【その9 講道館柔道=「(試合に)勝つ!ための柔術」】
嘉納治五郎が各種柔術を研究し、レスリングの要素を多分にブチ込んで作り上げた「柔能く剛を制する」「小能く大を制する」講道館柔道の実態とはいかなるものであったのか。
これは一言で表しますと「(試合に)勝つ!ための柔術」。それ以上でもそれ以下でもありません。
ちなみにこれは、正道会館の石井館長(当時)が著した「勝つ!ための空手」という、フルコン技術書のタイトルをパクッた表現ですが、講道館柔道というものの本質を意外と?よく表せているかな…と思いますので、以後、講道館柔道のことを「(試合に)勝つ!ための柔術」と表現するくだりがちょいちょい出てまいりますので、ご了承くださいませ。
講道館が設立された当初の稽古っぷりについて、磯貝一十段が昭和16年、講道館の機関誌「柔道」で語っているので、ちょっと見てみましょう。
「(講道館の稽古ぶりは)スラスラと歩き相手を崩して、その隙をみては思ひ切つて技を出すといふ妙味ある稽古振りであつた。これは當時(=当時)の他の如何なる柔術にも、見ることの出来ない稽古振りであつたのである。」
「この時の試合内容を技術的に検討してみると、用ひられた技は殆んど、足拂(=足払い)・小内刈・膝車・大内刈・返技といふ小技のみでこの軽妙な、洗煉された小技が、戸塚派楊心流の大外刈、及び寝技を壓した(=圧した)といふ譯(=訳)になる。」
磯貝十段の回顧から読み取れることは、要するにこういうことです。
「整地限定の歩法である『すり足』、そして『すり足』を前提にしないと不可能な『崩し技』、そして十分に体勢を崩した相手に対する『フライング・フォールの取れる投げ』。このセットこそが講道館の編み出した『(試合に)勝つ!ための柔術』だ!」
嘉納は後発の講道館柔道が世に出るためには、とにかく他流試合に勝つことが最も重要だということを、よくわかっていました。
ですから、いくら実戦的な技であっても、試合で使えないものはどんどん排除し、逆に実戦的でなくても、試合に役立つ技はどんどん組み入れていき、さらに言えば、ルールすらも講道館に有利なものを作って運用する。
これは幾度も言いますように、講道館柔道をスポーツ、つまり「(試合に)勝つ!ための柔術」とする確固たる信念がないとできないことであり、当時のわが国で、そういった大胆な技術を作れたのは、内外の格闘事情に通じた嘉納のほかに存在しませんでした。
嘉納が「すり足」や「足技による崩し」のほか、「試合に勝つ!」ためにこだわったのはグリップ。現在も続くいわゆる「釣手・引手」というグリップが、横山作次郎VS中村半助戦のころには既に確立されていたことについては第3回で触れたとおりですが、この原点は第5回で触れた、イギリスレスリングの各スタイルのうち、「ランカシャー・スタイル」をまねたもの(肘と襟を取り合ったところから戦い始める)と思われます。
理由は「ランカシャーは華麗な投技が出やすい」。
逆に、華麗な投技ができにくく、パワーやグラウンド・テクニックがモノを言うのは、クラッチからのファイトであるカンバーランドや、のちに米英両国で勃興するキャッチ・アズ・キャッチ・キャン。
明治の末期にイギリスにおいて、「タロー・ミヤケ」の名で活躍した柔術家・三宅多留次(みやけ・たるじ。1881?~1935)も、現地紙の取材で「掴める様に掴め式(=キャチ・アズ・キャッチ・キャン)には立ち技が余りなく…」と言っており、嘉納がそちらの形式を「講道館柔道」の仲間から外したのは当然っちゃー当然かもしれません。
こうして明治20年前後ころには講道館柔道=「(試合に)勝つ!ための柔術」の大部分が完成し、いわゆるスポーツとして完成されていない古流柔術諸派が次々に講道館に呑まれていくわけですが、講道館柔道が「(試合に)勝つ!ための柔術」であることは公然の秘密であり、その本音を隠すため、嘉納はけっこうな言い訳を続けざるを得なくなりました。
【その10 嘉納の苦しい言い訳と、講道館の宿痾の始まり】
「(試合で)勝つ!ための柔術」を作る過程で嘉納は、誤解を恐れずに言えば固め技…すなわち、グラウンド技を一切捨てました。理由は簡単、嘉納の考える「(試合に)勝つ!」ためのパターンから外れていたからです。
古流柔術は固め技に長けており、講道館は試合でしばしば苦汁をなめさせられていました。
