集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

警察術科(主に逮捕術と柔道、あと剣道ちょこっと)の長い長い歴史(第6回)

2021-01-23 09:46:37 | 雑な歴史シリーズ
【その9 講道館柔道=「(試合に)勝つ!ための柔術」】

 嘉納治五郎が各種柔術を研究し、レスリングの要素を多分にブチ込んで作り上げた「柔能く剛を制する」「小能く大を制する」講道館柔道の実態とはいかなるものであったのか。
 これは一言で表しますと「(試合に)勝つ!ための柔術」。それ以上でもそれ以下でもありません。
 ちなみにこれは、正道会館の石井館長(当時)が著した「勝つ!ための空手」という、フルコン技術書のタイトルをパクッた表現ですが、講道館柔道というものの本質を意外と?よく表せているかな…と思いますので、以後、講道館柔道のことを「(試合に)勝つ!ための柔術」と表現するくだりがちょいちょい出てまいりますので、ご了承くださいませ。
 
 講道館が設立された当初の稽古っぷりについて、磯貝一十段が昭和16年、講道館の機関誌「柔道」で語っているので、ちょっと見てみましょう。
 「(講道館の稽古ぶりは)スラスラと歩き相手を崩して、その隙をみては思ひ切つて技を出すといふ妙味ある稽古振りであつた。これは當時(=当時)の他の如何なる柔術にも、見ることの出来ない稽古振りであつたのである。」
「この時の試合内容を技術的に検討してみると、用ひられた技は殆んど、足拂(=足払い)・小内刈・膝車・大内刈・返技といふ小技のみでこの軽妙な、洗煉された小技が、戸塚派楊心流の大外刈、及び寝技を壓した(=圧した)といふ譯(=訳)になる。」

 磯貝十段の回顧から読み取れることは、要するにこういうことです。
「整地限定の歩法である『すり足』、そして『すり足』を前提にしないと不可能な『崩し技』、そして十分に体勢を崩した相手に対する『フライング・フォールの取れる投げ』。このセットこそが講道館の編み出した『(試合に)勝つ!ための柔術』だ!」

 嘉納は後発の講道館柔道が世に出るためには、とにかく他流試合に勝つことが最も重要だということを、よくわかっていました。
 ですから、いくら実戦的な技であっても、試合で使えないものはどんどん排除し、逆に実戦的でなくても、試合に役立つ技はどんどん組み入れていき、さらに言えば、ルールすらも講道館に有利なものを作って運用する。
 これは幾度も言いますように、講道館柔道をスポーツ、つまり「(試合に)勝つ!ための柔術」とする確固たる信念がないとできないことであり、当時のわが国で、そういった大胆な技術を作れたのは、内外の格闘事情に通じた嘉納のほかに存在しませんでした。

 嘉納が「すり足」や「足技による崩し」のほか、「試合に勝つ!」ためにこだわったのはグリップ。現在も続くいわゆる「釣手・引手」というグリップが、横山作次郎VS中村半助戦のころには既に確立されていたことについては第3回で触れたとおりですが、この原点は第5回で触れた、イギリスレスリングの各スタイルのうち、「ランカシャー・スタイル」をまねたもの(肘と襟を取り合ったところから戦い始める)と思われます。
 理由は「ランカシャーは華麗な投技が出やすい」。
 逆に、華麗な投技ができにくく、パワーやグラウンド・テクニックがモノを言うのは、クラッチからのファイトであるカンバーランドや、のちに米英両国で勃興するキャッチ・アズ・キャッチ・キャン。
 明治の末期にイギリスにおいて、「タロー・ミヤケ」の名で活躍した柔術家・三宅多留次(みやけ・たるじ。1881?~1935)も、現地紙の取材で「掴める様に掴め式(=キャチ・アズ・キャッチ・キャン)には立ち技が余りなく…」と言っており、嘉納がそちらの形式を「講道館柔道」の仲間から外したのは当然っちゃー当然かもしれません。

 こうして明治20年前後ころには講道館柔道=「(試合に)勝つ!ための柔術」の大部分が完成し、いわゆるスポーツとして完成されていない古流柔術諸派が次々に講道館に呑まれていくわけですが、講道館柔道が「(試合に)勝つ!ための柔術」であることは公然の秘密であり、その本音を隠すため、嘉納はけっこうな言い訳を続けざるを得なくなりました。

【その10 嘉納の苦しい言い訳と、講道館の宿痾の始まり】

 「(試合で)勝つ!ための柔術」を作る過程で嘉納は、誤解を恐れずに言えば固め技…すなわち、グラウンド技を一切捨てました。理由は簡単、嘉納の考える「(試合に)勝つ!」ためのパターンから外れていたからです。

 古流柔術は固め技に長けており、講道館は試合でしばしば苦汁をなめさせられていました。
 嘉納自身も著書で、「固め技では勝てなかった」と認めています。
 「新日本史」第四巻武道編(大正15年11月 万朝報社)の「柔道」の項目に寄せた文章より。 
「警視庁に各地から諸流の名家が集まり、その中に固技の名人もいてそれらと試合した場合、講道館の者は投技で相手になることは苦とは思わなかったが、最初のうちは固技では相当骨が折れたようであった。」
 「負けた」とはっきり書かないあたりがアレなんですが(;^ω^)、要するに「寝技では負けた」ということを暗に匂わせています。

