Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2019年2月1日(初金) 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ説教 「互いに愛し合う」とはどういうことか

2019年03月14日 | お説教・霊的講話
2019年2月1日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年2月1日、2月の初金曜日で、アンティオキアの聖イグナチオ殉教者司教の祝日でもあります。

今日は初金曜日です。ミサが終わった後に、いつもの通り聖時間を行ないましょう。
御聖体の前で、イエズス様に対して犯される罪を償いましょう。そして多くの霊魂がイエズス様を知り、愛する事ができますように、特別の御恵みを乞い求めましょう。

明日は、聖母の御浄めの祝日であります。10時半からミサがあります。

2月10日と11日にもミサがあります。


「願わくは、キリストが私たちの心に、信仰を通して、そして愛徳において根付いて、そしてそこに基礎を置いて住まわれるように。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は初金曜日で、いつものように聖パウロの美しい書簡を読みました、「イエズス様が私たちの心に、一人一人の心に住まわれますように。それは信仰を通して、また愛徳に根付いて、そしてそこに基礎を置いて住まわれますように。」

「信仰という真理において、また天主への愛というものに深く根付いて、そこに深い基礎を置いて、イエズス様が私たちの心一人一人に住み、生き、私たちを導かれますように。そして願わくは、そのイエズス様のその愛の深さと、広さと、幅広さと、その深さと、高さと、その長さを、私たちが把握する事ができるように」と書いています。聖パウロは夢中になって、イエズス様への愛に夢中になっているので、もう文法の事など忘れているかのようです。

ところで、このイエズス様への愛に熱烈に燃え立ったのは、聖パウロだけではありません。初代のキリスト教信者がそうでした。使徒行録によると、「初代のキリスト教信者たちは、心も、そして霊魂も一つになって、一つの共同体となって住んでいた」と言います。「そして特にアンティオキアでは、彼らはキリスト者と呼ばれた。クリスティアナと呼ばれていた」と、「キリストに従う者と呼ばれていた」と書かれています。

アンティオキアでは、聖ペトロがローマに行く前に司教座を作って、聖ペトロの使徒座を作りました。ですからローマとアンティオキアは非常に重要な使徒座で、今では残念ながらトルコ、イスラムの手に落ちていますが、昔からアンティオキアはローマに次ぐ、聖ペトロの座として非常に大切なものでした。

その聖ペトロの3代目の、聖ペトロ、それからもう一人おいて、もう一人が、今日祝日の聖イグナチオです、アンティオキアの司教。そしてアンティオキアの司教として素晴らしく、愛徳に満ちて統治した後に、慕われつつ、多くの司教、周りの司教様たち、あるいは司祭、信徒たちから、助祭たちから慕われつつ、しかしトライアノローマ皇帝のもとにおいて、ローマに連行されて、そしてローマで野獣の、獰猛な動物たち、ライオンの餌食となる為に、コロセウムで見世物となる為に、ローマに連れて行かれました。

聖イグナチオはローマに行くのは、はたから見ると、十字架の道行きでした。しかし聖イグナチオにとってこれは、婚宴に、結婚式に与る花嫁の旅でした。

ローマに行く道まで、アンティオキアからローマに行く道のりは長く、10人のローマの兵士たちが、非常に乱暴に、残酷に扱っていました。聖イグナチオは7ヶ所、おそらくそれ以上の所で立ち留まったと思いますけれども、その留まった所で手紙を書いています。ローマに行く途中でも、イエズス様の事を説教していました。そして手紙の中で、自分のこの手紙をその送るその相手に、「どれほど、イエズス様の愛に自分が燃えているか」という事を書き示しています。

私たちにとって、その7ヶ所の手紙を書いた場所は、十字架の道行きの7つの、第1留から第7留かもしれませんが、しかし聖イグナチオにとってはそれは、結婚式に与る為に、イエズス様に対して書くラブレターのようなものでした。

その7つの手紙は、初代のキリスト教の非常に大切な聖伝の文献として、私たちにまで残っています。イエズス様について、「イエズス様は真に、本当に、童貞から生まれた。童貞なる母から生まれた。」また、「本当に、私たちの為に十字架に釘付けられた。」そして「私たちの為に、私たちを愛するが為に復活された」と証言しています。

