集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

極左高専柔道原理主義作家と柔道ヨカタが知らない「柔道の本質」

2024-08-26 17:57:18 | 格闘技のお話
 皆様は、増田俊也という小説家をご存じでしょうか。
 「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(新潮文庫)によって一躍文壇に躍り出、その後は自身が北海道大学で高専柔道に打ち込んだ日々を描いた「七帝柔道記」、北大柔道部の後輩である中井祐樹先生(中井先生に関しては直接セミナーで「遠藤返し(「SRT」とも)」を教えて頂いた&スパーまでして頂いたので「先生」です!)がUFCで勝利したことを描いた作品などにより、「柔道や格闘技に造詣が深い作家」として認知されている作家です。
 ワタクシは「木村政彦は…」が「ゴン格」に連載されていたごくごく一時期「お、これはスゴい作家が出てきたかな?」と思いましたが、よくよく読むとウザい自分語り・事実誤認・思い込みが激しいひどい文章しか書けないアホだとわかったため、今では「放置していたらバカ丸出しの文章を書く珍獣ジジイ」としか思っていません(まあ、「白い大地のアカい新聞」こと北海道新聞の元記者ですから、仕方ないんですが…(;^ω^))
 そういえば、あまり本を読んだことがない人は、増田の「七帝柔道記」を「すばらしい青春記」と評していますが、これは増田が作家として持っている唯一無二の武器である「ウザい自分語り」が作品の性質にうまくハマっただけであり、個人的な感想を謂わせて頂きますれば「柔道部誌に投稿し、内輪だけで盛り上がるのにちょうどいい作品」としか思えません。閑話休題。
 さて、「ウザい自分語り」と「ひどい事実誤認」が看板の増田が今回なんと、柔道に関する記事を「現代ビジネス」に書いてくれました!こりゃ~いいネタができたぞ、イエイ!😃

 記事のタイトルは「疑惑の判定が続いた柔道だが…『柔道はJUDOに変わってしまった』と憤る人たちがしている『大きな勘違い』」。
 パリ五輪における誤審問題を皮切りに「講道館柔道とはいかなるものか」「これからの柔道のあるべき姿は」などを語るという記事ですが、その内容はいつものようにウザい自分語り・事実誤認・思い込みにあふれていてツッコミどころ満載なので、今回はその「珍増田記事」についてツッコミを入れていきたいと思います(;^_^A。

【記事内容要約】
 まず同記事は非常に長ったらしいうえ、論点が非常に見えづらく、全文読み下してもいいことがない(;^ω^)ので、内容をザックリ要約します。
① パリ五輪で相次いだ誤審問題に関し、「柔道はJUDOになってからおかしくなった」という人たちが続出しているが、みんなは本当の講道館柔道が何なのかを全く知らず、そんなことを論じているのがおかしい。
② 嘉納治五郎は本来、講道館柔道を「打・投・極」全てが揃った総合格闘技にしたかったのだ!
③ しかし柔道が現在のようにスポーツ化してしまった現在、それに回帰するのは難しい。そこで講道館が「武道とは何か」を目に見える形で明確に示し、それを海外に広めることが重要だ。
④ その手始めとして、七帝柔道の大会で好評を博した座礼から始めてはどうだろうか。
というものです。
 以後、増田が誤認している点を縷々説明申し上げます。

【増田の誤認1 嘉納治五郎は「柔道のMMA化(勝負法)」を真面目に希求なんかしていない】
 この記事中、増田は以下に示した事例を挙げて「嘉納治五郎は柔道を最終的にはMMAにしたかったんだ!」と主張しています。
(以下、弊ブログではこれまで、嘉納治五郎や講道館柔道を取り上げたヨタ記事を書いた際、尊敬と侮蔑双方の意味を込めた「治五郎先生」という呼び方をしていましたが、本稿でも継続します(;^ω^))
・大正10(1921)年、アメリカのプロレスラーで「世界柔道王」を自称していたアド・サンテルが講道館に挑戦してきた際、当初治五郎先生は「受けて立ってやる!」と息巻いたが、高弟たちが止めて実現しなかった。治五郎先生はファイターだったのだ!
・治五郎先生は昭和5(1930)年に行われた全日本選士権を見て「こんなのは牛の角の突合せで、私の希求した柔道じゃない」と言って嘆いた。ほら、治五郎先生は「勝負法柔道」こそが本義と思っていたのだ!
・治五郎先生は打撃ありの柔道を希求するため、剣道の小手を流用したオープンフィンガーグローブを開発させようとしていた!スゴイ先見性だ!

 この3つは「木村政彦は…」から始まって、その他の著作やエッセイなどのなかでも、「ナントカの一つ覚え」のように擦っている話題ですが…思い込みの激しい増田にそんなツッコミを入れてもしょうがないので(;^ω^)お話を続けます。

 少し前に弊ブログで連載した「ふたりの『嘉納』が別々に目指した、柔道の武術化(のようなもの(;^ω^))」を お読み頂いた皆様はよくご存じと思いますが、治五郎先生の「勝負法」なるものの実態は、増田が言うような「柔道を創設してからずっと心の中に持ち続け、常にその方法を模索していたすばらしいものだった!」というものではなく、「アブソリュートパワーでも寝技でも勝てない高専柔道にビビリ上げた結果、講道館のアイデンティティを保つため、遠い昔に自分が言っていたことを思い出し、消去法的に始めた事業」でしかありません。
 上記連載でも明らかにしました通り、治五郎先生の「勝負法」研究の実体は、粗雑極まりない実にいい加減なものでしたし、サンテル戦に関しては終始及び腰(対戦を強行した庄司彦雄たちに「段位を剥奪する」などという人非人な行為をしたのは間違いなく、自分たちが逃げ回ったことへの後ろめたさがあったから)でした。
 ワタクシは「ふたりの嘉納」を書く際、国会図書館蔵書を中心に当時の文献を徹底的に調べ上げましたが、「勝負法」の確立に関し、どこをどう探っても増田が言うような勇ましく、ポジティブな事績は全く!見当たりませんでした。(人生の末期に差し掛かり、頭がおかしくなったの治五郎先生による勇ましいだけで内実の伴わない「勝負法に関する発言」だけは、上記連載で取り上げています(;^ω^))
 いったい増田はどこでどんな資料を読んで「勝負法にポジティブな治五郎」を見つけたのでしょうか。大変理解に苦しみます。
 
