集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝(第37回・オッチャンの怨敵はバット?いやバット!)

2018-07-25 20:44:03 | 霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝
本回は、オッチャンの足跡を辿る取材の中で発掘し、一等面白い話題であったことから、特に回を設けてお話ししたいと思います。

 オッチャンはその生涯を通じ、こと野球に関しては極めてマジメな求道者であり、また、学業成績も極めて優秀でした。まさに文武両道を地で行く優等生…だったのですが、その反面、武闘派でバンカラな一面も併せ持っていました。
 柳井中学入学に際し、得意の柔道の腕があり、また、他を圧する「戦闘オーラ」がにじみ出ていたことから、転入生にありがちな「ヤキ入れ」の被害に遭うこともなかった、というのは以前お話ししたとおりです。
 まあ、商都柳井(当時の話です!)の商家のボンボンばっかりの柳井中学にいるお坊ちゃん不良ごとき、所詮、幼少時から厳しい人生を送ることを余儀なくされていたオッチャンの敵ではなかった、というのが本当のところでしょう。それはともかく。

 オッチャンが自らの「野心時代」に苦しんだモノは二つあります。
 まずは野球。柳井中学時代とは比較にならないきつくてレベルの高い練習、なかなか上達しない自分へのもどかしさ…
 その次の悩みは、実に即物的なものでした。
 オッチャンは早大の合宿生活を、自著でこう振り返っています。
「当時の早大の規則なるものは、禁酒、禁煙、女人禁制、断髪であった。」
 このうち「禁煙」が、野心時代のオッチャンを苦しめる、もう一つの怨敵となったのです。

 オッチャンは中学三年時から喫煙の習慣があり、キツい練習の合間にゴールデンバットをスパ~っ、というのが趣味のひとつでした。
 「中学三年時」というのが、岩国中学にいた1学期ころの話なのか、それとも柳井中学に転校した2学期以降のことなのかは判然としないのですが、それはともかく、甲子園を目指して猛練習に明け暮れていた2年半の間、オッチャンの座右に常にゴールデンバットがあったことは、間違いないようです。 
 現在もタバココーナーのすみっこで連綿と販売されている「ゴールデンバット」。当時は1箱20本入りで7銭。貨幣博物館HPによりますと、昭和2年当時の1銭は平成17年現在の6.05円に相当するそうですので、単純計算すると、ゴールデンバット1箱のお値段は、現在の50円弱ということになります。安い!!!!
 ちなみに当時は酒・タバコといった嗜好品は、現在とは比べて種類もバライティーもお話しにならないほど少なかった時代。国産のタバコや酒は、現代とは比べ物にならないほど安く、だからこそ、中学生であったオッチャンでも気軽に買えて、喫えたわけですね。

 …と、ここまで読んで、現代のタバコ事情しか知らないアタマが短絡的な人(いわゆる常識厨、不謹慎厨と言われる方々)は、「中学生(年齢としては現在の高校1年生くらいに相当)がタバコ?不良だ!犯罪だ!そんなものをブログに書いていいのか!!!」などと言い出すかもしれません。
 そういうアタマの血の巡りがわるい方々対策のため、戦前のタバコ事情についてもちょっと触れておきます。
 
 「未成年の喫煙ダメ」というのは、古く明治時代から議論の対象になっており、茨城県の名物代議士・根本正(ねもと・しょう)が帝国議会に提出、そのまま承認された「未成年者喫煙禁止法」(明治33年3月7日法律第33号)により、未成年者の喫煙はいちおう、法律で禁止されています。
 ただしこの法律の条文には「●才以下の未成年は…」という、年齢の明文化がなされておらず、ただ「未成年ハ」としか書かれていませんでした。
 当時、「子供」という名乗りを赦されたのは学歴でいえば高等小学校卒業時期、年齢に換算すれば満14歳ころまで(当時、中等学校相当の上級学校への進学率は10%前後)。それを過ぎれば、即座に社会の即戦力「オトナ」となることを強要され、 現代のように、大人でも子供でもない「青年」という時代を過ごすことが許されなかった時代です。
 だから「未成年」という語彙が持つ意味は、潜在的に上記の時期となるわけですので、当時は現在の年齢で15歳くらいでタバコをふかしても、周囲は何も思わない。それが当たり前でした。今の尺度で「未成年の喫煙がナンチャラ」などと訳知り顔に唱えることは、全くの無知から来る驕りであり、片手落ちというレッテルを貼ってもいいでしょう。
 
