竹取翁と万葉集のお勉強

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言葉遊び その高度な万葉人の風流

2009年09月15日 | 万葉集 雑記
言葉遊び その高度な万葉人の風流


 今回は言葉遊びの歌を取り上げて見ました。その代表的な歌が天武天皇の御製の次の歌です。

天皇、幸于吉野宮時御製謌
訓読 天皇の吉野宮に御幸(みゆき)ましし時の御製の歌
集歌27 淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三
訓読 淑(よ)き人の良(よ)しとよく見て好(よ)しと言ひし吉野よく見よ良き人よくみ
私訳 私の淑き人が吉野は良い所と云うので良く見てみると、なるほど好い所だと私が言った、その吉野を優れた人たちよ よく見なさい。

 集歌27の歌は、「よ」の音に対して淑・良・吉・好・芳・与・四の七字を選字し、和語の音だけでなく、それぞれに意味を持たせています。そして、この歌が、詞書の通りに天武八年五月五日の吉野御幸の時に詠われたとしますと、端午の節会の時の歌になります。まず、この御製は随行者による天武天皇に代わっての代作でしょうから、「良人四来三」の意味合いに天皇から見て皇后に吉野の盟約に参加した六人の皇子を加えた七人の数字遊びが含まれています。そのために、「吉見」と重ねて表記しているのに、最後に「四来三」の表記です。ちなみに天皇と皇后及び六人の皇子とで吉野の盟約が行なわれたのは、この歌が詠われた翌日の天武八年五月六日ことです。
 そして、この歌の指す「淑人」は鵜野讃良皇后(持統天皇)ですから、持統天皇はなぜか、天武天皇が不思議に思うほどに古くから吉野の土地が好きだったことが判ります。壬申の乱の事件が、よほど皇后にとって厳しかったのかもしれませんし、現在の皇后の立場の出発点が吉野だったのでしょう。壬申の乱で負けると殺されるのは、女性ではその立場を鮮明に表した鵜野讃良皇后だけだったはずです。
 こうしてみますと、ただ単純な言葉遊びだけでなく、色々と想像を掻き立てるような歌でもあります。これを、原文を紹介せずに「訓読み短歌」や「ひらかな短歌」だけですと、本来の歌の面白さが理解できないでしょう。
 次に集歌236と集歌237の歌は、その歌の詞書から御製とその答歌となっています。これは「聴」、「朕」、「詔」、「奏」の用字によるものでしょうが、私は、これも御製ではなく宮中での伝承の歌と思っています。場合によっては、持統天皇がこの語調の良い言葉遊びの歌を口ずさまれたのかもしれません。

天皇志斐嫗御謌一首
標訓 天皇の志斐嫗に賜(たま)へる御歌一首
集歌236 不聴跡雖云 強流志斐能我 強語 比者不聞而 朕戀尓家里
訓読 聴かずと云へど強(し)ふる志斐(しひ)のが強(し)ひ語(かた)りこのころ聞かずて朕(われ)恋ひにけり
私訳 「聴きません」というのに強いて志斐が熱心に私に語るのを、この頃、それを聞かないと私は志斐が話をするのを恋しくなるようです。

志斐嫗奉和謌一首 嫗名未詳
標訓 志斐嫗の和(こた)へ奉(まつ)れる歌一首 嫗の名はいまだ詳ならず
集歌237 不聴雖謂 語礼々々常 詔許曽 志斐伊波奏 強語登言
訓読 聴かずと謂へど語(かた)れ語(かた)れと詔(の)らせこそ志斐(しひ)に云は奉(まを)すを強(し)ひ語(かたり)と言ふ
私訳 「聴きません」とおっしゃるが、貴方が物語を語れ語れと私に命じられるから、この志斐は物語を申し上げているのに、貴方はそれを「強いて物語を聞かす」とおっしゃる。

 当然、集歌236の歌は「不聴(きかず)」と「不聞(きかず)」、「強(しひ)」と「志斐(しひ)」の用字と音の面白さが重要です。それに対して、集歌237の歌は音の面白さではなくて、「志斐(しひ)」と「強(しひ)」の意味が重要です。無理に聴いてくださいと謂っているのではないのに、命じられていても志斐が謂うから「強(しひ)語りですか?」と答えるのが面白みです。また、「強(しひ)」の言葉には、「無理やり強いる」のような意味だけでなく、「切に熱心に」のような意味合いもあります。この意味の使い分けが一つの歌の中にあるのも面白みです。当然、「不聴(きかず)」と「不聞(きかず)」の立場の相違での用字の面白さも忘れてはいけません。
 建前ですと、この歌は持統天皇の時代の歌ですから人麻呂が活躍した時代の歌人たちの歌の実力とその遊び心に、びっくりしてしまいます。
 また、次の集歌276の歌は、「かも」の音の遊びに一・二・三の数字遊びが加わったものです。和語の「かも」を「我母」と「加母」の漢字表記で表していますが、最後に「鴨(かも)」ではなく、「鶴(つる)」を持って来ているのが遊びです。

集歌276 妹母我母 一有加母 三河有 二見自道 別不勝鶴
訓読 妹もかもひとりなるかも三河なる二見(ふたみ)の道ゆ別れかねつる
私訳 一夜妻も私と同じように一人なのだろうか、そう思うと、この三河の昨夜の宿の辺りを振り返って見る道から別れ去りかねている。

 歌での「別不勝鶴」は「別れかねつる」と読みますが、「別不勝鴨」として「別れかたずかも」と読んでも意味は通じますが、その予想に反して「鶴」なのです。やはり、鴨は鶴には勝てないようです。そして、それが高市連黒人の技巧であり、軽みの遊びです。
 なお、「妹母我母」を「妹も我(われ)も」と読むのが大勢で、漢語の「我」は和語では自分を示す「われ」ですが、万葉仮名では「が」の音ですので私は万葉仮名の音表記と扱っています。その方が、歌本来の二重、三重の言葉遊びの面白さが楽しめます。