 嘉納は、講道館柔道が「(試合に)勝つ!ための柔道」であることを隠すため、そして寝技がその必勝パターンから外れていることを隠すため、自著でアホほど「投技修行の重要性」を訴え、その反面、不必要なまでの寝技蔑視を展開しています。
 たとえば「講道館柔道概説」(大正4年)という文章には、投技を「一番価値のあるもの」とし、その理由を3つ挙げています。
(原文は段落分けをしていないので、段落分けはワタクシのほうで実施)
「…投業と固業との修行の順序において、投業を先にすべきであるという理由が三つある。
 一は、前に述べたように業も沢山あり理論も込み入っておりまた高尚であるから早くから始めて久しく続けて練習しなければなかなかひととおりのことも学び得られない。
 ニは、固業はずいぶん練習が苦しいが、投業は比較的興味があるから早く柔道の興味を覚えるために都合がよい。
 三は、固業の練習を先にしたものは投業が上達しにくいが投業を先に練習したものは固業を覚えることが容易である。」
 ワタクシもグラップリング修行を永くしておりますが、①~③まで、すべて納得がいきません。
 ①③については固め技への偏見丸出しですし、②も全く当たりません。

 嘉納はこんなことも言っています。
 「自分は三十余年来多数の門下を取り立てた経験から見て…最初投業を主として修行したものが、のちに寝業においても寝業を専門にしている大家に劣らなくなった例はいくらも見ている。」
 「柔道の高尚な理論や面白味が、立業の修行からでなければ分らぬばかりでなく、勝負の上からも立業の修行が大切である。」
 「高尚な技術である立ち技さえできれば、寝技なんかすぐできるようになる!」などと、勘違いも甚だしいことを言っていますが、嘉納はそれだけ、スポーツ化の過程で自らが捨てたものに後ろめたさを感じていた、とも考えられます。

 しかし、こうした寝技蔑視は、講道館が大きくなり、柔道が完全に「武道スポーツ」としての地位を確立したあと、思わぬ形で講道館に逆襲してきます。

 幾度も言いますように、柔道は「(試合に)勝つ!ための柔術」であり、ゲームでした。
 柔道ゲーム化の傾向は明治32年に大日本武徳会、翌33年に講道館の試合審判規則ができ、全国各地で試合が行われるようになるにつれ加速。ゲームの究極の目的である「試合に勝つ!」が過熱する過程において、「必勝を期するための技術」として、寝技が勃興してきます。そう、いわゆる「高専柔道」というヤツです。
 嘉納はこの、いわゆる「高専柔道」に徹頭徹尾否定的で、死ぬ間際まで敵視していましたが、もともと講道館柔道自体が、武道からキバを抜いた「スポーツ」なのですから、柔道の最終目標が「ゲームの勝ち負け」に帰するのは当然のことであり、「投げゲーム」の柔道が、「寝技ゲーム」の柔道を批判するというのは「猿のケツ笑い」そのものであり、なんともおかしな話です。
 要するに嘉納は「スポーツ柔道が勃興する未来」までは見えたのですが、「スポーツ柔道が爛熟を迎えた後の未来」までは、全く見通せなかったのです。

 自らの思想&必勝パターンと反する発展?をしてしまった柔道に焦りを感じた嘉納はその後、柔道を「武道・武術」に戻そうとする各種活動を死の直前まで行いますが、すでにスポーツとして爛熟した柔道に、実戦を見据えた「武術」に回帰する力は最早存在せず、これらの活動は以後、迷走に迷走を重ねますが…その話はまた今度。

 ともあれ、明治20年代ころに完成した、講道館の「(試合に)勝つ!ための柔術」は、「警視庁柔術の座を独占」とまではいかないまでも、その地歩を確実に固め、世間への認知度を大きく上げたのでありました。

※磯貝一十段回顧録・タロー・ミヤケの談話・嘉納の文章はいずれも、HP「WWDプロレス観戦日記」記載のものを引用しました。

警察術科(主に逮捕術と柔道、あと剣道ちょこっと)の長い長い歴史(第5回)

2021-01-21 12:01:41 | 雑な歴史シリーズ
【その7 「講道館柔道」は「日本版レスリング」だった】
 嘉納が柔術を国民スポーツにしようとした経緯は先に述べたとおりです。
 次に嘉納は、柔術を国民的スポーツにする過程で、何をお手本にしようと考えたか?
 弊ブログは「講道館柔道の最大のお手本は、当時のヨーロッパにおけるレスリングだ」という説を掲げたいと思います。
 この説はもともと「日本レスリングの物語」(柳澤健・岩波書店)のなかで、「柔道の一本は、レスリングのフライングフォールに着想を得たのではないか」と、かなり薄ぼんやり書かれていた仮説です。
 ただ、柳澤健といえば、「1976年のアントニオ猪木」や「1984年のUWF」などに代表されるように、作中における「ベビーフェイス」と「ヒール」を意識的に二極化し、ベビーフェイス役を持ち上げるための都合がいい資料だけを用い、キザったらしい作風を晒してはばからないという、掲載誌「Number」にふさわしい、「逆ターザン山本」のようなクソ作家なので、その個所についてはなんとなく読み飛ばしていたのですが…いちおう調べてみると、なんと驚くべきことに、これは意外といいところを衝いている指摘でした。