その手紙の一つ一つは、愛に、イエズス様への愛に満ちて、「私は早く、イエズス様の元に行きたい。死んでイエズス様の元に行く、という事だけを考えている。その事は、この全地を支配するよりも、もっと私にとって良い事だ。イエズス様が私の為に釘付けにされ、そして私の為に復活された。その愛を思うと、私はイエズス様の事を愛して、その愛に燃え立っている」という事を書いています。

そしてローマの信徒たちには、「私はこれから、獰猛な動物たちの餌になって、食いちぎられる。そして私は一粒の麦となって地に落ちるけれども、私がイエズス様の元に行くのをどうぞ、どうぞ引き止めないでほしい。他の殉教者たちは不思議な事に、動物たちが、あれほど獰猛で空腹だった動物たちが、殉教者たちの前にきょとんとして何も近付こうとしなかった、危害を与えようとしなかったけれども、そのような奇跡を私の為に祈らないでほしい。私はイエズス様の元に行きたい。一粒の麦となって地に落ちたい。そしてイエズス様の為の清いパンとなりたい」という事を、愛に満ちて、感動的に書き綴っています。

実際、107年ローマで、コロセウムで、ライオンたちの牙に食い潰されて、一粒の綺麗な麦として地に落ちて、そしてイエズス様のパンとして、聖イグナチオは自分の肉体と血を流して、イエズス様に愛を込めて捧げて、一生を終えました、殉教をしました。これは純粋に、イエズス様を愛するが為のものでした。

では、聖イグナチオはその書簡の中で既に、「イエズス様の元に与るこの私たちは、カトリック教会だ」という、「カトリック」という言葉を書いています。たとえ新約聖書の中には無かったとしても、既に聖イグナチオはそれを使っています。もちろん使徒信経の中にも私たちは使っています。

私たちにとって、この初金を祝う、初金のミサをしている私たちにとって、一体今日、どのような事を、イエズス様は聖イグナチオと共に教えようとしているのでしょうか?

聖パウロの言葉が耳に響きます、「信仰を通して、そして愛徳に根付いて、深く基礎を固められて、私たち一人一人の心に、イエズス様が住まわれますように。」

イエズス様は言われました、「もしも私を愛するならば、私は聖父と共に、聖霊と共に、お前たちの心にやって来て、住まうだろう。」

最後の晩餐の時に、イエズス様は言われました、「互いに愛し合え。そうすれば、この世の人たちは、お前たちが私の弟子であるという事を知るだろう。」

イエズス様の教えが真理であるという事は、あまりにも深くて、この世の人がすぐに理解する事ができないかもしれません。しかし、私たちがイエズス様を愛し、イエズス様を愛するが為に互いに愛し合う、という事をすると、これについては人々はすぐに理解できます。

「互いに愛し合う」というのは、これは世俗の流行歌が歌うような事ではありません。世俗の、あるいはこの現代の世界が言っているような、天主の無いイエズス・キリストの無い愛ではありません。あるいは感傷的なフィーリングだけのものではありません。第二バチカン公会議が言うような、「この世での地上での平和の為なら、どんなものも犠牲にして良い。真理でも、イエズス・キリストを隠してでも、この地上でのいわゆるフリーメイソン的な兄弟愛があれば良い」のではありません。

イエズス・キリストの仰る「互いに愛し合え」というのは、聖イグナチオが実践した愛徳であって、イエズス・キリストを愛するが為に、私たちも天主の贈る十字架を愛徳を以って担う、私たちの家族、あるいは隣人、友人、同僚から受ける、あるいは嫌がらせや、あるいは過失、あるいは失敗などを、寛大に許してあげる、あるいは理解してあげる。
そしてあるいは、その相手の利益を、心から親身になって考えてあげる。時にはその為に自分の事を忘れるほど、相手の為に立場になってあげる。あるいは「何でこの人はこんなに反応するのだろうか?何でこう怒っているのだろうか?何を悲しんでいるのだろうか?なぜこうなのだろうか?」と思いやってあげる、配慮してあげる。あるいは家族であれば家庭であれば、一緒に時を過ごして、そして自分のこのやりたい事も、それを家族と共に過ごす為にお捧げする。あるいは微笑みや、あるいはちょっとした忍耐、愛徳を実行するという、いわば聖イグナチオが、アンティオキアの聖イグナチオがローマへの道すがら、その警護の軍人から残酷に扱われたにもかかわらず、それを愛徳を以って忍んだように、私たちもイエズス様への愛の為に、隣人に愛徳を実践する、イエズス・キリストを愛するが為に。

