集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

「岩国の隠れた?忘れられた名将」と黒獅子旗(その1)

2017-10-25 09:51:07 | 周防野球列伝
 今回もまたまた、弊ブログには幾度もご登場して頂いてもらっております、「青春・神宮くずれ異聞」(大島遼著、防長新聞社)と、その著者である岩国の名物野球人・岡村寿さんのお話です。

 「青春…」の後半クライマックスは、昭和30年に行われた第26回都市対抗野球に、千葉市(専売公社千葉)の補強選手として出場、吉原市(大昭和製紙)と激闘を繰り広げるシーンです。
 この試合の描写は本当に秀逸で、何度読み返しても胸が熱くなります。
 この大会から初めて開催されたナイトゲームにおいて、2大会前のチャンピオンチーム・大昭和を相手に剛球を投げ続ける「狂介」、それを受ける岡村さん、スリリングな試合展開、専売千葉監督にして伝説の野球人・宮武三郎が登場した際の満場のどよめき…私のボケた筆致では到底書き表せない、まさしく「総天然色映画のように色鮮やか」(同著より)な、昭和30年8月3日の後楽園球場が、読むたびに眼前に浮かんできます。

 岡村さんの「青春」以降の略歴を記しておきますと、この大会の2年後に岩国市に帰郷、昭和24年に野球部を創部した東洋紡岩国(昭和51年廃部)に身を投じ、捕手として2回都市対抗に出場(昭和33、34年)。その後は東洋紡に勤務しつつ母校・山口県立岩国高校の野球部監督を歴任、昭和46年春、同校を開校初の甲子園に導きます。また、その際に鍛えた選手は退任後も真価を発揮。同校が昭和48年、現在まで山口県勢唯一となる国体優勝を果たす「布石」も敷いております。
(以上略歴は「青春」末尾略歴及び「都市対抗野球60年史」、「山口県高校野球史」による)
 
 そうした実績を持つ「岩国の隠れた?忘れられた?名将」である岡村さんが、その前半生を投じた社会人野球と都市対抗…どのようなものであったか興味ございませんか?え、ない…残念_| ̄|○。

 まあ、弊ブログはワタクシの個人経営による完全な趣味趣向のブログであり「書きたいものを書く」ということで、このたび「岩国の隠れた?忘れられた名将と黒獅子旗」と題し、「青春・神宮くずれ異聞」の記載事項を縦軸に、当時の社会人野球情勢や試合経過を横軸に、「岩国の隠れた?忘れられた名将」こと、岡村寿さんが前半生を賭けた都市対抗野球を振り返ってみたいと思います。
(以後、「青春・神宮くずれ異聞」記載事項については(「青春」より)と記載いたします。そのほかの出典資料は別途表示)

 岡村さんと都市対抗の出会いは、高校3年の夏。
「都市対抗野球…この言葉にはつよい想いが私にはある。九州の田舎チーム『日鉄二瀬』の快進撃は、私の甲子園の夢がやぶれた昭和27年の夏だった。私は草深い郷里で、「オール鐘紡」との死闘を、雑音まじりのラジオ放送で聞いたのである」(「青春」より)
 昭和27年夏、岡村さんたち岩国高校野球部は「創部史上最強」との呼び声高いまとまったチームでしたが、なんと山口県予選の1回戦で敗れ(昭和27年7月21日・夏の甲子園山口県大会周防地区予選 下松工業3-1岩国【於・徳山毛利球場】)、甲子園への夢は一瞬にしてついえます。「岩国高等学校野球部史」掲載の地元紙によりますと「伝統の寄宿舎明強舎の設備低下などにより、合宿中の選手の大部分が下痢症状を呈し、キビキビした動きを示すことができなかった」との記載がありますが、どんな理由があるにせよ負けは負けです。
 呆然自失の岡村さんの耳に飛び込んできた都市対抗の試合…それは昭和27年に行われた第23回都市対抗野球決勝・大阪市(全鐘紡)対二瀬町(日鉄二瀬)の一戦でした。
 全鐘紡は前回、前々回大会を制し、史上初の三連覇を狙うスーパー強豪チーム。対する日鉄二瀬は遊撃手を兼任する濃人渉監督を中心に、エース野見山博、のち西鉄ライオンズで活躍する強打の外野手今久留主功などを擁し、強豪を次々撃破しての初の決勝進出でした。
 試合自体は11-5で大阪市が優勝して大会史上初の三連覇を達成したわけですが、熊本の田舎チーム・日鉄二瀬が全国の派遣を賭けて食い下がる様は、岡村青年の胸に強く印象付けられ、それは後日、人生を賭けた大会として存在することとなります。

 岡村さんは岩国高校を卒業後、杉田屋守監督や門田栄部長(その後、山口県高野連理事長を歴任!)の勧めもあって早大に進学しますが、理不尽なシゴキに反発して中退。紆余曲折を経て、埼玉県川口市の「永幸工場」(チーム存在時期・昭和29~昭和38年)野球部創部メンバーとして参加します。
 永幸工場の正業は鋳物製作。当時、鉄鋼業は朝鮮戦争によるカネヘン景気の余波を受けて絶好調の時期であり、その社長は「信じられないほどの分限者だということだった。」(「青春」より)そうです。
 当時、鉄鋼業界は確かに好調で、先述の日鉄二瀬の他、戦前からの伝統チーム八幡製鉄(八幡市・現北九州市)、日本鋼管(横浜市)、富士鉄釜石(釜石市)、富士鉄室蘭(室蘭市)などなど、鉄鋼会社の持つ強豪は、多数存在しました。
 当時、埼玉や千葉といった南関東地区には有力な企業チームがなく、都心強豪チームの草刈り場と化していた、と「青春」にはあります。
 ブログ「野球史探求」によりますと、「その頃の埼玉社会人野球は戦後間もなくに元プロの精鋭を集めた豊岡物産(豊岡町)も解散しており、現在の2強である日本通運(浦和市)・HONDA(当時・本田技研=大和町)もまだ活動しておらず企業チームの真空地帯であった。」とあり、「青春」の記述を裏付けております。
 永幸工場はそんな選手のど真ん中に割って入り、優秀な選手を豊富な資金で獲得し、一挙に都市対抗を目指そう…というスタンスのもと、チームが起こされたようです。(続く)

参考文献
・「青春・神宮くずれ異聞 宮武三郎と助っ人のわたし」大島遼(岡村寿)著 防長新聞社
・「岩国高等学校野球部史」門田 栄著 岩国高等学校野球部史編集委員会、岩国高等学校野球部OB会
・「都市対抗野球60年史」日本野球連盟 毎日新聞社
・ブログ「野球史探求」

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