 ただ、柳澤が「日本レスリングの物語」に記載した内容は、事実錯誤と、自己の認めないものへの悪意が甚だしいために「史料的価値なし」と判断。 
 弊ブログにおいては、独自に調べたことをもとに、「嘉納はレスリングを手本に、講道館柔道をまとめた」という話をしていきたいと思います。

 嘉納が講道館黎明の時期、レスリング研究をしていたことについては、いくつかの資料に明示されています。

 まずは「嘉納先生傳」(横山健堂著・講道館発行。昭和16年)より。
「先生齢廿八九歳、即ち最初の洋行以前、富士見町の新道場のころ、講道館柔道の原論及技術の研究(のため)…一面には柔道諸流派を始め、本邦古来の各種武芸に渉って研究し、進んで西洋のレスリング及びボキシング(原文ママ)等の妙所をも取り入れ…」
 お次は昭和19年に刊行されたお子様向け偉人伝「嘉納治五郎」(古賀残星)。
「放課後の散歩にかれは湯島の図書館に行った。西洋のレスリングの中には何か面白い技はなからうか、と洋書を借りて繙いてみた。読んでいくうちに一つ心を引いた技があった。寄宿舎に帰って五代(龍作。嘉納の学友)に試してみるとみごとに掛かる。そこで自信ができた」
 同著では、のちに「肩車」と呼ばれることになったこの技で、師匠の福田を投げたということになってはいますが…本当のところはどうだったのでしょうか。

 しかし、嘉納が近代レスリングから真に啓発を受けたのは、「肩車がどうこう」などというケチな話ではありませんでした。

 古来より、相撲やレスリング的な「組討ち」による格闘技は世界中に存在しましたが、それはヨーロッパにおいても例外ではなく、中世~近世を通じ、各地域で様々なスタイルのレスリングが存在しました。
 近世になってレスリングは、産業革命で活性化するヨーロッパ全土において、あるいは娯楽、あるいは賭けの対象、さらにそこから発展して「みんなが楽しむスポーツ」として熱く燃え上がっていき、各国国民に広く認知されていきます。

 嘉納が柔術を研究していた19世紀中期から後期にかけ、ヨーロッパでは大きく分けて2通りのレスリングが発展していました。

 ひとつは、フランスを中心に発達していた「フレンチ・レスリング」「フラットハンド・レスリング」と呼ばれたレスリング。
 これは1848(日本では弘化5)年、フランスの興行師ジャン・エクボラ(Jean Exbrayat) が、それまで見世物小屋のオマケであったレスリングをレスラーだけの集団としてまとめあげ、レスリングを近代スポーツとして発展させたもの。安全面を考慮し「腰から下は掴んではいけない」というルールとしたこのレスリングは、エクボラが「ギリシャやローマ時代のレスリングは、こういう形式だったんだ」という謳い文句(事実は若干異なりますが(;^ω^))から、「ギリシャ・ローマ式」すなわち「グレコローマン」と呼ばれるようになります。
 これはイギリス以外のヨーロッパ各国で大きく受け入れられ、第1回の近代五輪の「レスリング」は、グレコ一択で実施されたりしています。

 いまひとつは、イギリス各地にあった様々なレスリング。
 イギリスは実証哲学の本拠地だけあって、「強さ」にも独自のこだわりがあり、あの狭い国土に似つかわしくない、多彩な形式のレスリングがありました。列挙するとこんな感じ。
・「カンバーランド・レスリング」では、略裸体で、双方が背中で手をクラッチしたところ(バック・ホールド)からファイト。
・「ランカシャー・レスリング」(または北アイルランド)では、キャンバス製上着を着用し、双方が襟と肘を取ったところ(カラー&エルボー)又は腰帯と肘を取ったところ(ウェストバンド&エルボー)からファイト。
・「デボンシャー・レスリング」では、ランカシャー式の上着で、両襟をつかんだところ(ボース・カラーズ)からファイト。
・「コーンウォール・レスリング」。「掴めるところはどこでも掴め!」からのファイト…後のCACC「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」に発展するもの(このほか、形式不明なれど「ルース・ホールド」と呼ばれる緩めのクラッチ?状態から始めるレスリングがCACCの源流となる説もあり)。

 前出「嘉納治五郎」では何気なく「洋書を借りて繙いてみた」などと書いてますが、「洋書」を平然と「繙」ける柔術家など、当時の日本には嘉納しか存在しませんでした(断言!)。
 そんな嘉納が洋書から読み取ったのは、上記に掲げたヨーロッパ・レスリングの現状と、格闘技が「社会スポーツ」として認知されるための精髄であり、間違っても前出「嘉納治五郎」にあるような「技を知りたい」などというチャチなことではない。
 社会にスポーツとして広く認知されるにはまず安全に乱捕ができるルールを定め、それを厳格に運用したゲームを行わなければダメだ!

