~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

ところ変われば・・・

2023-08-27 14:16:35 | 雑感
父祖の地、伊勢・鳥羽を訪れてまいりました。

先ずは外宮を参拝します。

東海に転居して良かったことの一つは、
伊勢へのアクセスが便利であるということ。

上掲写真は、外宮・北御門口鳥居ですが、
この鳥居近くの参道脇に御厩(おうまや)があります。

御存知の通り、往古には神々への報恩感謝の証として、
本物の生きた馬を奉納する習わしがあったものの、
奉納する側も奉納される側も色々と負担が大きいため、
時代が下るにつれ、馬を描いた絵画を納めるようになり、
「絵馬」の起源となりました。

つまり現代に在って、生きた馬が奉納され、
“ 神馬(しんめ)” として飼育されている神宮神社というのは、
極めて少ないということであります。

この日は、
その “ 神馬 ” を拝見することできました。

馬名は「笑智(えみとも)」号。
「笑」は人類の叡「智」ということでありましょうか。
人は、とかく「勝利」を求める生き物でありますが、
「勝利」は、ひととき小我を満たす幻に過ぎず、
「笑利」は、永く自他ともに分かち合える福徳。

                 

さて、
伊勢の街を歩いていて、ふと思い出した古謡があります。

「物の名も、所によりて変わるなり、
 難波の葦は、伊勢の浜荻」

言い回しの異なるパターンが幾つか有るようですが、
おおよそ上記のような歌。
南北朝時代(1337~1392)に編纂された連歌集、
「菟玖波集(つくばしゅう)」に載せられた歌とも、
詠み人知らずの俗謡とも伝わります。

大意としては、

「同じ物や習俗であっても、場所が変われば呼び方も変わる。
 難波では “ 葦(あし)” と名付けられている植物が、
 伊勢では “ 浜荻(はまおぎ)” と呼ばれているように。」

確かに、
同じ文物でも土地土地によって呼称が異なるわけですが、
面白いのは、文物に限らず、
同じ事象や現象であっても、場所や地域によって、

「受け止め方」

が大きく変わるというケース。

例えば火山噴火に纏わる現象。
火山が噴火した際、地底のマグマが噴出し空高く舞い上がり、
上空で冷却され “ 髪の毛 ” 状の細長い物体となって地上に降下する、
そのような自然現象があります。

なんでもハワイ諸島の民間伝承では、
この “ 髪の毛 ” 状落下物は、

「女神 “ ペレ ” の毛髪」とか「エンジェル・ヘアー」、

などと呼ばれ、
大変にめでたく喜ばしい吉兆のサインとされているのだとか。

トコロ変わって我が邦・日本の江戸時代、東北地方某所、
おそらくは火山噴火があったのでしょう。
“ 髪の毛 ” 状落下物が確認されたものの、なにせ往時のこと、
コレが「姑による虐待」に堪えられず自ら死を選んだ、
お嫁さんの怨みが籠った “ 髪の毛 ” であるとされ、
件の姑はもとより地域住民の方々は、

「嫁のタタリ」とか「呪いの髪の毛」、

と大いに恐れおののいたというのであります。

地球物理学、地球化学、地質学、
そして火山学等々が発展した現在であればこそ、
“ 髪の毛 ” 状落下物は「火山活動に伴う産物」であり、
ある意味 “ 只それだけの事象 ” と知ることが出来ます。
しかしながら、
未だ科学による解明が進んでいなかった時代には、
“ 只それだけの事象 ” が、
一方で「女神の毛髪・エンジェル・ヘアー」という物語を生み、
一方で「嫁のタタリ・呪いの髪の毛」という怪談を生む。

この辺りが、物理現象と人間意識との交わりが生む世界、
その “ 不思議さ ” でありますが、
実際のところ、如何に科学が発展を遂げようとも、
この “ 不思議さ ” は無くなるものではありません。

