父祖の地、伊勢・鳥羽を訪れてまいりました。
先ずは外宮を参拝します。
東海に転居して良かったことの一つは、
伊勢へのアクセスが便利であるということ。
上掲写真は、外宮・北御門口鳥居ですが、
この鳥居近くの参道脇に御厩(おうまや)があります。
御存知の通り、往古には神々への報恩感謝の証として、
本物の生きた馬を奉納する習わしがあったものの、
奉納する側も奉納される側も色々と負担が大きいため、
時代が下るにつれ、馬を描いた絵画を納めるようになり、
「絵馬」の起源となりました。
つまり現代に在って、生きた馬が奉納され、
“ 神馬(しんめ)” として飼育されている神宮神社というのは、
極めて少ないということであります。
この日は、
その “ 神馬 ” を拝見することできました。
馬名は「笑智(えみとも)」号。
「笑」は人類の叡「智」ということでありましょうか。
人は、とかく「勝利」を求める生き物でありますが、
「勝利」は、ひととき小我を満たす幻に過ぎず、
「笑利」は、永く自他ともに分かち合える福徳。
さて、
伊勢の街を歩いていて、ふと思い出した古謡があります。
「物の名も、所によりて変わるなり、
難波の葦は、伊勢の浜荻」
言い回しの異なるパターンが幾つか有るようですが、
おおよそ上記のような歌。
南北朝時代(1337~1392)に編纂された連歌集、
「菟玖波集(つくばしゅう)」に載せられた歌とも、
詠み人知らずの俗謡とも伝わります。
大意としては、
「同じ物や習俗であっても、場所が変われば呼び方も変わる。
難波では “ 葦(あし)” と名付けられている植物が、
伊勢では “ 浜荻(はまおぎ)” と呼ばれているように。」
確かに、
同じ文物でも土地土地によって呼称が異なるわけですが、
面白いのは、文物に限らず、
同じ事象や現象であっても、場所や地域によって、
「受け止め方」
が大きく変わるというケース。
例えば火山噴火に纏わる現象。
火山が噴火した際、地底のマグマが噴出し空高く舞い上がり、
上空で冷却され “ 髪の毛 ” 状の細長い物体となって地上に降下する、
そのような自然現象があります。
なんでもハワイ諸島の民間伝承では、
この “ 髪の毛 ” 状落下物は、
「女神 “ ペレ ” の毛髪」とか「エンジェル・ヘアー」、
などと呼ばれ、
大変にめでたく喜ばしい吉兆のサインとされているのだとか。
トコロ変わって我が邦・日本の江戸時代、東北地方某所、
おそらくは火山噴火があったのでしょう。
“ 髪の毛 ” 状落下物が確認されたものの、なにせ往時のこと、
コレが「姑による虐待」に堪えられず自ら死を選んだ、
お嫁さんの怨みが籠った “ 髪の毛 ” であるとされ、
件の姑はもとより地域住民の方々は、
「嫁のタタリ」とか「呪いの髪の毛」、
と大いに恐れおののいたというのであります。
地球物理学、地球化学、地質学、
そして火山学等々が発展した現在であればこそ、
“ 髪の毛 ” 状落下物は「火山活動に伴う産物」であり、
ある意味 “ 只それだけの事象 ” と知ることが出来ます。
しかしながら、
未だ科学による解明が進んでいなかった時代には、
“ 只それだけの事象 ” が、
一方で「女神の毛髪・エンジェル・ヘアー」という物語を生み、
一方で「嫁のタタリ・呪いの髪の毛」という怪談を生む。
この辺りが、物理現象と人間意識との交わりが生む世界、
その “ 不思議さ ” でありますが、
実際のところ、如何に科学が発展を遂げようとも、
この “ 不思議さ ” は無くなるものではありません。
物理宇宙と意識宇宙が抱える “ 不思議さ ” というものに、
真摯かつ圧倒的博覧強記で向き合ったのが、
南方熊楠(1867~1941)であることは周知のところ。
熊楠先生は、
『ここに一言す。不思議ということあり。
事不思議あり。物不思議あり。心不思議あり。
理不思議あり。大日如来の大不思議あり。(後略)』
(土宜法竜師(1854~1922)への書簡)
と語り、
「心不思議」と「物不思議」とが交わるところでは、
存在それぞれの在り方・生態・動態・立場・環境等々により、
無数の「事不思議」が生成と消滅を繰り返すとして、
そこのところを、
時に植物学、時に比較民俗学の手法を用いつつ、
意識と世界とが織り成す多次元性に挑まれたのでした。
思えば仏教では “ 水の流れ ” という自然現象も、
私たち人間には「河川」と映り、
天界の住人には「宝石の鉱床」と捉えられ、