 明治10年代のわが国で、これを唯一わかっていた人間こそが、嘉納治五郎でした。

 次に、嘉納がいかにしてレスリングを「講道館柔道」に溶かし込んでいったか、というあたりを説明していきたいと思います。

【その8 嘉納がレスリングから「講道館柔道」に溶かし込みたかったもの】
 まず、嘉納が「ルール設定」において重視したのは、イギリスレスリングの一部にみられる「フライング・フォール」、つまり、きれいな投げによって一発でイッポン!となることです。
(「フライング・フォール」はなんと恐るべきことに、1950年代までオリンピック・レスリングでも適用されていました)
 
 先ほど紹介しました通り、イギリスのみならず、近世レスリングは地域によってルールが多種多様。
 「抑え込まないと一本にならない」という、いわゆるピンフォール式のものから、日本の相撲同様、足の裏以外を土に付けば負けというものまでさまざまありますが、嘉納が最も心惹かれたのはいわゆる「フライング・フォール」なる、投げによって決着がつく、という部分であったことは間違いありません。
 このフライング・フォールの基準も地域によって、2点(両肩)・3点(両肩と片尻、またはその逆)・4点(両肩と両尻)といった具合に異なっていたのですが、この「地面に付く部位によって、投げの価値が変わる」という概念は、講道館が試合規定を設けたのちに現れる「技あり」という判定基準に顕在してきます。

 嘉納がフライング・フォールにこだわったのは、イギリスの各種レスリングのうち、「小男が大男を破った」伝説があるレスリングが総じて、フライング・フォールを合法としているものだったからです。

 格闘技を世の中に広めるためには一種の「物語」が必要ですが、特に重要なのは「小男が大男を倒す」こと。これは洋の東西、時代の古今を問わない大きなロマン。
 講道館が勃興する際、「姿三四郎」のモデルになった西郷四郎が、好地円太郎という大兵を「山嵐」で吹っ飛ばした!というのが、講道館柔道の「柔よく剛を制す」の体現として取り上げられ、現在においても講道館柔道の優位性を示す一つ話のように語られますが…嘉納にだけはその本質がわかっていたのです。
「小兵が大兵を制するには、ちょっとしたバランス感覚がモノを言う立ち技しかない」
「その状況を具現化するためには、ルール設定をガッチリ行うしかない」
 これが以後、講道館の動きを貫く鉄則となっていきます。

 話はちょいと飛びますが、講道館が武徳会に次いで、試合審判規程を定めたのは明治33年のこと。「講道館柔道乱捕試合審判規程」と題されたその規定の中で注目すべきはまず、きれいな投げ一発が勝負が決する要素となっていることです。
「講道館に於て柔道乱捕の試合を執行するときは投業又は固業を以て勝負を決せしむ。」
 柔術の試合といえば、相手が「参り」を言うまでの時間無制限のデスマッチであったこの時代に、きれいな投げによって「一本」を採れるようになったことは大きな革新であり、また、これがレスリングの「フライングフォール」の焼き直しであることは、いうまでもありません。

 次に注目すべきは「技あり(当時は「業あり」)と、「技あり」2~数本による「合わせて一本」が早々に明記されたこと。
「投業にて十分の一本とはみなし難きも業として相当の価値ありと認めらるべきとき又は固業にして殆ど一本と認定し得べき場合ありたるを辛うじて逃れたるとき審判者は「業あり」と掛声し、其後一回又は数回同様のことあるときは審判者の見込みを以て「合して一本」と掛声し、二回又は数回の不完全なる勝を合して勝ちと見做すことを得」
 完全な形ではないものの、2本の「技あり」で「合わせて一本」、とくに投技がそのようになっているということは、先述のとおり、イギリスレスリングによるフライングフォールが、地域によって2~4点着地となっていることから着想し、「着地した面積によって、一本に近しいものを作る」というルールを決めたものと考えられます。

 嘉納はこのように、「ルールを設定し、動きを制限する」ことこそが、理想とする「柔よく剛を制す」「小能く大を制する」ことを具現化できる、そして講道館柔道を「社会スポーツ化」とするための唯一の道であることを、当時のわが国の中でたったひとり、見抜いていたのです。

 これに付随し、後年「柔術家は因循だったので、先進的な講道館柔道に敗れた」といった批判がずっと付きまといますが、何度もお話しします通り、海外レスリングの動向を踏まえた革新は、当時の日本武術界において、洋書が原書で読める嘉納以外に誰もなしえなかったことであり、「体制や技術が因循だから、先進的な講道館に負けた」といった批判はまったく当たらない、と断じて良いと思います。

 次回は、「ルール設定」の結果生まれた、講道館式「試合に勝つ!柔術」についてお話いたします。

※一連のイギリスレスリングに関する考察は、ブログ「WWDプロレス観戦日記」掲載のものを参考とさせていただきました。

警察術科(主に逮捕術と柔道、あと剣道ちょこっと)の長い長い歴史(第4回)

2021-01-18 12:54:11 | 雑な歴史シリーズ
 講道館柔道というのは面白いことに、「起倒流と天神真楊流にルーツがある」ということが伝わっているのみで、あの投技に偏した不思議な技術体系が、いったいどういった過程を経て生まれたのかということが、全く明らかにされていません。
 嘉納の膨大な著作を読んでも、その手下の回顧録を読んでも「いつころ、誰それが入門してきた」とか「猛烈な稽古が行われた」といった抽象的なことが書かれてあるだけで、技術体系の確立に至る過程を具体的に記述した文献は、ほとんどありません。
 