 従いまして、増田が記事の半分くらいを使って(使いすぎ!)熱く論じている「柔道は本来、MMAになるべきものだった」というのは、100%じゃないですが、95%(当社比(;^ω^))くらいの確率で、事実誤認です。
 これはあくまでも推測ですが、増田がしつこく「柔道はもともとMMAを目指していた」と言い続けている理由は、増田が尊崇してやまない木村政彦先生の事績(「打撃に対応できるだけの柔道」を実践し、スゴいレベルで対応できていた)を、「これがほんとうの柔道だったんだ!」と正当化するための方便と解釈しています。
 個人的にそういう思いを抱くのは結構ですが、その事実誤認95%の思い込みをもって「キミたちは柔道を知らない!」などとはどの口が言うのでしょうか。元新聞記者の看板が泣きます(まあ、白い大地のアカい新聞記者だから…←しつこい(;^ω^)) 

【増田の誤認2 講道館にとって不可能なことを望んではいけない】
 増田は続けて、今次パリ五輪における各種誤審問題や、海外勢の派手なガッツポーズ連発に苦言を呈するとともに、「こうした問題を減らすにはまず、講道館が「武道」というものを規定し、それをもとに演繹的手法で柔道を整理し、海外へ向けて新たなブランディングをしなくてはいけない。」(原文ママ)としています。
 この部分については増田の感想なので、特に何がどうということはないのですが、講道館の歴史を個人的に追っかけ回したうえでの結論としては「講道館には武道を目に見える形で明らかにすることなんかできない。無理。不可能。」です。

 講道館成立の歴史は調べれば調べるほど「政治力による勢力拡大・他勢力の駆逐」だけに彩られており、社会的地位が確立した明治30年代以降は完全に「柔道大会を開く組織」「段位を発行する組織」として固着しています。
 従って、講道館の技術は「治五郎先生の思い付き」、武道哲学は「治五郎先生(あるいは治五郎先生の口を借りた高弟)のお言葉」だけであり、組織を上げてまともな研究をしたことは全くと言っていいほどありません。
(きちんとした技術開発をしたのは、立ち技なら武徳会、寝技なら高専柔道。講道館は高専柔道発の三角締めが猖獗を極めたとき、三船久蔵を座長とする対策委員会を作ったが、その逃げ方が「極まる方に逃げていた」という爆笑エピソードからも、まともな技術開発能力がなかったことがわかる)
 自身も空手をものしているガチの空手有識作家・今野敏先生は自著「琉球空手・ばか一代」(集英社文庫)において、極真空手の本質を「幹が細いのに枝葉だけが茂った木のようなもので、根っこが大山総裁のカリスマ性だった」と評していますが、これは講道館もまったく同じであり、上記の文章の末尾部分の「大山総裁」を「嘉納治五郎」と変えただけの組織です。
 大山総裁と治五郎先生の違いはたった1つ、「超絶学歴エリートであったか、そうでなかったか」だけですね。

 皆様に非常にわかりやすい形で「講道館がバカで不勉強」ということを示した事例として著名なのは、1990年代に「カラー柔道着」問題が勃発したときです。
 この問題が勃発した際、柔道の総本山(と自称する)講道館は「なぜ柔道着は白じゃないといけないのか」という点に関し、総本山ならではの、外国勢が思わず唸るような見識を披露しなければならないところです。
 ところがバカをこじらせた講道館は「武道精神がウンヌンカンヌン」という寝言しか言えず、海外勢のいいなりになったことは周知のとおり。
 この一事を取っても、講道館は「ただの試合開催組織・段位発行組織」としか言えず、ヨカタから「バカ、アホ、日本の恥」という謗りを受けても仕方がないと思います。
 増田は高専柔道原理主義派なのに、なぜか講道館に色目を使うヘンな作家なので、根拠不明の「講道館の性善性」を信じていますが、講道館の黒歴史をずっとウォッチングしているワタクシからすれば、「講道館に『武道精神を明確化』だの『演繹化(演繹≒何か法則性を仮定し、それを各種の事物に当てはめること)』なんてできるはずがない。それは八百屋に行って『魚下さい』というくらい、無意味なこと」としか言えません。

 またこのあたりを説いてる記事中、増田は「浮世絵と呼ばれる絵画には遠近法がなく」(原文ママ)などと書いていますが、江戸期の風景画には遠近法を大胆に使用したもの(代表的なものに、北斎の「神奈川沖浪浦図」など)がたくさんある!ことも付記します。

【増田の誤認3 座礼を滅ぼしたヤツが座礼を復活?お笑い沙汰!】
 増田は続けて「目に見える武道精神」のアイディアとして、今年の七帝柔道で行われた「座礼」を取り入れてはどうかという意見を記載しています。
 しかし、それまでの古い柔術における礼が座礼、または片膝立ちとなって、拳を地面につけての礼だったのを、柔術諸派を駆逐することで「立礼」だけにしてしまったのは、ほかならぬ講道館です。
(弊ブログ「長い長い歴史」で良移心頭流・中村半助VS講道館・横山作次郎の死闘を描いたことがありますが、この際中村は片膝の礼をしています。)
 また古い武術では、「人を殺す技術を学ぶ場所に入るときは、日常と離れた異世界に入る」という意味を込め、稽古場に出入りする際だけ「場所に礼」をする流派(代表的なのは「一撃必殺の剣」で有名な東郷示現流)も多く、「日本伝武道は、師匠や稽古・対戦相手など、人に対して礼をするもんだ」という解釈は大いに!!!!!間違っています。
 
 増田はモノを知らないので、自身唯一のアイデンティティ確立場所・七帝柔道での座礼を見て「すばらしいアイディアだ!」と喜んで提案したのでしょうが、現在の立礼になった経緯は上記の通りであり、座礼やそれに付随する礼を滅ぼしたのは講道館であり、それがいまさら「武道精神を復活させるために座礼」と言ったって、海外勢が納得するはずがありません。
 増田がモノを知らないことを示す、ほんとうによい証左です。

【周防平民珍山的「柔道はこれからいかにあるべきか」案】
 以上、増田の面白発言を見て参りましたが、増田の記事を読んで思ったことは「柔道側のオピニオンを司る人間って、この程度しかいないんだ。へえ~」ということだけでした。
 パリ五輪であれだけハデに誤審や不手際、八百長らしき行動があったのに、国内における意見はマスゴミや一般人による感情論以外何も見当たらず、「柔道の有識者」からの意見は何一つ目にしません。ようやく目にしたのは増田の意見だけです。
 つまり講道館も全柔連も、歴史の積み上げや研究を怠った結果、国際大会においてどれだけ選手が理不尽な扱いを受けても、史実や武道哲学に立脚した有効な反論をすることがでない、ルール作りに参画できる能力もない、ほんとうにただの「試合開催機関・段位発行機関」に堕しており、また、そんなしょうもない組織からの受け売りしか報じることができない「柔道マスゴミ」&「柔道有識者」は、真にしょうもない存在だと思います。
 「賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ」などと申しますが、そのデンでいけば講道館・全柔連は完全なる「愚者」です。

 え、「柔道に文句ばっかり言うな!お前も柔道が国際的によくなる代案を出せ!」ですって?
 いいですよ~!ワタクシは屁理屈と言い訳と海外逃亡だけでできている「ひろゆき」じゃありませんから、すぐに代案を出して差し上げましょう!

