集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

若狭の拳王とわたし

2015-04-28 19:49:48 | 格闘技のお話
 うちの会社に入って、私は「強い」人を見たことがありません。「うまい」とか「すばしっこい」という人は多少知ってますが。
 いや、一人だけ例外がいました。「いました」と過去形なのが残念なのですが。
 大阪の泉州支社時代に師事した(と私が勝手に思っている)Fさんという方です。
 京都府舞鶴市出身。京都府警のおまわりさんからうちの会社に転職した変わり種の方で、私が勝手につけて流行らせたあだ名が「若狭の拳王」。
 拳王の名に恥じない強さ、優しさ、意識の高さを持ち合わせた、まさしく唯一にして、最強の先輩でした。

 F先輩は泉州支社に入る前から、我が社の中でその強さは鳴り響いていました。
 我が社の全国逮捕術大会3期連続優勝!先代館長のときに芦原会館2段を取得!もと京都府警の特練!
 F先輩の徒手格闘技の強さは、バカと素人とザコしかいない(私も含め)うちの会社のレベルを、はるかに超えるものでした。

 F先輩と唯一、一緒の課になったのは平成15年のことでした。
 F先輩は格闘技のみならず、仕事でも一流の腕を持っていましたが、不肖の後輩の私は、仕事も格闘技も何もかも、ダメダメで中途半端。F先輩は憐憫のため息をついておられましたが、そんなバカ後輩を根気よく、丁寧に指導しておられました。これに関してはいまも感謝の他ありません。
 そんなF先輩が、私に一瞬だけマジな目を向けたことがあります。
 私が計画した会社挙っての格闘訓練で、フルコンルールのライトスパーを組み込んだことがあります。
 「強く当てないで、技のラリーを楽しんで・・・」みたいな感じで始めた訓練。F先輩と私以外は素人ばかりなので、腕にも足にも防具をガチガチに完着し、痛くない状態でワイワイ、キャキャと突き蹴りを楽しんでいた中・・・なにかのめぐり合わせで、F先輩と私があたってしまいました。
 私はライトで流すんだろう、と思っていましたら、F先輩の切れ長の目が、恐ろしい殺気を放ったのです。
 そういえば、F先輩には「わたしいちおう、芦原会館の初段なんですー」みたいな話をした記憶がありました。まさかこの機会に、ガチの実力を試そうと考えたのでは・・・(汗)「マジでやらないと殺られる!!!!!」
 私はマジで戦慄しました。

 タイムキーパーのアホが発した気の抜けた開始の合図とともに、わずか1分、されど1分、永遠にも思えた、F先輩とのガチのスパーが始まりました。
 身長は高くないのですが、全身がガチガチに鍛えられ、しかもその手足が身長に比してやたらと長いF先輩のロングフック、ローキックがバンバン命中します。丸太で殴られるような衝撃と、スキのないコンビネーション。打つ手がないとはこのことです。
 やっとの思いで突き蹴りを返しますが、軽くいなされ、逆にカウンターのローや下突きを返される始末。さすがは先代館長に認められた二段は違います。
 ラスト10秒がコールされたとき、F先輩は一気に前に出てきました。左利きのF先輩は、右足前のサウスポースタイルです。
 本当に、本当に反射的に、私は前足である左のミドルを振りました。そのミドルは、本当にたまたま、ガードを上げて突進するF先輩の右脇腹にヒットしました。まさに偶然としか言いようがありません。
 わずかに拳王の足が止まった!私は全身の祈りを込めた右のローを、止まった先輩の左足に入れました。アウトローキックという、前足ではなく奥足へ入れるローキック。今ではとてもポピュラーなテクですが、このときはたまたま、ほんとうにたまたま出ました。

 わずかに崩れた拳王。しかしすぐに前手の右の下突きを私の腹に返そうとした・・・時、時間になりました。

 先輩は私の腹に、ズドン!と決まるはずだった下突きをぽん、と当てて
「あーあ、H(←私の本名)にいじめられたよー」
などと軽口を叩きながら、次の相手に向かって行きました。
 いや、いじめられたのは私の方なんですが・・・ガタガタ。

