竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉集 竹取物語を考える 改訂版

2009年09月14日 | 万葉集 雑記
万葉集 竹取物語を考える 改訂版

 万葉集の巻十六に「竹取翁の歌」と称される読み人知れずの前置漢文の序、長歌、短歌二首、それに対する讃歌九首を持つ歌群があります。この歌群はその「竹取翁の歌」の名称から、物語「竹取物語」(別名「竹取の翁の物語」、「耀姫(かくやひめ)の物語」)と関係があるのではないかと推測されています。ここでは、その竹取物語の登場人物を万葉集を読み解く視線から探ります。
 最初に、ここで取り上げる竹取物語の原文を章末に掲げ、文章を規定します。ご存じのように日本の古典文学の書物と同様に、この竹取物語の原文もまた散逸し現在に伝わっていません。そのため、現在の竹取物語の研究では、研究者がその研究の都合に合わせて、好みで各種の伝本の中から選んだ伝本を使いますし、また、江戸期以降は万葉集と同じように誤字の修正や校本研究との名目で伝本の文章を改変をして良いことになっています。従いまして、竹取物語を鑑賞するとき、万葉集の原文と同様にどの伝本を底本にしたかが重要になります。ここでは現在の竹取物語の研究のルールに従い、私に都合の良い岩波文庫の竹取物語(阪倉篤義校訂)を底本とし、その阪倉篤義校訂本を注記に示す校訂作業の過程を下にその校訂文を本来の伝本の形に戻したものを使用します。それが章末に掲げる第一段と第二段の抜粋です。この底本文を鑑賞されて気付かれると思いますが、岩波文庫版竹取物語に示される登場人物の名称は、従来の竹取物語の中で普段に目にする登場人物の名称とは違います。

岩波文庫版          角川ソフィア版    ウィキペディア
さかきのみやつこ       讃岐の造       讃岐造
石つくりの御子        石作の皇子      石作皇子
くらもちのみこ        庫持の皇子      車持皇子
右大臣あべのみむらじ     右大臣阿倍御主人   右大臣阿倍御主人
大納言大伴(おほとも)のみゆき 大納言大伴御行    大納言大伴御行
中納言いそのかみのまろたり  中納言石上麻呂    中納言石上麻呂
みむろどいんべのあきた    御室戸斎部の秋田   御室戸斎部の秋田

 上の表で、岩波文庫版でのひらがな表記の人名を漢字表記で表しただけのように思われるでしょうが、万葉集の歌を原文から楽しまれている人々にとって、それは大きな違いがあることを感じられていると思います。当然、原文に近い伝本を鑑賞するのと、伝本を校訂・研究した成果本を改めて底本として鑑賞するのでは、その内容が全く違います。
 さて、現在に伝わる「ひらがなの竹取物語」は、最終章の十段で「ふじの山」の呼び名である「富士」の名の由来での洒落やその表現から、その言葉の洒落が成り立つ為には本来の竹取物語は漢文表記であっただろうと推定されています。研究では源氏物語に紀貫之の手で書写がされた本などの記述があります。平仮名の歴史での紀貫之の時代性から手本となった元本は、漢語と草仮名か、漢語と万葉仮名で書かれていたと推定されます。ここでは、その漢文表記の竹取物語の存在の可能性を踏まえて、万葉集から竹取物語を考えます。拙文「万葉集の誕生と竹取翁の歌」で紹介したように、万葉集の竹取翁の歌の竹取翁は歴史上の人物である左大臣丹比真人嶋とその孫の丹比真人国人がモデルです。竹取翁の歌の竹取翁のモデルが推定できるのであれば、同様に竹取物語の竹取翁もまた、歴史からそのモデルの推測が可能と考えます。この視線から竹取物語の成り立ちについて推理します。
 最初に、拙文「万葉集の誕生と竹取翁の歌」の要旨を紹介しますと、万葉集の竹取翁は竹取物語の竹取翁とは違い、山へ竹を取りには行きません。春に遠くの山々を眺めに行くだけです。つまり、竹取翁の歌での竹取翁は、竹を取る翁ではありません。帝から斑竹御杖を頂いた翁です。その斑竹御杖を拝領したことから竹取翁の歌での竹取翁とは日本書紀や続日本紀に載る記事から左大臣丹比真人嶋を示しますし、竹取翁の歌の竹取翁とは祖父である丹比嶋に仮託した丹比国人を示します。
 一方、竹取物語の竹取翁を見てみますと、この竹取翁はその名の通りに山で竹を取る翁です。ここで、竹取物語が創作されたと思われる奈良時代前中期では、帝から斑竹御杖を授与された人物は丹比真人嶋ただ一人です。このため、竹取物語の竹取翁は、名称の詐称にならないように、山に生業として竹を取りに行かなければいけないのです。その分、竹取物語では竹取翁の名前が示されています。それが「さかきのみやつこ」です。これを漢字表記しますと賢木(さかき)の造(みやつこ)となります。万葉集の竹取翁の歌での竹取翁は「斑竹御杖の翁」ですが、竹取物語での竹取翁は「賢木造の翁」です。これが奈良時代文学で現れる言葉の洒落の世界です。この言葉の洒落において万葉仮名で木は貴に通じますから、発音と表記との洒落で「賢貴造の翁」の意味も取ることが可能です。
 竹取物語は「恥を捨てる、魂離(たまさ)かる、あへなし、あなたがへ、かひなし、富士」等と物語の進行の中で言葉の洒落の世界をも展開しています。その言葉の洒落の世界を登場人名に展開すると「さかきのみやつこ」を「賢木造」と洒落ることが出来る様に、その他の人物も言葉の洒落で遊ぶことが出来ると考えます。