これこそ、初代から伝わった、そして初代の使徒たちが実践して、今でも私たちが実践しようとする、イエズス・キリストの聖心への愛であり、カトリック教会の生き方です。これこそ、第二バチカン公会議が教えない、聖伝の、イエズス様の聖心への信仰と愛に深く根付いて築かれた生き方であって、イエズス様が私たちの心に、イエズス・キリストが生き生きと生きられる、生活される、住まわれる生き方です。これこそ、私たちの信じているカトリック教会の教えであって、イエズス・キリストの教えたキリスト教の教えであって、そしてイエズス様の聖心の愛の教えです。

では、今日の聖イグナチオの模範を見つつ、私たちもこのイエズス様への愛に燃えて、聖イグナチオの模範とはまだ遠く離れていますけれども、イエズス様に捧げられる一粒の麦となり、そして清いパンとなる事ができますように、私たちの心にイエズス様への愛がますます燃え立ちますように、最後にマリア様に汚れなき御心にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


サマーズ神父様の霊的講話「召命について」召命は「少数の人たちだけのものでも、結婚を避けるためでも、厭世的なものでもない。召命とは、天主の勧めに従い完徳を目指すこと

2019年03月14日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2019年3月2日(初土)に東京でサマーズ神父様がなさった霊的講話「召命について」をご紹介いたします。(同時通訳:東京信徒会長)

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



今日、皆さんわざわざいらして下さって大変ありがとうございます。
昨日ちょっと旅行から日本に着いたばかりなので疲れていますけれども、ちゃんとした内容でやろうと思いますのでよろしくお願いします。(先週、神父様の8人兄弟の一番下の妹さんが結婚されるという事で、アメリカのデトロイトまで結婚式に行ってらっしゃったという事で、お帰りの途中の日本という事です。)

それで今、結婚の話が出ましたけれども、結婚と召命はもちろん結び付いています。今日は「召命」の方の話をしたいと思います。

私たち皆が同意する事は、「召命を奨励する、というのは非常に大事な事だ」と、これは皆さん異論が無い事だと思います。修道士・修道女の方がいない限り、司祭も含めてですけれども、私たちの信仰を立て直すという事は不可能です。

今日、召命という話をしますけれども、召命というのは、全ての種類の召命の話をします。いわゆる秘跡として叙階された司祭も含みますし、例えば修道士・修道女、ブラザー・シスターですとか、いわゆる他の修道士も含みます。全ての召命についてお話をします。

世の中には色んな修道会というのがあって、違いはあると思いますけれども、召命という事で言えば1つ、今日はそれらへの召命という事で、合わせて話ができると思います。

召命というのは、世の中の事を離れて、修道の宗教の生活に入るという人たちの事を言います。

【召命というのは、何でないか】
ではまず最初に、召命の事について、「召命というのは、何ではないか」という否定的な事から始めさせて頂きます。私たちが何かを理解する時に、「これが何であるか」というのを理解するのが特に難しそうな時には、「これは、これではない」という方から見た方が簡単な事があります。そちらから見る事にします。

色々な聖人とか過去の宗教人がこの召命について書いている時は、その中によくありますのが、「召命というものを、間違って定義してはいけない」というのがよく書いてあります。彼らの言うには、「召命というのを、何か神秘的なものだ、という風に定義してはいけない」という風に言います。召命というのは神秘ではあるのですけれども、それから召命を受ける、同意するのも神秘ではあるのですが、召命自体というのは特に神秘ではありません。

天主様が皆さん私たち全員を、いわゆる3つの福音的勧告(貞潔・清貧・従順)で、「完全になりなさい」という風に明らかに呼ばれております。これは聖書にもありますし、聖伝にもある通りですので、そこには天主様はいつもこうされてるので、特に神秘というものがあるわけではありません。

