集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

人の痛みに思いを致さない狂人について

2020-11-30 08:35:12 | 集成・兵隊芸白兵雑記
今回の投稿は、けっこう「物理的に痛々しい話」「胸糞の悪い話」が続出しますので、そういったものが苦手な方は、現時点で閲覧おやめいただくようお願い致しますm(__)m。

 20年以上、武道や格闘技の沼にドップリ漬かっているワタクシには全く信じられないことですが、精神的なもののみならず、肉体的な「人の痛み」に全く想像力が働かないキチガイが、悲しいことにいつの時代にも一定数存在します。

 平成4年、3人組の少年(事件当時)がわずか11日の間に、3府県にまたがって合計4人を殺して歩くという、日本事件史上でも稀に見る凶悪な事件が発生しました(犯人は全員死刑判決。死刑確定までには、被疑者の雇った腐れ弁護士による、到底人間がなすべきではないような法廷闘争がなされていますが、本稿の趣旨から外れますので、それは割愛します)。
 Youtube「懲役太郎チャンネル」でおなじみの懲役太郎氏は、この被疑者(主犯)らしき人物と出会った時のことを著書に書いていますが、その腐りきった精神は、「前科3犯、893番!」の懲役太郎さんですら驚くものだったそうです。
「ある少年(事件当時)がリンチをして相手を殺した事件があったんです。その死体検案書(死亡理由を医師が記した書類のこと)を目にしましたが、体に一滴も血が残っていなかったそうです。世の中にはそこまでリンチをする奴もいるんです。(中略)
 結局、この少年は半月以内に4人殺しました。人を殺すことに全く躊躇がない人間なんです。まるっきり狂っています。 
 収監をされても反省もクソもないんです。刑務官の隙を見て脱獄したいといっているわけです。」
(「塀の中の元極道Youtuberが明かすヤクザの裏知識」懲役太郎著 宝島社より抜粋)
 これなんかは「人の痛みに想像力が働かない」ということに関して言えば、懲役太郎氏がいう「まるっきり狂っている」というレベルと断じていいでしょう。
 調べればすぐにわかることですが、このクソガキ(事件当時は少年)は、社会の底辺を這いずっていた人間であり、学校すらロクに通っていなかった劣悪な生育環境が「他者の痛み」の共感の欠落を招いたわけですが、それとは逆に、名門大学まで進学した高学歴者のくせに人の痛みに想像力が働かず、しかも人体に対する基礎知識がガッポリと欠如したうえで、人の痛みを全く無視した残虐な犯罪に及んだ、救いがたいバカも存在します。

 ずいぶん古い話になりますが、大昔、バカ学生が革命を気取り、ゲバ棒を振り回してキャンパスや街で暴れるという、極めて恥ずかしいことをしていたしょうもない時代がございました。
 この中でも、特に狂暴化した一部極左学生が「連合赤軍」を名乗り、数々の犯罪を重ねた挙句、昭和47年、河合楽器の保養所であった「あさま山荘」に立てこもり、国民注視の籠城戦を繰り広げて壊滅しました。
 その後の捜査で、彼らが壮絶な内ゲバによって合計12人もの仲間を殺害、死体を山中に埋め、遺棄していたことが判明します。

 そのうち、榛名山のアジトでリンチに遭って殺されたのは4人。
 リンチの原因はいずれも本当に些細で、実に取るに足らないようなことばかりなのですが、ヤツらがなぜその程度の理由で、仲間であった人間を無慈悲に殴り続けることができたのか?
 これについてはワタクシもこれまで、けっこうな数の関連本を読みましたが、いちばん合理性&説得力があるものをここに紹介します。
「根拠は森恒夫(当時の連合赤軍リーダー)が『殴ることは指導である。殴って気絶させる』ことで総括は終わると言った。なぜなら『気絶から目覚めたときには別の人間に生まれ変わって、立派な共産主義者になっている』からだと。」
「悪魔祓いで悪霊が退散する瞬間だ。あれと同じ。目覚めて『ここはどこ』みたいに頽廃の資本主義的思考が消え去っているはずだとみんなは考えた。」
(「偏見自在 トランプ、ウソつかない」高山正之 新潮文庫より抜粋)