 この言葉の洒落の世界を遊びます。
 最初に、皇太子は大和歌の世界では「高(たか)耀(き)らす日の皇子」と称します。聖武天皇の御子の阿倍内親王は女性の皇太子ですので「高(たか)耀(き)らす日の皇女(ひめみこ)」です。ここから「耀(かくや)く姫の皇子」と表現することも可能です。つまり、耀姫(かくやひめ)の皇子です。物語で、かぐや姫が竹取翁を召し使う立場にあり、天皇に対しても絶対服従の姿ではないのは、この仮託された皇太子と云う人物背景があるからです。単なる美しい女性の美貌の特権に由来するのではありません。奈良・平安時代の女性皇太子の実績を考えると、かぐや姫とは阿倍内親王をモデルにしたものと考えることが出来ます。
 次に、忌部氏の朝廷における祖神からの本業は宮中の御室戸(みむろと)の開閉の管理と太占(ふとまに)による吉凶占いやそれによる命名です。つまり、忌部氏の本業である開閉と太占から漢字一字ずつを取ると、その言葉の洒落から開太(あきた)になります。そして、その忌部氏の職務から竹取翁が「アキタ」を呼び付けて、吉凶占いからの「カクヤ姫」の命名を命じるのは自然な姿です。こうした時、阿倍内親王が知っている宮中での忌部の人としては、斎宮頭の忌部宿祢人成が該当します。
 橘諸兄は、阿倍内親王にとって母方同族の叔父の立場です。また、七十歳を越えた老人には国から杖を贈り長寿を祝う中国の風習があり、左大臣の橘諸兄は斑竹御杖を授けられてはいませんが、その高齢と左大臣で現役を引退した丹比真人嶋に擬えての「竹取翁」です。さらに、阿倍内親王の母方の叔父の立場で賢き阿倍内親王を育てられたところから、「賢(かしこ)きを造る」人物です。この橘諸兄は、古代の風習では血縁上、阿倍内親王の着裳の腰結役になる立場(成女の疑似の親)でもあります。そして、漢字で表記では「賢貴造」です。つまり、これをもう一度、和語で読み返すと「賢木(さかき)の造(くにつこ)」となります。ただし、橘朝臣諸兄は丹比真人嶋に擬えての竹取翁ですから、その分、左大臣丹比真人嶋との混同が起きないように、山へ「なよ竹」を取りに行かなければなりません。そうした時、奈良時代の教養人にとって人麻呂歌集は忘れてはいけない和歌のバイブルです。そのバイブルに女性の形容に「なよたけ」と付くと忘れてはいけない歌があります。それが吉備津采女の歌です。この人麻呂が詠う悲恋の吉備津采女は「なよ竹の とをよる子」と表現される伝説の美人です。「カクヤ姫」が阿倍内親王を示すのなら、当然、なよ竹の言葉から吉備津采女を思い、その吉備の言葉から阿倍内親王の東宮学士である吉備真備を思い浮かべなければいけません。
 竹取物語は、このような言葉の洒落の世界で構成されています。「恥を捨てる、魂離(たまさ)かる、あへなし、あなたがへ、かひなし、富士」の洒落は宮中の女性用に解説の付いた直接的な表現ですが、万葉集や故事を知る大人にはもう少し教養ある洒落を用意してあるのも、竹取物語の洒落の世界です。優れた万葉集の歌が音読みの歌の顔と漢字表示での顔と二つの意味合いでの顔を持つ、そんな言葉遊びの洒落の世界に生まれたのが竹取物語です。なお、竹取物語の背景となった高貴な阿倍内親王がいらっしゃるのは内裏の内南安殿の籠(こ)です。籠(こ)は、宝物を大切に保管する塗籠(ぬりこも)をも指します。間違えても籠(かご)ではありません。竹取物語の時代設定を文武天皇から元正天皇の時代と考えますから、ふざけた解説が示すように籠(こ)を籠(かご)と読み替えて、耀姫を「遊女の如くの籠の鳥」として扱ってはいけません。