 余談ですが、超名作文学作品であり、戦前の不良事情?を知るうえで、唯一無二の一級品史料でもある「けんかえれじい」(鈴木隆・岩波現代文庫)によると、当時の中等学校・実業学校に所属する不良は、硬派軟派取り混ぜてタバコを喫うのが当たり前であり、硬派には硬派の、軟派には軟派の「喫煙流儀」みたいなものがあったことが描かれています。
 ちなみに硬派は「喫煙はいとわざるも、ナタマメ煙管にて、はぎ、なでしこ等、きざみ(タバコ。当時は刻みタバコを袋に入れて売っているものもあった)を服用すれば一段と光彩を放つべし」、軟派も「喫煙(エス)を覚えるは時期は早きほどよし。大陸の支那人は、5歳より喫煙の風習あり」と、硬軟とりまぜ、喫煙にはコダワリがあったことが伺えます(;^ω^)。

 ともあれ、オッチャンの禁煙は野球以上の苦闘を極めます。
 オッチャンの自著には、この苦しい禁煙について全く触れていませんが、「野球界」22巻第6号において、諏訪正穂(この人物については現在調査中。「野球界」では、かなりの数の記事を書いていることが確認できます)がその苦闘を代弁してくれています。そのタイトルはズバリ「煙草・杉田屋・闘志」。そのまんまですね(;^ω^)。以下引用。
 「(オッチャンは早大合宿に入り)中学三年よりなつかしんだ煙草に断然決別を宣言した。
 だが、この訣別宣言の後彼はどんなに苦しんだことか。彼は煙草、煙草とその名を呼び続けた。」
 苦しい禁煙に我慢の限界に達したオッチャンは、遂に外出の帰途、ゴールデンバットを購入。密かに合宿に持ち帰ると、誰にも気づかれない場所で、スパーっと吹かしました。久々の紫煙に、目が回るようなうまさ、快さを感じるオッチャン…。
 しかしふと冷静になったとき、とんでもなく大きな慚愧の念がこみ上げてきました。
「快さと同時に真っ黒い反省が沸き上がってくるのだ。彼は自分の弱さと好意を恥じた。」
 我に返ったオッチャンは、ゴールデンバットを、吸いさしの1本と共に窓から投げ捨てます。
 …しかし、ひとたび紫煙の魅力を思い出してしまったオッチャンのカラダは正直で(;'∀')、「夜中に目が覚め、電灯を点じてみると買ってきた筈の(ゴールデン)バットがない。彼はサッキ捨てたことを忘れているのだ。捨てたことを思い出せば矢も盾もたまらず」屋外に飛び出します。
 さっき捨てたばかりのゴールデンバットの箱を拾い直して1本だけ抜き取り、部屋に持ち帰って火を点けるオッチャン。再び、紫煙の快さに包まれたわけですが…「又も黒い反省は彼を包んだ。」
 オッチャンは1本を喫い切らないうちに決然、タバコをもみ消すと、また屋外に放りだしたのでした。

 この1回だけでなく、「野心時代」のオッチャンは同じようなことを幾度か繰り返し、そのたびに「黒い反省」をするわけですが…
 野心時代のオッチャンを苦しめたのは、野球技術の上達と、まさにこの禁煙であったのです。

※作中、オッチャンが窓からタバコをゴミのように放り投げるシーンがありますが、戦前の当時、ゴミの路上等へのポイ捨ては普通のことであり、オッチャンに非があるわけではありません。
 「ゴミをポイ捨てするのは、いいのか!」という短絡的な抗議をしようと企図している方が居られましたら、まずは当時の事情をよく調べてから文句を垂れるよう、よろしくお願いいたします。