 …これ、一見冗談のように思えるかもしれませんが、この一節を読んでから改めて関連本を再読しますと、この冗談を本当に信じていた、あるいはこのトンデモ理論にすがっていたとしか思えない箇所がチョコチョコ見受けられます。
 ちなみに、彼らが「体内にあるブルジョア体質が抜ける」と認める制裁基準は、当時の幹部・坂口弘死刑囚の著書「あさま山荘1972」によると「顔が二、三倍に腫れあがるまで」だったそうで(-_-;)…まるっきり、マンガの世界です。

 ところが制裁対象者の顔は、殴れども殴れどもなかなか思うように腫れあがりません(-_-;)し、なかなか気絶もしてくれませんでした。ま、非力な素人がメチャクチャに殴っているだけですから、当然ちゃー当然ですけどね。
 顔を殴っても気絶しないことに焦った馬鹿学生たちは、こんどは腹を殴ることに執心しますが、これが結局、気絶による「悪魔祓い」どころか、仲間の惨殺というとんでもない結果を招きます。
「尾崎(充男)は鳩尾を集中して突かれ、膝蹴りを食い、悶絶の果てに絶命した。」「進藤(隆三郎)も同じ。腹と胸だけ殴られ、失禁して絶命した。気が付いた時には総括の名で12人が死んでいた。」(前掲書)

 前出の坂口死刑囚は、前掲著書の中で「どうしてこんなことになってしまったのか」と書いていますが、これは、仲間をつまらない動機と稚拙な手法で殺してしまったことに対する悔恨ではなく、「なぜ漫画やテレビみたいに気絶しないのか」(前掲書より)という、自分勝手な戸惑いと苛立ちを書いているだけであり、こんなことでは殺された12人も、さぞかし浮かばれないことでしょう。
 
 この事件ののち、さらに生き残った極左バカ学生たちは「東アジア反日武装戦線」という、ギャグマンガに出てきそうな名前の集団(しかも犯罪を実行する班の名前が「牙」「大地の牙」って…中二病丸出し( ゚д゚))を形成、昭和49~50年にかけ、有名な企業連続爆破事件を起こしています。
 警察による必死の捜査の末、犯人は検挙されましたが、その後の取り調べにおいて、犯人たちは「ビルを爆破して企業を脅かすことが目的であって、爆弾によって、ビルの中の人や通行人が死傷するなんて思いもしなかった」などとほざいていたそうです。
 どっからどう考えても「バカ言うな!寝言は寝てから言え!」というレベルの話ですが、ヤツらの仲間であった連合赤軍の「総括」の理由、その後の経緯を勘案すれば、むべなるかな…とも思えないこともありません。

 ともあれ、「人の痛みに対する想像力がない狂人」というものは、家柄や育ち、学歴に関係なく発生するものであり、その該当者は人生において取り返しのつかない、決定的な失敗をするということがおわかり頂けましたでしょうか。
 人の痛みのわかる素敵なオトナになるため、みなさん、道場で汗を流し、我が身に打撃を受け、投げを受け、関節技を極められして、痛みを知ろうではありませんか(←最後はそういう結論かよ!というツッコミをお待ち申し上げております(;^ω^))。

 蛇足ですが、本稿を記載するにあたり、様々な文献をあたった結果…弁護士という生き物が、今まで以上に大嫌いになりました。

アフター武漢ウイルス後の道場サバイバル(その2)

2020-11-20 09:49:03 | 格闘技のお話
ネット時代の道場サバイバル噺のその2と致しまして、前稿の「しくじり極真(;^ω^)」の中で、ネット社会における情報開示のありかた②として掲げた「受け手にとって、価値があるものであること」についてお話ししたいと思います。