 F先輩はこのスパー後、数年だけ和歌山に転勤しましたが、すぐ泉州支社に復帰。その優れた格闘能力と格闘に関する造詣に、しばしば教えられ、啓蒙されるところ大でした。
 さらにその後、福井支社に転勤になった・・・と思った瞬間、F先輩はなんと、民間の格闘技道場にインストラクターとして転身を遂げてしまわれました。
 びっくりすると同時に、「F先輩らしいなあ~」と、変な感心をしてしまいました。たぶん私だけでしょうが。
 ちなみに、その格闘技道場の「インストラクター紹介」の写真を見ても、F先輩ほどの凄さを感じる人間は全くおらず、おそらく転職後2年以上を経た現在では、F先輩は相当偉いさんになっておられるのでは、と愚考する今日このごろです。

 うちの会社の中ではいろいろゴチャゴチャ言われていますが、40歳を過ぎて、自分の格闘技に関する造詣に人生を賭けた先輩を、私は無条件に尊敬します。チキンでビビリな私には、絶対にできないことです・・・・
 F先輩は、今の会社で出会った、唯一にして無二、格闘技関係で尊敬してやまない先輩です。
 
 

 

潜水夫研修よもやま物語(その2)

2015-04-24 18:31:25 | 兵隊の道・仕事の話
 第2回目は、知っているようで知らない、潜水夫研修に関する全体像です。
 これを見れば、「サルウミ」という映画の第1作を見るときのある程度の予備知識になるかもしれません。
 なにしろあの映画ときたら、うちの会社の潜水夫が「全職員のわずか1パーセント!」だの「究極のきつい研修!」みたいな、まるで毛唐のクソ映画を「全米が震撼!」とかいって売り出すのと同じような表現をしているため、逆に実態が見えにくいと思いますので、等身大の全体状況をご紹介いたします。

1 実施時期
 1年に2回あります。前期は5~6月、後期が9~11月です。
 カリキュラムや受講時間数は全く同じなのですが、国民の休日が多い関係上、後期の方がちょっと長い状態になっています。
 ただ、広島市や呉市近郊の、他大学の女子大生と仲良くなりたいなら、前期のほうがいいんじゃないっすかね(学生祭があるため)。
 当然モテないことでは今も昔も人後に落ちない私には、なんにも関係ない話ですが!!!!!!(ガックリ)

2 研修生の数
 各研修ごとに16名、8バディです。
 かつてはプールのコース数が7コースだけだったので、7バディ14人だったのですが、むりやりコースラインを1つ増やし、私が参加した時から、現在の8バディ16人になりました。
 うちの会社の地方本社の数が11。その地方本社が1回の研修につき1~2人の研修生を送れます。ですので、たとえ前期の研修で1人しか研修生を送れずとも、後期でもう1人送れることができますので、潜水行政的に支障を生じたことはありません。
 ただ、無駄にたくさんの潜水夫の乗る船や、漫画でも有名になった「トッキュウ鯛」という、脳みそ筋肉組織を持つ「横浜地方本社」と、オタクの間で話題沸騰の「とくしゅぶたい」なるものを持つらしい「神戸地方本社」は、恒久的にたくさんの潜水夫が必要らしく、けっこうたくさんの人を研修に送り込んでましたっけか。
 え、お前の枠はどこの「地方本社」だったって?まあそこは、アハハハッハハ・・・・(汗)。

3 カリキュラム
 前半の1ヶ月は午前座学、午後プール実習です。
 水曜日は体の休養を兼ねた「潜水止め」の日で、この日の午後は体育や資機材整備などに充てられます。当時の潜水教官のU教官が野球大好きだった関係で、よくソフトボールをしてましたっけ。
 後半の1ヶ月は、研修の行われる幹部学校の前面海域での慣海実習と、よその海域での海洋実習に充てられます。映画「サルウミ」で、ちびノリダーが死んだ実習は、この海洋実習になります。
 映画のせいで、海洋実習で行われる深深度潜水はとても危険な訓練、というイメージを持たれがちですが、1年に単純計算で32人の研修生がヤレル程度のことですよ。死ぬことを前提とするほど、難しい訓練なはずないでしょうが(呆)。
 映画のせいで変な先入観を持ってしまった方に言いますが、「潜水夫研修は、手足がちゃんと合計4本付いている人間なら、誰でもできます!」

