竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 二七二 今週のみそひと歌を振り返る その九二

2018年06月23日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二七二 今週のみそひと歌を振り返る その九二

 先週の後半から集歌2516の左注に「以前一百四十九首、柿本朝臣人麿之謌集出」と紹介される巻十一の柿本朝臣人麻呂歌集の歌群に突入しています。その続きとなるものです。

 今週に鑑賞しました歌は古くは略体歌、現在は詩体歌と原歌表記方法が区分されるものが多く含まれています。つまり、原歌が詩体歌と区分されるものですから歌の表記に「てにをは」となる助詞が含まれていませんから、歌の解釈は一義的には定まりません。歌の解釈は鑑賞者の鑑賞に従いますし、正解となる鑑賞も決めることが出来ません。そのため、鑑賞での訓じや読解の正解が求められる学校教育には、まったくもって不向きな歌と云うことになります。もし、人麻呂歌集の歌を教科書例題や入試問題などで扱っているとしますと、その採用者は万葉集と云う歌集の本質を理解していませんし、人麻呂歌集の歌の位置付けや鑑賞方法を知らない部外漢と云うことになります。
 参考として集歌2412の歌の訓じと解釈を弊ブログ、中西進氏、伊藤博氏の順に紹介しますと次のようになっています。

弊ブログの解釈
集歌2412 我妹 戀無乏 夢見 吾雖念 不所寐
試訓 我妹子し恋ひ羨(と)もなかり夢し見し吾(われ)し思へど寝(い)ねしそあらず
試訳 美しい私の貴女よ、恋することが物足りないと思うことはありません。夢に貴女の姿を見ようと思うのですが、貴女が居ないのでここは寝る場所ではありません。
注意 歌は詩体歌のため難訓です。ここでは漢文的な解釈をしてみました。

中西進氏の解釈(万葉集 全訳注原文付 講談社文庫)
訓読 吾妹子に恋ひてすべなみ夢(いめ)見むとわれは思へど寝(い)ねらえなくに
意訳 吾妹子に恋して何のすべもなく、せめて夢にでも見ようと私は思うのだが、寝られないことよ。

伊藤博氏の解釈(萬葉集 釋注 集英社文庫)
訓読 我妹子に恋ひすべながり夢(いめ)に見むと我れは思へど寐(ゐ)寝(ね)らえなくに
意訳 あの子が恋しくてたまらず、せめて夢にだけでも見たいと、私としたことが願いに願うのだが、少しも寝つかれない。

 伝統で歌の二句目「無乏」は「すべなし」と訓じ、末句「不所寐」は「ゐねらえなくに」と訓じます。原歌表記をそのままに訓じているのではありません。平安最末期以降の鎌倉貴族たちが好んだ訓じが伝統として現代に採用されているだけです。末句は漢文的には「寝る所にあらず」ですから、直接表記からすれば「思いが込めて寝られない」と云う解釈は表記からは得られないと云うことになります。ただし、原歌表記には「てにをは」となる助詞が含まれていませんから、自由に「てにをは」となる助詞を補って解釈することに問題はありません。しかしながら、その分、解釈は揺らぎ、幅を持つことになります。
 もう一つ、集歌2416の歌に遊んでみます。紹介は同じように弊ブログ、中西進氏、伊藤博氏の順です。

弊ブログの解釈
集歌2416 千早振 神持在 命 誰為 長欲為
訓読 ちはやぶる神し持たせる命をば誰がためにかも長く欲(ほ)りせむ
私訳 岩戸を開いて現われた神が授けた(貴女の)命を、誰のために(=貴女自身の為だけでなく、恋する私の為にも)もっと長く久しくあって欲しいと願います。
注意 詩体歌のため、解釈が難しい歌です。三句目「命」は「私の命」でしょうか、「恋人の命」でしょうか。それにより四句目「誰為」の解釈が二つに広がります。

中西進氏の解釈(万葉集 全訳注原文付 講談社文庫)
訓読 ちはやぶる神の持たせる命をば誰がためにかも長く欲りせむ
意訳 いち速ぶる神がお持ちのわが命を、誰のために長くありたいと願うことだろうか。

伊藤博氏の解釈(萬葉集 釋注 集英社文庫)
訓読 ちはやぶる神の持たせる命をば誰がためにかも長く欲りせむ
意訳 恐ろしい神様が支配なさっている命、このままならぬ命を、どこのどなたのために、長くなどと思いましょうか。

 訓じについては三者ともに同じですが、歌の解釈は同じではありません。三句目の「命」の解釈が弊ブログでは「恋する貴女」、中西進氏は「私」、伊藤博氏は直接には示しませんが解説からしますと「私」です。単純に解釈すると「私」の命として、「お前のために長生きしたい」との意味合いから、伊藤氏が解釈するように「女性への押しつけ、甘えのような気配」を鑑賞することになります。一方、「恋する貴女」ですと、「貴女の長寿を願いますが、それは恋する貴女をずっと恋していたいから」と云う貴女のためであり、私のためでもあると云う解釈になります。斯様に伝統での解釈が正しいのかと云うと物足りない感情があります。
 同様に集歌2420の歌を紹介しますが、末句「隔有鴨」の解釈が伝統のままで良いのか、どうか、ご判断を願います。

弊ブログの解釈
集歌2420 月見 國同 山隔 愛妹 隔有鴨
訓読 月し見し国し同じし山(やま)し隔(へ)し愛(いとし)し妹し隔(へ)なりたるかも
私訳 月を見た。見る月からすると確かに住む国は一緒ですが、でも、山が隔てている。その隔てがあるように愛しい貴女との仲に障害があるようです。

中西進氏の解釈(万葉集 全訳注原文付 講談社文庫)
訓読 月見れば国は同じそ山隔(へな)り愛(うつく)し妹は隔(へな)りたるかも
意訳 月を見ると、国は同じであることよ。だのに山が隔っていとしい妻は逢いがたく隔っている。

伊藤博氏の解釈(萬葉集 釋注 集英社文庫)
訓読 月見れば国は同じぞ山へなり愛し妹はへなりあるかも
意訳 月を見れば、一つ月の照らす同じ国だ。なのに、山が遮って、いとしいあの子はその向こうに隔てられてしまっている。

 解釈において、両想いの仲を前提とするか、片思いでの恋とするかで末句「隔有鴨」の解釈が変わります。弊ブログは柿本人麻呂歌集の歌は人麻呂とその恋人である「隠れ妻」のと相聞恋歌が大半と考えています。これ背景に集歌2420の歌は人麻呂が穴師に住み、安倍の里に住むまだ幼い「隠れ妻」の許に贈った歌と考えています。この時、山は三輪山辺りの山ですが、その山並みが二人の間を隔てているのではなく、肝心の相手の感情や周囲の社会的環境が周知公認の恋仲に成るのを隔てていると鑑賞しています。このような鑑賞の背景がありますので、訓じが同じでも解釈は大きく異なることになります。

 今回、紹介しましたように弊ブログのものは独善的ではありますが、示しましたように原歌表記は同じでも訓じや解釈は異なる可能性があります。ご来場のお方が、個々にそれぞれの歌をただ与えられた通りだけで鑑賞するのではなく、色々な可能性で鑑賞して頂けたら、もっと、楽しく万葉集で遊べるのではないかと考えます。

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