 次に、「石つくりのみこ」、「くらもちのみこ」、「右大臣あべのみむらじ」、「大納言大伴(おほとも)のみゆき」、「中納言いそのかみのまろたり」の五人の求婚者の素性を紹介します。
万葉集の世界では、ただ「右大臣」と云った場合は橘諸兄を示しますし、「みむらじ」は「御連」と漢字で表記します。つまり、「右大臣で阿倍内親王の御連枝」です。また、大納言の身分で御幸に随行して歌を詠ったのは大伴旅人だけです。そして、中納言は石上乙麿を意味します。なお、親戚・親子関係の石上宅嗣は大納言、石上麿は左大臣です。此処までは、万葉集の世界からは必然です。
 問題は「石つくりのみこ」と「くらもちのみこ」です。このお二人の名もまた、竹取物語を奉呈された阿倍内親王が読んで、その洒落で笑えなければ首尾一貫しません。
 さて、その十市郡の山寺に行かれた「石つくりのみこ」ですが、その十市郡の山寺と云う設定から阿倍寺を思い浮かべる必要があります。つまり、その行き先から阿閇内親王や阿倍内親王に関係する皇子であることを暗示させています。ここで、「石つくり」の言葉に注目すると、天皇家の伝承となる大和神話で石凝姥神が作ったのは天照大御神の御姿を型取った日像(ひのみかた)の鏡です。ここから「日像」の言葉を洒落ると「日の御方」となり「日の御方の皇子」を意味し日並皇子尊となります。つまり、阿閇内親王の良人であり、阿倍内親王の祖父となる草壁皇子を示します。ただ、高輝らす日の皇子である草壁皇子は即位の前に亡くなられていますから、天照らす日の皇子が行うように、その「石つくりのみこ」が十市郡の山寺からもたらした佛の石の鉢が輝くことはありませんでした。そこには、竹取物語の歌に詠われるように、阿倍内親王が天照らす日の皇子として孝謙天皇になられたことによる天下を輝かせる地位の差があります。
 次に、「くらもちのみこ」は竹取物語の第四段の話とその名前から、筑紫にゆかりがあり、鞍にもゆかりがある皇子です。ここで、日本書紀の壬申の乱の記事によると、天武天皇は筑紫の宗像君徳善の娘の尼子を母とする高市皇子に対し「因賜鞍馬、悉授軍事」と鞍付きの馬を授けて、壬申の乱での軍事権限の委譲のシンボルにしています。また、伊勢皇大神宮外宮の月読神社は高市皇子を祭っていて、その伊勢月読神社の祭神は、馬上の鞍に乗った武人です。つまり、竹取物語の「くらもちのみこ=鞍持ちの皇子」とは高市皇子を示します。この高市皇子は太政大臣として大王となった皇子です。この背景があるため、「カクヤ姫」が、唯一、その物語で「くらもちのみこ」にほぼ負けそうになるほど追い込まれたのです。
 このように竹取物語に登場してくる人物が、阿倍内親王、橘諸兄、忌部宿祢人成、草壁皇子、高市皇子、大伴旅人や石上乙麿であるならば、原竹取物語は阿倍内親王に奉呈するものと推測が可能です。この竹取物語の内容から、原作の竹取物語とは「橘諸兄が二十一歳で一生男性と恋をすることが出来なくなった阿倍内親王に贈ったお詫びの歌物語」と推定します。物語では、耀姫は阿倍内親王と同じように、どんなに求婚されても、また、心を通い合わせる男性が現れても、時が来ると定めで天に昇り「天の皇子」にならなければいけません。この女性皇太子の立場を背景とした原作の竹取物語は、橘諸兄から依頼された丹比朝臣国人の渾身の歌物語です。そして、原竹取物語の成立時期は天平勝宝年間初期と考えます。