物理宇宙と意識宇宙が抱える “ 不思議さ ” というものに、
真摯かつ圧倒的博覧強記で向き合ったのが、
南方熊楠(1867~1941)であることは周知のところ。

熊楠先生は、

『ここに一言す。不思議ということあり。
 事不思議あり。物不思議あり。心不思議あり。
 理不思議あり。大日如来の大不思議あり。(後略)』
(土宜法竜師(1854~1922)への書簡)

と語り、
「心不思議」と「物不思議」とが交わるところでは、
存在それぞれの在り方・生態・動態・立場・環境等々により、
無数の「事不思議」が生成と消滅を繰り返すとして、
そこのところを、
時に植物学、時に比較民俗学の手法を用いつつ、
意識と世界とが織り成す多次元性に挑まれたのでした。

思えば仏教では “ 水の流れ ” という自然現象も、
私たち人間には「河川」と映り、
天界の住人には「宝石の鉱床」と捉えられ、
魚には「自己の住み家」に他ならず、
餓鬼には「燃え盛る血膿」に見える、
いわゆる『一水四見(いっすいしけん)』が説かれます。

次元の異なる4つの世界が重なっているということですが、
“ 水の流れ ” を認識する側の視点から、
“ 水の流れ ” という認識される側からの視点へと、
立場を変えてみますと、『一水四見』は、

『一見四水』

に他ならないとも申せましょう。

う〜ん・・・いけません。
外国語を出来の悪い翻訳ソフトにかけたような、
意味不明な文章になってまいりました。
自分でも何を書いているのか分からなくなってきましたので、
稿を改めます。

                 

帰路、電車の発車時刻まで少し時間がありましたので、
鳥羽駅の東北側出口へと足を運びますと、
そこはもう鳥羽湾・佐田浜(さだはま)の海が広がっています。

“ 鳥羽マリン・ターナミナル ” と称される通り、
ここは各種の遊覧船や観光船が出入りする港。


おやっ?・・・

目を惹く遊覧船が繋留されています。


“ 龍宮城 ” と掲額されていて、

船首には亀に乗った浦島太郎、後部上方には乙姫さま・・と、

そうなのであります。
全国には “ 龍宮 ” 伝説が有りますが、
ここ志摩半島にも “ 龍宮 ” 伝説が残されていて、

志摩市に所在する伊雑宮(いざわのみや)、或いは、
鳥羽市に所在する伊射波神社(いざわじんじゃ)には、
海女さんが龍宮から持ち帰った “ 玉手箱 ” が納められている、
というのであります。

通常 “ 玉手箱 ” と聞きますと、
何となく有り難いもの、貰えたら嬉しいモノと思いますが、
上記、海女さんが龍宮から持ち帰った “ 玉手箱 ” なるもの、
これが実は「取り扱い要注意」の厄介な代物なのだそうです。

ひとくちに “ 玉手箱 ” と言えども、
各地各所によって随分と異なるもの。

「物の名も、所によりて変わるなり、
 難波の葦は、伊勢の浜荻」

古謡が詠っているのは、

「同じ物や習俗であっても、場所が変われば呼び方も変わる。」

という程のことなのかも知れませんが、
どうもその奥底には、
唯識および唯識哲学の世界が息を潜めているように思われます。


“ Dragon calls fortunate clouds ” ~ 天龍、瑞雲を呼ぶ

皆様、良き日々でありますように!


               










湯島 & 巣鴨

2023-08-20 14:32:55 | 神社仏閣
2017年から5年に亘り勤務しました職場には、
国家資格取得を目指す学生諸氏が通っておられました。
受験シーズンが近づいてまいりますと、
試験当日の体調・天候・交通機関の運行状況への懸念、
試験本番で実力が発揮出来るかどうか等々の不安が募ってくるもの。
そこは矢張り “ 神頼み ” という部分もあり、
近くの、或いは遠くの天満宮や天神社に合格祈願に向かわれる、
そういった受験生の方々が数多く見受けられました。