 「あらゆる産業は発展した先でコモディティ化し、陳腐化していく」と喝破したのは、故・瀧本哲史氏。
 「コモディティ」とは「スペックが明確に数字や言葉で定義できるもの」、身も蓋もない言い方をすれば「そこらへんにありふれていて、買い叩かれる類のもの」なのだそうですが、実は武道・格闘技においても瀧本氏の指摘は真を衝いており、唸らせられるところ大でございます。
 上記瀧本氏の発言を武道&格闘技、とくに「武道」にフォーカスして置き換えて考えた場合、どんなアホンダラにでも見える、そして理解できる「発展」であり、かつ、コモディティ化を呼ぶものとは?
 これはもう、はっきりと答えが出てきます。
「試合のルールを明文化すること、それに則って試合をすること」です。
 
 「試合のルール明文化」はこれすなわち「使える技の限定」に直結します。
 使える技を限定した場合、単体の技、あるいはそれらを束ねたコンビネーションが開発されるわけですが、それをすぐにみんなが真似しますから、どんどんレベルが上がる=先鋭化していきます。
 それはそれでいいことなんでしょうが、しかし、もともと母数の少ないものを先鋭化させた先に待っているのは「コモディティ化」だけです。
 これはちょうど、家電製品の技術的発展が飽和状態に達した際、あるいは牛丼業界や回転ずし業界において、味や量といった「質」の追求が飽和状態に達したとき、最後には業界内で互いが互いを食い合う、血みどろの価格破壊競争が勃発したのに似ており、その先に待っているものは、瀧本氏の説を借りれば「陳腐化」、つまり、ありふれたつまらないものに堕してしまい、それはそのまま業界全体の価値の失墜につながる、としています。
 …と、ここまで書いて「日本型の産業って、なんだかルールのある試合にメッチャ似ているなあ」と思いました(;^ω^)。それはさておき。

 武道界におけるこのたとえ話の代表者として、またしてもフルコンにご登場いただきます(;^ω^)

 フルコンという競技形態は、世に出たときこそ華々しかったわけですが、「試合で使える技を限定しまくった」=先鋭化を伴う局所的な発展を遂げた挙句に、競技自体のコモディティ化が発生しました。
 要するに、試合の中で出せる技の発展が頭打ちになったため、選手のできること・やることが、どこの流派・道場でも大同小異、何も変わらなくなったわけです。
 フルコンの道場経営?の取り組みとしてもうひとつマズかったのは、「試合をすること」の即効性・利便性を追求するあまり、コモディティ化防止唯一の特効薬であったところの「武道性」を打ち棄ててしまったこと。
 「いや、そんなことはない。ウチはいつでも武道空手だ!」という向きも多いとは思いますが、街場のケンカで華麗なコンビネーションや、切れ味鋭いミドルキックが何かの役に立つのでしょうか。少なくともワタクシには、そうした「試合技」が武道性を担保し得るものとは全く思えません。
 その結果、世間へのアピール度はダダ下がりし、かといってとっくの昔に打ち棄ててしまった「実戦に供することができる武道」に帰ることもできず、時流の波間に漂流し続けている…というのが実態です。
 実はこの傾向はフルコンだけの問題じゃなく、ルールある試合を行う武道が等しく持つジレンマであり、その指導者は「試合」と「武道性」との交錯点を見出そうと、真剣に苦悩したり、あるいは方便でごまかしたりしているわけです。
 
 ただ、ワタクシ個人の意見を言わせて頂きますと、「試合と武道性の交錯点なんか存在しない。だから悩むだけムダ」です。 
 なぜかといえば答えは単純。「試合で勝つ」のに必要なことと、いわゆる「実戦」に勝つのに必要なことは、完全にトレードオフ(互換不可能)の関係だからです。
 つまり、武道・実戦性を高めたければ試合や自由攻防のプライオリティ(重要性)を極限まで引き下げるしかない、試合をやることのプライオリティを上げるのであれば、武道・実戦性を極限まで引き下げることしかできない。
 これはもう法則性のある真理であり、例外は一切存在しません。

 来るべき「アフター武漢ウイルス」において、ヒトが集まってくる要素となる「価値あること」は、試合や大会をやることで、安易にヒトを集めることでは断じてありませんし、また、3密を避けることが錦の御旗のように言われている昨今、衛生状態をしっかり管理しているトップクラスならともかく、そこらへんの一般人が集まるような大会が容易に開かれるとも思えません。
 してみれば、これからも生存可能な「価値あること」を提供できる道場とは、実戦で真に役立つもの、身体操作の深奥に迫るものといった、自らの体にイノベーションを起こせるものを提供できるところだけ、と言えるのではないでしょうか。