【第37回参考文献】
・「私の野球生活」私家版 杉田屋守著 杉田屋卓編
・「柳井高等学校野球部史」柳井高等学校野球部史編集委員会
・「野球界」第22巻第6号(昭和7年5月刊行)
・「けんかえれじい」鈴木隆著 岩波現代文庫
・「ルーザーズ~日本初の週刊青年漫画誌の誕生~」吉本浩二著 アクションコミックス
・日本銀行金融研究所貨幣博物館HP
 

霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝(第36回・昭和2年秋のリーグ戦・オッチャン「野心時代」の始まり)

2018-07-24 22:09:39 | 霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝
 オッチャンは自分の大学での野球生活6年間を振り返り、自著でこのように述べております。
「私の経験よりして大学時の野球生活を三期は分け得ると思ひます。第一期は予科の一二年の時代で此の時を野心時代、第二期を予科の三年時代大学一年の時代で此の時を希望時代、第三期を母校の名誉の為にのみ働く責任時代と分け得ると思ひます。」
 …「野心時代」とは?オッチャンの説明は、こうです。
「第一期に於いてはただ自分が早くレギュラーにならうと思ふのみで、自分さへ良ければと云ふ利己的な感念で行動する。その為に同僚に抜き出様とする為め非常に焦慮する。」
「そして次ぎから次ぎと他の名選手のプレーを真似て遂に飽きを生ずるのである。」
(「野球界」第22巻 14号)

 昭和2年秋の東京六大学野球リーグ。早大は9月24日にホームグラウント・戸塚球場で行われた東京帝大戦を皮切りに、11試合を戦い抜きました。
 結果からいいますと、このリーグ戦を制したのは明大。早大は6勝4敗1分で3位という、不本意な成績に終わりました。
 このリーグ戦における早大の戦績は以下の通りです。
対東京帝大
 ・第1回戦(9月24日・戸塚) 5-1 〇(先発・高橋外喜雄)
 ・第2回戦(9月25日・神宮) 2-0 〇(先発・源川栄二)
対立教大
 ・第1回戦(10月1日・戸塚) 2-1 〇(先発・浅倉長)
 ・第2回戦(10月3日・神宮) 9-1 〇(先発・中津川忠)
対法政大
 ・第1回戦(10月3日・戸塚) 7-0(8回降雨コールド) 〇(先発・源川栄二)
 ・第2回戦(10月6日・神宮) 0-0(延長15回) △(先発・浅倉長)
 ・第3回戦(10月7日・神宮) 5-1 〇(先発・源川栄二)
対明治大
 ・第1回戦(10月14日・戸塚) 0-1 ●(先発・源川栄二)
 ・第2回戦(10月15日・神宮) 1-6 ●(先発・浅倉長)
対慶応義塾大
 ・第1回戦(11月6日・神宮) 0-6 ●(先発・原口清松)
 ・第2回戦(11月7日・神宮) 0-3 ●(先発・源川栄二)

 早大は明大、そして宿敵慶大に連敗、無念の星を落としております。
 強打の外野手・水原義明が打率3割5分6厘で最高打者を獲得するなど一人気を吐きましたが、打線の湿りと投手力の低下(エース藤本定義が体調不良のため外野に回り、上記の通り、経験の浅い源川栄二・浅倉長・高橋外喜雄がローテーで投げている)が原因であった、と評されております。

 さて、我らがオッチャンは、予科1年ながら二塁手として2試合に出場。リーグ公式戦デビューを飾っております。
 オッチャンの同級生、つまり予科の1年制で、昭和2年秋にデビューを飾れたのはオッチャンのほか、投手の高橋外喜雄、遊撃手の佐伯喜三郎のみであり、オッチャンの野球レベルはやはり、同級生のなかでは一等高かったことがわかります、が…
 日本最高峰の野球に、名門早大の一員として初めて触れたオッチャンは間違いなく「焦慮」していました。
 早大のみならず、綺羅星のごとく存在する他校のスタープレーヤー。慶応の宮武三郎・山下実・町田重信・梶上初一といった、かつて甲子園で干戈を交えたメンツはプレーの凄味に加えて人気も爆発的。また、優勝した明大には桝嘉一、松木謙次郎、銭村辰巳などのスタープレーヤーが揃い、オッチャンは圧倒されることしきりでした。
 草深い?山口県から上京したばかりの18歳のオッチャンは、目の前で繰り広げられる刺激的で驚異的なプレーに目移りし、あれをやってみよう、これができないか、と焦ります。
 しかし、オッチャンの体格は身長162㎝体重60キロちょっと。今でいえば身長170㎝ちょい、体重70キロちょいくらい。全く平凡…というより、全国レベルの野球選手としては明らかに小さい。それが、身長175㎝超、体重80キロ弱くらい(今でいえば180㎝超、体重90キロくらい)の選手のプレーを真似ようとしても、明らかに無理があります。
 大きな壁にぶつかり、自分のレベルを知り、デビューを喜ぶどころか焦りに狂うオッチャン。その苦悩や苦悶は、意外なところにも噴出してきていました。