 これからの柔道はどうあるべきか?大胆に私見を申し述べます。
「現行のIJFルールで全然かまわない。むしろ講道館柔道試合審判規程なんかゴミ箱に捨ててしまえ!
 IJFルールで行われている現行の『足関節なし・立ち技偏重ジャケットレスリング世界一決定戦』こそが、治五郎先生の希求した真の講道館柔道だ!」

 弊ブログで幾度かお話ししましたが、講道館柔道の本質は、治五郎先生が講道館柔道の体系を作り上げた際に最大最強のコンセプトとした「試合に見栄えよく勝つ!ための柔術」であり、これは現在に至るまでそれ以上でもそれ以下でもなく、それ以外のものになったこともありません。これは講道館の歴史を永く調査し続けたワタクシ、自信を持って言い切ります。
 その達成のため治五郎先生は時間と政治力をかけ、寝技の強い柔術家を排除し、その得意技を禁じ手とし、投げのポイントを不当に高く設定し、寝技の強い高専柔道が勃興すれば「立ち技の講道館こそが真の武道じゃい!」と各種媒体でアジることに全精力を傾けました。
 つまり治五郎先生が心の底から広めたかったのは「試合に勝つ!ための立ち技偏重ジャケットレスリング」であり、勝負法も礼法も武道精神も、そんなものは全て後付け、どうでもよかったのです。
 また、今のIJFルールは、
「武道精神?そんな目に見えないもの、セーヌ川か清渓川(←朝鮮語読みすれば「チョンゲチョン」。若者を中心に大人気のゲーム「ブルーアーカイブ」を知らない方には不毛なギャグ(;^ω^))にでも沈めておけ。ヨカタが見て面白いものなら、それでいいんだ」
という確たる哲学の下ルール設定がなされていますから、単純に見ていて面白い。それでいいじゃないですか。
 それに、日ごろ柔道をろくに観戦もしていないようなヨカタが、オリンピックの時だけ柔道を観戦して、日本の選手が負けたというだけで「武道精神がウンヌン」なんて言うな!
 ロンドン五輪までは、サンボでは初歩の初歩である「ヤッツケビッチ式十字」を食らって、銀メダリストが驚く程度の調査力しかなかった低レベルな柔道をまず愧じろ!
(この状態は監督がウドの大木バカの篠原、全柔連会長がゴミの吉村の時まで。その後、井上康生監督になってから各種組技とのクロストレーニングが行われるようになり、ホッとしています。)

 講道館創設から今年で142年。現在の柔道(IJFルール)は、限りなく治五郎先生が夢見た「試合で見栄えよく勝つ!ための柔術」として完成した観があります。
 オリンピックがあるたびに、バカなヨカタほど「今の柔道には武道精神が感じられなくてウンヌン」などとほざいていますが、これは治五郎先生の大御心や講道館柔道の本質を知らないがゆえの不敬な発言です。治五郎先生から天罰を受けますよ!
 先祖を敬う心を忘れないワタクシは、ずっと言い続けます。
「今のIJFルールこそが、治五郎先生が生涯を賭けて希求した、真の柔道の姿だ!」 

終戦79年目特集…再び「文系アタマ」のススメ・「自分の中の物差し」を持とう!

2024-08-21 14:15:57 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 大東亜戦争終結から79年が経過しました。弊ブログは今年も、国のために尊い命を捧げた(多くは「捧げざるを得なかった」)御霊に対し、衷心より御礼と哀悼の意を表します。
 また今年も国営放送あたりが、極左バカ教授や極左専門家を引っ張り出してきて「戦争はいけないなあ~」などという、鳥のさえずりより無意味なことをほざかせていますが、戦争はなぜ起きるのか、その陰に何があるのか、始まったら負けないために何をすればいいのかといったことをちゃんと研究しないとダメであり、それが出来ない阿呆が、人前に出てチャラチャラ話をするんじゃない!と毎年思っています。
 はい、オープニングトーク終了です(;^ω^)

 終戦の日前後になると、国営放送あたりが引っ張り出してくるクソ教授たちはだいたい人文系の研究者ですが、とても文系の学問を修めたとは思えないほど国語力がなく、語彙力もなく、従って発言に何の説得力もありません。
 こういった輩は、元官僚の評論家・高橋洋一がバカにする「ド文ちゃん」と呼んで差し支えない阿呆ですが、じゃあ、理系の人間ならもっと論理的に何かを説明できたり、世の中の役に立つかというと、そんなことはありません。
 こじつけっぽくはありますが、ワタクシの研究の結果、世の中を悪くするのは「ド文ちゃん」より、理系脳に生まれた人間がいろいろ「こじらせた」場合であり、大きいところではまさしく大東亜戦争の大敗北を招いたバカ将軍やバカ参謀、小さいところでは各種コミュニティで「クラッシャー」となっている人間がまさに下劣な人品を理系知識で武装することだけで糊塗した「こじらせ理系」です。

 皆様の周りに、こんな人はいないでしょうか。
① 年齢や知識の量、収入の多寡など、どの分野からでもマウントを取りたがる。場を仕切りたがる。
② ①に付随して、上に甘く、下に厳しい。態度が恩着せがましい。
③ 言行不一致が甚だしい。
④ 雑談(あるいは雑文)が死ぬほどつまらない。
⑤ 雑談の内容が「人の悪口・カネ・食い物」程度しかない。
⑥ 自分が経験していないこと、目撃していないこと、出会ったことがない人物が話題になった場合、すぐさま否定から入る。
⑦ 各種の未来予想をしょっちゅう外す。
⑧ 仕事や趣味などで偉そうに知識をひけらかすが、その内容をよく吟味すると汎用性がなく属人的な「自分のやり方」を話しているだけ。かつ、説明が恐ろしくヘタ(あるいはすぐキレる)。
 上記うち5つ以上が当てはまる人間は、本人がどう否定しようが、そいつの頭の基本構造は理系であり、かつ、低劣な人間性に理系の頭がくっついた「こじらせ理系」と踏んで間違いありません。