印象に残る学生さんがいます。
彼女は、諸般の事情による2度の留年を経て全単位を修了し、
ようやく国家試験に臨むも、1回目:不合格、2回目:不合格、
3回目にして遂に合格を果たしました。
振り返れば、高校卒業から実に8年の歳月を経ての資格取得。

その3回目の受験前、つと近寄って来て、こう言うのです。
「早川さん、思い切って “ 湯島 ” 行ってきます!」
“ 湯島 ” とは、もちろん “ 湯島天神 ” 。

確かに早川は、彼女が落ち込む度に “ 天神 ” を持ち出しては、
「学問の神は、長い目で観ておられる・・・」とか、
「道真公は、逆境に在る人間に味方する・・」とか、
励ましたい一心で語っていたのでありますが、
その度に彼女は、
「トイレの神様なら聞いたことあるけど、
 学問の神様なんて聞いたこと無いんだけど」とか、
「スガワラノミチザネ?・・・ヤバ、誰それ」という具合。

私も自分自身を顧みて、内心、
(いくら激励の思いとは言え、学び舎という “ 科学の園 ” で、
 非科学的なことは言わない方がいいか・・・)と反省しきり。

そんな彼女の口から、
“ 湯島天神 ” という言葉が出てきたことが意外だった上、
それから約1ヶ月半後、
「合格しました!天神様のお陰です~」と、
報告に来てくれたことも、色々な意味で意外でした。

                 

というわけで、前置きが長くなってしまいましたが、
夏季休暇を利用しての上京旅(7/31~8/1)で訪れましたのは、
東京都は文京区に所在する “ 湯島天神 ” であります。
尤も “ 湯島天神 ” は通称で、正しくは《湯島天満宮》。

社伝によれば、
創建は今を遡ること1500有余年前の雄略天皇2年(458)。

「えっ、天神こと菅原道真公は9世紀半ばの生まれなのに、
 “ 湯島天神 ” の創建が5世紀半ばってどーゆーこと?」

と無学の早川は混乱に陥るのでありますが、
創建当時の御祭神は、
“ 天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)” 。

菅原道真公(845~903)が祀られるのは、

創建から約900年後の江戸時代・正平10年(1355)。
地元の方々の要望によって勧請されたのだとか。

ということは、“ 湯島天神 ” を訪れる参詣者は、
「天満大自在天神」とも称される道真公の霊徳に与ると共に、
“ 天之手力雄命 ” の神力をも授かるということでしょうか。

“ 天之手力雄命 ” と言えば、
天照大御神が天の岩戸に隠れたため世界が闇に覆われた際、
極重堅牢な岩戸を押し開いて大御神を外へと導き出し、
世界に光を取り戻した “ 天上界のスーパーヒーロー ” 。

“ 天神 ” は学問・研究・理論全般、
“ 天之手力雄命 ” は実技・行動・実践全般と、
個人的感覚ながらも、そんな風に思ってみますと、

その両神両柱が鎮座する “ 湯島天神 ” という場所が、
心身統一・文武両道・言行一致の風香る、
特別な霊的トポスにも思えてくるのでありました。

                 

さて、巣鴨 “ とげぬき地蔵 ” の名で親しまれるところの、
曹洞宗《萬頂山・高岩寺》。

慶長元年(1596)、湯島の地に開かれ、
現在地には明治24年(1891)に移転されたのだそうです。
御本尊《延命地蔵菩薩》は「秘仏」のため、
本堂内の奥厨子に納められ拝観は出来ません。


参拝者の中には、こちらの尊像が、
“ とげぬき地蔵 ” と誤認する方もおられると聞きますが、

こちらの尊像は観世音菩薩、通称 “ 洗い観音 ” 。

早川は、10代の頃から高岩寺を参拝しておりますが、
その当時の “ 洗い観音 ” は、
タワシを使ってゴシゴシと洗わせて頂くのが通例でした。
毎日多くの参拝者が訪れ、
縁日ともなれば何百人という方々が長蛇の列を為し、
固いタワシで、ゴシゴシゴシゴシと擦るわけですから、
その摩耗たるや著しく、摩滅たるや甚だしいもので、
観音菩薩の御尊顔などは、もうツルっツルでありました。