嘉納自身も著書で、「固め技では勝てなかった」と認めています。
「新日本史」第四巻武道編(大正15年11月 万朝報社)の「柔道」の項目に寄せた文章より。
「警視庁に各地から諸流の名家が集まり、その中に固技の名人もいてそれらと試合した場合、講道館の者は投技で相手になることは苦とは思わなかったが、最初のうちは固技では相当骨が折れたようであった。」
「負けた」とはっきり書かないあたりがアレなんですが(;^ω^)、要するに「寝技では負けた」ということを暗に匂わせています。
嘉納は、講道館柔道が「(試合に)勝つ!ための柔道」であることを隠すため、そして寝技がその必勝パターンから外れていることを隠すため、自著でアホほど「投技修行の重要性」を訴え、その反面、不必要なまでの寝技蔑視を展開しています。
たとえば「講道館柔道概説」(大正4年)という文章には、投技を「一番価値のあるもの」とし、その理由を3つ挙げています。
(原文は段落分けをしていないので、段落分けはワタクシのほうで実施)
「…投業と固業との修行の順序において、投業を先にすべきであるという理由が三つある。
一は、前に述べたように業も沢山あり理論も込み入っておりまた高尚であるから早くから始めて久しく続けて練習しなければなかなかひととおりのことも学び得られない。
ニは、固業はずいぶん練習が苦しいが、投業は比較的興味があるから早く柔道の興味を覚えるために都合がよい。
三は、固業の練習を先にしたものは投業が上達しにくいが投業を先に練習したものは固業を覚えることが容易である。」
ワタクシもグラップリング修行を永くしておりますが、①~③まで、すべて納得がいきません。
①③については固め技への偏見丸出しですし、②も全く当たりません。
嘉納はこんなことも言っています。
「自分は三十余年来多数の門下を取り立てた経験から見て…最初投業を主として修行したものが、のちに寝業においても寝業を専門にしている大家に劣らなくなった例はいくらも見ている。」
「柔道の高尚な理論や面白味が、立業の修行からでなければ分らぬばかりでなく、勝負の上からも立業の修行が大切である。」
「高尚な技術である立ち技さえできれば、寝技なんかすぐできるようになる!」などと、勘違いも甚だしいことを言っていますが、嘉納はそれだけ、スポーツ化の過程で自らが捨てたものに後ろめたさを感じていた、とも考えられます。
しかし、こうした寝技蔑視は、講道館が大きくなり、柔道が完全に「武道スポーツ」としての地位を確立したあと、思わぬ形で講道館に逆襲してきます。
幾度も言いますように、柔道は「(試合に)勝つ!ための柔術」であり、ゲームでした。
柔道ゲーム化の傾向は明治32年に大日本武徳会、翌33年に講道館の試合審判規則ができ、全国各地で試合が行われるようになるにつれ加速。ゲームの究極の目的である「試合に勝つ!」が過熱する過程において、「必勝を期するための技術」として、寝技が勃興してきます。そう、いわゆる「高専柔道」というヤツです。
嘉納はこの、いわゆる「高専柔道」に徹頭徹尾否定的で、死ぬ間際まで敵視していましたが、もともと講道館柔道自体が、武道からキバを抜いた「スポーツ」なのですから、柔道の最終目標が「ゲームの勝ち負け」に帰するのは当然のことであり、「投げゲーム」の柔道が、「寝技ゲーム」の柔道を批判するというのは「猿のケツ笑い」そのものであり、なんともおかしな話です。
要するに嘉納は「スポーツ柔道が勃興する未来」までは見えたのですが、「スポーツ柔道が爛熟を迎えた後の未来」までは、全く見通せなかったのです。
自らの思想&必勝パターンと反する発展?をしてしまった柔道に焦りを感じた嘉納はその後、柔道を「武道・武術」に戻そうとする各種活動を死の直前まで行いますが、すでにスポーツとして爛熟した柔道に、実戦を見据えた「武術」に回帰する力は最早存在せず、これらの活動は以後、迷走に迷走を重ねますが…その話はまた今度。
ともあれ、明治20年代ころに完成した、講道館の「(試合に)勝つ!ための柔術」は、「警視庁柔術の座を独占」とまではいかないまでも、その地歩を確実に固め、世間への認知度を大きく上げたのでありました。
※磯貝一十段回顧録・タロー・ミヤケの談話・嘉納の文章はいずれも、HP「WWDプロレス観戦日記」記載のものを引用しました。
