~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

月光菩薩(がっこうぼさつ)

2023-10-01 15:21:32 | 仏教関係
一昨日(2023 , 9/29)は、

長月の十五夜、いわゆる「中秋の名月」でした。

仏教、とりわけ密教は、
宇宙に存在する星々、星々の運動・運行、
星々が私たちにもたらす心身への作用や影響等々を、
“ 仏尊 ” という形へと昇華した上で、
星々という、
天空から呼びかけ、作用するものに対して、
地上から応え、働きかけるという、
相互作用のシステムを成立させました。

とりわけ “ 月 ” という天体は、
地球環境を始め、地上の生物・生命体、
私たちの心身活動を含む生活全般に、
大小の影響を及ぼす為、

“ 月光菩薩(がっこうぼさつ)”

として尊格化され、
両部の曼荼羅には月光菩薩が描かれています。

胎蔵部の曼荼羅では、
“ 文殊院 ” 内に童子の姿として描かれ、
金剛界の曼荼羅では、
供養会(くようえ)を始めとする幾つかの区画に、
こちらは童子というよりは大人びた尊容で、
月輪や半月を持つ姿で描かれています。
「曼荼羅図典」には、

『闇を照らす煌々と輝く月の光のように、
 無知の黒闇を破る尊で、
 月そのものよりも、
 月の光を尊格化したものである。』
(引用元:描画/染川英輔、解説/小峰弥彦他
 「曼荼羅図典」大法輪閣刊)

と記されています。

『月そのものよりも、
 月の光を尊格化したもの・・・』

なるほど、即物的な早川は、
目に見える “ 月 ” をありがたがるのですが、
暗夜をゆく私たちの道を照らすのは、
目には見えない “ 月の光 ” でありました。

“ 音楽 ” と “ 音楽から放たれる光 ” とは、
同じようで異なるもの。
心して感受すべきは “ 音楽から放たれる光 ” と、
そんな風にも感じられます。

                 

想い続ける月光菩薩像があります。
ひとつは、
奈良・東大寺・法華堂に安置されていた尊像
(現在は東大寺ミュージアムに移管)。

ひとつは、
京都・東寺・金堂に在って、
本尊 薬師如来の右脇に立つ尊像。
月光菩薩は、

『月そのものよりも、
 月の光を尊格化したもの・・・』

このことが、
如実に察せられる名品と申せましょう。


“ Dragon in the moon ”(作画途中)

皆様、良き日々でありますように!


               








善女龍王

2023-02-19 14:38:04 | 仏教関係
数日前、晩冬の覚王山・日泰寺。

本殿前の紅梅は、このような感じ。


今の時期は “ 季節の転調 ” とでも申しましょうか。

古来「三寒四温」と謂われるように、
冬の調性3回、春の調性4回と、大小の転調が繰り返され、
少しずつ冬が明けて春が唄われ始める楽曲の流れ、和声の進行は、
自然界の奏でる大音楽の中でも聴きどころといった感じがします。

転調で思い出しましたが、
映画「サウンド オブ ミュージック」(1965)では、
冒頭の空撮映像に木管楽器が小さく響き始め、
ジュリー・アンドリュースが歌い出すまでの、僅か90秒の間に、
リチャード・ロジャース(1902~1979)は、
実に7回の転調を施していました。

                 

さて本日(2 / 19)の東海地方は久しぶりの雨模様。

弘法大師・空海上人(774~835)が、
神泉苑での雨乞い修法において請来したのが “ 善女龍王 ” 。
この “ 善女龍王 ” なる尊格は、
“ 善「如」龍王 ” と書かれていた時代もあり、その容姿も、
官服を着た男性神として表現されたものも多く見られます。

“ 善女龍王 ” は『法華経第五巻 堤婆達多品 第十二』の中に、
婆羯羅(シャガラ・シャカツラ他)龍王の娘(一説に第三女)、
として登場し、その性質たるや頭脳明晰で人々の心を良く理解し、
諸仏が説く秘蔵の教えを受ける器量を持ち、深い瞑想に入り、
求道の志に篤く、人々を慈しみ、弁舌爽やかにして純真・・・と、
大変な功徳と力量を備えた女性として表されます。

それほどの功徳を積み、能力に優れた女性であるとしたならば、
ははぁ、それなりに御年配の御婦人であろうなぁ、と思いきや、
これが「8歳」なのであります。

つまりは仏教ネイティブの超早熟天才児ということですが、
仏典には、こういう “ 童子 ” が度々登場します。
そもそも仏教の開祖・釈迦牟尼(生没年不詳)自体からして、
母親から産まれてすぐにスタスタと歩いたかと思ったら、
両手で天と地を指し「天上天下唯我独尊!」と叫んだりしています。
仏教は、その土壌に「前世で何を行ってきたか?」という、
輪廻転生譚を持つので、こういう童子が説かれるのでありましょう。

