やさないための代替手段を講じる
という2つの課題をクリアする必要が生じます。
この2つの課題のうち、②のムーブメントが、そっくりそのまま「逮捕術」に繋がっていきます。
【その38 終戦直後の、極悪!治安情勢】
ここで、当時の治安情勢の方にも目を向けておきましょう。
このころ、わが国の治安はただただ「極悪」としか表現しようのないものでした。
ただでさえ食糧や衣料など、生活必需品のすべてが不足状態であったところに、復員者がドっと復員したことでそれらがさらに加速、国民全体が窮乏状態に陥ります。すると必然的に、盗みやカッパライ、それがもつれての傷害・殺人がバンバン発生します。
では実際、どのような事件が発生したのか。ここで「山口県警察史」に残る、当時の「食糧難に起因する各種事件」を列挙してみます。
・昭和20年9月、大津郡三隅村の村民130人が漁船数十隻に分乗し、仙崎港においてあった高粱184袋を集団で窃盗。この際、警邏中の警察官2名が制止を試みるも、多勢に無勢、ボコボコにされる。
・終戦直前~昭和23年にかけ、下関駅付近で相次いで強姦事件が発生。
被害者は食料買い出しの婦人ばかりで、犯人は国鉄工機部職員。
食料の買い出しのために駅を利用する婦人に「食料を世話する」「近く警察の車内点検・摘発があるが、いい逃げ道を教える」などと言葉巧みに近づき、隙を見て脅し、強姦するという手口。
昭和21年、東京に於て10人もの買い出し婦人を強姦・殺害した「小平事件」という凶悪事件が発生したが、発生時期・手口が酷似していたことから、「関の小平事件」と呼ばれた。
・昭和21年、下関市川中で、頻発する作物への野荒らしに業を煮やした農民が自警団を結成していたところ、野荒らしの男がその網にかかり、自警団にボコボコに殴られ死亡。
これらは名作漫画「北斗の拳」作中のエピソードではありません。すべて、昭和20~21年ころにかけて、山口県で実際に起きたものです。
特に、最初に掲げた「漁船に乗り込んで、集団で高粱略奪」はかなり衝撃的な事件ですが、実はこのころ、こういった集団食糧倉庫襲撃事件は、昭和21年1月~4月における山口県内だけで58件も発生(逮捕者480人!)していますから、ほぼ日常茶飯事レベルの事件。
このことからもわかりますように、当時の食糧不足、それに起因する治安の悪さは、現代のワタクシたちの想像を絶して余りあるものでした。
当時の世相は食糧不足以外にも、エロの解放による風俗紊乱、復興資金供出目的で始まった公営ギャンブルの過熱、ヒロポンなどの薬物乱用などなど、「抑圧からの解放」「刹那の快楽」といったモノがないまぜになって融合し、「カオス」「無法」としかいいようのない、混沌とした世相でした。
こうした世紀末状態の治安を担う警察の武器は、バットのような形をした、長さ45cmのチンケな警棒1本と、旧軍のお古のボロ拳銃程度。当然のごとく、あちこちで警察官がボコられたり、斬られたり、刺されたりといった事件が続出します。
このような状況にあたり、「実戦で使える制圧技」の早期制定を求める声が全国から澎湃と現れたのは、当然の成り行きといえましょう。
終戦後、文部省は進駐軍から「日本古来の武道は、軍国主義的・超国家主義的なものだ」という指摘を受け、昭和20年11月6日、文部次官通牒(文部省発体第40号)により、学校における武道を全面禁止します。
警察は別に、進駐軍から「やっちゃダメ」と言われたわけではありませんが、後難を恐れて文部省に「右倣え」しました。
ただこの「右倣え」は内務省からの命令ではなく、都道府県単位による「自粛」でしかありません。内務省は逆に「各都道府県警が勝手に、武道訓練を自粛した」ということを聞いて驚きます。
昭和20年11月、内務省は警保局教養課長名で「警察官の武道練習は、従前どおり実施して差し支えない」との通達を出します。