嘉納治五郎が各種柔術を研究し、レスリングの要素を多分にブチ込んで作り上げた「柔能く剛を制する」「小能く大を制する」講道館柔道の実態とはいかなるものであったのか。
これは一言で表しますと「(試合に)勝つ!ための柔術」。それ以上でもそれ以下でもありません。
ちなみにこれは、正道会館の石井館長(当時)が著した「勝つ!ための空手」という、フルコン技術書のタイトルをパクッた表現ですが、講道館柔道というものの本質を意外と?よく表せているかな…と思いますので、以後、講道館柔道のことを「(試合に)勝つ!ための柔術」と表現するくだりがちょいちょい出てまいりますので、ご了承くださいませ。
講道館が設立された当初の稽古っぷりについて、磯貝一十段が昭和16年、講道館の機関誌「柔道」で語っているので、ちょっと見てみましょう。
「(講道館の稽古ぶりは)スラスラと歩き相手を崩して、その隙をみては思ひ切つて技を出すといふ妙味ある稽古振りであつた。これは當時(=当時)の他の如何なる柔術にも、見ることの出来ない稽古振りであつたのである。」
「この時の試合内容を技術的に検討してみると、用ひられた技は殆んど、足拂(=足払い)・小内刈・膝車・大内刈・返技といふ小技のみでこの軽妙な、洗煉された小技が、戸塚派楊心流の大外刈、及び寝技を壓した(=圧した)といふ譯(=訳)になる。」
磯貝十段の回顧から読み取れることは、要するにこういうことです。
「整地限定の歩法である『すり足』、そして『すり足』を前提にしないと不可能な『崩し技』、そして十分に体勢を崩した相手に対する『フライング・フォールの取れる投げ』。このセットこそが講道館の編み出した『(試合に)勝つ!ための柔術』だ!」
嘉納は後発の講道館柔道が世に出るためには、とにかく他流試合に勝つことが最も重要だということを、よくわかっていました。
ですから、いくら実戦的な技であっても、試合で使えないものはどんどん排除し、逆に実戦的でなくても、試合に役立つ技はどんどん組み入れていき、さらに言えば、ルールすらも講道館に有利なものを作って運用する。
これは幾度も言いますように、講道館柔道をスポーツ、つまり「(試合に)勝つ!ための柔術」とする確固たる信念がないとできないことであり、当時のわが国で、そういった大胆な技術を作れたのは、内外の格闘事情に通じた嘉納のほかに存在しませんでした。
嘉納が「すり足」や「足技による崩し」のほか、「試合に勝つ!」ためにこだわったのはグリップ。現在も続くいわゆる「釣手・引手」というグリップが、横山作次郎VS中村半助戦のころには既に確立されていたことについては第3回で触れたとおりですが、この原点は第5回で触れた、イギリスレスリングの各スタイルのうち、「ランカシャー・スタイル」をまねたもの(肘と襟を取り合ったところから戦い始める)と思われます。
理由は「ランカシャーは華麗な投技が出やすい」。
逆に、華麗な投技ができにくく、パワーやグラウンド・テクニックがモノを言うのは、クラッチからのファイトであるカンバーランドや、のちに米英両国で勃興するキャッチ・アズ・キャッチ・キャン。
明治の末期にイギリスにおいて、「タロー・ミヤケ」の名で活躍した柔術家・三宅多留次(みやけ・たるじ。1881?~1935)も、現地紙の取材で「掴める様に掴め式(=キャチ・アズ・キャッチ・キャン)には立ち技が余りなく…」と言っており、嘉納がそちらの形式を「講道館柔道」の仲間から外したのは当然っちゃー当然かもしれません。
こうして明治20年前後ころには講道館柔道=「(試合に)勝つ!ための柔術」の大部分が完成し、いわゆるスポーツとして完成されていない古流柔術諸派が次々に講道館に呑まれていくわけですが、講道館柔道が「(試合に)勝つ!ための柔術」であることは公然の秘密であり、その本音を隠すため、嘉納はけっこうな言い訳を続けざるを得なくなりました。
【その10 嘉納の苦しい言い訳と、講道館の宿痾の始まり】
「(試合で)勝つ!ための柔術」を作る過程で嘉納は、誤解を恐れずに言えば固め技…すなわち、グラウンド技を一切捨てました。理由は簡単、嘉納の考える「(試合に)勝つ!」ためのパターンから外れていたからです。
古流柔術は固め技に長けており、講道館は試合でしばしば苦汁をなめさせられていました。