 そこで今回以降、「嘉納治五郎はどのような意図をもって『立ち技偏重のタタミ柔道』を作り上げたのか」を考察することとし、その端緒としまして、まずは「講道館柔道の創設者・嘉納治五郎は明治日本における稀代のインテリだった」という原点に立ち返り、嘉納とその周囲の状況を回顧してみることとします。
 結構長い話になりますが、この原点を知っていないと、以後の諸々の問題の根本が理解できなくなりますので、ご理解お願いいたします。

【その5 嘉納治五郎だけに見えていた「スポーツ」ムーブメント】
 明治が二桁になるやならざるや、というころ、東京大学に通うモヤシのような青年が柔術を習いはじめたことが、柔術の未来を大きく変えていきます。
 そのモヤシの名前は嘉納治五郎。
 万延元(1860)年生まれ。神戸出身の東京育ち。明治14(1881)年、東京大学文学部政治学科卒。その後、学習院の教師になったのを皮切りに、第五高等学校(現在の熊本大学)校長、第一高等学校(現在の東大)校長、東京高等師範学校(現在の筑波大)校長などなど、教育畑の要職を歴任。
 この経歴を見てわかるとおり、嘉納は当時の日本における、超がつくスーパーインテリであり、本来ならば「因循な旧時代の象徴」である柔術なんか、洟もひっかけないシロモノです。
 しかし嘉納はふとしたきっかけ(嘉納の伝記によく出てくる話なので省略)で柔術を始め、この面白さにのめり込みます。

 柔術家としての嘉納の足跡を簡単に記しますと、開成学校から東大に入ったあたりで、天神真楊流の福田八之助に入門。明治12年、福田の死去に伴って家元の磯正智に学ぶ。明治14年にはその磯も死去、今度は起倒流の飯久保恒年に学び、明治16年に免許皆伝…といった感じです。
 ここで一般的な「嘉納治五郎伝」なら、「その後治五郎は、柔術をもっと現代的に、合理的にさせなければと決意し、それが柔道になってウンヌンカンヌン」という美談に持っていきます。
 しかし、この手の使い古された「治五郎伝」には、極めて重要な点が抜け落ちて(あるいはわざと隠されて?)います。
 何度も同じことを話しますが、それは「嘉納が当時日本トップクラスのインテリだった」ということ。これは嘉納という人物を、そして講道館柔道というものの本質を知るうえで、絶対に忘れてはいけないことです。
 インテリの嘉納が柔術の向こう側に見ていたのは、日本伝武道・柔術の復興や発展などではなく、柔術をベースとした「国民スポーツの立ち上げ」でした。

 産業革命と、それによる武器の驚異的な発達によって植民地を世界中に広げたヨーロッパ各国は、ここぞとばかりに「我こそは世界の覇者」ということをアピールしまくります。
 フランス人はメートル原器を作って「世界の長さの基準はこれだ!」と主張し、イギリス人はグリニッジに世界の標準時を持ってきて「世界の時間はこれに合わせろ!」と主張するなど好き勝手にイキっており、とにかくヨーロッパ各国は一事が万事「白人様の、そしてわが国の優秀さを見ろ!」というアピール合戦に明け暮れていました。
 そんな「イキリムーブメント」が「白人様の優れた運動能力の誇示」に行きつくのは当然であり、ヨーロッパでは同時期、様々な「スポーツ」が生まれ、それは白人様の、そして自らの国や地域の優位性をアピールする道具として、イビツな、しかし急速な発展を遂げていきます。
 そのほかこうした「スポーツ」は、若者の体力を増進し、組織への帰属意識を増進させる「富国強兵のツール」としても有用と見做され、ヨーロッパ社会におけるスポーツの社会的地位は増すばかり、でした。

 情報ツウで聡明な頭脳を持つ嘉納は、ヨーロッパで勃興した「スポーツが社会に重要な地位を占めていく」というムーブメントを、わが国で唯一理解していました。
 そして、欧米で起きたことは、開国したわが国にも必ず波及する、ということもよくわかっていました。
 だからこそ嘉納は、いずれ日本にも必ず吹き来るであろう「スポーツ」の嵐が来る前に、日本という風土に合致し、かつ、抵抗感なく万民に受け入れられる「スポーツ」を創る必要性を強く感じていました。
 嘉納は開成学校時代にはベースボールに打ち込むなど、金持ちの学生さんならではの舶来スポーツも楽しんでいましたが(その時、球拾いをしていた少年がのちの山下義韶)、そういった舶来スポーツと、のちに学んだ柔術を天秤にかけてみて、また、明治10年代における撃剣の現状を顧みて、嘉納の心に去来したのは「柔術こそ、わが国の国民スポーツ足り得るものだ」との結論であったと思われるのです。