 「こじらせ理系脳」の行動規範は「目に見える数字が全てであって、そうでないものへの理解や同情は一切しなくていい」というものです。
 従って「こじらせ理系」の人間関係の作り方は
・年齢が上か下か
・学校の卒業期が上か下か
・テストの点数が上か下か
・自分の利益になるかならないか
といった実に単純なものだけです(断言)!
 卑近な例を出しますが、ワタクシの職場は理系知識を要する職場(フナノリですからね(;^ω^))なのですが、これまで約30年勤務してきて、いつでもどこでも人間関係をこじらせるヤツの8割5分は
(1)幹部学校(≒理系の大学)出身者
(2)商船高専・工専を卒業後にいくつかの会社をクビになって、うちの会社に流れ着いた落ちこぼれ
でした。これは弊社において、約30年に亘って500人以上の「クズ」をウォッチングして出した統計結果ですので、異論は認めません。
((2)に関しては商船・工専という教育機関自体を問題視しているのではありません。せっかく格の高い学校で学んだくせに、あちこちの会社をクビになった挙句に社員レベルの低い弊社に入って来て、知識でマウントをかましては数々の問題行動を起こす「同校の落ちこぼれ」を問題視しているだけですので、その点誤解なさらないようお願いいたします。)

 「こじらせ理系」は数字以外のことが理解できないアタマを持っていますので、彼らとの間に「人間性を通じた対等な付き合い」とか「目に見えない縁による人間関係」が発生することは一切ありません。
 なので「こじらせ理系」はひとたび「自分より下の立場」と目した人間に対しては「何をやっても、何を言っても許される」と思い込み、②・③に示したような、人間として恥ずべき行為を平気でするようになるわけですね。

 「こじらせ理系脳」の行動規範である「数字で示されることしかしない、知らない、わからない」という脳みそは、その他の場面でも人間関係にも大きな齟齬をもたらします。
 「こじらせ理系」脳を持つと「自分より立場が上か下か」ということだけで物事を見るようになりますので、こうした腐った性根が「自分に都合のいい話しか聞かない」という考え方を呼び、最終的には「異なる分野の異なる見解を持つ人の話の話を聞かない」という自分勝手な人格となって顕出します。
 その結果、④⑤⑥に示したような会話しかできなくなり、周囲の人間を辟易させるようになります。

 ⑦については「ダニング・クールガーの法則」で説明がつきます。
 今まで述べてきたような理由から、「こじらせ理系」ははっきり言って、バカになっています。
(ちなみにここでいうバカとは「専門知識を持たない」ということではなく「人間性が低劣すぎて常識が通用せず、いわゆる『無敵の人』状態になっている」という意味でのバカです。)
 弊ブログで幾度か紹介しましたが、「ダニング・クールガーの法則」とは即ち
・バカ見積もり甘し
・バカ自己評価高し
・バカ自分見えず
ということを科学的に証明した法則ですが、「こじらせ理系」が病膏肓に入ると自分の知識が生かせるもの、自分の理解が及ぶもの、自分が賛同するもの以外に目がいかなくなる≒バカになりますので、未来予想につき、何を予想させても我田引水の結果しか見えなくなります。

 最後⑧ですが、これは「こじらせ理系」が職場で一番よくやることです。
 「こじらせ理系」は文章の構成力がないので、物事を筋道立てて、論理的に話すことが苦手です。また、読書しないためボキャブラリーも貧困ですから、「人にものを教える」という行為そのものができないのです。
 それに加えて、先述の通り「自分より立場の弱い人間」への理解も同情もありませんから、十分な理解のない「自分流」を、ヘタクソすぎる説明(あるいは不足だらけの説明)とともに披露し、相手が理解してくれなければ「お前の頭が悪いからだ」とキレ始める…どこのコミュニティでもまあまあ見かける光景ですね(;^ω^)。

 理系脳は物事の合理化や、道理の説明に役立つ反面、アタマの中が全て、他人の唱える方式や法則「だけ」に支配されていますから、「自分の中の物差し」がなく、従ってすぐに人格や思考を暴走させる傾向にあります。しかも「自分の中の物差し」がない≒「恥を知らない」「他罰的」ということですから、どんなひどいことやマズいことをしてもすべては人のせいであって、自分は悪くないという思考を持つに至ります。

 冒頭の大東亜戦争の話に戻りますが、わが国を世界戦史上まれに見る大敗北に導いた陸海軍のクソバカ参謀たちのなかで、誰か1人でも責任を取って自決したヤツはいますか?将軍クラスは多少自決しましたが、その陰でバカ参謀たち(瀬島龍三とか辻政信とか)はのうのうと生き延び、戦後も人前にチャラチャラ出てきています。
 私は永くコイツらのことを「元々人格に問題があるからこんな恥知らずなことができるんだ」と思っていましたが、ワタクシとは敵対関係にある(;^ω^)「理系脳」の研究を進めれば進めるほど、コイツらが恥知らずな行為をして恬として恥じない態度の原因は「強烈な理系脳を持っていたからこそ」という結論を得るに至っています。
 昨今でも、現兵庫県知事や元広島県安芸高田市長ら、物凄い高学歴&華麗な経歴を持っているにもかかわらず、下品な本性を暴走させている「自称エリート」が目立ちますが、コイツらも大東亜戦争当時の参謀と同じく、「理系脳を暴走させた結果」ということで理解が可能です。

 ちなみに瀬島や辻といったクソ参謀とは対照的な存在としてよくあげられる挙げられる石原莞爾…そう、令和の現代においても「あの名参謀・石原莞爾に戦争指導をさせれば、日本は負けなかった」などとほざく信者をたくさん持つ石原ですが、じつは石原の法華経研究なるものの実体は、戦前に流行っていた「これさえ読めばサルでも法華経がわかる」的な入門本をタネとしていただけの、実にザルザルなものでした。
 石原も所詮は理系脳を暴走させたバカ軍人であることに変わりはなく、瀬島や辻とちょっと違う点は、オウム真理教に身を投じたエリートと同じ「理系を暴走させた人間は、理系の知識で理解できない程度の低い邪宗門に容易にひっかかる」という方向に行っただけのこと。
 結局、当時の参謀は「理系を暴走させたクソ人間」しかおらず、当時の日本軍は日本を敗戦に導くことしかできなかった、ダメ組織だったということだけがはっきりわかります。
 そうなった原因は実に簡単です。「陸軍士官学校や海軍兵学校に、国文や哲学の授業がなかったから」。以上終了。