「御尊像に対して、いかがなものか」

そのような意向が有ったのかも知れません。
摩耗摩滅の進んだ菩薩像は、
平成4年(1992)に後ろ側の厨子内へと遷座され、
新しい “ 洗い観音 ” が、開眼供養を経て引き継がれ、
又それを機にタワシは廃止され、
柔らかな白タオルで洗う作法へと変わりました。

高岩寺と巣鴨地蔵通り商店街は、
生前の両親を案内して何度も訪れた思い出の場所。

いささか “ 感動癖 ” の傾向にあった母は、
見る物、聞くもの、食べるモノの一つ一つに反応しては、
「まぁ素敵、なんてイイ音、わぁ美味しい」と声を上げ、
父も私も、幼な子のように楽しむ母の姿を眺めては、
何となく幸せな気持ちにさせられたものでした。

全ては、時の彼方。


“ Dragon , beyond the ocean ” 〜 海龍、波濤を越える

皆様、良き日々でありますように!


               








西新井大師 〜 その2

2023-08-13 14:24:08 | 神社仏閣
先週は《西新井大師 ~ その1》として、
久しぶりに参拝致しましたところの、
東京都足立区に所在する「五智山 遍照院 総持寺」、
通称 “ 西新井大師 ” と、その境内に鎮まること約200年、
湯殿山から勧請されたとされる、
“ 大日如来 ” 像について書かせて頂きました。

今週は《西新井大師 ~ その2》と題しまして、
同じく “ 西新井大師 ” 境内の北に建つ、
“ 宝篋印塔(ほうきょういんとう) ” について、
少しばかり記してみたいと思います。

こちらは以前に描いた「金龍山 浅草寺」の “ 宝篋印塔 ” 。

当ブログでは “ 宝篋印塔 ” について、
度々触れてまいりましたが、ここで改めまして、
“ 宝篋印塔 ” とは何ぞや?といった辺りを紐解いてみます。


御興味ない方には申し訳ございませんが、

今しばらくお付き合い下さい。

                 

遥か昔、インドに在ったとされる摩伽陀国(まがだこく)。
ある時、仏陀(ブッダ)が多くの人々に仏法を説いていました。
聴衆の中に一人の “ バラモン ” の姿あり、
その名を「無垢妙光(むくみょうこう)」。
“ バラモン ” とは、古代インドで編纂された聖典、
「ヴェーダ」を信仰する〈バラモン教〉の司祭。
無垢妙光は説法に感銘を受け、仏陀に願い出ます。
「是非とも、我が家にお越し頂きたい」と。

招きを受けた仏陀は、
迎えに訪れた無垢妙光と其の一族と共に移動を始めるのですが、
道すがら「豊財(ぶざい)」という名の荒れ果てた場所に建つ、
土で固めたと思しきボロボロの “ 塔 ” の前で足を止めます。
何を思われたか、その “ 塔 ” へと歩み寄る仏陀。
すると、朽ち果てた “ 塔 ” から俄に光が放たれ、のみならず、
“ 塔 ” からは仏を讃える歌が響き始めます。

驚愕する一同をよそに、仏陀は “ 塔 ” の回りを3巡し、
着ていた衣を脱ぐと、その衣で “ 塔 ” を覆い、
血の涙を流しながら “ 塔 ” を礼拝するのでありました。

ひとしきり礼拝を終えると今度は静かに微笑む仏陀。
その微笑みに促されて、宇宙に満ちる無数の仏たちも又、
涙を流しつつ光を放ち、このボロボロの “ 塔 ” を照らします。

この余りにも神秘的かつ荘厳な光景を目の当たりにして、
金剛手菩薩(こんごうしゅぼさつ)もまた涙を流しながら、
「これは一体どういうことなのですか?」と尋ねると、
仏陀答えて曰く、

