先程参拝してまいりました城山八幡宮。
「こうよう」は、通常「紅葉」の字を当てますが、
どちらかと言えば「黄葉」の趣でありました。
精神科医・神田橋條治先生は、
「精神療法面接のコツ」第四章【学習と文化】の中で、
人間は、
“ ヒト ”という動物種を生きる生体としての存在と、
“ 人 ”というコトバ文化を生きる者としての存在と、
二つの在り方を内在させている、と説かれています。
一人の人間の内的世界は、
“ ヒト ”である以上「~したい」という生体からの欲求と、
“ 人 ”であるならば「~すべき」というコトバ文化からの制約、
これら二つによる矛盾や葛藤を孕んだ世界ということであります。
この“ ヒト ”と“ 人 ”という二つの在り方が、
時に和し、時に争い、混淆交雑の状態にあるという感覚は、
日常生活の中で常に実感することでもあろうかと思います。
「学校や職場に行きたくない」というのは、
「心身を休めたい」という生体からの欲求であるものの、
「学校や職場には行くべき」というコトバ文化からの求めに従い、
生体からの欲求を押し殺し、疲労した心身を引きずりながら、
学校や職場に通い続けた場合、当然のことながら、
生体を生きる“ ヒト ”と、コトバ文化を生きる“ 人 ”との間に、
乖離が生じます。乖離とは、つまり「無理」のこと。
神田橋先生は、この「無理」の蓄積が諸病の原因である、とされ、
精神疾患は、発症した当人の内界で“ ヒト ”と“ 人 ”とが、
一種の柵によって分断されていることに起因し、
『精神療法とは、
文化の中で生きていくために生じた生体内の柵、
を少しばかり緩め、
二つの領域の間に水の行き来が可能なようにすることだ』
(神田橋條治「精神療法面接のコツ」岩崎学術出版社 /
以下『』内は、全て同書より引用)
として、
“ ヒト ”と“ 人 ”という二つの領域に限らず、
一人の人間が、過去に学習して身につけたこと、
新しく学習して身につけること等々、全ての領域の間を、
水が自由自在に行き来するような状態が、
『健康の理想形であるから、その姿は、
混沌に酷似しているはずである。
精神療法の治癒像の理想形は、混沌である。』
と示されます。
私は門外漢ではありますが、
人間の精神・心理・意識の在りよう、及び、それらの構造・作用は、
音楽及び音楽の構造・作用と同義・同体と、個人的に心得ます。
それゆえに私は、神田橋先生の御著書の数々を、
音楽理論書、或いは作曲技法書として読むのですが、
すると、
音楽は、分断あるところに交流をもたらすもの、
音楽は、音による自分自身との対話、他者との対話、
音楽は、秩序でありながら混沌を旨とする・・・等々、
敷衍・曲解も甚だしい、とのお叱りを受けるかも知れませんが、
つい忘れかける“ 音楽への初心 ”とでも言うようなものを、
読む度に想い起こすものであります。
『治癒像の理想形は、混沌である』
今年、長い期間に亘って濁りに覆われていた〈気ノ池〉も、
いつしか水質が改善され、周囲の樹林を映すまでになりました。
コロナ禍に翻弄された令和2年でありましたが、
時が巡り、いつしか不安の濁り、恐れの暗雲も消え去り、
現況を懐かしい想いで振り返る日が訪れることを信じます。
この一年、当ブログへ御訪問頂きましたこと、
心より感謝を申し上げます。
皆様、どうぞ良いお年をお迎えください!
それでも世界は希望の糸を紡ぐ
「こうよう」は、通常「紅葉」の字を当てますが、
どちらかと言えば「黄葉」の趣でありました。
精神科医・神田橋條治先生は、
「精神療法面接のコツ」第四章【学習と文化】の中で、
人間は、
“ ヒト ”という動物種を生きる生体としての存在と、
“ 人 ”というコトバ文化を生きる者としての存在と、
二つの在り方を内在させている、と説かれています。
一人の人間の内的世界は、
“ ヒト ”である以上「~したい」という生体からの欲求と、
“ 人 ”であるならば「~すべき」というコトバ文化からの制約、
これら二つによる矛盾や葛藤を孕んだ世界ということであります。
この“ ヒト ”と“ 人 ”という二つの在り方が、
時に和し、時に争い、混淆交雑の状態にあるという感覚は、
日常生活の中で常に実感することでもあろうかと思います。
「学校や職場に行きたくない」というのは、
「心身を休めたい」という生体からの欲求であるものの、
「学校や職場には行くべき」というコトバ文化からの求めに従い、
生体からの欲求を押し殺し、疲労した心身を引きずりながら、
学校や職場に通い続けた場合、当然のことながら、
生体を生きる“ ヒト ”と、コトバ文化を生きる“ 人 ”との間に、
乖離が生じます。乖離とは、つまり「無理」のこと。
神田橋先生は、この「無理」の蓄積が諸病の原因である、とされ、
精神疾患は、発症した当人の内界で“ ヒト ”と“ 人 ”とが、
一種の柵によって分断されていることに起因し、
『精神療法とは、
文化の中で生きていくために生じた生体内の柵、
を少しばかり緩め、
二つの領域の間に水の行き来が可能なようにすることだ』
(神田橋條治「精神療法面接のコツ」岩崎学術出版社 /
以下『』内は、全て同書より引用)
として、
“ ヒト ”と“ 人 ”という二つの領域に限らず、
一人の人間が、過去に学習して身につけたこと、
新しく学習して身につけること等々、全ての領域の間を、
水が自由自在に行き来するような状態が、
『健康の理想形であるから、その姿は、
混沌に酷似しているはずである。
精神療法の治癒像の理想形は、混沌である。』
と示されます。
私は門外漢ではありますが、
人間の精神・心理・意識の在りよう、及び、それらの構造・作用は、
音楽及び音楽の構造・作用と同義・同体と、個人的に心得ます。
それゆえに私は、神田橋先生の御著書の数々を、
音楽理論書、或いは作曲技法書として読むのですが、
すると、
音楽は、分断あるところに交流をもたらすもの、
音楽は、音による自分自身との対話、他者との対話、
音楽は、秩序でありながら混沌を旨とする・・・等々、
敷衍・曲解も甚だしい、とのお叱りを受けるかも知れませんが、
つい忘れかける“ 音楽への初心 ”とでも言うようなものを、
読む度に想い起こすものであります。
『治癒像の理想形は、混沌である』
今年、長い期間に亘って濁りに覆われていた〈気ノ池〉も、
いつしか水質が改善され、周囲の樹林を映すまでになりました。
コロナ禍に翻弄された令和2年でありましたが、
時が巡り、いつしか不安の濁り、恐れの暗雲も消え去り、
現況を懐かしい想いで振り返る日が訪れることを信じます。
この一年、当ブログへ御訪問頂きましたこと、
心より感謝を申し上げます。
皆様、どうぞ良いお年をお迎えください!
それでも世界は希望の糸を紡ぐ