 文系の知識は「数理や公式で理解できないものを理解する」≒「自分の中に物差しを持つ」という、人間が人間らしく生きていくうえで最も大切なものを教えてくれます。
 その涵養のためには「異なる他人の意見や物語に、虚心坦懐に耳を傾ける」ということしかなく、これは武道・格闘技を始めとしたよろずの習い事の上達にも共通することです。
 他人の意見や物語に接することで自分の中にできる「自分の中の物差し」は、人間としてよりよく生きるための唯一の指針であると思っていますし、それがない人間はどんなに金持ちであろうと学歴があろうと、唾棄すべきクソ人間にしかならないと確信しております。

「踏めよ究極、これしかないぜ!」…究極の下半身トレ「四股」について考える(その3)

2024-08-08 13:36:11 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 前回投稿からメチャクソ時間が経過してしまい、本当に申し訳ございませんでした…などと言いつつ、新規記事不在時の閲覧者数を眺めてみると、なんと驚くことに1日当たり100人程度が来訪されている…旧ブログから「集成」に一本化してはや10年弱、記事の総数も400くらいになったので、もう自動運転しているような状態ですね…昔の自分に助けてもらっているようで、なんだか気色悪い(-_-;)。

 それはさておき、前回に続き、四股のお話です(おそらく四股話の最終回)。
 当初、四股に関する何か一つのテーマについて書こうかなと画策していたのですが、毎日四股を踏む過程で、さまざまなことが自分なりに、どんどん「理解」できたので、今回はその気づきをQ&A方式で短く羅列する形式でお送りし、四股研究論を一旦収めたいと思います。

Q1 腰を割った状態から足を上げる際、まずどこに力を入れるべきか?
A1 広背筋下部。広背筋下部を締めた力が、そのまま中殿筋の起始となる部位(骨盤の横)に入ることが望ましい。
 中殿筋がしっかり作用し、骨盤の外旋がかかれば骨盤前面についている各種小筋群が十分にストレッチされ、いわゆる「つながり」がしっかり生まれる。
 ろくでもない相撲指導者やスポーツ指導者が「太もも(特に大腿四頭筋)に力を入れろ」などと教えていることがあるが、百害あって一利ないのでやめること。

Q2 脚を上げた際、脚は伸ばすべき?曲げるべき?
A2 広背筋を締め、中殿筋をしっかり使い、骨盤の外旋を強くかけたければ「曲げる」一択。というか解剖学上「片足を上げて骨盤の外旋を強くかける」という動作を第一義である場合、膝と足首がだいたい90度くらいに曲がっていなければ、強い外旋はかからない。
 脚を上げ切ったフィニッシュの瞬間に両足を伸ばす四股を否定はしないが、それは「バランス感覚を養う」とか「大腿四頭筋を強く使う」とか、目的をもって行うべきであり、常態的に行う性質のものではない。

Q3 昔から言われる「上体を立てて四股を踏め」は本当か?
A3 本当。というか、上体が立っていない四股(猫背で踏む四股)は、カロリー消費以外の効果がない「やじろべえの四股」にしかならない。
 脚を下ろしてから腰を割った際、上体が立っていれば骨盤前面の小筋群や中殿筋、あるいは中殿筋とつながる腹筋に強いストレッチがかかるが、猫背の場合負荷が全て大腿四頭筋に入る。「身体のブレーキとなる筋肉を鍛えるのが好きでたまらない」のなら止めないが…

Q4 四股はたくさん踏まないとダメなのか?
A4 股の固い現代人が健康維持目的で行うなら合計数十回でじゅうぶん。強くなりたければ50~100回単位でたくさん踏まなければダメ。
 なぜ「強くなりたければたくさん踏め」なのかというと答えは簡単、「四股は純然たる筋トレではなく、身体に対する技術練習だから」。 

 四股は筋トレとしての効果も高いが、それ以上に「体をうまく使うための技術トレ」としての色合いが強い…というより、それが一番目の目的である。
 日常生活で何気なく行っている「歩行」の悪癖(骨性支持や腱弾性を使用した動きなど)を矯正し、「全身の力を協応させる」動きを無意識に発揮するための技術的トレーニング、それこそが四股である。
(そういった意味で四股は「空手の型」と存在意義や目的が非常に似通っている)
 「北斎漫画」に描かれている初期の四股が、現在のように四股立ち→腰を割る→足を上げるではなく、略直立の状態から片足だけをヒョイと上げているものだった(=筋量や筋力を増やすことでなく「バランスの技術練習」に主眼が置かれている)ことも、その証左である。

 また「技術」は、人間の体内から消失してしまうのが物凄く速い。
 よくプロアスリートや一流芸術家が「1日練習をサボったら、取り戻すのに何日かかかる」と口にしているが、「片足で立つ」という非日常的な動きを取り入れている四股にも同じことが言える。
 従って四股は、その目的が「健康維持」ではなく「強くなるため」である場合、
・技術練習の観点からは「技術は継続的な反復練習が要る」という点から
・筋トレ的観点からは「メカニカルストレスがかけられない運動なので、ケミカルストレスで対応する」という点から
たくさん踏むべからざるものである(べからざるもの=「しなければならない」のより強い表現)。

Q5 四股は毎日踏んでいいのか?他の筋トレのように適当に休んで「超回復」を目指すべきでは?
A5 毎日踏んで全く問題ない。疲労が蓄積して実行できない場合は適宜休むべきだが、「毎日やってはいけない理由」は一切存在しない。
 四股はその第一義が技術練習であるため、1回1回の負荷自体がそう強いものではない(運動慣れしていない、あるいは股関節がとてつもなく固い人は別)だからこそ「毎日できる」。
 身体が疲労している際に無理をする必要はないが、「毎日やってはいけない」という論を後押しするものは何一つない。

Q6 四股を踏む際、ダンベルを持つなどして負荷をかけることは有効か?
A6 全然有効ではない。むしろ上達を阻害するので即座にやめること。
 以前弊ブログで「ゴルフ素人オヤジがよくダンベルを振って『スイングを強化する』と息巻いているが、それは間違ったフォームを、重さでさらに間違ったものにするからダメ。技術練習と力をつけるトレーニングはわけるべき」という話をしたが、四股を踏む際にメカニカルな負荷をかけてはいけない理由がまさにこれ。
 四股は「空身で正確に踏む」ことが一番難しい(←これは沖縄拳法空手道首席師範・山城美智先生に教えを受けた際、ワタクシが「型を打つ際に負荷などをかけるべきか?」という愚かすぎる質問をした際、山城先生がおっしゃって下さった回答の丸パクリです)。

Q7 四股によっていわゆる「丹田」が開発されるのか?
A7 全く不明。そういうことは「身体のバランスの中心を、昔の人がそう表現しただけ。五臓六腑の三焦(さんしょ)と同じで、丹田なんかありえない」と主張するワタクシではなく、「月刊秘伝」の愛読者あたりに聞くこと(-_-;)。