『これは如来の功徳の全てが積集した “ 塔 ” なのです』

                 

“ 宝篋印塔 ” には、
以上のような説話が伝わっているわけですが、

仏法を分かりやすく説かれることで定評のある、
大森義成師は、この仏教説話が宿す意味について、
このように記されています。

『実は、
 朽ちた仏塔は私たちの本来持っている仏性を表している。
 しかし、悪業によりそこに気付かずに迷っている姿が、
 塔が荒れている様子だったのだ。
 それを見て仏は悲しんでいたのだが、
 そこに気付けば大いに功徳が現れるのである。』
(大森義成「真言陀羅尼とお経 ご利益・功徳 事典」学研刊)

                 

さて、西新井大師の境内に建つ “ 宝篋印塔 ” であります。

“ 塔 ” の中には、
「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経」が納められていて、
この少しばかり長い名前の “ お経 ” の力を蔵するがゆえに、
“ 塔 ” そのものにも力が宿り、
“ 塔 ” を礼拝する功徳もまた計り知れないと、
そのように伝えられているのであります。

“ 宝篋印塔 ” の計り知れない力・・・については、
また稿を改めると致しまして、本日ご覧頂きたいのは、
“ 宝篋印塔 ” を支えている、こちらの獅子群。

全ての獅子が、金剛杵を咥えています。


御承知置きの通り、金剛杵は密教修法で用いられる法具で、
形状により、独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵と幾つか種類があり、

例えばこちらの写真ですと、左が独鈷杵、右が五鈷杵。

                 

獅子が金剛杵を咥えている・・・という光景から、
早川が真っ先に想起するのは、夢枕獏先生の労作、
「上弦の月を喰べる獅子」。

「上弦の月を喰べる獅子」は、
第10回日本SF大賞、第21回星雲賞:日本長編賞を受賞し、
広く人口に膾炙するSF小説の金字塔ですので、
もはや書かずもがなのことではありますが、

現在を生きる、余命いくばくもない螺旋収集家「三島草平」と、
明治に生まれ37歳で旅立った、詩人・童話作家「宮沢賢治」とが、
時を超えて交錯し、それぞれの記憶の糸を結びながら、
「宇宙とは何か?」「生命とは何か?」「自分とは何か?」
それらの真相に迫ってゆく壮大な物語。

SF小説の形態を取りながら仏教の核心が語られ、
物語自体、文章自体、言葉自体が、
“ 二重螺旋構造 ” を為しつつ奏でられてゆくという、
前代未聞の “ 仏教スペースオペラ ” 。

西新井大師の“ 宝篋印塔 ” を支え続ける、
「上弦の月を喰べる獅子」ならぬ、
「金剛杵を咥える獅子」を見上げながら、

自ずと思い起こされる一節・・・、

『肯(よし)、と、祈りが答える。
 この宇宙に生じたもの、生じてゆくもののことごとくは、
 肯と呼ばれるものなのであると、
 その祈りは祈っていた。』
(引用元:夢枕獏「上弦の月を喰べる獅子」早川書房刊)


『この宇宙に生じたもの、生じてゆくもののことごとく』は、
“ 肯(よし)” とされるもの、
あなたもわたしも絶対肯定の中に在るということでしょうか。

皆様、良き日々でありますように!


               













西新井大師 〜 その1

2023-08-06 12:11:54 | 神社仏閣
夏季休暇を利用して、
久しぶりに “ 西新井大師 ” を参拝致しました。
正式名を「五智山 遍照院 総持寺」。
関東在住時には、折に触れ訪れておりましたが、
東海に転居して以来は、すっかり足が遠のいておりました。

因みに総持寺の「総持(そうじ)」とは、
サンスクリット語 “ ダーラニ(陀羅尼)” の漢訳で、
仏法の「総(すべて)」を「持(たもって)」忘れない、
というような意味とされます。