【その6 撃剣のスポーツ化が遅れた原因は「テロリスト養成所」という濡れ衣?】
 ここでひとつの疑問が浮かんできます。
 スポーツ化=競技化を図るのであれば、流派によってやることがまるで違う柔術より、江戸の末期には、既に打ち合いの形態が確立していた撃剣のほうが手っ取り早くていいのではないか?という疑問です。
 この「なぜ当時、撃剣をスポーツ化できなかったのか」というクエスチョンに対する答えは実に簡単。
 当時の撃剣は、スポーツ化どころか、撃剣そのものが存亡の危機にあったから、です。

 以前の連載?「警棒」のほうでお話ししましたが、警視庁が撃剣を再び修練するようになったのは明治12年から。
 それまでの間、撃剣は「内乱を誘致するもの」として、明治政府当局から、メッチャクソ厳しい目で見られていました。
 現代のわれわれからは想像もつかないことですが、明治政府の要人たちはいずれもが、幕末動乱期における、物理的な殺し合いを生き延びた元武士たちであり、したがって撃剣道場を、ものすごい危機感と切実感を持って「内乱を企むテロリストの養成所・またはアジト」と見做していました。
 従いましてその取り締まりは峻烈の一語。特に幕末、暗殺テロの強風が吹き荒れた京都においては、市中から撃剣の道場が完全に姿を消したうえ、府知事から「撃剣を学ぶ者は国事犯嫌疑でどんどん捕まえる」などというお達しまで出る始末。
 江戸においてもその状況は大同小異で、剣客はみな、困窮にあえぎながら、悲惨な日々を送らざるを得ませんでした。

 これに比べて柔術は、撃剣や槍術などから比べると格段に扱いが落ちる武術であったことが幸いし、撃剣ほど峻烈な弾圧を受けませんでした。
 しかしやはり、柔術も「旧時代の遺物、因循なもの」と見做されることは避けられず、道場主は骨接ぎなどでかろうじて生計を立て、それでもダメなら秘伝の書物を二束三文で売り払って生活の足しにする…といった具合であったようです。

 撃剣のスポーツ化は、「撃剣道場はもはや、内乱の温床とならない」ということが確認された日清戦争以降まで、待たなければなりませんでした。

警察術科(主に逮捕術と柔道、剣道ちょこっと)の長い長い歴史(第3回)

2021-01-15 12:52:24 | 雑な歴史シリーズ
【その4 横山作次郎VS中村半助戦の経過と、そこから垣間見えるもの】
 横山作次郎。173センチ、86キロ。井上敬太郎門下から、嘉納の引き抜きによって講道館に移籍した異色の巨漢。
 中村半助。筑前有馬藩の御留流・良移心頭流の達人であり、かつ、荷車や米俵を風車のように振り回すことができたという、これまた怪力大兵の強者!
 
 「講道館VS古流柔術」の戦いでは、西郷四郎VS好地(うけち)円太郎戦などと並び称される名勝負ですが、多くの文献で書き記されている勝負の概要はこういったものです。
「双方が秘術と体力の限りを尽くし、審判の制止をも振り切って試合続行、延べ55分にも及ぶ熱戦となったが、双方の体を案じた三島総監が止めに入り『この勝負は俺が預かる』とし、引き分けとなった」

 上記の内容だけをうのみにしていると、物事の本質を見誤ります。逆にこの試合を深く掘り下げると面白いことが見えてきます。
 今回は「深く掘り下げる」ほうにリキを入れ、お送りしたいと思います。

 まずこの試合、面白いことにいつ実施されたかがいまだに特定できていません。
 主要なものとしては3説が存在し、
①明治19年6月の警視庁武術大会
②同21年1月における弥生社武術大会(天皇陛下行幸)
③「その2」で嘉納治五郎が言っていた、同21年の弥生社武術大会
といったところ。
 この時期を特定するキモは「三島総監が勝負預かりとした」という点で、そのことから勘案しますと、実は嘉納が主張する③が、真っ先に脱落となります。
 実は21年の弥生社武術大会挙行の折、三島総監はリウマチの治療のため神奈川県は大磯に滞在していたため、不在でした。
 そうなりますと①②に絞られてきますが、「姿三四郎」の著者・富田常雄や磯貝一十段(後述)が「明治19年説」を採っており、また、横山とともに同試合に出場したという宗像逸郎(明治17年講道館入門。のちの講道館指南役・五段)も「明治19年」と回顧していることから、ほぼ①で間違いない…と思料されますが、それはさておき。

 この試合でまず注目すべきは、両者の着衣。
 横山はかなり高い確率で、講道館の稽古着を着用していたと思われます。
 当時の講道館の稽古衣ですが、まず上衣は現在の柔道着より襟がかなり固く、かつ、肘が完全に露出するほど袖が短いもの。下衣はこれまた膝のあたりまでしかない短いもので、裾をひもで縛って着用していました。
 対する中村の着衣は不明ですが、江戸末期のころから、柔術の乱取では武士の普段着がそのまま使われていたとのことですので、角袖・袴スタイルだったかと思われます。
 柔術側にとっては、今まで見たこともない、実につかみにくいシロモノであり、戸惑ったであろうことは想像に難くありません。

 次に注目すべきは、試合の経過。
 先ほどもお話ししましたように、ほとんどの書籍が「55分に及ぶ熱戦だった」と記載するのみで、その「熱戦」がどのような試合内容だったかを書いていません。
 なぜか?
 結論から申しますと、この試合において横山は徹頭徹尾劣勢であったため、後年同試合に触れる際には、わざと試合内容を書かないようにしたから、と思料されます。