“ 善女龍王 ” は、スーパー童女でありながら、
円空(1632~1695)の作例からも分かるように、
時に異形のモノ、時に男性神と、様々な形態をとって現れては消え、
消えてはまた顕われるわけですが、これはその正体が “ 龍 ” 、
すなわち “ 水 ” であるからに他なりません。

固体・液体・気体と、自由自在にその姿や形を変えながら、
千変万化の働きを示すことが出来るのは、いつまでも童子の心、
純粋さ、素直さ、柔らかさ、好奇心、畏れ、傷つきやすさ・・・、
そうしたものを宝珠として持ち続けられるからであると、
仏教は童子の存在を通して謳っているのかも知れません。


“ Princess and Dragon ” ~ 善女龍王

皆様、良き日々でありますように!


               










地蔵菩薩は “ Mother Earth ”

2023-02-05 14:13:38 | 仏教関係
当ブログでは折に触れて参拝しておりますところの、
覚王山・日泰寺門前に建つ千躰地蔵堂。
こちらは、数年前に行われた千躰地蔵堂改修および落慶に際して、

新しく造像された地蔵菩薩。

「折に触れて参拝・・・」と書きましたが、
実のところ頻繁に訪れているような次第で、これを要するに、

早川の “ 地蔵好き ” ということであります。


地蔵菩薩と言えば、
僧形で右手に錫杖、左手に如意宝珠という姿が定番ですが、

「大日経」を典拠として描かれる“ 大悲胎蔵生曼荼羅 ” 、
通称「胎蔵界曼荼羅」に顕われる地蔵菩薩、
つまり元々の地蔵菩薩は、
長い髪を美しく結い上げ宝冠をかぶり、右手に如意宝珠を載せ、
左手に幡(飾り旗)を立てた蓮華を持つという姿であります。

その姿はどこか女神を想わせるものですが、それもそのはず、
地蔵菩薩は、古代インド・バラモン神話に登場する女神を、
その起源とするという説が有力なのだとか。


日本で成立した「延命地蔵菩薩経」では、地蔵菩薩という存在が、
人間、動物や昆虫、薬草から路傍の石、更には山、川、空、海等々、

有りとあらゆる形態をとる存在であると説かれた後、

『衆生生する時、其の身命となり、滅すれば導師となる
(しゅじょう しょうするとき そのしんみょうとなり
 めっすれば どうしとなる)』

「あなたが生きている間は、
 あなたの細胞となり、あなたの生命活動そのものとなり、
 あなたが死んだら、あなたの導き手となります」(早川意訳)

と謳われます。

                 

地蔵菩薩のサンスクリット名は “ クシティ・ガルバ ” 。

『大地を包含するもの』(出典:曼荼羅図典/大法輪閣)

これを広く捉えて、仮に地蔵菩薩をして、
地球大気圏環境とその活動の全てであると観想してみますと、
呼吸活動とは、地蔵を吸い地蔵を吐くこと、
代謝活動とは、地蔵を摂取し地蔵を排出することに他ならず、
「延命地蔵菩薩経」に、地蔵菩薩は、

「あなたが生きている間は、あなたの細胞となり、
 あなたの生命活動そのものとなるのです」

と謳われる一説は、
ある種の “ 真実 ” を物語っているようにも思われます。

実際、先師先達の方々の中には、

地蔵菩薩を「地球という天体の活動を蔵する菩薩」と捉え、
言わば “ 地球蔵菩薩 ” と説かれる方々も多くおられます。


そうであるならば、地蔵信仰は地球信仰に繋がっていて、
地蔵を拝むことは地球を拝むことに通じているのかも知れません。

・・・と、いささか妄想が広がり過ぎてしまいましたが、
地蔵が古代インド神話の女神を発祥とすることを重ねた時、
なるほど地蔵菩薩とは “ Mother Earth ” のことであったかと、
そのように想われてくるものであります。


“ Mother Earth and Sanskrit Dragon ”~地蔵菩薩と梵字の龍

皆様、良き日々でありますように!