本年(令和5年)早春の頃、
大和盆地の南に千有余年の法統を伝える巨刹、
長谷寺を参拝しましたことは既に書かせて頂きましたが、
長谷寺は、真言宗豊山派(ぶざんは)の寺院。
今回参詣致しました総持寺も又、
同じく真言宗豊山派の古刹であります。

今を去ること約1200年前の天長3年(826年)の頃、
この一帯は旱魃で枯れ果てていた上、
疫病の蔓延により人々は心身共に疲弊していたのだとか。
そこへ一人の僧侶が現れ、枯れた井戸に向けて、
21日間に亘り加持祈祷を施したところ、
再び清泉豊かに湧き出し、土地も人々も甦ります。
僧侶の名は “ 空海(774~835)” 。
後の世において「弘法大師」と師号された為、
“ 大師が開いた新たな井戸 ” は大切にされて幾星霜、
やがて「西新井大師」なる仏教聖地に・・・。

全国津々浦々に語り継がれる、
いわゆる “ 大師伝説 ” の典型様式ではありますが、
「事実は小説よりも奇なり」で、
一読一聴しただけでは俄に信じがたい伝説の中にも、
一片の真実が宿っているもの。

神社仏閣の開創伝説が生まれた時代背景や、
僧侶聖人による救済伝説が醸成された社会背景には、
それらの伝説に近い事象や出来事が実際にあり、
そうした逸話の元となる人物が実際に居たのだと思います。

                 

総持寺の御本尊は、十一面観世音菩薩と伝わりますが、
本堂の裏手に建つ奥之院には、

弘法大師(空海上人)が祀られていると聞きます。

7年前、関東を去る間際、お礼参りに訪れた時には開扉され、
数々の供物が供えられていたと記憶しますが、
この日は上掲写真の如く “ ヒッソリ ” とした雰囲気。

                 

早川はブログ冒頭に、
「関東在住時には、折に触れ訪れておりました」と、
書かせて頂きました。

その理由のひとつが、こちらの大日如来像であります。

いま少し詳しく申せば “ 金剛界・大日如来 ” 鋳銅坐像。

立て札の解説には、

文政年間(1818~1831)の頃、
出羽国(おおよそ現在の山形県)湯殿山から勧請された、
と記されていますが、この説明文は簡略に過ぎ、
一体、どのような経緯や縁起を以て、
“ 大日如来 ” という密教の根本仏が、修験の本拠地・
湯殿山から西新井の地に請来されたものか?
その辺りは残念ながら分かりません。

とは言え「分からない」がゆえにこそ、

そこに自由自在な想像力を羽ばたかせることが出来ます。


そこで早川は、アレコレ想像を巡らせ妄想を膨らませ、
湯殿山を含む出羽三山~修験道~総持寺境内の大日如来~
密教で説かれる曼荼羅の思想~「円」と「縁」~三角関数~
超新星爆発の存在論的意味~電子の反発力~マチュピチュ~
東京目黒の “ 行人坂(ぎょうにんざか)” ~
物理学者エヴェレットの多世界解釈等々をキーワードとして、

一幅の音楽絵巻を作ろう・・・などと夢見たのが、
およそ四半世紀前のこと。

未だ夢叶わず、情けない限りではありますが、
そこはそれ「初心忘るべからず」ということもあり、
今回の参拝に及んだというわけであります。

つまらぬことをクダクダしく書き連ねてしまいましたが、

人間たるもの、いかに他者からの理解は得られずとも、
独自の “ 夢 ” を持っていないと生きてられませんよね。

                 

それにしても、こちらの大日如来像、

もしも文政年間の1823頃に制作建立されたとしたならば、
本年(2023)で、およそ200年。
江戸期の自然災害や大火をしのぎ、
関東大震災や東京大空襲といった大災害をもくぐり抜け、
いま尚このように屹立として智拳印を結ぶ姿に、
いわゆる “ 霊験 ” というものを思うのでありました。


“ 〈Three scale emblem〉and Dragon ” ~ 「三つ鱗」紋と龍

皆様、良き日々でありますように!