4 教官
 研修を主催する幹部学校には、この研修専門の教官が2人います。映画では藤竜也しかいませんでしたが、本当は2人います。
 ただ、教官2人だけでは16人を見るには全然足りないので、プール実習時に1隻、海洋実習時に2隻、うちの会社の潜水夫を積んでいる船を派遣し、その潜水夫を「アシスタント教官」、乗組員をデッチとして使う制度が確立しています(ちなみに私は若き日、この「デッチ」を4回やりました!!)。
 派遣船の潜水夫教官のことを、各バディに1人ずつ教官がわりにつくことから、「バディ教官」などと呼んでいます。
 このバディ教官、たまにはすごい人もいますが、大方が普通、あるいは普通以下の「教官」です。私の時はたまたま、プール・海洋ともおだやかなで実力ある方であったため、(私が)暴力を振るうことがなくてよかったです。 

5 お休み
 カレンダー通りです。
 ですんで、金曜日の夕方になると私はとにかく、実家に帰ることしか考えていませんでした。
 コンパなんて馬鹿らしくて(←モテないから)。
 いちおう研修中、しょうがないのでイヤイヤながら人数合わせで出たコンパがありましたが、当然早く帰って実家でメシを食ってました。
 考えてみりゃ、寂しいヤツですね。

6 サラメシ
 ウィークデーのごはんは、幹部学校の食堂です。
 同じ学校の食堂なのですが、私が韓国語研修をしていた頃のメシは、本当にひどかった。
 ゴムのような肉、ダシのない味噌汁(しかも具がキャベツ)、糊のようなゴッチンメシ。ちなみにそんな飯を供与していた当時の補給長は、後日、収賄で捕まりました(笑)。
 なので4年ぶりに潜水夫研修で戻ってきたとき、メシがあまりにも普通の飯になっていたので、違う意味でびっくりしました。
 でも、昼イチで行われる呼吸停止が苦しいので、どんなにうまいものが出てきても、月、火、木、金曜日の飯は腹いっぱい食えませんでしたっけ(泣)。
 学校の寮内では酒が飲めないので、当時学生寮で売っていた、ノンアルコールビールをよく飲んでいましたっけ。

 (その3)からはまた、個別のお話に戻しますね。 
 

潜水夫研修よもやま物語(その1)

2015-04-21 21:20:42 | 兵隊の道・仕事の話
 この4月でついに私も、今の会社勤続20年になります。
 うちの会社は初任教育がとても大したことがない(警察学校や自衛隊と違い、現場で使えない奴から順番に教官をするせいだ、と私は思っていますが)ため、何かににつけ、その後の部内研修の多い組織なのですが、私の小さな自慢は、「我が社のガテン系研修には全て参加した」というものです。
 今回はそんな中で、「サルウミ」(仮)という映画のせいでとても有名になった、潜水夫の研修についてお話しましょう。

 私がその研修を受けたのは、平成15年の5月のこと。今からちょうど12年前になります・・・ジジイになったな(涙)。
 この研修は原則、本人の希望と選考によりやっと行けるような研修なのですが、私は実は、全く希望していませんでした。というより、一番行きたくない、やりたくない研修でした。別に泳ぎや体力に自信がない、ということではなく、当時私はうちの会社の潜水士のことを、普通の仕事ができないクズがなるものと信じて疑ってなかったため、絶対、そんな輩の仲間になりたくないと思っていたからです。そのへんの詳細は、先日記載した「せんぼんざくら」という記事をお読みください。
 しかし、泳力が人並み以上にあったことから、当時所属していた職場で、なぜか私に内緒で潜水研修に行く話が決められてしまっており、潜水夫研修に半強制的に行かされることになりました。
 研修に行く楽しみはただ一つ、研修施設のある広島県呉市は、平成10年から11年まで韓国語を学ぶために住んでいたため、とても土地勘があること。そして実家が呉市からそんなに遠くない山口県柳井市であるため、週末には実家でうまいものが食えるという打算からでした。

