集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

バカには「ムダ」が理解できない

2020-10-24 07:34:33 | 兵隊の道・仕事の話
 弊社では「昔、どこかの誰かが始めたから」という理由だけでずっと行われ続けている、まるで生産性のない愚かなことが、全国のあちこちで連綿と行われています。
 その最たるものは、バカな幹部…いや「患部」にお見せして差し上げている「各種展示訓練」でしょう。

 患部が己の虚栄心を満たす以外の用途を持たない展示訓練は、手を変え品を変えして、全国で広く行われております。
 ワタクシも100回以上は、この手の訓練?なるものに参加させられていますが、毎回毎回、実業務に資する何らの知識も技能も得られず、ただただ不愉快とストレスだけが蓄積されることから、ここ数年はこの手の訓練?を「猿芝居」と呼び続けています。
 ですので以後本稿でも、業務に何らの役に立たない展示訓練類のことを「猿芝居」と呼びます。

 まず、この手の猿芝居がいかにムダなことなのかというのを、順を追って考えてみます。

 当然のことですが、猿芝居には多数のフネ・ヒト・モノを必要とします。
 次にその猿芝居に巻き込まれたフネ・ヒト・モノに何が起きるか?見てみましょう。

 まず、フネは年がら年中、かなりタイトな行動を強いられていますが、そこの隙間に捻じり込まれた猿芝居が、タイトな行動をさらにタイトにします。
 つぎに、フネに乗っているヒトには2つの負担がかかります。
 まず、乗っているフネの行動がタイトになることで、乗組員は当然、休みが減ります。年度が終わるときにアホほど未処理の公休がたまっているなんてことは、ザラにあります。
 そして、猿芝居には何らかのシナリオ?らしきものが存在しますが、それを覚える手間もかかります。
 その内容は99.9999%の割合で「シナリオ通りにやることが、実業務の何らの役にも立たない」という、猿芝居中の猿芝居なのですが、そうしたムダ極まりない事前振付けが、さらにヒトの首を絞めます。
 そしてモノ。
 フネを動かせば油代が要ります。人件費もかかります。そして腹が立つことですが、展示訓練の観察者であるお偉方の旅費もかかります。

 このように、猿芝居は費用対効果が一切なく、フネ・ヒト・モノを無駄遣いする以外、何らの効果もないということが、なんとなくお分かりいただけると思います。

 ではなぜバ患部は、このムダ極まることを継続しているのか?
 ワタクシ、これまでずっとこの問いに対する答えを「虚栄心を満たすため」としていましたが、最近はそれにプラスし、下記の答えも付け加えるようにしています。
「馬鹿だから、ムダなことがムダとわかっていない」

 虚心坦懐に調べてみますと、猿芝居の多くは、昔々の大昔に、その猿芝居が発足した「当時」のみ、何らかの必要があって始めたことがほとんどです。
 しかし現在、それら猿芝居は、前提となるべきシチュエーションが消失していたり、その仕事自体がなくなっていたり、ディティールが変わっていたり…といった具合に、猿芝居発足当初の必要性が完全に焼失し、やる意味がまるでなくなっているもののほうが増えています。

 しかし、ここからがバ患部の面目躍如、バカのバカたるゆえんなのですが、こいつらは猿芝居が「ムダなこと」という理解がないのです。
 悪質な現状維持バイアスにのみ毒され、「昔からやってることだから」「なんとなくやらなきゃいけないことだから」というだけで、その本質を何ら顧みることなく、ダラダラと続けているだけ。そして無駄に兵隊の首を絞め、無駄なお金を垂れ流している。なんと愚かなことでしょうか。

 有名なピーター・ドラッガーは「必要のない仕事を止めれば生産性が上がる」と言っており、このことから多くのビジネス書では、「最大の費用対効果を生み出すコツは、やらないことを決めることだ」と結論づけています。
(まあ、その結果としての「コストカット」がいかがわしい方向に指向しまって失敗、という事例もいっぱいありますが(;^ω^))

 してみれば、うちの会社のバ患部は「ムダなことをムダとも気づかず、わからず、ムダを垂れ流し続け、人的・金銭的損失を増やし続けている」わけであり、民間の会社ならとっくの昔にクビが吹っ飛んでいるはずです。
 そんなのばっかりが上を占めているから、うちの会社はダメ会社なんだよ…ったく…国賊野郎が…

 最後のあたりにちょっとだけ本音がボロっと出ちゃいましたが(←わざと(;^ω^))、まあ、「ムダがムダとわからない」というのは、弊社に限らず「人の上に立つ人間としての資質がない」証拠であり、一日も早く物理的にタヒんでほしいなあ、と祈るばかりでございます。

「休めと言われて休めないヤツは、仕事をしろと言うときに出来ないヤツ」の科学

2020-10-14 19:20:04 | 兵隊の道・仕事の話
 表題に掲げた言葉は、何かの本で読んだものだったのか、はたまた職場で言われたことかは定かではないのですが…職場の上司・先輩に恵まれない人生を若いころから絶賛継続中(職歴25年で、真に尊敬できる上司・先輩は5人以下)のワタクシのこととて、おそらく前者だったんじゃないかと思うのですが、ワタクシが現場監督の場合は手下に対し、いつも表題のようなことを言ってやたらと休憩させ、職場の老害連中の冷たい視線(=ワタクシにとってはとても気分のいい視線)を浴びていますが、それはさておき。