Q8 四股が優れたトレーニングなのはわかったが、ではなぜこれまで「相撲関係者が行うだけ」のものだったのか?
A8 平成初年ころまでのいわゆる「スポーツ指導者」の多くが、モノを知らないバカだったから。
 語弊を恐れずはっきり申し上げれば、わが国のスポーツ指導者は永く「根性論を振りかざすバカ」と「毛唐の受け売りだけを話すバカ」しかいなかったため、「ほんとうに役立つこと」の追求が永くなされていなかった。
 平成初年ころまでのスポーツ指導者なるものは、毛唐の国で確立されたトレーニング理論をありがたがっていたが、そのバカたちは、毛唐の国で作られた理論の「被験者」の質を全く斟酌していなかった(毛唐の国で実験をしたのであれば、被験者は当然毛唐。股関節が異様に固く、腱弾性が異様に強く、生活様式も全く異なるあの人種)。
 また、毛唐のトレーニング理論を受け売りすることによって、四股や空手などに存在した、ひとつの運動で「身体も作れる、動きも開発できる」というものを否定し、「筋肉をつけるか、アジリティを作るか」という二者択一を当たり前にしてしまった。
 こいつらの罪は決して軽いものではない。地獄に行って閻魔に舌を抜かれるくらいで丁度いいと思う。

Q9 同じ日本伝武道の柔道は、トレーニング方法として四股を採用していない。これはなぜか。
A9 柔道は純然たる日本伝武道ではなく、日本伝武道の皮をかぶったスポーツだから。
 Q8でも述べたが、質のいい日本伝武道には「身体も作れる、動きも開発できる」という、一見異なる目的を矛盾なく成立させるトレーニング方法が存在する。その代表的なものがいわゆる「型」で、相撲の稽古体系のなかで四股も「型のひとつ」と位置付けられている。その型を練る過程で、螺旋階段上に上達していくのが本物の日本伝武道である。
 しかし柔道には「こういう技をこうかける」という技の体系はあっても「こういう機序を踏めば、螺旋階段上に強くなっていく」という上達の体系が創設時から現在に至るまで、一切存在しない。
 嘉納治五郎は本邦にウェイトトレを初めて紹介した人物としても知られているが、これは「柔道には強くなるための体系がない」というこを自ら認めていたからこそであると、個人的には思っている。

 余談ではあるが、弊ブログで何度も述べている通り、柔道は嘉納先生が日本で初めて作り上げた「競技スポーツ」であり(断言)、今や「JUDO」は、「柔道着を着た、世界最大のジャケットレスリング大会」となっている。
 時おりしもパリ五輪の真っ最中であるが、今般五輪の柔道競技でも多数の誤審が勃発したり、勝利を文字通り「手放し」で、ド派手に喜ぶ外国勢がやり玉に挙がっている。
 そうした一連の行動に対し、日ごろロクに柔道の試合も見ないような輩が「武道精神がない!ウンタラカンタラ」とほざくが、嘉納先生生前の論説を原文で読み倒してきたワタクシは「このディストピアっぽい柔道こそ、嘉納先生が生涯をかけて希求した真の柔道の姿だ!」と断言する。
 死後90年近く経っての「柔道の完成」。嘉納先生も、さぞかし本望であろう(これまた断言)。

Q10 先述した「A or B」ではなく「A and B」を具現化するトレーニングで、他に有名なものはないか。
A10 ケトルベル(ギラ)。昔々、総合格闘技華やかなりしころエメリヤーエンコ・ヒョードルという絶対王者がいたが、その戦法・トレーニング方法ともに「サンボの基本に忠実すぎるほど忠実」であった。むろん、盛んにギラのトレーニングも行っていたと仄聞する。

 以上で四股に関するQ&Aを終了します。ご意見ございましたらいつものように、コメント欄にお願いいたします。



「踏めよ究極、これしかないぜ!」…究極の下半身トレ「四股」について考える(その2)

2024-06-27 10:42:09 | 格闘技のお話
 …すみません、思うところあって(その2)から、メインタイトルを変えました(;^ω^)。
 出典は伝説的アニラジ「青春ラジメニア」(平成元年4月1日~現在も絶賛放送中!)のメインテーマ「青春ラジメニアの歌」3番の一節「聴けよ究極、これしかないぜ」からです。
 四股は調べれば調べるほど、踏めば踏むほど「究極!」と思わされたため、こんなタイトルにしました。
 では、本編です。

 ①では四股で「つながり」を鍛えるというお話をしましたが、「つながり」とは自動車でいえば「電気系統」「足回り」です。
 相撲で勝つためには「つながり」がうまくいくだけでは全く不足であり、自動車でいえば「エンジン」に相当する箇所の開発が必須。
 箇条書きにしますと
①パワーの発露に必要な「大きな筋肉」をよりよくつける
②それら大きな筋肉を、さらに付近の大きな筋肉と連動させる
という要素が必要になるわけですが、以下に述べる理由から、四股はこの2点をまかなう最適解といえます。

 「人体が最大のパワーを発揮するためには何をすればいいか?」
 この答えは、理屈でいえばとても簡単。下記の一言で片付きます。
 「人体が持っている大きな筋肉を連動させること。」
 これについては、今や斯界では超絶有名人になった沖縄空手のエキスパート・山城美智沖縄拳法空手道首席師範も、
「大きな力を発揮するためには、大きな筋肉を連動させる必要があります。小さな筋肉ではいくら鍛えたところで、小さな力しか出ません。」
と常々仰っており、要するにそういうものなんです。
 しかし現実には、ある程度運動をしている人間であっても、「大きな筋肉を意識して動かす」ことができていないことが多く見受けられます。

 なぜ、この単純な理屈を実現することが難しいのか?
 これまた答えは単純。「大きな筋肉」は、大きな力が発露できるものであるいっぽう、意識して動かすことが難しいからです。
 「力こぶを作ってください」といわれてできない人はいませんが、「広背筋下部を動かしてください」とか、「大胸筋を動かしてください」と言われてできる人はそうそういません。

 大胸筋を鍛える代表的なトレーニングといえばベンチプレスですが、素人さんのベンチプレスは腕(上腕三頭筋あたり)か肩(三角筋前部)にしか負荷が入っていないことが多く見受けられます。
 広背筋を鍛える代表的なトレーニング・ケーブルロウイングも同様で、多くの人のロウイングは、負荷が腕(上腕三頭筋)や肩(三角筋中部または後部)にしか入っていないことが、はっきり見て取れます。
 こうした「なんちゃってベンチプレス」「なんちゃってケーブルロウイング」が示しますように、ろくに体を動かさない多くの人は「大きな筋肉を意識して使うことは、実はとても難しい」ということにすら気づけていません。
 事程左様に、「大きな筋肉を意識して動かす」ことは難しいのです。