 冒頭申し上げたように、横山は講道館の生え抜きではなく、別道場から嘉納が引き抜いてきたいわば「超弩級」です。
 なぜ嘉納はそんなことをしないといけなかったのか。答えは簡単、ヘビー級の多い一流柔術家を「試合で倒す!」ためです。
 講道館生え抜きチームは小兵ぞろいであるため、将棋でいえば金銀や飛車角に相当する「超弩級」の存在は、絶対に必要でした。
 嘉納の目論見通り、横山は試合の前年、明治18年に「入門」という名の道場移籍を果たして以降、パワフル且つキレッキレの立ち技で他流を圧倒しますが、当代一流の名人・中村は一味違いました。
 宗像の証言によりますと、中村は試合劈頭、横山の足払いを食らって倒れますが、即座に寝技に持ち込み、上四方に抑えてしまいます。
 横山はあふれるパワーでメチャクチャに暴れ、なんとか固め技を解いて逃げますが、横山は以後、中村を投げても寝技に付き合わない、中村は立ち姿勢では防御を固めて立ち技に付き合わない、という展開となります。
 中村は時折横山に投げられますが、その都度瞬時に体勢を入れ替えては固めてしまい、その都度横山は滅茶苦茶に暴れて逃げる…ということが続きます。
 試合当時横山は22歳、中村と10歳以上の年齢差があったからこその逃げ方ですが、寝技では完全に中村が圧倒していました。
 
 実はこの試合、中村は徹頭徹尾、講道館と同様、「引手・釣手」を取って戦っていたとの証言があります。
 現在の柔道ではそうしないと反則を取られるくらい「当たり前」となっている「引手・釣手」ですが、中村の良移心頭流をはじめ、柔術諸派は、そんなものに捕らわれない様々な組手をするのが当然であり、中村があえて講道館風の組手を選択したということは、中村が講道館の実力を低く見積もり、自らに不利な試合ルールを何気なく承諾してしまったがゆえ、としか思えません。
 中村は、見たこともない道着を着用した相手に、敵方の提案した組手で付き合うという二重の束縛があったわけですが、そんな中でも有利に試合を進めており、その尋常ならざる実力が伺えます。

 試合は決め手なく55分が経過し、最終的には三島総監が「勝負預かり」としたことで終結しましたが、試合終了後、宗像が横山に対し「危なかったね、疲れただろう」と語りかけたということからも、横山の苦戦が偲ばれます。
 
 さてここまで長々と「横山VS中村」の戦いの経過を見ていただきましたが、この試合からは「当時の講道館の特色」が浮かび上がってきます。
 まとめますと、こんな感じでしょうか。
① 講道館柔道は原則、徹頭徹尾立ち技のみの技術でできていた
② 講道館柔道は「試合に勝つ!」ことだけを見据えて作られた技術だった
③ 試合技術のみならず、ルール設定や着衣など、「試合に勝つ!」ことにあらゆることを志向させた

 横山VS中村戦は引き分けに終わりましたが(嘉納治五郎としてはかな~りの誤算だったと思います)、のちにお話します通り、講道館は以後、①~③を駆使・発展させ、柔術各派を「試合」と「政治力」で撃破、警察武道としてのみならず、天下に覇を唱えていきます。
 次回は、嘉納治五郎はどういった時代背景及び経緯を経て①~③を確立させるに至ったか、という点を見ていきたいと思います。

※ 横山VS中村戦の様子については、HP「文献資料文武館」内「古流と講道館流」に記載されたものを引用致しました。

警察術科(主に逮捕術と柔道、剣道ちょこっと)の長い長い歴史(第2回)

2021-01-12 20:08:20 | 雑な歴史シリーズ
【その2】武道大好き!三島通庸総監と武道振興の意外な関係

 西南戦争によりトップレベルの人物を多数喪失し、中央政界で活躍する人材を大きく損ねた薩摩閥ですが、それでもまだまだ傑物は残っていました。
 そんな「生き残りの傑物薩摩閥」のひとりに、第5代目警視総監・三島通庸(みしま・みちつね。天保6(1835)~明治21(1888))という方がおられます。

 西郷隆盛に見いだされて幕末の動乱に身を投じ、維新後は大久保利通にその実務能力を買われて抜擢された三島は、維新後も要職を歴任。
 警視総監になる前には酒田・鶴岡・山形・福島・栃木などの県令を歴任。県政、特に土木工事に剛腕を揮った(揮い過ぎて、反乱が発生したりしましたが(;^ω^))「鬼の三島ツウヨウ」はしかし、警察武道振興にも剛腕を揮いました。
 ちなみに、令和元年度の大河ドラマ「いだてん」で登場した、日本初の短距離オリンピアン・三島彌彦(明治19(1886)~昭和29(1954)。生田斗真さんが演じてましたね)は、三島総監の実子(6男6女の五男)です。おっと、余談が過ぎました。

 三島総監の就任は明治18年12月22日。
 実はその就任の少し前の10月、本郷区向ヶ丘(現在の文京区)に、川路利良大警視及び殉職警察官の招魂社・弥生神社が創建され、翌11月には第1回となる奉納演武大会が行われています。
 