 わが国には「働いている時間が単純に長ければ、それだけ生産性が上がっている証拠」と思い込んでいる馬鹿なヤツがたくさんいます。
 先ほどお話しした「わが社の老害」はまさにその呪縛にとらわれている、どうしようもない連中です。
 その連中は知らないことですが、実はどんな人間でも、作業量が多くなるにつれ、それに反比例して生産性やクオリティがダダ下がりしていきます。
 これは単なる経験則に非ずして、様々な学術論文が科学の目から証明しており、わが国に多い「長時間労働思考バカ」の戯言を一蹴するに足る証左となっております。

 たとえば、科学者を対象として「労働量」と「生産性」を秤にかけた調査研究をしたところ、
・週25時間分の作業をこなす人の生産性は、週5時間分の作業をこなす人のそれとほぼ変わらない。
・週35時間分の作業をこなす人は、週20時間分の作業をこなす人の半分しか、労働制がない
という結果だったそうです。
 この研究が意味するところは「ある一定時間を超えて作業しても生産性は上がらず、逆にダダ下がりするだけだ」ってことですね。
 このほか、我が国におけるいわゆる「働き方改革」を補強する資料として内閣府が示しているところによりますと、労働時間が10%減るごとに、1時間あたりの生産性は25%増加するとされていたりします。

 むろん世の中には、長時間継続して働かないと商売にならない業種、長時間やり続けなければどうしようもないミッションが多数ありますので、ステレオタイプに「すべての仕事において短い労働時間=善」などとは口が裂けても言えませんし、ワタクシもそういうことは絶対に言いません。
 しかし、「長時間やらなきゃいけない仕事」と「やらなくてもいいようなことを、ダラダラやらせる」ということは明確に差別化しなければいけませんし、ワタクシも少数ながら手下を持つ仕事師のはしくれとして「やらなくていい、やっても意味のない作業をカットし、休んでいいときには休むための努力」は、「仕事を完遂する努力」と=で結ぶべきもの、決してあだやおろそかにしてはいけないもの、と常に思っています。
 やらなくていいときに働いているふりをし、あるいは生産性のないことをダラダラ続けているのは「怠け者の節句働き」以外の何物でもなく、大いに批判されるべき。それに加え、手下を「節句働き」の犠牲とする輩に至っては、手下を持つ資格のないゴミ野郎としか言いようがありません。

 ただ、日本のありとあらゆる組織には「長時間ダラダラ働くことがそっくりそのまま『よく働いている』ことに繋がる」という「空気」がまだまだ健在です。
 ここでいう「空気」とは、日本人が組織を作った場合に発生するドグマ(宗教における教義)のようなものであり、その「空気」の前にはあらゆるロジカル(論理的)な思考は消し飛んでしまい、「空気」だけがその場を支配する…というもので、昭和の大哲・山本七平(1921~1991)が提唱したもの。
 悲しいことではありますが、日本人が日本人である以上、「長時間ダラダラ働く?こと=よく働いていること」という、科学的に見れば大きく間違っていることを是とする「空気」がなくなることは…おそらくどんなロジック(論理)を積み重ねても、そう簡単には来ないでしょう。

 でもワタクシはせめて、ワタクシの近くにいる若い人だけには「そういった考え方は完全に間違っている」ということを訴え続けていきたいですし、そのことを的確に示す言葉として「休めと言われて休めないヤツは、仕事をしろと言うときに出来ないヤツ」ということを啓発し続けていきたいと思っています。

「実戦から派生したイビツな武道」を裁汰するの文

2020-10-10 19:46:26 | 格闘技のお話
 皆様は「銃剣道」なる武道をご存じでしょうか。
 弊ブログの読者諸賢にはおそらく不要な説明でしょうが、いちおう説明いたしますと、1.65メートルの木銃(この長さは、三八年式歩兵銃に着剣した長さ)で相手をド突き合う競技であり、その成立は明治の国軍建軍にまでさかのぼります。
 この競技はいまや、日本武道館公認の「日本傳武道」となっており、国体競技にもなっております。まあ、選手はほとんどが自衛官ですが(;^ω^)。
 
 ただ、銃剣道の本来意義は、白兵戦の時に敵の兵隊を突き殺すための技術であるべきところ。
 それがなぜか、かなり早い時期から競技化が進んでしまったがためにその実戦性を喪失し、何ともいえないイビツな発展を遂げてしまったということも、忘れてはいけないと思います。