 そういえば、ワタクシがかつて所属していた芦原会館は、試合や大会をやらない、他流派のオープントーナメントにも(東京本部以外は)参加しないという方針を永く(今は解禁しちゃっています)貫いていましたが…おそらく先代は、自らが心血を注いだスゴい技術である「サバキ」が、そこらへんの試合系フルコンとごっちゃにされ、コモディティ化の末消費されることを懸念し、そういった独自の形態をとったのだと思います。
 本稿の最後に、先代の著書から「空手のコモディティ化」に警鐘を鳴らした箇所を紹介したいと思います。
「ある空手専門誌が調べたところ、1年間に50人から60人の『空手日本一』が誕生しているのだそうだ。『日本選手権』あるいは『全国大会』という言葉を使った大会が1年間にそのくらいの数、開催されているのだという。これでは5年で300人近いチャンピオンが生まれることになる。これには、呆れた。」
「アメリカでも大会が毎週のように繰り返され、空手が飽きられる原因となった。2,3年で消えてしまった道場も多い。
 そうまでして、人を集めたいのだろうか。そうまでしても集めるべきものを持っているのだろうか。私には疑問に思える。」
(「空手に燃え、空手に生きる」〔講談社刊〕 より抜粋)

 また先代は、早くからネット時代における、ネットでの教室を考えており、前掲著では「いずれ、キャプテン・システムのようなものを活用した教え方をしないと…」といったことを予言しており、その先見性には目を瞠るばかりです。
(キャプテン・システムとは、昭和50年代頃から当時の電電公社が始めた、インターネットの元祖のようなシステム。平成14年にサービス終了)

アフター武漢ウイルス時代の道場サバイバル!(その1)

2020-11-18 17:24:30 | 格闘技のお話
 今般の武漢ウイルス騒動に付随し、働き方、あるいは人のコミュニティまでもが大きく「ネット依存」の方向に舵を切り、現在ではもう、止めようにも止められない、でっかい奔流となりつつあります。
 武漢ウイルス騒動ではいわゆる「3密防止」という錦の御旗のせいで、武道・格闘技の道場は大いに苦境に立たされましたが、今次ウイルス騒動→ネット社会の新たな潮流確立、という流れの中で、今後、武道・格闘技の道場は「3密に対応ウンヌン」といった小さな話ではなく、「技術伝承のありかた・コミュニケーションの広がり方」という、道場経営の根幹部分まで変化を余儀なくされるんじゃないか、と思っています。

 以後の記事を読んで、「そんなことがあるか!」とお怒りになられる武道家・道場経営者の方がおられるんじゃないか、と思います。
 しかし、時流なるものは人間社会に遍く影響するものであり、モロに人の営みであるところの武道・格闘技も、その軛から逃れることはできません。ですから今のうちに現状と向き合い、武道・格闘技における「アフター武漢ウイルス時代」に思いをはせておくのは、決して無駄なことではないと思うのです。これは武道・格闘技を愛好するオッサンによる「アフター武漢ウイルス」へのカウンターパンチでもあること、お含みおき下さいますれば幸甚です。
 ちなみに今回も…弊ブログの常っちゃー常?ですが、当初1回こっきりで終わらせるネタであったところ、書き始めたらずいぶん長くなっちゃいましたんで、2回に分けてお送りいたしますm(__)m。