嘉納自身も著書で、「固め技では勝てなかった」と認めています。
「新日本史」第四巻武道編(大正15年11月 万朝報社)の「柔道」の項目に寄せた文章より。
「警視庁に各地から諸流の名家が集まり、その中に固技の名人もいてそれらと試合した場合、講道館の者は投技で相手になることは苦とは思わなかったが、最初のうちは固技では相当骨が折れたようであった。」
「負けた」とはっきり書かないあたりがアレなんですが(;^ω^)、要するに「寝技では負けた」ということを暗に匂わせています。
嘉納は、講道館柔道が「(試合に)勝つ!ための柔道」であることを隠すため、そして寝技がその必勝パターンから外れていることを隠すため、自著でアホほど「投技修行の重要性」を訴え、その反面、不必要なまでの寝技蔑視を展開しています。
たとえば「講道館柔道概説」(大正4年)という文章には、投技を「一番価値のあるもの」とし、その理由を3つ挙げています。
(原文は段落分けをしていないので、段落分けはワタクシのほうで実施)
「…投業と固業との修行の順序において、投業を先にすべきであるという理由が三つある。
一は、前に述べたように業も沢山あり理論も込み入っておりまた高尚であるから早くから始めて久しく続けて練習しなければなかなかひととおりのことも学び得られない。
ニは、固業はずいぶん練習が苦しいが、投業は比較的興味があるから早く柔道の興味を覚えるために都合がよい。
三は、固業の練習を先にしたものは投業が上達しにくいが投業を先に練習したものは固業を覚えることが容易である。」
ワタクシもグラップリング修行を永くしておりますが、①~③まで、すべて納得がいきません。
①③については固め技への偏見丸出しですし、②も全く当たりません。
嘉納はこんなことも言っています。
「自分は三十余年来多数の門下を取り立てた経験から見て…最初投業を主として修行したものが、のちに寝業においても寝業を専門にしている大家に劣らなくなった例はいくらも見ている。」
「柔道の高尚な理論や面白味が、立業の修行からでなければ分らぬばかりでなく、勝負の上からも立業の修行が大切である。」
「高尚な技術である立ち技さえできれば、寝技なんかすぐできるようになる!」などと、勘違いも甚だしいことを言っていますが、嘉納はそれだけ、スポーツ化の過程で自らが捨てたものに後ろめたさを感じていた、とも考えられます。
しかし、こうした寝技蔑視は、講道館が大きくなり、柔道が完全に「武道スポーツ」としての地位を確立したあと、思わぬ形で講道館に逆襲してきます。
幾度も言いますように、柔道は「(試合に)勝つ!ための柔術」であり、ゲームでした。
柔道ゲーム化の傾向は明治32年に大日本武徳会、翌33年に講道館の試合審判規則ができ、全国各地で試合が行われるようになるにつれ加速。ゲームの究極の目的である「試合に勝つ!」が過熱する過程において、「必勝を期するための技術」として、寝技が勃興してきます。そう、いわゆる「高専柔道」というヤツです。
嘉納はこの、いわゆる「高専柔道」に徹頭徹尾否定的で、死ぬ間際まで敵視していましたが、もともと講道館柔道自体が、武道からキバを抜いた「スポーツ」なのですから、柔道の最終目標が「ゲームの勝ち負け」に帰するのは当然のことであり、「投げゲーム」の柔道が、「寝技ゲーム」の柔道を批判するというのは「猿のケツ笑い」そのものであり、なんともおかしな話です。
要するに嘉納は「スポーツ柔道が勃興する未来」までは見えたのですが、「スポーツ柔道が爛熟を迎えた後の未来」までは、全く見通せなかったのです。
自らの思想&必勝パターンと反する発展?をしてしまった柔道に焦りを感じた嘉納はその後、柔道を「武道・武術」に戻そうとする各種活動を死の直前まで行いますが、すでにスポーツとして爛熟した柔道に、実戦を見据えた「武術」に回帰する力は最早存在せず、これらの活動は以後、迷走に迷走を重ねますが…その話はまた今度。
ともあれ、明治20年代ころに完成した、講道館の「(試合に)勝つ!ための柔術」は、「警視庁柔術の座を独占」とまではいかないまでも、その地歩を確実に固め、世間への認知度を大きく上げたのでありました。
※磯貝一十段回顧録・タロー・ミヤケの談話・嘉納の文章はいずれも、HP「WWDプロレス観戦日記」記載のものを引用しました。