               








初不動(はつふどう)

2023-01-29 15:38:10 | 仏教関係
昨日1月28日(土)は、令和5年の “ 初不動 ” ということで、

千葉県は成田の地に本山を構える成田山新勝寺の名古屋・栄分院、
萬福院に参拝してまいりました。


古来、1ヶ月30日それぞれの日に、三十の仏天を一尊ずつ充てた、
「三十日秘仏」という民間信仰の世界があったり、

或いは神道においても、
1ヶ月30日それぞれの日に、三十の神々を一柱ずつ配して、
「三十番神」なるものが信じられていた時代があったりと、
神仏と特定の時日とが結ばれ「御縁日」とされてきたわけですが、
中でも、観世音菩薩の18日、地蔵菩薩の24日、
そして不動明王の28日といった「御縁日」は、おなじみのところ。

これらは経典に基づいたものもありますが、中には、
ある意味 “ 大人の事情 ” により案出され制定されたものもあり、
その辺りは “ 土用丑の日 ” とか “ 納豆の日 ” 、
或いはヴァレンタインデーやホワイトデーといった類いのものと、
さほど変わらないと言えるかも知れません。

人間というものは、良くも悪くも強迫観念に支配されやすく、
例えば節分行事なども「豆を撒く」ことに加えて、近年では、
「恵方巻きを食べる」ことが行われるようになりました。
御承知置きの通り、現在の「節分と恵方巻き」のセットは、
某業界が抱える売り上げ減少への打開策として考案されたもの。
その打開策が効を奏しての、社会への浸透と定着でありますが、
そうとは知りつつも、強迫観念に支配されやすい早川などは、
当初こそ「節分には恵方巻きを食べたいなぁ」だったものが、
いつしか「節分には恵方巻きを食べなければ」となります。

こういった人間心理、つまりは強迫観念というものが、
こと “ 宗教 ” となりますと、
これはもう人間の心に及ぼす支配力、拘束力、強制力たるや、
恵方巻きの比ではありません。

“ 宗教 ” には、
例えば「地獄」「厄年」「八方塞がり」「方難除け」「吉凶」等々、
人間が根本的に抱える未来への不安というものに働きかけ、
たとえ悪気や悪意がないにせよ、
人々の心の水田に、誰しもが持つ将来への恐れという “ 種 ” を撒き、
その上で恐れの芽を摘み取り安心できる方法を与えるという、
仕掛けなり仕組みなりが潜在しています。

只、この仕掛けや仕組みは、長い歳月・・・、
場合によっては千年を超える星霜の中において、
「伝統行事」「通過儀礼」として洗練され、仕掛けを施す側も、
仕掛けを受ける側も双方が合意納得の上に展開されます。
この辺りは “ 宗教 ” に限ったことではなく、文化や文明、
集団・組織・コミュニティ等々が、その根源に宿している、
「共同幻想」に関わるところでもあろうかと思います。

とは言え、そこはそれ宗教者も人の子、中には、
人間が抱える強迫観念を利用したり、逆手に取ったりして、
「あなたが不幸なのは、三代前の先祖が祟っているから」
などといった妄言を弄する方もおられます。
よしんば、それが供養の大切さを説いたものであったとしても、
子孫に祟る先祖などいるわけがありません。

                 

それはそれとして、
「仏説聖不動経(ぶっせつ しょうふどうきょう)」の中に、
実に広々とした、おおらかな一説とでも申しましょうか、
強迫観念を和らげる一説があります。

『無想の法身 虚空と同体なれば その住処なし
 ただし衆生心想の内に住し給う』
(むそうのほっしん こくうとどうたいなれば そのじゅうしょなし
 ただし しゅじょうしんそうのうちに じゅうしたもう)

「不動明王は、これといった姿かたちをとることなく、
 宇宙の在りとあらゆる場所に存在していて住処を持ちません。
 もしあなたが不動明王を心に想い、念じたならば、その時、
 あなた自身が不動明王となり、
 あなた自身が不動明王の住処となるのです。」(早川意訳)

不動明王は宇宙一杯に広がっていて、
あなたが意識した時、あなたに収束する。
ここで想起されるのは、

『コペンハーゲン解釈によると、観測前、
 幅をもって空間に広がっていた電子の波は、
 「観測」することによって、
 幅のない針状の波に「収束」する。』
(引用元:別冊ニュートンムック「よくわかる決定版・量子論」)

どこか量子力学の観測者効果を彷彿とさせ、個人的には、
この辺りにも「お不動さん」の魅力を感じます。

「御縁日」として参拝するも良し、特段の供養を設けるも良し、
不動明王を心に想いつつ森の中でゆっくり過ごすも良し、
不動明王を心に念じつつコタツで丸くなるも良し、
全ては大いなる道に通じているのであって、
「◯◯しなければならない」というような、
強迫観念などに縛られる必要は無いということでありましょう。


“ Goddess and Wind Dragon ” ~ 観世音菩薩と風の龍神 ~

皆様、良き日々でありますように!