 これまでネットの発展が世の中にもたらしたものはたくさんあり、それによって、世の人の意識が自然に変わってしまった、というものは多々あります。
 まず大きく変わったことと言えば、良きにつけ悪しきにつけ「情報を抱え込む」ことが無力化されたこと。
 いくら自分が「モノを知っている」「これはオレしか知りえていない」とうぬぼれていても、ネットを開けば既にそのアイディアや、それを上回る知識がゴロンゴロン転がっていますし、それ以外にも、悪事や不都合な情報を隠そうとしても、即座に「善意の第三者」、あるいは「●●警察」などと呼ばれるネット民が即座にバラしてしまいますから、「都合の悪い情報」の抱え込みすら難しい状況です。
 ですからネットでは、ヘタに情報を隠すより、逆に積極的に情報を開示することによって(ネット上における)ヒトの往来を得て、それにより、よりよい情報を持ったより良いヒトが寄ってくる…ということがアタリマエとなっています。
 自分から情報を発信するかたちのネットワーク、いわゆるSNSというヤツが市民権を得た背景には、そんなところがあるようです。
 これらのことから考えますと、今後生き残れる道場のポイントは、いまお話しした「ホンモノの情報開示による、ヒトや情報の上位互換」ではないかと思うわけです。

 ここで、弊ブログではいつも「よからぬほう」のサンプルとして登場していただいてもらっております、いにしえの極真会館。今回もまた、「よからぬほう」のサンプルとしてご登場いただきたいと思います(;^ω^)。
 空手としての技術は剛柔流と松濤館流とタイボクシングのツギハギという、「空手」と呼ぶべき正当性があるかどうかすら怪しい流派であった極真が、なぜ最盛期には「空手を代表する一派一門」となり得たか。
 その秘訣は総裁や道場生の強さでもなく、技術の正当性でもなく、同族による『ヒト・情報・カネ』の巨大流通網をいちはやく形成したことによります。

 かつて大山総裁の右腕と謳われた、世界誠道空手道連盟誠道塾会長・中村忠先生の著書「人間空手」には、中村会長在籍当時の極真における海外勢の昇級・昇段審査の様子が書かれており、それによりますと、なんと稽古の状況を撮影した8ミリフィルムを送付させ、それを見て合格させていたとされています。
 作中には「空手の腕なんかどうでもいいから、世界中に支部を増やすため、とりあえず合格させてしまえ」的な指示を出す大山総裁の姿が描かれていますが、これは「極真という網を少しでも広く張り巡らせ、それによってヒトの往来を盛んにする」という、ビジネス拡大路線の発露として考えた場合、「そういう手もあるのか、なるほど」と思うところ大です。
 ただそれは、「空手の組織として、やっていいか悪いかはさておいて…」という但し書きつきですが(;^ω^)。
 この発想はいわゆる「武道家」からは絶対に出てこないものであり、建青(朝鮮建国促進青年同盟。のちの大韓民国居留民団=いわゆる民団)創設時の大幹部で、政治家から実業家、はてはヤクザの親分までと顔が広かった大山総裁だからこそ、「ヒトの網は広ければ広いほど、カネと情報が集まる」という点を知悉したうえで打った一手と言えましょう。
 総裁のそういったイノベーション(変革)の結果、極真は総裁というたった1人のカリスマを頂点とする、巨大なヒトとカネと情報のネットワークを形成することが出来、そのネットワークの力によって、フルコンが一大ムーブメントとなったわけです。
 ただそのネットワークは、現在のインターネットのようなオープン回線ではなく、会社や特定組織内だけで運用されているクローズ回線の姿に近いといえましょう。

 しかし、総裁が自己または他人の心血を注いで作った「フルコン」が、現代社会においてどういう扱いを受けているかといいますと、「直接打撃によって勝敗を決する、スポーツ空手の一種」というごく小さな扱いを受けており、従前のような、社会的ムーブメントを起こすコンテンツへの回復は略不可能、という程度の認知度に留まっています。
 なんでこんなことになったかといいますと、良きにつけ悪しきにつけ、間違いなくフルコン界のトップランナーである極真のその後の営業形態が「ネットでの生き残り戦略の真逆を行ったから」ということで説明がつきます。

 ネットで生き残るためには、先ほども申しましたように「情報開示による情報の上位互換」が必要です。
 要するに、こちらから持てる情報、よりよい情報をさらけ出すことでヒトを集め、それによってより良い情報がやってきて、さらにアップデートする…ということですね。