 着校日は忘れもしない5月9日。ほかの研修生にナメられないよう、実家で拾ってきた金色のネクタイ(!)を締め、韓国語研修の頃から仲良しだった売店のおばちゃんと、「あんた、また来たんかいねー」「こんどは潜水ですよー。もう来んと思っちょったんですけどねー。またよろしくですー。」なんて世間話をしながらアイスクリームを食っていたら、全国から続々と、若々しい研修生が参集してきました。みんな私をちらっとみて、嫌そうに目を伏せていきました。あとで聞きますと、「潜水夫の研修に来たのに、ごつい体をしたヤクザみたいなオッサンがいるから、『恐ろしい研修に来た』と思った」ということでした。そんなに悪そうな顔してたのかなあ、私(涙)。

 研修に参集したのは私を含め、総勢16人。北は函館から、南は那覇まで、全国の人命救助を志す猛者(私を除く)が集結しました。
 最年長は当時32歳、市川海老蔵似のちょっとイケメンの整備士、K副研修生長。その次に年寄りだったのは、当時27歳の私でした。
 K副研修生長は数々の救難ミッションにヘリ搭乗員として参加。「整備士がすぐ飛び込めば助かるのに!」という現場を多数経験したことから、「整備士も潜水研修へ行かねばならない!」と上司に熱く訴えかけ、4年越しでその主張が認められての研修参加でした。ですんで、Kさんから「なんであんたはこの研修に来たの?」と聞かれたとき、まさか「実家でうまいものを食うため」というわけにもいかず、その理由の説明にかなり困りました。
 しかし、同じ部屋で生活するようになったため、Kさんも酒やエロ話が好きないい人、ということに気づき、その後はかなりバカバカしい話をしたり、週末に飲んだくれたりと、楽しく生活したものです。

 身辺整理、開講式、体力検定などを終え、正式な研修が始まったのは5月11日。
 ここから私の、ちょっと息苦しいだけで、とても楽しく充実した2ヶ月が始まったのでした。
 この続きはまた後日。



 
 

「科学的なトレーニング」ですかね?

2015-04-18 20:27:45 | 格闘技のお話
 某スポーツ新聞(毎日変態新聞系)に、日本を代表するスプリンター、桐生祥秀選手に関する短期集中連載が掲載されていました。興味深い話が多かったのですが、4月17日付の記事を見ていて「?」と思う点がありました。
 その内容を要約すると「桐生選手は科学的トレーニングを取り入れることで、両足の筋力不均衡に伴う、全力疾走後の痛みや故障の頻出を改善した」というものでしたが、はて、桐生選手がどんな科学的トレーニングを取り入れたのかというと、要するに「軽いウェイトを用いたトレーニングをやった」ということでした。
 ・・・箱根駅伝などで毎年優勝を争う東洋大学がマスコミにリークしていいトレーニングがこの程度、というのはなんとなく理解できます。問題なのはその書き方です。平成27年にもなって、各種のスポーツ選手がウェイトトレーニングをちょっとやりこんだ位で「科学的なトレーニングをした!」と書くのはいかがなものかと思います。

 世間に分かる形で大々的に「スポーツ選手も基礎筋力を上げないとダメだ」と提唱し始めたのは、私の記憶に残るところでは、名城大学の鈴木正之教授による「間違いだらけのスポーツ・トレーニング」シリーズではなかったかと思います。
 同著の中で鈴木教授は、昭和62年当時の中日ドラゴンズがキャンプで使用していたボロボロ・サビサビのバーベルやダンベル、それらの器具を実に不完全に使った筋トレとも言えない筋トレを報じた記事を引き合いに出し、「こんなもんが筋トレになるか!」と厳しく喝破していました。
 ちなみにその記事は、「落合、バーベルでパワーアップだ!」みたいな見出しが踊り、写真には総重量20キロ程度の軽~いバーベルを担いだ落合選手が写っていました。たしかその記事のソースは、ドラゴンズの親会社である新聞社が作っているスポーツ新聞だったような気がしますが、まあいいです。