カトリックでない方にとって、そのカトリックの召命というのが何か神秘的なものである、というのはまぁ理解できます。私たちの住んでいるこの今の社会というのは、非カトリック的な世界の中に住んでいますし、異教的な文化の中に住んでいますので、そういう事も理解はできます。ですから言ってみれば、カトリックではない方、異教の方にとっては、カトリックの召命というのは、「これは何か神秘的なものだなぁ」と思われるという事はそうでしょう。彼ら(私たちもですけれども)の住んでいるこの世俗の世界というのは私たちに、「肉の欲望を掴みなさい、探しなさい」というように命令してきます。私たちに、「もっと物質を集めなさい」「物を集めなさい」という風に命令してきます。そして「私たち、自分だけの意思に従って、私たちの自己実現をしなさい」という風に言ってきます。

そしてこういう異教とかカトリックでない方に対して、「いや、カトリックの召命というのは、『貞潔』とか『清貧』とか『従順』に従っているんです」という事になります、私たちの説明は。

ですからカトリックでない方にとっては、一方にはその「世の中の自己満足」だとか、「物質的な欲望」だとか、「自分の意志で勝手に決めて良い」とか、「自己実現をするのだ」というのと、「カトリックの召命」というの聞いてみたら、「貞潔だ」「清貧だ」「従順だ」というのを2つ比べてみると、「これは何か、何かどこかこの人は狂ってるんじゃないか」と思われるのは分かります。ですから、カトリックでない方とか他の宗教に従っている方が、このカトリックの召命を見て、若い男性とか女性が修道生活に入るというの見て、「何でこんな事をするんだろう?全然分からない」と思われる事は、まぁ理解できます。

【召命というのは、何か神秘的でよく分からないものではない】
ですが私たちカトリックにとっては、カトリックの若者、男性女性にとっては、これは神秘であるはずがありません。カトリックの目から見ますと、この「貞潔」「清貧」「従順」というのは、目的ではなくて、目的に達する為の「手段だ」という事が分かっています。ですからこの3つの福音的勧告、貞潔にしなさいというのは、貞潔である為に貞潔なのではなくて、貧しい為に清貧になるのではなくて、誰かの言う事を聞く為に従順になるのではなくて、目的はもっと高い所にあります。

ですから普通の世俗の世界でも、例えばスポーツ選手だとか、ビジネスマンの何かトップの方だとか、すごい学者の方とかは、英雄的な犠牲を払って、その一番になる為にものすごい犠牲を払った生活をしていらっしゃいます。ですから若い男性女性の方が、カトリックの召命を受けて修道生活に入るという時は、それよりももっと大変な努力をしなければいけない、という事が分かります。

ですから召命というのは、何か神秘的でよく分からないもの、ではありません。ですからここでよくある危険というのは、この召命というのを何か私的啓示のような、「何か、天主様から何かメッセージが来た」というようなものだと思ってはいけません。


【召命は、「選ばれた本当に数の少ない人たちだけのものでもなければ、結婚を避けるためでもなければ、厭世的なものでもない】
また、「選ばれた本当に数の少ない人たちが、天主様から何か命を受けてなれるんだ」という風に考えてはいけません。そうではありません。もしそうであるとすると、その若い男性女性の修道生活に入る方が、何か人間と天主の間の子のようなものでなくてはいけない、というような変な事になってしまいます。そうではありません。

またあるいは、その若い男性女性の方が、「世の中でこう他の人と競争するのは嫌だ。だから修道生活に入る」という変な考えになってしまいます。あるいは「結婚すると難しい」とか「私の生活が制限される」と思って、「修道生活に入ろう」という変な事になってしまいます。

こういうように、召命というものに間違った考えがあります。

あるいは別の方は、「召命というのは、こう何かすごい出来事があって、その恐るべき出来事がないと召命に至らないんだ」というような間違った考えを持つ人もいます。そういう方は、例えば「友人が亡くなってしまったとか、何か奇跡的な事が自分に起こった、という事が起こらないと召命に至らないんだ」という間違った考えを持ってしまいます。