 こういった場合の情報開示にあたっては

①ウソ偽りがないこと
②受け手にとって、価値があるものであること
③発信者側で勝手な取捨選択をしないこと(「臭いものにフタ」はダメ)
④誰が見聞きしてもわかること(意味不明な説明文や言語を用いない)

が必要なのですが、批判を恐れずに言えば、極真はその程度はともかく、原則①~④までの全てに逆らうことをやったがために、自ら築いたブランドをネット社会のビッグウェーブに乗せることができず、自滅したといえます。
 極真における①~④の具体例をいちいち挙げるとメチャクチャ長くなりますので、①を代表する出来事だけを紹介しますと…やはり、以前弊ブログでも取り上げた、極真を名乗る某派閥が仕掛けた仮想通貨「マスコイン」騒動。
 あの騒動後、マスコインのHPは消滅、総裁の孫がシャブでパクられた謝罪の言葉もなし、集めたお金がどうなったのかも不明、運営自体がどうなっているかも不明…多数の人とお金を集めてこういうことをすれば、社会的信用は当然ゼロになりますし、「極真」を名乗る他の団体にも大迷惑がかかります(極真を知らない世間一般の人の目には、同じ穴のムジナと映る危険性が大きいです)。
 なお、②についてはちょっとお話が複雑ですので、稿を改めてお話しします。

 逆に現在、①~④を惜しみなく発信し、その「ホンモノ」の凄さで評判を呼んでいるのが沖縄の古い空手。
 流派や先生はいろいろですが、そのいずれもが本物の持つ凄みに溢れており、また「試合」という小さな枠にとらわれず、様々なことにに応用が効くことからたくさんの人々の心をとらえ、今ではホンモノの空手を求めて来沖する方がひきもきらない、という状況。
 このムーブメントは、ネットビジネスに長けていたヤツが変な仕掛けをしてできたものではありません。「本物を知ってほしい」という篤志家による紹介記事や紹介動画によって、少しずつ現代に知られるようになったわけですが、その理由は、先述の①~④を高いレベルで満たしているからに他なりません。

 「アフター武漢ウイルス」にあって生き残る道場とは、エビデンスがしっかりしていて、知って楽しい、稽古して面白い、そしてトレーニングを重ねることが自分や自分の周囲の人のためにもなるという、「真・善・美」にして、その人に適した付加価値がある道場。
 ありきたりな結論になってしまったような気もしますが、そんなもんだというような気がします。
(その2に続きます)

作麼生(そもさん)!「空手の型はムービングZEN(禅)か?」説破!「ちょい違う気がします」

2020-11-06 15:34:06 | 格闘技のお話
 以前弊ブログにおいて、「いわゆる実戦系格闘技は西洋哲学的なもの」というお話をさせて頂きました。
 ワタクシの書き方がヘタクソだったのか、はたまた解釈がトンチンカン過ぎたのかどうかは知りませんが、コメもなく、また、人気もかなり低かった記事ではございましたm(__)m。そんな楽屋ネタはともかく。
 
 ワタクシが好きでも嫌いでもないビミョーな武道?雑誌「月刊秘伝」。
 同誌、あるいは同誌出版社刊行の武道系単行本のうち、空手を取り上げたものによく、「空手の型はムービングZEN(禅)だ」みたいな、浄土宗の門徒かつ、仏教用語でいう凡夫のワタクシにはなかなか理解し難い(;^ω^)主張が再三見かけられますが、今回はその「空手の型=禅」ってどういうことなの?ということについて考えてみたいと思います。
 冒頭お断りしておきますが、ワタクシこれまで、「ムービング禅」系の本は一冊も読んだことがありません(-_-;)。
 ですんで、以下にお話しすることは、純粋な「日本の禅宗」に関するお話と、ワタクシがいわゆる「空手」の名人として尊敬措く能わざる沖縄拳法沖拳会師範・山城美智先生のお話とのミックスでお送りしたいと思います。

