集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

岩国の隠れた?忘れられた名将と黒獅子旗(その10)

2018-12-14 08:58:13 | 周防野球列伝
 昭和30年8月4日夜、専売千葉の都市対抗打ち上げ式が行われ、正捕手として活躍した参加した岡村さんも当然、出席します。
 3週間分の補強選手手当を受け取り、解散式に行くと…各人の机の上に「ピース」が二箱。「当時ピースはぜいたくなタバコで、いつでも喫えるというものではなかったのである。」(「青春」より)。専売公社らしい、粋なはからいでした。
 自分の机の上のピースを感慨深く眺めつつ、岡村さんの胸中には、都市対抗の舞台に立った誇らしさと、「まったく役に立たない助っ人だった」(「青春」より)との自責の念とが去来して…いたそのとき、「ヘイ、ミスターハチロオオオ」の声を携えた大男が…宮武三郎監督が、自分の取り分であるピースを二箱持ってやってきたのです。
「宮武監督がそばに立っていた。いつもの笑顔で。手に自分の席のピースを二箱持って。宮武さんはそのピースをわたしにくれた。」(「青春」より)
 4つに増えたピースですが、岡村さんは、宮武監督からもらった二箱のピースをすぐさまポケットにしまい込みます。
「このたばこ大事にしよう、記念にとっておこう、と私は考えた。これは『恩賜の煙草』だから…とおもったことを、私はいまでも憶えている。」(「青春」より)

 岡村さんが宮武監督と出会ったのも、はじけるようなその笑顔を見たのも、この解散式の夜が最後となりました。
 この翌年、岡村さんが都市対抗出場を再び逃し、シーズンオフを迎えてしばらく経った12月11日。宮武三郎監督は突如としてこの世を去ったのです。享年49歳。

 「あのひとには年令なんか関係ない。まさしく生きた伝説なんだ」
 死の2年前まで普通に300匁(1.1キロ。現在のプロ野球選手のバット重量は930~950g)のバットをブンブン振り回し、普通に試合に出ていた「生きた伝説」は、あまりにあっけなく、本当の「伝説の人」になってしまいました。
 旧制高松商でいきなりの夏の全国制覇、慶大に進んでは剛腕投手・強打者として神宮を魅了、社会人野球に転じては東京倶楽部で都市対抗3回優勝の立役者、職業野球に転じては阪急軍の初代主将…と、その生涯はまるで、「野球を国民注視の人気行事に高めるために神様が地上に下され、その役目を終えた時、あっさりと天に召し上げてしまった」とでもいうべきものでした。
 宮武監督がいつまでも「生きる伝説」であり続けると思っていた若き岡村さんも、大きなショックを受けました。

 宮武監督の死去後、岡村さんの頭の中にずっとあったのは、宮武監督と共に出場した第26回都市対抗のこと。
 「まったく役に立たない助っ人だった」(「青春」より)という慙愧の念は常にぬぐいがたく、プレーヤーとしてのさらなる発達を願う岡村さんは、大きな決断を下します。
 「永幸での野球技術を地元に。地元から後楽園へ!」
 昭和32年、永幸工場野球部を辞した岡村さんは帰郷。当時日の出の勢いにあった地元企業・東洋紡岩国に就職。ここからふたたびの黒獅子旗を目指します。

【参考文献】
「青春・神宮くずれ異聞 宮武三郎と助っ人のわたし」大島遼(岡村寿) 防長新聞社
「都市対抗野球六十年史」毎日新聞社

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