参考資料 岩波文庫の竹取物語(阪倉篤義校訂)より転記し、校訂したもの

いまはむかし竹とりのおきなといふもの有けり 野山にまじりてたけをとりつゝよろづの事につかひけり 名をばさかきのみやつことなむいひける その竹の中にもとひかる竹なむひとすぢありけるあやしがりてよりて見るにつゝの中ひかりたり それをみれば三ずんばかりなる人いとうつくしうてゐたり おきないふやう我あさごとゆふごとにみるたけの中におはするにてしりぬ 子となり給べき人なめりとて手にうちいれていへへもちてきぬ めの女にあづけてやしなはす うつくしき事かぎりなし いとをさなければこにいれてやしなふ
 竹とりのおきな竹をとるにこの子をみつけてのちに竹とるにふしをへだてゝよごとにこがねある竹を見つくる事かさなりぬ かくておきなやうやうゝゝゆたかになり行
 このちごやしなふ程にすくゝゝとおほきになりまさる みつきばかりになるほどによきほどなる人に成ぬればかみあげげなどさうしてかみあげさせもきす ちゃうのうちよりもいださずいつきやしなふ このちごのかたちけうらなる事世になくやのうちはくらき所なくひかりみちたり 翁こゝちあしくくるしき時もこの子をみればくるしき事もやみぬはらだたしきこともなぐさみけり おきな竹をとる事久しくなりぬ いきほひもうのものに成にけり このこいとおほきに成ぬれば名をみむろどいんべのあきたをよびてつけさす あきたなよ竹のかぐや姫とつけつ この程三日うちあげあそぶ よろづのあそびをぞしける をとこはうけきらはずよびつどへていとかしこくあそぶ