 まずは「禅」なるものの成立の概要から。
 「禅」の語源はサンスクリット語の「ディヤーナ(瞑想)」であり、これが古代のシナに伝わって「禅那」、その後日本で「禅」として完成された…というものです。
 すべての禅の開祖とされるのは皆様ご存じ、置物の「だるまさん」で有名な達磨大師ですが、そこから話を始めるとメチャ長くなるので割愛し、「我が国の禅」から話を始めたいと思います。
 日本における「禅」の総本山は臨済宗と曹洞宗に分かれます。
 臨済宗は栄西(1141~1215)が開祖。この方は日本にお茶を広めた人としても有名ですね。
 臨済宗における「禅」の特徴は「看話禅(かんわぜん)」。
 これは「公案(こうあん)」という、師匠からの一種の謎かけを解くことで悟りの境地に至ろう、というアプローチ方法です。
 この公案というやつ、なかなか変わっていまして、一筋縄ではいかない謎かけばかりです。有名なのは「隻手の音声(せきしゅのおんじょう)」…つまり、「片手で叩いた音はどんな音がする?」というヤツですね(;^ω^)。

 もうひとつの「禅」の総本山は曹洞宗。
 開祖は道元(1200~1253)。栄西のもとで学ぶも、道元が修行を始めてすぐ、栄西が高齢のため他界。その後シナに留学、栄西とは異なる、独自の禅を完成させます。
 曹洞宗のほうは「黙照禅(もくしょうぜん)」といい、「只管打坐」…つまり、「ただひたすら座り続ける」という、一見何の意味があるのかわからない修行方法です。

 そういえば、空手の型と言うのは一見して何をやっているのかわからない、不可解な動きに満ち溢れています。
 おそらくですが、「ムービング禅」の主張者はまず、公案や只管打坐の「いっけん、何を言っているのか、何をやってるのかわからん」と、空手の型に対する「いっけん、何をやっているかわからん」を同一視するところから話が始まっているのではないかと思います。 
 「型=ムービング禅」主張者はここからさらに、「いっけん、何をやっているかわからん」ことを繰り返すことで、禅宗のある種の悟りである「思考を通さずに、思考を客観化し、他者として見るようになる」ことを狙っているのではないか、と思うのです。

 著書「泊手 突き 本」(CHAMP刊)において、山城先生は「人間は一度に多くのことを意識して動作を行うことができない」という理由を示しつつ、型稽古の持つ大きな意義のひとつが「必要なことは全て無意識下に仕込み置き、最大の威力を持ちながら、最少の動きで相手に迫ることができる」ようにすることである、としています。
 何かの本で読みましたが、人間の脳は思考が飽和した際、選択を「無意識」に丸投げしてしまう傾向があるそうですが、その選択はたいがい正しいことが多いとのこと。
 そう考えますと、「型=ムービング禅」の狙いは、あながち的外れなものではないのかもしれません。

 ただ、ワタクシの心の中には未だ「型=ムービング禅」への違和感があります。
 
 その理由ですが、「公案」や「只管打坐」はその道の修行者が何年も何十年もかけ、特殊な環境で修行&生活しなければ、到底その真理にたどり着くことができない、まさしく「わけわからんもの」であるのに比べ、山城先生の前掲著によると、空手の型は「戦いにおける『動き・要素・発想』」「相手の制圧における『誘い・崩し・威力』」をよりよく身に着けるためのもの、と、その意義が明確化されています。
 もうちょっと分かりやすく?言いますと、禅は「哲学」であり、空手の型は「戦う技法」。もともとの目的や立ち位置が違うんです。

 ですから、もし空手の型を練る過程で「ヘンな悟り」を開くようなヤツがいるとすれば、それは「戦う技術」としての型を真面目に練習していないという何よりの証拠ですし、また、型を小乗仏教の「厳しい修行をすれば悟りに至る」的な考えに立脚した、「ただ疲労するための試練」の手段
として型を繰り返すような輩に至っては、貶す言葉すら見つかりません。

 以上、空手の型を「ムービング禅」ととらえる解釈、それに横たわる問題を縷々お話しました。
 最後に言い訳めいたことを言いますが、本稿は個人的に「ムービング禅」を信じている方を貶める目的で書かれたものではなく、あくまでワタクシが「ムービング禅」に感じた違和感を発表する目的で記載されたものです。その点お汲みおき頂きますよう、よろしくお願いいたします。