この世において修道生活というのは、何か特別な選ばれた出来事なのではありません。何か選ばれた、例外的なすごい方が選ぶ珍しい道というわけではありません。そうではなくて、修道生活というのは非常に単純な事で、「教会の使徒的な働きと、霊魂の救いの為に、単に必要な生き方の1つである」という事です。

ですから私たちが気を付けなければいけないのは、「皆さんの心の奥底を見たらどうですか?」とか「何か燃え盛っていませんか?」とか「召命を求めて何か飢えていませんか?」というような質問をしてはいけません。この理由で、教会というのは昔から、こういう若者に何年かを与えて、そういうようなこの気持ちが高ぶっているのが治まった頃に、本当に召命があるか、というのを調べる為に何年か与えることになります。

あともう1つの危険というのは、人によっては、「いや、この召命というのはすごく珍しい事だ」と、「大変な珍しい事なので、私みたいな者がそんな呼ばれるとか、そんなおこがましい、そんな者ではない」と思ってしまう危険があります。ですからもしそういうような、こう天使的な選ばれた数少ない人しかなれないというのでしたら、私はその一員にはなれません。ですからその方がもし将来、本当にその修道生活という栄光のある道に進むはずだったのが、その前に終わってしまう事があります。

【召命というのは、天主様の勧めに従って、完徳を目指すこと】
召命というのは、その本質においては、「天主様の勧めに従って、完全を目指す」という事です。先ほどの3つの福音的勧告に従って、「貞潔・清貧・従順に従って、完徳を目指していく」ただそれだけの単純な事です。

この3つの誓願、誓いというのは、何故こういうのを使うかと言いますと、主がこの3つを私たちに下さったからです。

まず「貞潔」については、これはマテオ(19章10節)からの引用ですけれども、弟子たちがイエズスに、「妻に対する夫の立場が仰せの通りであるならば、男は妻を娶らない方がましです」と言いました。そこでイエズスは弟子たちにこう言われました、「皆にこの言葉が分かるとは限らない。ただそれを分かる恵みを受けた者だけに分かる。つまり母の胎から去勢者として生まれた人もあれば、他人の手で去勢した人もあって、また天の国の為に自ら去勢した人もある。これを理解できる者は理解せよ。」こう仰いました。

「清貧」については、主はこのように仰いました。これもマテオ(19章21節)からですけれども、主は、「もしも完全になりたいのならば、持ち物を売りに行って、貧しい人に施しをしなさい。そうすれば天に宝を積む」と仰いました。

そして「従順」については、同じ節の所で、「そして私に付いて来なさい」と仰いました。

ですからこの3つの勧告というものに対して、修道者の場合は「特別な」義務があると言いますけれども、それはなぜかといいますと、私たち全員、カトリックとしては、この3つの精神に従う義務があるからです。

例えば「清貧」について言いますと、私たち修道生活をしていない者は、清貧の誓願をするわけでは、誓いをするわけでありませんけれども、しかし、「物に執着するという事はしてはいけない」というのは同じです。

誤解して頂きたくないのは、召命という中には神秘は確かにあります。しかし神秘というのは、私たちの世の中で色んなものにあります。例えばロザリオを祈る時に、「第一の玄義」と言っていますけれども、その「玄義」というのは「神秘」の事です。「婚姻の秘跡」というのは、この修道生活と同じほど神秘的なものです。それでこの「秘跡」というのはなぜそう言うかと言いますと、昔のギリシャ語の元の言葉で“Μυστήριονミステリオン”と言いましたが、要するに「神秘である」というのが「秘跡」の元の言葉です。

ですからよく言いますのは、10代後半とか20代前半の方にアドバイスしますのは、「結婚したら生活が楽になる、とは思わないように」という事を言います。

もしも皆さんが結婚されていて、配偶者の方とか家族の方の霊魂の救いを考えている、あるいは神父・修道者としてたくさんの人の霊魂の救いを考えている、どちらのケースにおいてもやはり、十字架を担わなくてはいけません。両方とも、その修道生活も例えば結婚生活も、「天主様の御恵みを頂いて、成聖の御恵みを頂いて、自分の周りの者に与えていく」という事で全く同じ事です。

【召命の奨励や促進は、なぜ重要なのか】
ではちょっと次の話題に入りますけれども、ではこの「召命を奨励したり、促進したりする」というのはなぜ重要なのでしょうか?

