田中雄二の「映画の王様」

映画のことなら何でも書く

『ソイレント・グリーン』

2019-06-12 11:41:49 | 映画いろいろ
『ソイレント・グリーン』(73)(1978.4.21.ゴールデン洋画劇場)



 2022年、食糧不足に悩む人々は、プランクトンを原料とする固形食「ソイレント・グリーン」の配給で飢えをしのいでいた。そんな中、ソイレント社の取締役(ジョセフ・コットン)が殺害され、調査に当たった刑事(チャールトン・ヘストン)は、ソイレント・グリーンの秘密を知ってしまう。監督はリチャード・フライシャー。刑事の知り合いで安楽死する老人を演じたエドワード・G・ロビンソンの遺作となった。

 実は惑星は…だったという『猿の惑星』(67)、細菌戦争下、唯一健康体で生き残った男を演じた『地球最後の男オメガマン』(71)、そして固形食の原料が実は…というこの映画と、この時期のヘストン主演のSF映画は皮肉と絶望に満ちた異色作ばかりだ。しかも製作当時よりも、今の方が切羽詰まった問題として迫ってくるものがある。このあたり、ヘストンの映画選びには先見の明があったということか。


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『ゴジラVSモスラ』

2019-06-12 10:27:45 | 映画いろいろ
『ゴジラVSモスラ』(92)(1993.1.8.日劇東宝)



 パンフレットの大森一樹のコメントが、この映画の痛いところを全て言い当ててしまっている。彼が監督を引き受けなかったのもさもありなん。作り手の側が疑問を抱きながら作れば、それは受け手にも如実に伝わるのだ。

 何しろ、今の時代になぜゴジラが…という疑問に加えて、今回はモスラの登場である。そしてそろそろ新怪獣も出さなければ…ということでバトラなる珍モスラが生まれ、いつも科学者や記者が主人公では…という迷いが、インディ・ジョーンズの亜流のような主人公(別所哲也)を生んだのだろう。

 さらに、いくら大森一樹が脚本でアイデアを繰り出してみても、所詮、過去の関沢新一たちのものをなぞるようになるところに、復活ゴジラのデッドエンドが見えてしまうのである。恐らく前作の『VSキングギドラ』(91)で、大森対ゴジラの闘いは終わったのだろうし、早くも子供が絡んでくるようでは、昭和のゴジラシリーズの晩年が思い起こされる。

 変な話、一度監督を解任されながら、まるでそのことを忘れたかのように再び呼び戻されてしまったミスター長嶋の末路もこうなるのではないかと思った。

 つまり、ある時代とともに歩んだヒーローは、復活して一瞬の輝きを見せることは可能だが、それは幻に過ぎず、永続性はない。なぜマリリン・モンローやジェームズ・ディーンやジョン・レノンやエルビス・プレスリーがいまだに人気を保っているのかといえば、それは、彼らはすでに完結し、復活して醜態をさらすこともなく、美しいままだからなのだ。

 ところが、東宝は懲りずに『VSメカゴジラ』の製作を発表し、ハリウッド進出まで考えているという。ヒーローの幻影を求めてしまう悪い典型がここにある。作り物のゴジラですらそう感じさせるのだから、生身の寅さんはもっとつらいよ松竹さんって、それはまた別の話だが。

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『ゴジラVSキングギドラ』

2019-06-12 08:00:06 | 映画いろいろ
『ゴジラVSキングギドラ』(91)(1992.1.16.日劇東宝)



 前作『VSビオランテ』(89)を見た際に、大森一樹はゴジラとの闘いに敗れたと書いた。ところが、どっこい。今回は見事に開き直って、久々に見る側が満足できるようなゴジラ映画を作ってしまったのである。今のゴジラ映画を作るという難しい状況の中で、よくぞここまで作ったものだと思う。改めて敬意を表したい。

 もちろん、この映画に対する不満の声や不評もあるだろう。もはや万人が認めるゴジラ映画を作ることなど不可能なのだから。だが、最初の『ゴジラ』(54)が作られた時代と今とでは、ゴジラの存在自体が異質なものになるのは当然だし、その今という時代の中でいかにゴジラという素材を生かすのかが勝負なのであって、いつまでも「昔は…」と言っていては何も始まらないのである。

 その点、この映画は、その端々にかつてのゴジラ映画に対するオマージュ(土屋嘉男の存在、オリジナルをほうふつとさせるラストシーンなど)を捧げながら、ちゃんと“今の映画”として仕上がっている。

 恐らく大森監督は、ゴジラ映画を1本撮ってみて、所詮ゴジラ映画とは過去のリメークであること、あるいはさまざまな遊びができることに気づいた、というか開き直ったのだろう。それ故、あからさまに『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『ターミネーター』『エイリアン』などからアイデアを頂戴して日本流に消化し、その中にゴジラをぶち込んでみせたのである。

 例えば、かつての『三大怪獣地球最大の決戦』(64)のドラマ部分は『ローマの休日』(53)からの頂きだし、『怪獣大戦争』(65)はアメリカの宇宙映画の影響が大きい。そして、こうした東宝の明朗路線と怪獣という組み合わせは、一見ミスマッチに見えながら、当時のわれわれ子供たちにはとても楽しいものとして映った。つまり、この映画は、かつてのそうした映画の作り方を踏まえながら、それをもう少しシリアスに、今風に直して展開させたところが成功の要因なのだ。

【今の一言】『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』が最も影響を受けたのはこの映画だろうと思われる。
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『ゴジラVSビオランテ』

2019-06-12 05:57:38 | 映画いろいろ
『ゴジラVSビオランテ』(89)(1989.12.7.読売ホール)



 開口一番、何と言ったらいいのか…。5年ぶりのゴジラの復活は、ゴジラの映画を見ながら育った者としてはうれしい限り。監督もゴジラ世代の大森一樹に若返ったことだし、よりわれわれの願望に近い新しいゴジラが…という期待があったのだが、またしても肩透かしを食らった感じがした。

 何より5年前の『ゴジラ』(84)を見た際にも感じた、ゴジラの居場所のなさや存在感の薄さが増していたのである。例えば、現実のテクノロジーが「007」の新兵器を追い越してしまって面白さが半減したように、ゴジラが姿を現しても、周りの建物がゴジラより高くて大きいのでは、恐怖や緊張感は薄くなる。

 加えて、いろいろなしがらみがあったのだろうが、映画自体もオリジナル『ゴジラ』(54)に近いシリアス・ゴジラなのか、『キングコング対ゴジラ』(62)のようなエンターテインメント・ゴジラなのかがはっきりせず、中途半端な印象を受けた。

 おまけに、ゴジラの細胞から生まれたビオランテの存在感がゴジラ以上に薄い。もっとどぎつく『エイリアン』(79)『ザ・フライ』(86)のように行き着くところまでいってほしかった。しかも、ラストの昇天するビオランテに沢口靖子のアップをオーバーラップさせたものだから、場内大爆笑。

 試写の前にあいさつに立った大森一樹監督が「あまりたたき過ぎてほこりを出さないように…」と言っていたが、これではねえ…。という訳で、大森一樹もゴジラとの闘いに敗れたとなると、次は大林宣彦か、あるいは奇をてらって森田芳光か伊丹十三あたりに撮ってもらいますか。何しろゴジラは黒澤明と並んで、日本映画が海外に誇れる数少ないスターなのだから、もっと大事にしてやってくださいよ。とはいえ、こんな感じでは次回作はいつになることやら。ゴジラよ何処へ。

【今の一言】その後、某映画祭で大森監督と知己を得たが、ご本人にはこの映画の話はできなかった。
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