魚には「自己の住み家」に他ならず、
餓鬼には「燃え盛る血膿」に見える、
いわゆる『一水四見(いっすいしけん)』が説かれます。
次元の異なる4つの世界が重なっているということですが、
“ 水の流れ ” を認識する側の視点から、
“ 水の流れ ” という認識される側からの視点へと、
立場を変えてみますと、『一水四見』は、
『一見四水』
に他ならないとも申せましょう。
う〜ん・・・いけません。
外国語を出来の悪い翻訳ソフトにかけたような、
意味不明な文章になってまいりました。
自分でも何を書いているのか分からなくなってきましたので、
稿を改めます。
帰路、電車の発車時刻まで少し時間がありましたので、
鳥羽駅の東北側出口へと足を運びますと、
そこはもう鳥羽湾・佐田浜(さだはま)の海が広がっています。
“ 鳥羽マリン・ターナミナル ” と称される通り、
ここは各種の遊覧船や観光船が出入りする港。
おやっ?・・・
目を惹く遊覧船が繋留されています。
“ 龍宮城 ” と掲額されていて、
船首には亀に乗った浦島太郎、後部上方には乙姫さま・・と、
そうなのであります。
全国には “ 龍宮 ” 伝説が有りますが、
ここ志摩半島にも “ 龍宮 ” 伝説が残されていて、
志摩市に所在する伊雑宮(いざわのみや)、或いは、
鳥羽市に所在する伊射波神社(いざわじんじゃ)には、
海女さんが龍宮から持ち帰った “ 玉手箱 ” が納められている、
というのであります。
通常 “ 玉手箱 ” と聞きますと、
何となく有り難いもの、貰えたら嬉しいモノと思いますが、
上記、海女さんが龍宮から持ち帰った “ 玉手箱 ” なるもの、
これが実は「取り扱い要注意」の厄介な代物なのだそうです。
ひとくちに “ 玉手箱 ” と言えども、
各地各所によって随分と異なるもの。
「物の名も、所によりて変わるなり、
難波の葦は、伊勢の浜荻」
古謡が詠っているのは、
「同じ物や習俗であっても、場所が変われば呼び方も変わる。」
という程のことなのかも知れませんが、
どうもその奥底には、
唯識および唯識哲学の世界が息を潜めているように思われます。
“ Dragon calls fortunate clouds ” ~ 天龍、瑞雲を呼ぶ
皆様、良き日々でありますように!
先ずは外宮を参拝します。
東海に転居して良かったことの一つは、
伊勢へのアクセスが便利であるということ。
上掲写真は、外宮・北御門口鳥居ですが、
この鳥居近くの参道脇に御厩(おうまや)があります。
御存知の通り、往古には神々への報恩感謝の証として、
本物の生きた馬を奉納する習わしがあったものの、
奉納する側も奉納される側も色々と負担が大きいため、
時代が下るにつれ、馬を描いた絵画を納めるようになり、
「絵馬」の起源となりました。
つまり現代に在って、生きた馬が奉納され、
“ 神馬(しんめ)” として飼育されている神宮神社というのは、
極めて少ないということであります。
この日は、
その “ 神馬 ” を拝見することできました。
馬名は「笑智(えみとも)」号。
「笑」は人類の叡「智」ということでありましょうか。
人は、とかく「勝利」を求める生き物でありますが、
「勝利」は、ひととき小我を満たす幻に過ぎず、
「笑利」は、永く自他ともに分かち合える福徳。
さて、
伊勢の街を歩いていて、ふと思い出した古謡があります。
「物の名も、所によりて変わるなり、
難波の葦は、伊勢の浜荻」
言い回しの異なるパターンが幾つか有るようですが、
おおよそ上記のような歌。
南北朝時代(1337~1392)に編纂された連歌集、
「菟玖波集(つくばしゅう)」に載せられた歌とも、
詠み人知らずの俗謡とも伝わります。
大意としては、
「同じ物や習俗であっても、場所が変われば呼び方も変わる。
難波では “ 葦(あし)” と名付けられている植物が、
伊勢では “ 浜荻(はまおぎ)” と呼ばれているように。」
確かに、
同じ文物でも土地土地によって呼称が異なるわけですが、
面白いのは、文物に限らず、
同じ事象や現象であっても、場所や地域によって、
「受け止め方」
が大きく変わるというケース。
例えば火山噴火に纏わる現象。
火山が噴火した際、地底のマグマが噴出し空高く舞い上がり、
上空で冷却され “ 髪の毛 ” 状の細長い物体となって地上に降下する、
そのような自然現象があります。
なんでもハワイ諸島の民間伝承では、
この “ 髪の毛 ” 状落下物は、
「女神 “ ペレ ” の毛髪」とか「エンジェル・ヘアー」、