せかいのをのこあてなるもいやしきもいかでこのかくや姫をえてしがな見てしがなとをとにききめでゝまとふ そのあたりのかきにも家のとにもをる人だにたはやすくみるまじき物を夜るはやすきいもねずやみのよに出てあなをくじりかいばみまとひあへり さる時よりなむよばひとはいいける
 人のおともせぬ所にまどひありけどもなにのしるしあるべくもみえず 家の人どもに物をだにいはんとていひかゝれどもことゝもせず あたりをはなれぬ君だち夜をあかし日をくらすおほかり おろかなる人はようなきありきはよしなかりけりとてこず成にけり
 其中になほいひけるは色ごのみといはるゝかぎり五人おもひやむ時(とき)なくよるひるきけるその名ども石つくりの御子くらもちのみこ右大臣あべのみむらじ大納言大伴(おほとも)のみゆき中納言いそのかみのまろたり此人々なりけり 世中におほかる人をだにすこしもかたちよしとききては見まほしうする人どもなりければかくや姫をみまほしうて物もくはずおもひつゝかの家にゆきてたゝずみありきけれどかひあるべくもあらず 文をかきてやれど返事せず わび歌などかきておこすれどもかひなしと思へど霜月(しもつき)しはすのふりこほりみな月のてりはたたくにもさはらずきたり この人々ある時は竹取をよび出てむすめを吾(われ)にたべとふしおがみ手をすりのたまへどおのがなさぬ子なれば心にもしたがはずなんあるといひて月日すぐす かゝればこの人々家にかへりて物をおもひいのりをしぐはんをたつ 思やむべくもあらず さりともつひにをとこあはせざらむやはとおもひてたのみをかけたり あながちに心ざし見えありく
 これをみつけておきなかくや姫にいふやう我子のほとけ變化(へんげ)の人と申ながらこゝらおほきさまでやしなひたてまつるこころざしおろかならず おきなの申さん事はきき給ひてむやといへばかくや姫なにごとをかのたまはん事はうけたまはらざらむ 變化の物にて侍けん身ともしらずおやとこそ思たてまつれといふ 翁うれしくものたまふ物かなといふ おこなとし七十にあまりぬ けふともあすともしらず この世の人はをとこは女にあふことをすをんなは男にあふ事をす そののちなむ門ひろくもなり侍る いかでかさることなくてはおはせん かくや姫のいはくなんでふさることかし侍らんといへばへんげの人といふとも女の身もち給へり 翁のあらむかぎりはかうてもいますかりなむかし この人々のとし月をへてかうのみいましつゝのたまふことをおもひさだめてひとりひとりにあひたてまつり給ねといへばかくや姫のいはくよくもあらぬかたちをふかき心もしらであだ心つきなば、のちくやしき事もあるべきをとおもふばかり也 世のかしこき人なりともふかき心ざしをしらではあひがたしと思といふ 翁いはくおもひのごとくものたまふ物かな そもそもいかやうなる心ざしあらん人にかあはむとおぼす かばかり心ざしおろかならぬ人々にこそあめれ かくや姫のいはくなにばかりのふかきをかみんといはむ いさゝかの事也 人の心ざしひとしかん也 いかでか中におとりまさりはしらむ 五人の中にゆかしき物をみせたまへらんに御心ざしまさりたりとてつかうまつらんとそのおはすらん人々に申給へといふ よき事なりとうけつ
 日くるゝほどれいのあつまりぬ あるいは笛をふきあるいは歌をうたひあるいはしやうがをしあるいはうそぶき扇をならしなどするに翁出ていはくかたじけなくきたなげなる所にとし月をへて物し給事きはまりたるかしこまりと申す 翁の命けふあすともしらぬをかくのたまふ君だちにもよくおもひさだめてつかうまつれと申もことわり也 いづれもおとりまさりおはしまさねば御心ざしの程はみゆべし つかうまつらん事はそれになむさだむべきといへば これよき事也 人の御うらみもあるまじといふ 五人の人々もよきことなりといへば翁いりていふ かくやひめいしつくりのみこには佛の御いしのはちといふ物あり それをとりてたまへといふ くらもちのみこには東の海にほうらいといふ山あるなり それにしろがねをねとしこがねをくきとししろき玉をみとしてたてる木あり それ一枝をりて給はらんといふ 今ひとりにはもろこしにある火ねずみのかはぎぬを給へ 大伴の大納言にはたつのくびに五色にひる玉ありそれをとりて給へ いそのかみの中納言にはつばくろめのもたるこやすのかひひとつとりてたまへといふ 翁かたき事どもにこそあなれ この國にある物にもあらず かくかたき事をばいかに申さむといふ かくや姫何かかたからんといへば翁とまれかくまれ申さむとて出てかくなむ きこゆるやうに見せ給へといへば御こたち上達部(かんたちべ)ききておいらかにあたりよりだになあるきそとやはのたまはぬといひてうんじてみなかへりぬ
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