 その問題を解決するためのアプローチ方法はさまざまに存在しますが、いわゆる「レジスタンストレーニングの理屈」…つまり、「こうした運動にはあの筋肉とこの筋肉が必要だから、あの筋肉を意識して、フォーカスして、その後コーディネーションをして…」みたいなアプローチをすると、はっきり申し上げますが、理屈倒れになって何も身につかない可能性が大です。
 実は筋の良い武道や格闘技に「型」が存在する理由こそ、ここにあるのです。

 「型」は武道・格闘技において、ものすごく役に立つことをものすごく単純な動作に溶かし込んだ「圧縮ソフト」みたいなものであり、それを修行者が反復することで「解凍」を促す、という点にあります。
(ちなみに単純な動作を理屈に依らず反復するというのは、実は脳科学の観点においても「気づきを得る」「ひらめく」ということにおいて重要なファクターであったりします。昔の人は経験則でそれを知っていたのですね。)
 相撲に少し詳しい人は誰でも知っていることですが、実は四股も相撲という格闘技における「型」のひとつ(相撲基本体操における第三運動・「四股の型」)だったりします。
 
 山城先生の沖縄拳法において「大きな筋肉をつなげて、大きな力を発揮する」という極意を凝縮した「圧縮ソフト」と位置付けられているのはナイハンチですが、相撲における同じ目的を担った圧縮ソフトこそが、四股なのです。
 
【四股で鍛えられるものその③ 「大きな力」のキーとなる中殿筋と、それを鍛えることの困難性】
 別にお金になるわけでもなんでもないので、もう答えから先に言ってしまいますが、四股がダイレクトに鍛えてくれる「大きな力」発露の最も重要な筋肉は中殿筋です。
 
 中殿筋は骨盤を横から支えるようについている筋肉で、起始が骨盤上端、停止が大腿骨の大転子(骨盤にハマっているジョイント部分)。
 役割としては「股関節の外旋」、そこから発展しての「骨盤の中立」。
 「外旋」は中殿筋だけではなく、それを覆うようについている大殿筋(上部)も使用しており、かつ外腹斜筋も連動するという、人体でも最大出力を発揮する動作。単純なダッシュのみならず急激な横移動など、下半身を爆発的に使う動作はすべてこの「外旋」がメインであり、この動作をバカアホスポーツ指導者は「下半身を使って投げろ!」とか「下半身を使って打て!」と表現するわけですな(;^ω^)。
(ちなみにこの反対動作となる「内旋」は、強力な動作である「外旋」のリセット機能であるため、中殿筋と、その奥底にある小殿筋だけが用いられます。)

 ここまで読むと「そうか、じゃあ大殿筋上部と中殿筋を鍛えれば、スゴい下半身が手に入るんだ!」…理屈ではそうです。単純な理屈では…しかしその実現は、非常に難しい…。

 中殿筋はボディビルダーを正面から見たとき、ケツが横に張り出しているあの部分であり、ボディビルの大会では「逆三角形の体型」を作り出すのに欠くべからざる部位であることから、ビルダーは当然、この「ケツの横の張り」を出すために鍛えるわけですが、その方法は驚くほど多種多様であり、「ケツの横の張りを出すには、スクワットだけしときゃいい」というビルダーはおそらく、誰一人いないでしょう。
 このくだりだけでも「殿筋群は鍛えにくい、とくに中殿筋はスポットで鍛えにくい」ということが判って頂けると思います。

 ここから先は「殿筋群を鍛える」に関する余談です。興味ある方だけ読んでみて下さい。

 わが国における多くのスポーツ指導者は、「そのスポーツ競技に勝つことを特化させた指導者」でしかないことが多く「競技に必要な筋肉をよりよくつける、あるいは筋力をよりよく上げる」という具体的手法をほとんど知りません。むしろその分野については、スポーツ競技という手垢がついている関係上、「ヨカタ以下」と言ってもいいでしょう。
 そうしたバカアホ指導者が、「殿筋群はスポット強化が難しい」ということも知らず、「選手の下半身を鍛えるんだ!」と息巻いた場合、だいたい2つの「間違った道」を選択します。ひとつは「走り込み」もう一つは「中途半端なレジスタンストレ」。
 ちなみに答えから言いますと「どっちも間違い!ペケ!」。その理由を以下に掲げます。

 「走り込み」のほうは太古の昔から、無能なスポーツ指導者が大好きなものとして有名ですね(;^ω^)。
 確かに走ることは下半身の各種筋群を使用します。しますけど…無能な指導者の皆さんに、絶望的なお話をひとつしておきましょう。

「『走る』という動作は腱弾性によるところが極めて大きく、『走る』という動作に慣れれば慣れるほどその色合いは強まり、『筋肉を鍛える』あるいは『消費カロリーを増やす』ということから遠ざかっていく。
 殿筋や脚部の筋肉を増やすならレジスタンストレ、消費カロリーを増やすなら『腱弾性』の関与が少ないウォーキングのほうが余程マシ。」

これは各種の小むつかしい文献を読みあさり、筋トレ系Youtuberのチャンネルをいくつも視聴し、自分で人体実験をして得た結果なので、間違いありません(キッパリ)!
 走り込みの主目的につき、それが「競技の特性として、走ることが必須だから」である場合には全然アリですが、それが「下半身全体を鍛えることだ」と断言するヤツとは、絶対に関わり合いにならないほうがいいです(キッパリ)!きっとあなたが不愉快な思いをしますから。
 
 次に「中途半端なレジスタンストレ」。これは平成二桁以降に市民権を獲得した、比較的新しいものですが、「中途半端で効果がないレジスタンストレ」をやっているのは、昨今のプロ野球が顕著ですね(;^ω^)。特に読売ジャイアンツの選手…。

 筋肉をつける、あるいは筋力を最大限に発揮する場合、一般には「ウェイトトレ」と呼ばれる各種レジスタンストレーニングを避けて通ることはできません。
(それをちゃんと頭&体でわかりたかったため、ワタクシも4年ばかりガチでウェイトをしていました(;'∀'))
 しかし、「筋肉を本気で覚醒させる」というのは本来生易しいものではなく、目的が筋量アップであるにせよ筋力アップであるにせよ、常に高い緊張感&ヘビーなウェイト(または高回数)が必須となります。
 よくバカなプロ野球選手が、ヘラヘラしながら「レジスタンストレらしきもの」をしている姿が見受けられますが、ヘラヘラしながらできる程度の回数・負荷では筋量・筋力のいずれも得ることはできません。得られるのは「重いものを持ち上げたであろう満足感」だけです。
(これはプロ野球だけでなく、各種スポーツ界でもほぼ同様)
 そのわりに「筋トレのあとは、栄養補給と休養が大事」とばかりに大飯を食って休憩ばっかりしているわけで…ちなみにこれが、ジャイアンツの選手が「あらゆる意味で読売巨人病(;^_^A)」になる原因であったりもします。