などと呼ばれ、
大変にめでたく喜ばしい吉兆のサインとされているのだとか。
トコロ変わって我が邦・日本の江戸時代、東北地方某所、
おそらくは火山噴火があったのでしょう。
“ 髪の毛 ” 状落下物が確認されたものの、なにせ往時のこと、
コレが「姑による虐待」に堪えられず自ら死を選んだ、
お嫁さんの怨みが籠った “ 髪の毛 ” であるとされ、
件の姑はもとより地域住民の方々は、
「嫁のタタリ」とか「呪いの髪の毛」、
と大いに恐れおののいたというのであります。
地球物理学、地球化学、地質学、
そして火山学等々が発展した現在であればこそ、
“ 髪の毛 ” 状落下物は「火山活動に伴う産物」であり、
ある意味 “ 只それだけの事象 ” と知ることが出来ます。
しかしながら、
未だ科学による解明が進んでいなかった時代には、
“ 只それだけの事象 ” が、
一方で「女神の毛髪・エンジェル・ヘアー」という物語を生み、
一方で「嫁のタタリ・呪いの髪の毛」という怪談を生む。
この辺りが、物理現象と人間意識との交わりが生む世界、
その “ 不思議さ ” でありますが、
実際のところ、如何に科学が発展を遂げようとも、
この “ 不思議さ ” は無くなるものではありません。
物理宇宙と意識宇宙が抱える “ 不思議さ ” というものに、
真摯かつ圧倒的博覧強記で向き合ったのが、
南方熊楠(1867~1941)であることは周知のところ。
熊楠先生は、
『ここに一言す。不思議ということあり。
事不思議あり。物不思議あり。心不思議あり。
理不思議あり。大日如来の大不思議あり。(後略)』
(土宜法竜師(1854~1922)への書簡)
と語り、
「心不思議」と「物不思議」とが交わるところでは、
存在それぞれの在り方・生態・動態・立場・環境等々により、
無数の「事不思議」が生成と消滅を繰り返すとして、
そこのところを、
時に植物学、時に比較民俗学の手法を用いつつ、
意識と世界とが織り成す多次元性に挑まれたのでした。
思えば仏教では “ 水の流れ ” という自然現象も、
私たち人間には「河川」と映り、
天界の住人には「宝石の鉱床」と捉えられ、
魚には「自己の住み家」に他ならず、
餓鬼には「燃え盛る血膿」に見える、
いわゆる『一水四見(いっすいしけん)』が説かれます。
次元の異なる4つの世界が重なっているということですが、
“ 水の流れ ” を認識する側の視点から、
“ 水の流れ ” という認識される側からの視点へと、
立場を変えてみますと、『一水四見』は、
『一見四水』
に他ならないとも申せましょう。
う〜ん・・・いけません。
外国語を出来の悪い翻訳ソフトにかけたような、
意味不明な文章になってまいりました。
自分でも何を書いているのか分からなくなってきましたので、
稿を改めます。
帰路、電車の発車時刻まで少し時間がありましたので、
鳥羽駅の東北側出口へと足を運びますと、
そこはもう鳥羽湾・佐田浜(さだはま)の海が広がっています。
“ 鳥羽マリン・ターナミナル ” と称される通り、
ここは各種の遊覧船や観光船が出入りする港。
おやっ?・・・
目を惹く遊覧船が繋留されています。
“ 龍宮城 ” と掲額されていて、
船首には亀に乗った浦島太郎、後部上方には乙姫さま・・と、
そうなのであります。
全国には “ 龍宮 ” 伝説が有りますが、
ここ志摩半島にも “ 龍宮 ” 伝説が残されていて、
志摩市に所在する伊雑宮(いざわのみや)、或いは、
鳥羽市に所在する伊射波神社(いざわじんじゃ)には、
海女さんが龍宮から持ち帰った “ 玉手箱 ” が納められている、
というのであります。
通常 “ 玉手箱 ” と聞きますと、
何となく有り難いもの、貰えたら嬉しいモノと思いますが、
上記、海女さんが龍宮から持ち帰った “ 玉手箱 ” なるもの、
これが実は「取り扱い要注意」の厄介な代物なのだそうです。
ひとくちに “ 玉手箱 ” と言えども、
各地各所によって随分と異なるもの。
「物の名も、所によりて変わるなり、
難波の葦は、伊勢の浜荻」
古謡が詠っているのは、
「同じ物や習俗であっても、場所が変われば呼び方も変わる。」
という程のことなのかも知れませんが、
どうもその奥底には、
唯識および唯識哲学の世界が息を潜めているように思われます。
“ Dragon calls fortunate clouds ” ~ 天龍、瑞雲を呼ぶ
皆様、良き日々でありますように!