【第36回参考文献】
・「早稲田大学野球部五十年史」早稲田大学野球部・飛田穂洲編
・「野球界」第22巻14号(昭和7年11月号)
・「日本野球発達史」広瀬謙三 河北新報社 

マスゴミの立体作戦、失敗!の理由(;^ω^)

2018-07-21 21:02:57 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 以前、原田伊織という、エセ歴史小説家?についてお話ししたことがありました。
 どのような人物かと申しますと、「明治維新は間違っている!薩長がやったテロリズムの延長だ!」「今の政治も薩長閥に繋がっている! だから今の安倍政治も間違っている!」という感じの歴史カルト本を次々に出版している御仁。
 原田の著作を読んだ後、「月刊ムー」を読むと、「ムー」の記事がまともに見えるほど(;^ω^)。
 おそらく同人の頭の中身は様々な意味でもう手遅れ、ステージ4くらいなのではないかと思われます。ご愁傷様です。

 で、この手遅れ爺さんの本を出版しているのは、「毎日ワンズ」という出版社。
 …名前からして、モロに毎日変態新聞(通称は毎日新聞(;'∀'))系の出版社なのですが、ただこの幕末カルトシリーズ、本当に売れていません。
 これは趣味が本屋巡りで、休みの度に本屋に出かけているワタクシ、自信を持って言い切ります。本当に売れていないのです。

 毎日ワンズの親会社・毎日変態新聞は「明治維新という過ち」を出版した際、自分ところの紙面に巨大な半面広告を打って「たちまち〇万部突破!」とかいう宣伝をしてました。
(ちなみに上記「明治維新という過ち」の広告は、前の職場が毎日変態新聞を取っていた関係で、ワタクシ幾度も確認しております。)
 本当に「〇万部突破!」を果たすようなベストセラー本であれば当然、書店の平積みコーナーなど目立つところに置かれているものですし、都会・田舎に関わらず、書店であればきちんと在庫があるはずなのですが…「明治維新という過ち」は、本屋に置かれていること自体が稀でした。
 しかも、たまに置かれてあっても歴史本コーナーのすみっこに1冊だけ、背表紙が日焼けした状態でず~っと置かれてあることがほとんど。とてもとても、「〇万部突破!」などという扱いではありません。
 なぜ毎日ワンズは、誰も買わないカルト本を出版し続けるのか?ステマ広告を打ち続けているのか?以下、あくまで周防平民珍山といういち個人の見解です。

 毎日ワンズの親玉・毎日変態新聞の現時点における最終目標は、盟友のアカヒ新聞とタッグを組んでの安倍総理降ろし、つまり、アカが挙って主張している所謂「アベやめろ」です。これはアカヒや毎日変態だけではなく、時事・共同通信系のソッチ系地方紙(琉球新報、沖縄タイムス、東京新聞、北海道新聞、中日新聞、西日本新聞など)の悲願でもあります(;^ω^)。
 彼らは報道機関としての良心をかなぐり捨て、火のないところに煙を立てて、「アベやめろの世論を作る」ことに精力を注いでおります。

 その流れから勘案しますと、毎日変態新聞の子会社である毎日ワンズが「幕末カルト本」を出版し続ける理由は、「明治維新は間違っている、だから山口県出身のアベの政治も間違っている」という趣旨の、いわゆる歴史スキャンダルを垂れ流すことなのではないか、と思料されます。
 商売を度外視してでも多数の本を販路に乗せれば、中途半端な情弱の歴史好きが購読し、騙されてくれるだろう…そんな一縷の望みを乗せて、です。