じつはこの「警察武道の復興」というお題目が、現在に続く「逮捕術」作成の源泉となるのですが、終戦直後のこの時期には警察だけではなく、一般の武道界にも、進駐軍の無知に由来する各種の口出し・改編の嵐が吹き荒れ、非常に混沌とした状況でした。
しかし、その「混沌」を少しでも詳細に説明しないと、逮捕術の生まれた経緯が全くわからなくなりますので、少しずつお話していきます。
「警察武道復興」に向け、内務省のお膝元にあった警視庁の動き出しは早く、昭和21年5月には、戦災を免れた警察練習所道場において「監察官方面柔剣道対抗試合」という大会が実施されます。
この試合は、警視庁方面隊チーム同士による23人団体戦で競われ、柔道は第一方面、剣道は第三方面が優勝します。
昭和17年の対署試合以後、武道大会は戦争のために永く絶えていたことから、復活第1号であったこの大会の熱狂ぶりは大変すさまじいものだった、と当時の記録は伝えています。
この大会の成功に気をよくした警視庁は、翌22年、対署試合の復活を宣言。戦災で焼失した得剛館(かつて存在した警視庁の武道場)ではなく、宮城内の済寧館で行われた戦後初の対署試合は、警察官の士気(警視庁のみ)を大いに上げたのでした。
しかし、「これで警察武道、そして日本武道復活だ!」と無邪気に喜んでいたのは、警視庁のお歴々だけ。無知・無教養な進駐軍による日本武道への魔の手は、直前まで忍び寄っていました。
昭和21年8月、まず社会体育としての剣道が全面禁止の憂き目を見ます。
進駐軍にとっては、日本軍将校の腰にぶら下がっている刀=日本軍国主義の象徴であり、剣道をかなり悪意の目で見ていました。進駐軍占領時代の7年間、剣道は弾圧に次ぐ弾圧を受けますが、これはその第一歩となります。
次いで同年11月、日本の武道振興の総本山であった、大日本武徳会に解散命令が出されます。
第8回でお話ししましたが、武徳会は発足から大東亜戦争開戦までの間、会員からの会費と寄付によって成り立つ、半官半民の団体でした。
しかし昭和17年3月21日、政府は戦時における国民武道の振興を図るため、政府外郭団体としての「大日本武徳会」を別途設立。その傘下に糾合される形となります。
(政府外郭団体としての武徳会は、皮肉の意味を込め、会発足当時の首相・東条英機の名を冠し「東条武徳会」と呼ばれておりました。本稿でも、既存の武徳会との差別化を図る意味で、その名称を使用します。)
これが武徳会にとって「大凶」と出ました。絶対に乗ってはいけない、とてもビッグな負け馬に乗ってしまったのです。
終戦後にわが国を占拠した無学な進駐軍は、東条武徳会の存在を知り、これを直ちに「軍国主義・反民主主義的集団、因循な暴力集団」とレッテル貼りし、この解体にかかります。とうぜんその眼中に、東条武徳会以前の武徳会が積んだ陰徳は、一切映っていません。
武徳会は自主解散すら許されず、「進駐軍の命令による解散」という非情の扱いを受け、多数の武徳会系武道教員が、あちこちで公職追放の憂き目を見ます。その中には、かつて警察で師範、教師あるいは助教として、柔剣道を教えていた大先生方が多数いました。
このようななか、進駐軍は柔道だけにはなぜか寛大であり、地方によっては進駐軍人と警察が柔道交流を行った(昭和20年11月、於山口県防府市)、なんてこともありました。
おそらく「剣道は刀を持つ軍国主義の象徴だけど、柔道は徒手だし、打撃系の技もないから安全」という、ごく単純な発想でそうなったことと思われますが、とにもかくにも、警察武道の火を絶やさないためには、
① わりかし寛大な措置を取られている柔道の社会的地位を固守する
② 進駐軍に毛嫌いされている剣道については、師範・教師・助教といった専門職を保護する場所を確保し、且つ、技術の火を絶やさないための代替手段を講じる