 当時の野球界はまだまだ、「投げ込め、打ち込め、走り込め。そうすれば秋に素晴らしいコメが実をつける」(元近鉄・鈴木啓示様のありがたいお言葉)という時代であり、筋肉に高い負荷をかけるウェイトは、「肩を冷やす」水泳と並び、絶対に野球選手がやってはいけないトレーニングと言われていました。ですから昭和62年当時のドラゴンズが、サビサビのバーベル類しか持っていなかったのも、まともな使い方を知らなかったのも、仕方ないといえば仕方ない時代でした。
 しかし今や、予選の一回戦で負けるようなショボい高校の部活ですら、(まがりなりにも)ウェイト(の真似事)を補強としてやるような時代です。スポーツ選手は競技成績を上げるため、選手生命を伸ばすため、怪我や故障を防止するため、純粋な競技の練習とは別に、ウェイトをはじめとした各種のトレーニングを行っており、その手法は多様な変化を遂げています。

 トレーニングの名称は、考案者の名前や考案時期により、同じようなものや、ちょっとやり方が違うだけでまるで違うもののように扱われているものがあり、とても複雑怪奇であるため、上手にまとめることはむつかしいのですが、浅学非才を承知でざくっと大別すると、
①体に筋力や基礎体力をつけるトレーニング
(ウェイト、走り込み、俗に「レジスタンス」とか「ストレングス」なんて呼ばれる、競技に即した負荷抵抗をかけるものなど)
②筋力や体力の有効な使い方を学習するトレーニング
(コーディネーションとかファンクショナルとか言われる、神経系のトレーニング)
③競技や特定の動作に即した動作トレーニング
(単純に競技の練習)
となっており、平成27年現在では、競技スポーツ選手のみならず、「スポーツや特定の動きを必要とする現場」では、普通に認知され、段階的・専門的に行われております。

 競技や特定の動作に必要なのは、特定の動作を強く、長く、正確に行うことであり、まずはそれに耐えるだけの強い筋力、体力が必要です。そのため①の訓練がまず必要になります。この強化なくして、②③は成り立ちません。
 基礎体力や筋力がある程度養成できたら、次はその体力・筋力に巧緻性を持たせるため、体力と神経を繋ぐ専門トレーニングが必要となります。これは現在まで、一番発展の遅かった分野であり、今後の発展が望まれる分野でもあります。この②のトレーニングを怠ると、パワーの出力にきめ細やかさがない、いわゆる「使えない筋肉」になります。
 最後に③、競技や特定の動作に即した動きの練習。ここに①②で鍛えたものを収斂していきます。
 この①②③のトレーニングは、全てが揃い、互いに干渉しあってこその「トレーニング」であり、どれが欠けても、高いパフォーマンスは発揮し得ない、ということになります。

 私がガキの頃は、トレーニングといえば③しか存在しませんでした。指導者もいい加減、そして、トレーニングに関しては、テレビや新聞もいい加減な情報しか垂れ流しませんでした。
 しかし今や、ネットですぐ最新のトレーニング手法を簡単に知ることができる時代になりました。本当にいい時代いなったものです。

 そんな便利な時代なのですから、スポーツマスコミも百年一日のごとく、「ウェイト=科学的」みたいな、アホ先輩が書いた記事のコピペのようなことはやめないと、新聞離れ、テレビ離れは進む一方だと思います。
 テレビや新聞の記者は、私なんかよりよほど高い学歴(私の最終学歴は、自動車学校卒です。きみまろのネタのパクリではありません。うちの会社の部内研修を除くと、どうしてもそうなるんですよ)を持ち、また、スポーツ選手に密着できるという恵まれた既得権があるのです。
 であれば、選手から深い話を聞き出す意味でも、より深いトレーニング知識を持つことは必須でしょうし、それくらいの知識がなければ、選手からより深い話を聞き出すことなんて、絶対できないような気がするんですが、いかがでしょうか。
 少なくとも私がインタビューを受ける選手なら、「ウェイトなど、科学的トレーニングをしているのですか?」とか聞かれたら、「こいつバカ。まともに話せんとこ」と思いますが・・・。