 アカヒや毎日変態はかつて、「南京大虐殺」「従軍慰安婦」という歴史戦を展開、歴代の内閣を「シャザイとバイショー」に追い込むという、赫々たる戦果?を挙げています。
 今回も、過去の成功体験をもとに「アベやめろ」世論を形成するための立体作戦の一環として、以前成功した歴史戦を挑もうとしたのでしょう。

 この着目は意外と間違ってはいません。
 歴史スキャンダルは、当事者がとっくの昔に死んでいるので、どんなにおバカな話をねつ造しても、どんなにスキャンダラスなことを書いても、当事者から文句を言わることはありません。当事者から訴えられる危険性も非常に低いうえ、逆に、中途半端な歴史マニアのほうが、逆にスキャンダラスで、バカ過ぎる話題には食いついてきます。その辺の機微を分かったうえで、アカヒなどは「歴史戦」を仕掛けていることを、皆様も覚えておいて損はないと思います。
 またそうしたスキャンダラスなトンデモ歴史は反論しようにも、いわゆる「悪魔の証明」が立ちはだかります。
 「なかったことを証明する」、いわゆる「悪魔の証明」は大変な労苦を伴い、非常な困難を極める…そのためまさに「言ったもん勝ち」の世界。
 発信する側にとって、これほど都合のいい作戦はなかったのです。これまでは…(;^ω^)。

 ただ、愚かな毎日ワンズは、2つも大きなミスを犯してしまいました。

 ミスその1は、今やネット社会であり、1人が1台スマホを持つ時代であることを失念していたこと。
 ミスその2は、あまりにも頭の程度が低すぎる著者を選択したこと。

 スマホ時代の到来は、今までマスゴミが拠り所としていた「知識は一部人間しかないものであり、知識人のオモチャ」という常識を覆すに十分なものでした。
 「南京大虐殺」「従軍慰安婦」のウソ歴史が猖獗を窮めたのは、まだネットもスマホもなく、検証のしようがない時代。だからこそウソもつき放題だったのですが、今は1人が1台スマホを持つ時代であり、ウソは調べればすぐウソとバレますし、ネットやスマホの登場は、「知識だけを持っていること」が何の意味も持たなくなるのに、実に十分な大事件であったのです。
 その辺を完全にマスゴミは読み違えてしまっています。

 ミスその2は、あまりにも頭の程度が低すぎる著者を選択したこと。
 毎日ワンズは「頭が左側にイカレていて、おだてればすぐ調子に乗って、シッポ切りがすぐできそうなヤツ」を探したらコイツに当たり、仕事を依頼したのでしょうが、ネット社会は残酷です。書評ページをいくつかググれば、原田の作品が「歴史小説を読みかじったうえに、妄想と自分語りを付け加えてこね回して作った作品」であることが、残酷なくらいはっきりと検証されています(;^ω^)。
 まあ大体、参考文献に司馬遼太郎の小説を大量に引用していること自体が、バカの証拠なんですがね(;^ω^)。

 かくして、毎日変態新聞の命を受けた「アベやめろ」の世論形成立体作戦は盛大なる失敗に終わったのですが…毎日変態が見誤った作戦失敗の最大の原因。それは、ネット社会と、本物の「民意」だったようです(;^ω^)。 


 しかし、ウソがウソとすぐバレる時代…アカ思想が無意味に垂れ流されることなく、きちんと検証が効くようになった時代…本当に、いい時代になったもんです!