参考例:大勢の訓読
集歌276 妹母我母 一有加母 三河有 二見自道 別不勝鶴
訓読 妹も我(われ)も一つなるかも三河なる二見(ふたみ)の道ゆ別れかねつる
意訳 妹も私も異体同心であるためか、三河の二見の道から別れかねている。

 同じように、人麻呂歌集にも言葉遊びの歌があります。それが、集歌1783の歌です。この歌は「このところ便りが無いですね」との催促の歌の返歌ですが、非常に凝った内容になっています。この歌で、その漢字表記の三・四・八の数字遊びと上・中の用字遊びだけでなく、歌本来の意味も二重になっています。

集歌1783 松反 四臂而有八羽 三栗 中上不来 麻呂等言八子
訓読 松反りしひてあれやは三栗の中上り来ぬ麻呂といふ奴
意訳 松の緑葉は生え返すが体が不自由になったのでしょうか。任期の途中の三年目の中上がりに都に上京して来ない麻呂という奴は。
貴方が便りを待っていた返事です。返事を強いたのですが、任期の途中の三年目の中の上京で、貴方はまだ私のところに来ません。麻呂が言う八年の関係の子より。

 次に紹介する集歌1014の歌は、天平九年正月に弾正尹門部王の家で行われた宴での歌で、日付での遊び心満点の歌です。歌は遊び心満点ですが、それだけでないところが万葉歌人の風流です。

集歌1014 前日毛 昨日毛今日毛 雖見 明日左倍見巻 欲寸君香聞
訓読 前日(をとつひ)も昨日(きのふ)も今日(けふ)も見つれども明日(あす)さへ見まく欲(ほ)しきかも
意訳 一昨日も昨日も今日も見ているのに、その上に明日までも見たいほどですよ。貴方の屋敷は立派ですよ。
右一首、橘宿祢文成 即少卿之子也
注訓 右の一首は、橘宿祢文成。即ち少卿の子なり。

 この歌の訓読みで「欲寸君香聞」は「欲(ほ)しき君かも」と読むのが大勢ですが、私は日付の言葉遊びを優先して字足らずですが、「欲(ほ)しきかも」と読んでいます。普段の読みの「欲(ほ)しき君かも」ですと、「君」は歌人である橘宿禰文成の父親の橘少卿佐為を示しますが、それですと改まった席での歌の感覚です。「欲(ほ)しき君かも」の意味合いを承知の上で、「欲寸君香聞」を「欲(ほ)しきかも」と読む方が、宴はくつろいだ感覚がします。歌はその意味合いを踏まえての日付の遊びではないでしょうか。また、門部王が自分の屋敷を謙遜した歌の答歌としても、「毎日、貴方の屋敷を見ていますが明日も見てみたいような屋敷ですね」との内容になるので、似つかわしいと思います。
 参考に集歌1014の歌の前後の歌を以下に示しますが、「欲寸君香聞」を「欲(ほ)しき君かも」と読むと三首の歌の意味が通じないようになります。連歌とすると「欲(ほ)しきかも」と読まなければいけませんが、古来、万葉集の時代には一つの言葉を二重に読むようなそんな高度な技法は無いことになっていますし、連歌はまだありません。そこで、専門家は、詞書からは連歌ですが、歌の解釈を個々に無関係にするのが伝統です。

参考 集歌1014の歌の前後の歌
九年丁丑春正月、橘少卿并諸大夫等集弾正尹門部王家宴謌二首
標訓 九年丁丑の春正月に、橘少卿と諸の大夫等との、弾正尹門部王の家に集ひて宴せる歌二首
集歌1013 豫 公来座武跡 知麻世婆 門尓屋戸尓毛 珠敷益乎
訓読 あらかじめ公(きみ)来(き)まさむと知らませば門(かど)に屋戸(やと)にも珠敷かましを
私訳 前もって貴方がおいでだと知っていたら、貴方のお迎えのために門にも屋敷にも珠を敷くように飾り立てましたが、そのようではありません。
右一首、主人門部王。 後賜姓大原真人氏也。
注訓 右の一首は、主人門部王。 後に姓大原真人の氏を賜はる。

榎井王後追和謌一首  志貴親王之子也
標訓 榎井王の後に追ひて和へたる歌一首  志貴親王の子なり
集歌1015 玉敷而 待益欲利者 多鷄蘇香仁 来有今夜四 樂所念
訓読 玉敷きて待たましよりはたけそかに来(きた)る今夜し楽しく念(おも)ほゆ
意訳 事前に連絡して来客の到来を珠を敷くように飾り立てて主人を待たさすような改まった宴よりは、連絡もなしにだしぬけに訪問する夜の方が楽しいと思われます。

 ここでは、言葉遊びの歌としてそれぞれの歌を解釈しています。そのため、今まで示した万葉集の読みは、普段の歌の訓読みやその解釈と相違していますし、特に集歌1014の歌の解釈は、まったく違ったものになっています。
 さらに、取り上げた歌の多くは天武天皇から持統天皇の時代の歌です。専門家が唱える和歌論や略体歌論からは、この時期は五・七・五・七・七の口調の短歌の創成の時期に当たります。ところが、その創成の時期に現代の和歌創作を凌ぐ、高度な言葉遊びの和歌の世界がすでに存在したことになってしまいます。特に、天武天皇の御製とされる集歌27の歌は五・七・五・七・七の口調の短歌ではなくて字余りの短歌ですから、後年の採歌・推敲・編纂の歌ではないと思われます。そこから、ほぼ、天武天皇時代からの伝承の歌と思います。
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