 「総監就任前のこの大会を三島通庸が見ていた」とする確かな記録は、残念ながらありません。
 しかし、無類の武道好きであり、そして総監就任以後の警察武道振興に対する力の入れようを見る限り、この第1回奉納演武大会を観戦していただろうと考えるのが妥当…そう結論付けていいくらい、以後の弥生祭奉納武術大会、そして警視庁主催の武道大会は、天下第一の名人ばかりをそろえた、名実ともにビッグなものに発展していきます。

 三島総監は在任中、先述した明治19年11月の大会を皮切りに、20年11月・21年5月と、都合3回弥生祭武術大会を開催していますが、最大規模のものは明治21年の「弥生社天覧武術大会」と銘打った大会。
 その大会の撃剣部門では、明治天皇陛下に対し奉り、天下随一の名人・全12組の熱戦をお目にかけ、そしてそののち…これが本当にスゴイのですが、総勢700人もの剣士を紅白に分け、弥生神社前の芝生で、350対350の総当たり殴り合い大会を天覧に供したのです( ゚Д゚)!!!!!これには明治大帝も驚かれ、玉座を外し、選手の直近まで足を運んでご覧になられたそうです。
(ただし、21年大会実施時、三島総監はリウマチの療養のため神奈川県の大磯に滞在、欠席)
 このビッグな武道大会は、野に埋もれていた斯界の名人たちの再発見・再評価に繋がるとともに、「これから伸びるかも、スゴくなるかも」といった柔術・剣術のホープたちの発掘にもつながりました。
 では、この大会における柔術の動き、そして何より気になる、講道館の台頭について見ていきましょう。

【その3 「講道館VS古流柔術」の実際って?】
 そんな「発掘」された流派の中で、皆さんの記憶にひときわ鮮やかなのは、現在の柔道を形成した、嘉納治五郎率いる講道館でしょう。

 巷間、「警視庁と講道館柔道」伝説として、まことしやかに言われているのは以下のようなものです。
「明治中期、新興の講道館柔道と、古流柔術諸派は警視庁の実施した大会において対戦、講道館が勝ったことにより、講道館柔道が警察の正課武道となった…云々」
 ワタクシはずっと、「警視庁の主催した試合」の存在と、「ルールの違う柔術諸派が同じ土俵で戦うという試合の存在」についてかなり懐疑的であり、上に掲げた俗説は「勝者の作ったウソ歴史だ」と永く思っていたのですが、資料を見ていきますと、意外とこの俗説、まるっきりのデタラメというわけでもなさそうです。

 上記の「武術大会における講道館の活躍」について、嘉納治五郎は著書で以下のように述べています(「警視庁武道九十年史」より抜粋)
「明治21年ころのある試合に、戸塚門下(※1)も14、5人、講道館からも14、5人各選手を出したと思う。その時4、5人は他と組んだが、十人ほどは戸塚門と組んだ。戸塚のほうでは、わざし(=技師)の照島太郎や西村定助という剛の者が居ったが、照島と山下義韶(※2)が組み、西村と岩崎法賢が組み合った。河合は片山と組んだ。この勝負に、実に不思議なことには、2、3引き分けがあったのみで、他は悉く講道館の勝ちとなった…」 
※1 「戸塚門」=戸塚派揚心流。ウィキでは「揚心古流」が正式名称となっている。
 九州肥前発祥の流派で、乱捕を重視していたことで有名。江戸時代のごく末期、沼津藩のお抱え師範であった同流の鬼才・戸塚英俊が同流派を大きく勃興させたことから「戸塚」の名が広く知れ渡るようになった。
※2 やました・よしつぐ(慶応元年(1865)~昭和10(1935))
 小田原藩武芸指南役の家系に生まれる。講道館草創期の強豪で、講道館四天王の1人。明治22年、警視庁柔道世話係となり、警察柔道の地歩を固める。のちに述べる「捕手の形」設立にも大きく関与。講道館初の十段。

 この話はあっちこっちの武術関係・講道館関係の書籍で引用された有名な一説であり、これを鵜呑みにすれば、「明治21年の弥生祭武術大会で講道館と戸塚派揚心流が団体戦をやって講道館が圧勝、そして講道館の天下に…」という流れになるのかもしれませんが、もともと弥生祭武術大会の第一目的は武道の振興であり、「勝ったらその流派を即採用」なんていう採用テストの要素はほとんどなかった。この点を見誤ってはいけません。
 また、ここで出てきているお話は講道館VS戸塚派揚心流との対決のお話だけで、講道館がさらに他流派の柔術家を圧倒した、ということが書かれているわけでもありませんし、何より、既にこの時警視庁武術世話役でもあった良移心頭流・中村半助と、講道館四天王の1人であった横山作次郎が対決した「講道館VS古流柔術」白眉の一番が取り上げられていないのは片手落ちというものです。

 話がちょっと長くなりましたので今回はここでチョン、と致しまして、次回は当時の講道館と古流柔術のありようを象徴する大一番・「横山作次郎VS中村半助」の試合と、当時の「試合」ってどんなものだったの?ということについて述べたいと思います。