 本当に蛇足ですが、いくらトレーニングの手法が日進月歩で発展しても、千古の昔から変わらないことがあります。
 トレーニングは自分の頭で考え、しっかり組み立てて、なけなしの根性と気合を振り絞って、ゲボが出るくらい真面目にやらないと、本当の強さは身に付かない、ということです。
 どんなに便利な時代になっても、トレーニングは常に自力本願でないとならないでしょう。

 
 

春とひじきと海

2015-04-10 20:35:14 | 兵隊の道・仕事の話
 うちの母方のばあさんの島は、3月末日から4月の頭まで、ひじきの採取が許されていました。
 ひじきの採取は漁業法に規定される第一種共同漁業というやつで、地域の漁協に所属する組合員か、その海域に入会い(いりあい)の権利を持つ地元住民しか採取の許されないものです。まあ詳しくは、漁業法や山口県漁業調整規則を読んでみてください。
 島に住むうちのばあさんは当然入会の権利を有しており、私はその採取の手伝いを、小学校4年時から高校3年までやっていました。
 
 やることとしては、岩場をめぐってひじきを切り取り、これをコンテナ箱に入れて陸に運び、干す。
 口で言うのは簡単ですが、これがまた力のいる仕事でしてね。
 ひじきを切るのはばあさんの仕事。これは根元を必ず残すように取らないとダメとかで、私たちガキどもにはやらせてもらえませんでした。
 ばあさんが切ったひじきを回収し、コンテナ箱に入れる。箱いっぱいにひじきを入れると、総重量は約20キロほど。これを抱えて、岩場から岩場を移動します。最長で1キロ程度。知恵のない小学生の頃は、これを延々とやっていました。中学生になった頃には多少知恵がつき、海岸に打ち上がった廃材で筏を組み、これにコンテナ箱を乗せて海沿いを移動させるようになりました。大量輸送は可能になりましたが、なにしろ海に浮かべた筏を移動させますので、一日中水の中をジャブジャブ移動してるわけです。これはこれで腹も冷えますし、結構足腰には負担がかかりました。
 当時は私もまだ若かったので、ばあさんのおいしいご飯を食べてひと晩寝れば、またすぐ早朝から日暮れまで働ける、というほどの回復力がありましたが、それにしてもすごいのは当時のばあさんです。
 私がひじきの手伝いを始めた昭和61年当時、ばあさんは62歳。私が最後に手伝いをした平成7年には、ばあさんは71歳。その年齢で私より重労働をし、しかも私に食わせる飯まで作っていたのです。
 もっとすごいのは、満潮でひじきをあまり取れない時間帯には、海岸近くにある自分のふき畑でふきの収穫!すごいとしか言いようがありません。どんだけ体力があったのでしょうか。私の仕事はそのふきを巨大な手押し車に積んで、3キロ離れた家まで輸送することでした。
 そんなパワフルなばあさんのパワフルな働きに引っ張られたおかげで、全身の供応力と重心の低さ、そして伸びない身長(泣)と痩せにくい体(泣、泣)を手に入れることができました。
 春休みいっぱい働いて、いくらかの小遣いをもらってまた柳井に戻るとき、何とも言えない充実感と寂しさを覚えたものです。

 春になると、田舎の岩場にはひじきがたくさん姿を現します。
 いまは取ることもできなくなりましたが、あのとき一日中海に入って、気合と体力で運んだひじき。働くことの厳しさと楽しさを教えてくれたひじき。
 春になって海でその姿を見るたびに懐かしく思い出します。