 「そこが変だよ自衛隊!」(大宮ひろ志・光人社。文庫版は光人社NF文庫)によりますと、平成初年ごろの陸自における選手要員の処遇は、以下の通りであったそうです。
「ほとんどの部隊長が選手要員となる隊員の戦闘能力がいくら下がろうが、お構いなしに合宿隊を結成させ、一般の戦闘訓練や特別勤務をまったくさせずに銃剣道ばかり訓練させるのである。
 こうした期間は部隊によってさまざまで、師団の大会を目指す連隊での合宿では三カ月から一年近くに及ぶこともあり、全国大会を目指す選手になると、この期間はさらに延長される。」
 で、そうした環境で「試合に勝つ」ことだけを徹底して植え付け、何よりも優先させた結果、選手がナニをし始めるかと言いますと…木銃に細工をするようになります。
「選手要員のほとんどは、木銃をさらに軽くするためナイフなどで削って、これを細くしており、試合中に突きの衝撃に耐えきれなくなった木銃が折れてしまうなど別に珍しいことではない。
 しかも、この改造がエスカレートしてくると、木銃の先端についているゴム製のタンポの中に五円玉を詰め込んだり、右手の握りの部分を後ろに削って少しでも剣先が前に伸びるよう改造してしまうのだ。」

 こうした武道にあるまじき?脱法行為?は戦後の自衛隊だけの話かと思いきや、戦前の旧軍、しかも昭和初期の旧軍でも普通に行われていたようです。

 陸軍エッセイの名手・棟田博先生が「陸軍よもやま物語」のなかに、棟田先生が所属していた中隊イチの使い手と謳われていた、大江という銃剣道選手の「改造木銃」について書いています。
「大江くらいの剣士ともなれば、官給品ながら彼専用の木銃を持っていて、他の者には絶対使用させなかった。」
「タンポのついている剣尖から、剣身の長さに亘る部分を、小刀とやすりで削り取って、細身に仕上げているのだった。」
 先ほど、自衛隊の銃剣道選手が軽量化のために木銃を削っていた、という話をしましたが、実はこの木銃削りにはもうひとつ意味がありまして、
「相手を刺突したとする。すると細身にしてあるので、しゅんかん、木銃が弓なりに撓る。見た眼には、いかにもしたたかに刺突したかに映じる。審判は、一本を取る。それが細工のねらいなのであった。」
 なるほどというか、ウーンというか…けっきょくこのエッセイにおいて、大江上等兵は連隊大会において決勝まで進出したものの、過度に細身にした木銃の改造がたたり、競技中に木銃が折れて相手に一本を献上、敗退したというオチがついています。

 その後、現役兵としてのお勤めを終えた棟田先生は、シナ事変の勃発に伴い予備役として徴兵を受け、そこで満州事変に現役兵として従軍した湯浅五郎という後輩上等兵から、いわゆる「白兵戦の実態」を聞くことになります。これまた、上掲書から引用いたします。
 「馬占山軍(満州事変から終戦にかけ、満州全土で暴れまわった男の私兵。満州事変当時は張学良軍の一味として、関東軍と対決)の兵隊は、大綿入れの軍服を着ていたので、よほど力を込めて刺突しないと突き通せなかったです。
 刺突しそこなうと、あれはやり直しがききません。自分の戦友のひとりは、銃剣が綿入れにからみついてぬけないで、まごまごしているところをやられました。」
 …上記の湯浅上等兵のような状況に立ち至った際、旧軍・陸自をふくめ、試合で軽くて折れやすい改造木銃を振り回すことに狎れた「銃剣道選手」たちがどういう末路を辿るであろうか…しかも現代の戦闘において敵の兵隊は綿入れどころか、普通にボディアーマーを着けているぞ…自衛隊銃剣道選手、どうするんだ…などと考えますと、すくなくともワタクシはその末路について、ネガティブな答え以外導き出すことはできません。

 今回は「実戦から派生したイビツな武道」の例として銃剣道を取り上げましたが、世の中にはこのほか、ワタクシの終生の敵・タイーフォ術の防具組手を筆頭に「『実戦』を謳うエセ武道・エセ格闘技」が山のように存在し、善男善女を誑かして憚りません。
 「実戦から派生したイビツな武道」を推進する輩は、自らのやましさを糊塗するため?よく「競技は平時の実戦なんだ!だから試合で勝つことは重要なんだ!」などという世迷いごとをタレて恥じないわけですが、そうした手合いが「ガチ実戦」で役に立ったことがあるか?
 ワタクシの知る限りではありますが、「実戦から派生したイビツな武道」関係者で、真に実戦に役に立った者はゼロとはいいませんが、非常に少ない。
 試合に勝つためかけた労力や時間のことを考えると、ただただコスパが悪い!だいいち、結局何のために「イビツ武道」に勤しんだのか、本末が転倒している!としか言いようがありません。

 これは余談ではありますが、「競技は平時の実戦」を標榜する輩の多くは、「競技」に携わることでその組織内における地位を固め、優位にふるまおうとするスケベ心満載のゴミ人間であることも、末尾に付記しておきます。

 武道・格闘技をやる場合にあっては、かならず実戦のひと滴を忘るべからず。それを失念したものは武道にあらず、格闘技にもあらず。
 少なくともワタクシは、そのように心得ております。