という2つの課題をクリアする必要が生じます。
この2つの課題のうち、②のムーブメントが、そっくりそのまま「逮捕術」に繋がっていきます。
【その38 終戦直後の、極悪!治安情勢】
ここで、当時の治安情勢の方にも目を向けておきましょう。
このころ、わが国の治安はただただ「極悪」としか表現しようのないものでした。
ただでさえ食糧や衣料など、生活必需品のすべてが不足状態であったところに、復員者がドっと復員したことでそれらがさらに加速、国民全体が窮乏状態に陥ります。すると必然的に、盗みやカッパライ、それがもつれての傷害・殺人がバンバン発生します。
では実際、どのような事件が発生したのか。ここで「山口県警察史」に残る、当時の「食糧難に起因する各種事件」を列挙してみます。
・昭和20年9月、大津郡三隅村の村民130人が漁船数十隻に分乗し、仙崎港においてあった高粱184袋を集団で窃盗。この際、警邏中の警察官2名が制止を試みるも、多勢に無勢、ボコボコにされる。
・終戦直前~昭和23年にかけ、下関駅付近で相次いで強姦事件が発生。
被害者は食料買い出しの婦人ばかりで、犯人は国鉄工機部職員。
食料の買い出しのために駅を利用する婦人に「食料を世話する」「近く警察の車内点検・摘発があるが、いい逃げ道を教える」などと言葉巧みに近づき、隙を見て脅し、強姦するという手口。
昭和21年、東京に於て10人もの買い出し婦人を強姦・殺害した「小平事件」という凶悪事件が発生したが、発生時期・手口が酷似していたことから、「関の小平事件」と呼ばれた。
・昭和21年、下関市川中で、頻発する作物への野荒らしに業を煮やした農民が自警団を結成していたところ、野荒らしの男がその網にかかり、自警団にボコボコに殴られ死亡。
これらは名作漫画「北斗の拳」作中のエピソードではありません。すべて、昭和20~21年ころにかけて、山口県で実際に起きたものです。
特に、最初に掲げた「漁船に乗り込んで、集団で高粱略奪」はかなり衝撃的な事件ですが、実はこのころ、こういった集団食糧倉庫襲撃事件は、昭和21年1月~4月における山口県内だけで58件も発生(逮捕者480人!)していますから、ほぼ日常茶飯事レベルの事件。
このことからもわかりますように、当時の食糧不足、それに起因する治安の悪さは、現代のワタクシたちの想像を絶して余りあるものでした。
当時の世相は食糧不足以外にも、エロの解放による風俗紊乱、復興資金供出目的で始まった公営ギャンブルの過熱、ヒロポンなどの薬物乱用などなど、「抑圧からの解放」「刹那の快楽」といったモノがないまぜになって融合し、「カオス」「無法」としかいいようのない、混沌とした世相でした。
こうした世紀末状態の治安を担う警察の武器は、バットのような形をした、長さ45cmのチンケな警棒1本と、旧軍のお古のボロ拳銃程度。当然のごとく、あちこちで警察官がボコられたり、斬られたり、刺されたりといった事件が続出します。
このような状況にあたり、「実戦で使える制圧技」の早期制定を求める声が全国から澎湃と現れたのは、当然の成り行きといえましょう。
極端から極端にふれる、日本って怖い国だったんですね(T_T)。
(゜-゜)様ご指摘の通り、何もかもが不足していたあの時期に、大会をやろうとしたのかは不明ですが…おそらく、野球が終戦後わずか3か月で復活(終戦後初のプロ野球の試合・東西対抗戦第1戦は、昭和20年11月23日開催)し、その人気が影響していたのかな…とも考えますが、警察の業務を考えた場合「それでよかったのかな」などと考えてしまいます。
老骨武道オヤジさま、いつも貴重な昔の話をありがとうございます。
柔道の道場通いが楽しかった思い出…なにか、いろいろと身につまされます。
またよろしくお願いいたします!