非常にこれは簡単な答えがあります。世の中にいる人たちの為、その人たちの霊魂の救いの為に働くのは一体誰でしょうか?自分で犠牲をしない人の為に代わって犠牲をする人というのは一体誰でしょうか?ですから、イエズス様が創られた教会の組織というもの自体が、この修道生活にいる男性と女性に基づくものになるのです。

皆さん思い出して頂きたいのは、最初の聖霊降臨の時に、「何千人が洗礼を受けた」と書いてありますけれども、これはもちろん召命の為です。主は教会を作って、教会の使徒たちに、「行って、諸国の民に教えなさい」と命じられました。「諸国の民に教えて、聖父と聖子と聖霊との御名によって洗礼を授けなさい」というように命じられました。そして「諸国の民に行って教えなさい」と言っていたのは、例えば結婚している家族に、「全世界中に行きなさい」と言われた訳ではなくて、その教える役目を持った司祭であるとか、修道士であるとか、修道女に、「世界に行って教えなさい」と命じられたのです。ですから、「教会というものが機能する為に、召命というものが必要だ」というのは非常に明らかです。

しかしこの「召命が必要だ」というのに、もう1つ理由があります。

そのもう1つの理由というのは、「恩寵に満ちた生活」それから「寛大さ」というものを、「世の中に示す」という役割です。

修道生活をしている人というのは、世の中の人、それはカトリックもカトリックじゃない人も全部含めて、その方々に、「この世というのは、最後のここしかない場所ではない」という事を教える事になっています。「我々の完全な幸福というのは、この涙の谷にあるのではない」という事です。ですから主が私たちに、「完全になりなさい」と仰ったその事を証明しているのが、この宗教の服(修道服)を着て歩いている修道士だ、という事です。その他にもちろん、独身の方とか結婚されている方も同じように、この主の招きを示す事はできます。

もちろんこの普通の道を、神父とか修道士・修道女が、その宗教の服を着て歩いているという事は、彼らが世の中の、例えばファッションだとか流行だとかに囚われていない、という事をそれによって示しています。皆さん街を歩いている方は、「この何かジャガイモの袋のような黒い服を着て歩いている人は、一体何なのだろう?」と思われるかもしれませんけれども、同時に考えるのは、「何でこんな服を着ているんだろう?」という事を皆さん考えられます。「この黒い服を着ている人は、人がどう思っているか考えていないのだろうか?ファッションもどうでもいいのだろうか?何か馬鹿みたいに見えるけれども本当に良いのだろうか?」と思われるかもしれません。

アシジの聖フランシスコの有名な話があります。仲間の修道士に、「ちょっと街に行って御説教しなきゃいけないから」と言った話があります。それでこの修道士は聖フランシスコに付いて行ったのですけれども、街の中の道をずっと黙ったまま歩いて行って、街の中の道をずっと下向きに歩いて行ったら、修道院に帰って来てしまいました。それでこの修道士は聖フランシスコに向かって、「すいません、御説教をするのを忘れたんじゃないですか?」と言ったら、聖フランシスコは、「いや、御説教をしてきたのだ」と言いました。聖フランシスコが言ったのは、「街の中を歩いて行って、この宗教の服を着ていて、世の中の事に興味がないまま歩いて行った」と「これ自体がもう御説教になっている」と言いました。

ですから世の中の物に執着していなかったり、世の中の物に無関心である、というこの態度自体が、「この世の中が全て一番大事な事ではない」というメッセージを人々に与えています。

ですから、「召命というのは今、非常に大事な事である」という事をまず見ました。それで、「召命がそんなに大事な事であるのならば、それを増やす為にはどうしたら良いですか?」という質問が出てくると思います。

もし、聖ヨハネ・ボスコがある時言った事があるのですけれども、彼が言ったのは、彼が面倒を見ていた中で「男の子4人の内に1人は召命がある」と彼は言っていました。もしそうであるならば、私たちはもっと大きな問題があります、4人に1人が召命を受けているわけではありませんから。もしもこれがそうなのであれば、もし100人いるとしたら25人が修道生活に入っていないとおかしいという事になります。