 話がだいぶ横にそれましたが、④では「なぜ四股の動作なら、中殿筋にダイレクトに刺激が入るのか?他」についてお話しします。


意外?当然?究極の下半身トレ「四股」について考える(その1)

2024-06-11 19:04:28 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 プロアマ問わず、およそ相撲を志す方のなかで「四股を一度も踏んでない」という人は皆無と断じてよいでしょう。
 四股はずっと昔からあらゆる機会をとらえ、数々の有識者が「相撲において四股は、基本であり究極でもあるトレーニング」みたいなことを説いています。
 ワタクシもレスリング修行を開始したとき、師匠に勧められて始めた「トレーニングとしての四股」でしたが、若い頃には様々なトレーニングに目移りしてしまい、本気で四股を踏み始めるようになったのは3年くらい前からとなります。
 これまで、さまざまに「脚のトレーニング」なるものを実施し、スクワットでもそれなりの重量(200キロ×5×●セットとか)を扱えてはいましたが、「下半身が安定した感覚」を得ることは全くと言っていいほど、できていませんでした。
 ところが「きちんとしたやり方」に気を付け、1回1回を丁寧に心掛け、本気で四股を踏み始めたところ、踏み始めてから1か月少々で腰回りの肉付きが明確に変化し、高重量スクワットではほぼ得られなかったいわゆる「腰が据わった状態」になったことに非常に驚くと同時に、これまでワタクシが踏んでいた四股は、「やじろべえの四股」(後述)であり、何の意味もない足の上下運動だったのだ_| ̄|○と、深く反省したのでした。

 そんな四股というすばらしい(と個人的に思う)トレーニングですが、相撲、あるいは「ジャケットを着ない」組技系格闘技では重要視されているものの、それ以外ではかなり軽視、あるいは見向きもされていません。
 その理由はおおむね、下のようなものでしょう。
「1回ごとの負荷が軽すぎて、トレーニング効果がない。脚を鍛えるならバーベルスクワットでもやったほうがいい。」

 これは一見正論のようですが、「四股というトレーニングに込められた真意」に気づけば「かなり粗雑な意見」としか言えません。
 なぜ「スクワットでもした方がマシ」をあえて「粗雑」と表現したかということも踏まえ、今回はそんな「単純だけど難しい」「効果がないようで、実はスゴい」トレーニング・四股の効能について考えることと致しましょう。
(以下、四股の効能などにつき「調査研究したことを箇条書きで並べていく」方式でお話ししていきます。)

【四股で鍛えられるもの① 全身の「つながり」の強化】
 現在はレジスタンストレーニング(巷間「ウェイトトレ」と呼ばれるもの)に親しむ人が増えたため、「フォーカスすべき筋肉を決め、その筋肉だけに可能な限り負荷を与えることができるトレーニング」≒「良いトレーニング」という考え方が人口に膾炙しています。
 そうした「レジスタンストレ」のメガネをかけて四股を眺めますと、全てが「レジスタンストレ」の理屈の真逆を行っています。

 どこの筋肉にフォーカスしようとしているのかわからない、負荷は全然ない(ように見える)、たくさん踏むから時間ばっかりかかって非効率的…

 「四股なんて前近代的な因習だ」と切り捨てる人が、「四股不要」と主張する原因がこれなんですが、よくよく考えますと、一見正論に見えるこの意見は「『レジスタンストレ』というメガネをかけているだけの意見」ということがわかります。
 四股は「レジスタンストレ」というメガネを外した時、初めて見えてくるものがたくさんありますし、なんと驚くことに「レジスタンストレ」の大原則を抑えまくっている点もあります。
 そのうち最大のものは何かといえば…「全身のつながりを強化すること」です。

 骨盤周辺は、二足歩行という、他の生物には見られない歩行形態を司るための様々な筋肉・腱・神経が集中しています。
 「世界一わかりやすい 筋肉のつながり図鑑」(きまたりょう・KADOKAWA)によりますと、骨盤付近は
①内転筋~鼠径部~腸腰筋を「大動脈」とする人体の「前のつながり」
②ハムストリングス~骨盤の中~背骨前面を「大動脈」とする「後ろのつながり」
③頭蓋骨の下~心肺の筋群~いわゆる腸腰筋~内転筋のつながりによって立位を維持する「深層のつながり」
の一大大動脈となっています(ほかにもいろいろありますが、長くなるので省略)。
 
 これら①~③の「つながり」を強化するには、理屈からいえば「上記①~③に関連する筋群を強化すればいい」なのですが、こうした「つながり」を維持するための筋肉、とくに骨盤周りにくっついている筋肉はは体の奥深くにあるうえ、小さく細かいものばかりで、冒頭に掲げたような「フォーカスして、意識して…」という鍛え方が略不可能。

 この「不可能」を可能にするための模範解答が「脚を大きく上げる」という動作です。
 足に強い外旋をかけた状態(いわゆる「腰が割れている」状態、空手でいう四股立ち、レジスタンストレなら「ワイドスクワット」の形)から、更に外旋をかけつつ、ゆっくり足を上げる動作は「つながり」を発動させるために必要な、骨盤付近の細かい筋肉をフル稼働させますので、それら細かい筋肉が強化されることはもちろん、そこに繋がる①~③の筋肉も鍛えることができる…つまり「全身のつながり」自体を強化することができるというわけです。 
 また、この「足を上げる動作」には筋トレの7原則でいう「意識性の原則」…これは「筋トレは鍛えたい部位に意識を集中させないと、効果が得られない」というものですが、まさにその「意識」を股関節に持っていく大変大きな効果があります。
 四股初心者は、(かつてのワタクシの四股のように(;^ω^))全身の重心バランスを取るだけの「やじろべえの四股」しか踏めませんが、熟練者は片足を上げた状態であっても、ビクともしない安定感があります。
 これこそが「股関節に意識性が向いている」何よりの証左であり、四股の効果が具現化したものといえます。
 このように、四股は「全身のつながりを、ごく単純な動作で鍛える」ことができるという点に関して言えば、各種スクワットより何百倍も優れた運動であり、四股のいちばんの凄みは而して、この点にあります。

(「その2」に続きます。)