岩国の隠れた?忘れられた名将と黒獅子旗(その9)

2018-07-13 21:06:42 | 周防野球列伝
 0-0のまま試合は後半戦、6回表の大昭和の攻撃から始まります。

 6回表の大昭和製紙は5番徳丸幸助のタイムリーでまず1点を先制、均衡を破ると、続く6番北川桂太郎が三塁打をかっとばして2点目を奪取。さらに8番の板倉正男が続いて3点を奪取して一気に流れを呼びこみますが…なぜか「青春」では6回表の大昭和の攻撃のことについて、何も触れられていません。「青春」において、大昭和に反撃された話はいきなり、7回表から始まっています。
 6回表にこれだけパカスカ打たれて点を取られたのに、その回の描写が全くない…おそらくその理由は、試合の最終的な帰趨を決することになってしまった7回表の自らのミスが、あまりにも克明に記憶されてしまったいたからではないか、と、筆者は愚考しています。

 7回表の大昭和製紙の攻撃は打順良く、3番荒川宗一から。早大のスター選手であり、2大会前の優勝に貢献した強力打者です。
 死力を振り絞って投げる狂介の5球目のボール球を、荒川は打ち損じ、高いフライを打ちあげました。これでワンアウト…と思ったその刹那、落下して来たタマはショート松山とセンター清水の真ん中にポトっと落ちる、大昭和にとってはラッキーな、専売にとってはアンラッキーなテキサスヒットとなり、ノーアウトのランナーが出ます。
 「明らかに落胆した表情の狂介を見ながら、まずいな、と私はおもった。慣れぬナイターだから、高いフライが照明の上に抜けたとき、見失うこともある。しかし、なにも助っ人ふたりの間に落ちなくてもいい。」(「青春」より)
 次打者は、恐怖の四番・石井藤吉郎。ここで岡村さんは、石井の強打を警戒しすぎるあまり、初球、荒川の二盗を許してしまいます。
「一球はずして、冷静に、相手の様子を見るべきだったのだ。仲間のチョンボを消してやる絶好の機会を逃したうえに、私はチョンボを上乗せしてしまったのである。」(「青春」より)
 専売投手・狂介は、仲間のエラーなどが重なり、その疲労が極限に達しつつありました。
 コントロールを完全に乱した狂介は石井に四球を与え、ノーアウト1、2塁となったところで、タイムがかかり、宮武監督がゆっくり、ベンチを出ます。
 …そして、後楽園球場はこの日一番、そしてこの26回大会の中でも、屈指の大歓声が沸き上がるのです。

 「ざわめいていた球場に静寂がひろがった。その巨体が明るいフィールドに現れたとき、観客はおもわず身をのりだしたにちがいない。唾をのみこんだにちがいない…そうさせる圧倒的な威圧感が、あるいはたぐい稀な華が、宮武監督のユニフォーム姿にはあった。」(「青春」より)
 観客の誰かが「宮武三郎だ!」と口走ったのをきっかけに、どよめきが津波のように球場全体を覆い、「ミヤタケー!!!!」という大声があちこちからかかり、それはひとつの大きな歓声の津波となって、狭い後楽園球場を覆いつくしました。
 かつて慶大、社会人の東京倶楽部、職業野球の阪急軍と、常にスタープレーヤーだった宮武監督のユニホーム姿は、現役時代と違って太ってしまった(←失礼!)状態でしたが、そのオーラは間違いなく四周を圧する、光り輝くものがありました。
 岡村さんが「青春」を書いたのは、実にこの宮武三郎登場のシーンを描きたかったからであり、このシーンは間違いなく、本作のエポックとなりますので、ちょっと長くなりますが、同著からそのシーンを引き続き引用します。
 「大歓声の中で宮武監督は小走りになった。突き出した腹の下にベルトを締め、ユッサユッサと巨体を揺るがして、凄まじい拍手のうねりの中、ちょっと帽子のひさしに手をやって声援にこたえ、しろい歯を見せ、はにかんだ笑顔を見せた。それを私はじっと見ていた。おそらく過去の名声と伝説の中からの、戦後初の大観衆の前での登場だったのだろう。」(「青春」より)

 宮武監督はマウンドに赴くと破顔一笑、狂介を「よく投げた!」とねぎらいます。投手交代です。
「人は器量に応じた笑顔しかできないというが、ほんとうに素晴らしい笑顔だった。まさに破顔一笑である。」(「青春」より)
 狂介のあとを受けたのはサウスポーの池上善郎。池上がマウンドに到着するまで、宮武監督は無言のまま、その場の空気を、大観衆の息吹を楽しんでいるように見えたそうです。
 宮武監督の戦前の野球人生は常に大観衆と共にあったのですが…先述の通り、戦後ではここが初めて…そのとき宮武監督がどんな感慨を持っていたのか、それは本当に、うかがい知れません。