例えばこの日本の事を考えて下さい。カトリックの人口というのは1%にも満ちていません。ところが、もしその過去日本の100年、1900年から2000年までの間に4人に1人が修道生活に入ったと思ってみて下さい。もしそういう事が起こっていたのであれば、この日本人の改宗の為にすごく進んだ事ができたという事です。しかし現実というのは、主日の朝に1時間神父様に会って、それであるいはシスターに会って終わり。これでは増えるわけがありません。ですから、召命というのを増やす、では実際的な方法をいくつかお話したいと思います。

聖トマス・アクィナスによると、「召命の為に非常に、一番重要なものがある」と言いました。トマス・アクィナスによると、「一番この大事なものというのは、『正しい意向であるか』」と言いました。

そして、これで彼が「意向」と言ったのは、「天主様の声にお応えする」という非常に善意を持ったその意向です。それは感情的なもの(まぁ感情が起こっても良いのですけれども)、感情的な答えではありません。それでもし正しい意向さえあれば、その他にこういうああいう性質がある、というのは、それは学んで獲得する事が可能です。そしてこの良い意向を持った人の若い男性女性であれば、自分の家族とか、持ち物とか、自分の自由意志だとか、弱みとか、全部そういうものを捨てて、修道生活の方に行く事ができます。

そこで例えば、サレジオの聖フランシスコというジュネーブの聖人が言った事があるのですけれども、このサレジオの聖フランシスコが言った事は、「真の召命というのは、『天主がお呼びになるやり方と、その場所で、天主にお仕えしたい』という固い意志である」という風に言いました。

【召命を育てるために何をすべきか】
それで具体的にどういう事をするかという事を提案したいのです。

【寛大さを育てる】
その提案というのは、「子供たちの中に、寛大さを育ててほしい」という事です。

例えば家族の中には、この本当の聖伝のミサに来るのに非常に苦労して犠牲を払って来てらっしゃる方がいらっしゃいます。また、子供たちを教育するのに経済的に苦しい方もいらっしゃいます。そういう時に例えばお父さんとお母さんがする事は、子供に対して、この「信仰を広めるというのが、いかに重要であるか」という事を子供に説明して下さい。ですから子供の時から、こういう苦労をしてミサに行っているとか、犠牲を払っているお父さんお母さんを見ると、子供の方も「あぁ、そうか」と、「こういう犠牲を払うというのは、私が子供の時からやっているのとほとんど同じなのだから、修道生活に入るのも同じだな」という風に考えが出てきます。

ですからここの危険というのは、子供が、「いや、結婚生活というのは簡単でしょう」と「修道生活というものは何か難しいものだ」と「じゃあ簡単の方の結婚生活に行きましょう」と思わないように、という事です。ですから子供に分かってもらわないといけないのは、「結婚生活というのも犠牲を色々払うのだけれども、修道生活も犠牲を払う」と「どっちもどっちだな」という事を分かってほしいという事です。

あと結婚生活と同じなのですけれども、修道生活というのも非常にチャレンジで難しい事があって、大きな責任が付いてくるものです。結婚生活でよく「困った事が起こってしまった」という問題を見てみますと、そのご主人か奥さんかどちらか分かりませんが、「自分の責任を取りたくない」という時に結婚が危機に陥ってしまいます。ですから結婚生活をするにせよ、修道生活をするにせよ、大事なのは、「子供に責任感を持たせる」という事です。

【子供に仕事を任せる】
ですから、子供に何かやる事を頼む時に、「家族全体の為にもなるし、本人の成長にもなる」という事で、何か仕事を頼んで下さい。ですから子供が家庭にいる時に、「いや、家族全体の為に私が犠牲を払わなきゃいけないんだ」という事をやっておりますと、大きくなってきますと、「いや、教会の為に、色んな人の為に犠牲を払わないといけない」という、「修道生活が同じものである」という事が分かります。