 投手交代は間もなく完了し、マウンドには池上が仁王立ちします。

 サウスポー池上は長い休養の成果もあって球威抜群。5番徳丸をあっという間に打ち取ります。岡村さんは「ツーアウトにこぎつけた」(「青春」より)と書いていますが、この回は3番荒川から始まっていますので、この記載は誤っています。徳丸を打ち取った時点で、大昭和は1死1、2塁。未だ追加点のチャンス。
 ここで打席に立ったのは、6番ショート北川桂太郎。
 北川は試合によって打てる、打てないのムラがあるものの、調子付けば恐ろしい打力を発揮する強打者で、2大会前、大昭和が黒獅子旗を獲得した際には、決勝戦で優勝を決定づける三塁打を放っています。
「(北川は)要注意のマークつきだった。『大昭和』でひとり異色の存在、と『専売』のコーチ兼マネージャーはいった。
『大学卒のスター集団の中で、ひとりプロ野球からの転身組だ。ヤツがどんな気持ちでいるかわかるだろう。気をつけろ。遠慮会釈なく打ってくる』」(「青春」より)

 北川は大正14年生まれでこのとき30歳。旧制島田商業を卒業後、終戦とともにプロ野球に身を投じ、セネタース・西鉄・毎日を投手として渡り歩くも芽が出ず、昭和27年度いっぱいをもって大昭和に転身していました。
(その後昭和31年に高橋ユニオンズで打者としてプロに復帰しますが、貧打にあえぎ、同年限りで引退しています。没年不詳。)
 
 ストレートで押したい池上に対し、岡村さんはインドロ(今でいうタテのカーブ)を主張します。何度か池上に首を振られましたが結局押しきり、インドロで勝負に出たところ…!
 「私の背筋に戦慄がはしった。なんと待ち構える北川の間合いがドンピシャリだったのである。私は大声をだした。」(「青春」より)
 快音を残してボールは高く飛び、左中間深くに飛び込む大会第8号のスリーランホームラン。
 なんとこの日、北川は一人で5打点、本塁打と三塁打をそれぞれ1本ずつ叩き出しており…専売マネージャーの「要注意のマーク」は不吉にも大当たりだったわけです。

 7回裏、専売は3番小沢のヒットでなんとか1点を返しますが、大昭和は9回表にもダメ押しの1点を入れ、結局7-1で大昭和が下馬評通り、圧勝といっていいスコアで勝利を収めました。
 大昭和は10安打で7打点、失策なし、三振はわずかに3つ。対する専売千葉は6安打1打点、失策1、奪われた三振実に12…完敗、です。

 こうして岡村さんの、「狂介」の、池上の、専売みんなの、そして宮武監督の思いを乗せた2時間21分の激闘は、幕を下ろしたのでした。


【参考文献】
「青春・神宮くずれ異聞 宮武三郎と助っ人のわたし」大島遼(岡村寿) 防長新聞社
「都市対抗野球六十年史」日本野球連盟 毎日新聞
「消えた球団 高橋ユニオンズ1954~1956」野球雲編集部 ビジネス社
HP「都市と企業とベースボール~ノンプロジェクトX社」


岩国の隠れた?忘れられた名将と黒獅子旗(その8)

2018-07-12 16:19:31 | 周防野球列伝
 ものすご~く久々の、「黒獅子旗」シリーズです!
 3月から中断していたこのシリーズを再開した理由は…13日から、第89回都市対抗野球が始まることを思い出したからです(;^ω^)。
 「黒獅子旗シリーズ?何それ?よくわからん!でも読んでみたい」というご奇特な方は、ブログ左方のカテゴリーのうち「周防野球列伝」をクリックしてみて下さい。
 岩国の生んだ名将・岡村寿さんと、その畢生の名著「青春・神宮くずれ異聞 宮武三郎と助っ人の私」へのゆがんだ愛溢れる?文章が羅列されておりますので…(;^ω^)。では、ひさびさの本編スタートです!

 昭和30年8月3日の後楽園球場。
「夜の後楽園球場のフィールドは明るかった。
 夜空をななめに断ちきるように幾条もの照明がのびてきて、マウンド周辺はまるで総天然色映画のように色あざやかだった。観客を呑みこんだ巨大なスタンドは不気味にふくれて、こちらは白黒映画のようにぼんやりと見えた。」(「青春」より)
 そのマウンドに立っていたのは、「都市対抗野球60年史」では、専売千葉のエース小宮圭三郎となっており、当然こちらが事実なのですが…本稿では、ネタ元の「青春・神宮崩れ異聞」にリスペクトを捧げる観点及び、あとは単純に面白さを優先する観点から(-_-;)、「専売の先発は『狂介』」のままで、試合の経過をお話ししたいと思います。

 「狂介」がアンダースローから繰り出す剛速球は、試合開始と同時に、全開のパワーで大昭和製紙打線に襲い掛かります。
 「プレイボールの宣告と同時に、狂介は第一球を投げ込んできた。ドマンナカへ、うなりをあげて、凄い球がきた。サインも見ずに狂介は二球目のモーションを起こし、試合開始のサイレンが鳴り終わらないうちに、二球目が吹きあがってきた。」(「青春」より)
 まだまだ国民的人気行事だったころの東京六大学野球・早稲田のスター選手をそろえた大昭和製紙打線も、雄叫びを挙げて噛みついてくる昇龍の如き剛速球に手を焼き、なかなか得点をたたき出すことができません。
 ただ、大昭和のエース山本投手も好投。この大会、大昭和製紙は3位(当時の都市対抗には、3位決定戦があった)を勝ち取っていますが、3位決定戦までの5試合のうち、4試合で先発を務めた百戦錬磨の好投手は、ポっと出の専売打線に、そう簡単に付け入るスキを与えてくれません。

 スコアボードには両軍、ゼロがズラズラと並び続けます。

 一塁側に陣取った大昭和の応援団は、そして、「大昭和の圧勝ショー」を楽しみに見に来た観客は、信じられないといった面持ちでした。
「『大昭和製紙』の応援団の前を通るのは気分がよかった。かれらは信じられない思いで、ゼロがきれいにならぶスコアボードを眺めているはずだった。」(「青春」より)
 …あの徳丸幸助が、荒川宗一が、石井藤吉郎が、北川桂太郎がいる強力打線が…2年前、全鐘紡を打ち砕いたあの打線が点を取れない…なぜ…
 その一方で、岡村さんは「ナニか」に一矢報いたという気持ちでいっぱいでした。早大野球部を辞めてからなめて来た苦渋の報復?を、狂介とともに、この一戦に思いっきりぶつけていました。
「いったいこのピッチャーは誰だ。かれらはメンバー表を見て、狂介の出身校が、名前を見たこともない野球の無名校であることを知るだろう。もっと注意深く見る人は、キャッチャーも同じ高校卒なのに気づくだろう。いったいこの周防岩国とはどこに在るんだ?」(「青春」より)
 岡村さんは5回表、大昭和の二盗を矢のような送球で刺し、狂介を掩護します。

 戦況は完全に膠着し、両軍の応援団、特に、専売千葉応援団のボルテージは最高潮に達していました。
 野球はイマイチでも、会社は国営企業。大勢の社員を動員し、声を限りに、善戦を続ける野球部を応援します。
 宮武監督はベンチの中央に陣取り、片足をグラウンドに上げ、実にキマった姿で戦況を見守り続けます。
「私は祈る神がいれば、祈りたかった。なんでもさしあげます、と私はいった。もしジプシー・ローズが私のカノジョなら、さしあげます。『ミス専売』でもいいです、さしあげます。『ミスピース』でもいいです。裸にむくなりなんなりと好きなようにしてください。」(「青春」より)
 岡村さんの祈りは果たして通じるのか。回は中盤5回を終了し、0-0、両軍無得点のまま、折り返し地点を迎えます。



【第8回参考文献】
「青春・神宮くずれ異聞 宮武三郎と助っ人の私」(大島遼(岡村寿)・防長新聞社)
「都市対抗野球六十年史」毎日新聞社