ですから、このように子供を育てる事ができれば、子供たちの、原罪からつい来てしまうこの自己中心主義というものを消す事ができます。ですから先ほど申しましたが、子供の時に、「家族全体の為には、こういう犠牲を払って、これをやるんだ」という事に慣れていますと、大きくなってきた時に、「いや、教会の皆さんの為にこれを、こういう犠牲を払うんだ」という事が繋がるようになります。

【敬虔な家庭】
あと次のアドバイスとしましては、家庭の中で、「敬虔であるか、世俗的であるか」という事です。例えば両親の方は非常に熱心の方で、「宗教的な義務がある」と一生懸命なさる方かもしれません。ですが世俗的な何かが来ると、非常に元気になって力が出てしまう、という方がいらっしゃる事でしょう。そういう時には、子供はスポンジのようによく両親の雰囲気を吸い取りますので、「宗教的な事はしなければいけないのだけれども、本当に楽しくてエキサイティングなのは、この世俗的な事だ」というように思ってしまいます。私たちの主は、「あなたの宝のあるところに、あなたの心があるんだ」という風に仰いました。

【規則正しい家庭生活】
あともう1つ別のアドバイスとしましては、「家庭生活の中で、ちゃんと規律を持って、スケジュールを持った生活」をして下さい。前にも皆さんにお話したかもしれませんが、私の父が非常に規律の正しい人だったので、非常に助かりました。父が私の部屋に来て、朝早く来て、「起きろ」と言われたら起きるしかありませんでした。もう7歳か8歳の頃ですけれども、もし起きなかったら父親に足を引っ張って、下の階に引きずり下ろされました。それでそういう事が何回かあったので、その後はすぐ起きるようになりました。ですから修道院でも神学校でも入りますと、365日非常に朝早い時間に起きなくてはなりません。それで他の若い青年たちにこれは大変な問題だったみたいですけれども、私には全然問題はありませんでした。ちゃんと早く寝て、ちゃんと早く起きるというのは、修道生活どこでも必要ですから、子供の時からやっている事に損はありません。

ルフェーブル大司教もこれを仰ったのですけれども、「現代の問題の一つというのは、人々がちゃんとした時間に寝て、ちゃんとした時間に起きていないという事である」と仰いました。ですから家庭でちゃんと、正しい時刻に従った生活をする、規則的な生活をする、というのが非常に良い事です。

【笑顔のある家庭、謙遜な家庭】
それからあともう1つアドバイスとしては、「家庭でよく笑う事」それから「謙遜である事」という事が非常に重要です。例えば何か失敗をした時に、自分が弱いところがあるのですけれども、それを笑って次に進める、というのは非常に大事な事です。恩寵が来る事の妨げになるという非常に大きな理由は、エゴイズムだとか、傲慢だとか、そういう事です。ですからお父さん、お母さん、子供の中でも、たとえばこんな馬鹿な事をしてしまった、こんな失敗をしてしまった、というのを皆で笑えるというのは、非常に良い事です。

【男は男らしく、女性は女性らしく】
もう1つアドバイスがありますけれども、それは非常に明らかなものだと思いますが、「男性的・女性的な性質を持っている」という事です。もし男らしい男でなければ、神父になったり修道士になったりする事はできません。修道女も、女らしい性質を持っていなければ修道女にはなれません。男性と女性に従って、その特徴的な性質というものがありますから、それを持っていないとうまくいきません。

【祈ること】
まずそれで結論としましては、まず第一は、「まずお祈りをしなくてはいけない」これは召命の為のお祈りをするというのは当然重要な事です。それでその目標というのは、ある人が結婚しようか結婚生活に入ろうか、いや修道士か修道女か神父になろうか、というのが、「どちらも、変わった事ではないようになるように」という事が目標です。

一つ、ただ一つ間違いないのは、天主様は毎日このような方を呼んでいらして、それで、「寛大な心を持った人、勇気を持った人、いらっしゃい」という風に呼んでいらっしゃるという事です。

【聖職の隠れた、世の人が知らない幸福】
最後に、聖ラウレンティウスが仰った言葉でまとめたいと思います。彼が言ったのは、「天主は、聖職の幸せを、わざとお隠しになられたのである。なぜなら、もしそれが知られるような事になると、世の中の全ての人がこの世を捨てて、聖職に飛び込んでしまうからである」と言います。

お祈り致します。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】