               









2022-09-25 14:13:37 | 仏教関係
関東在住時に購入したものの引っ越すこととなり、
用いることなく当地への転居荷物に紛れ込んだまま5年。
ふと思い出し、ようやく箱から取り出し使ってみました。

お香の老舗・松榮堂の “ ひいな香炉 ” 。
空薫(そらだき)専用の香炉であります。

豆炭に火を入れて香炉内の炭置き具にセットした後、
香炉に金網を載せ、その網の上に印香を置きます。
印香は、粉末状にした香材を小さく押し固めたもので、
豆炭が程よく熾ってきますと、その熱に薫じられて、
網上の印香が極めて微細な薫りを奏で始めます。


こちらは直薫(じかだき)で白檀線香を焚いております。

線香は、火をつけて香立てや香炉灰に差すだけという手軽さと、
焚いた瞬間から香るという即効性が魅力ですが、
線香に直接火をつけて燃やしますので煙が生じます。
個人的にはこの煙が好きで香煙に包まれていれば幸せなのですが、
こと “ 香り ” というところでは、
“ けむり臭さ ” が “ 香り ” を上回る場合があります。
所謂 “ 雑味(ざつみ)” と言われるもので好みが分かれるところ。


その点、空薫は、

豆炭が孕む熱によって間接的に印香を薫じますので煙が立たず、
“ 香り ” だけを聴くことができます。

只、豆炭に火を入れる、火の熾り具合を何度か確かめる、
使用する度に灰を捨て香具を掃除する必要がある等、
いささか手間がかかることは否めません。
尤も、そうした手間も “ 香り ” のうちでありましょう。

                =◯◯◯=

その昔、確かテレビ時代劇「乾いて候」だったと記憶しますが、
田村正和氏(1943~2021)扮する主人公の剣士が、
悪人成敗の剣を揮うという筋立ての中、クライマックスにおいて、
それまで人々から慈悲深い善人と目されていた人物が、
裏では非道な悪行の数々に手を染め巨万の利を得ていたことを、
剣士に暴かれ追いつめられた挙げ句、ついにその正体を現し、
「なぜ俺が黒幕だと分かったのか?」と剣士に尋ねます。
剣士答えて曰く、

『悪い奴からは、腐った匂いがする・・・』

いかに優れた業績を残そうとも、いかに世評が高かろうとも、
いかに社会貢献を果たそうとも、いかに言動が立派であろうとも、
腐った心の持ち主からは、かすかな腐臭がする・・・、
だから分かったのだと。

汗臭さは日々の入浴等で消すことが出来ましょうし、
加齢臭やストレス臭といったものも消臭スプレーで抑えられ、
また香水などでそれなりに誤魔化すことも可能でしょうが、
それは押しなべて “ 体臭 ” に限ったこと。
人間には “ 体臭 ” の他に、その人間の心が醸し出す香り、
言わば “ 心香 ” というようなものが内奥から放たれていて、
“ 心香 ” の良し悪しばかりは、
どうにも誤魔化しようがないということでありましょうか。

ちょうど今は秋彼岸の時節ですが、古来より薫香は、
先祖を始め彼岸の方々にとっての食事とされてきました。
この辺りを想いますと、先祖が本当に喜ぶ供えものというのは、
おはぎ・果物・酒・名茶といった目に見える供物以前に、
子々孫々の心から薫り立つ良き香り、良き “ 心香 ” といった、
見えざる供えものなのかも知れません。

                =◯◯◯=

本年、令和4年7月、
鞍馬寺管長:信樂香仁師が遷化されていたことを知りました。
御齢97歳とのこと。

今を去る25年ほど前のこと、早川は早朝の鞍馬寺に詣でるべく、
かの “ 九十九(つづら)折りの道 ” を登り始めました。
その日は明け方まで降雨があり、道は泥濘るんでいます。
しばらく歩みを進めておりますと、
ただならぬ “ 香気 ” を纏った和装の女性が下りてこられます。
信樂香仁師でありました。

「おはようございます」と挨拶をさせて頂きますと、
我が声の何倍もの大きさで、
『おはようございます』と聲を返して頂きましたが、
その聲、その姿勢、その歩容の全てが、
「ただならぬ “ 香気 ” 」を響かせておられるのでした。

頭を下げざまに、ふと香仁師の足元が目に入ったのですが、
白足袋に雪駄履きのその足元が、全く泥ハネしていない、
つまり汚れていないのであります。
先に申し上げたように、その日の参道は泥濘るんでいて、
早川の足元はと言えば、既に大きく汚れております。

あたかも古武術譚において見聞する名人達人のエピソードを、
今まさしく目の当たりにするかのように思われました。

時に、おそらく御歳70は超えておられたと思いますが、
一体どのような御修行を積まれたものかと感に堪えつつ、
その “ 香気 ” に打たれたまま、師の後ろ姿を拝しておりますと、
香仁師は九十九参道脇の御堂に、小祠に、杉の大樹にと、
ひとり静かに祈りを捧げながら下りてゆかれるのでありました。

四半世紀の彼方、ただ一度きりの短い邂逅を、
早川は忘れることが出来ません。
謹んで御冥福をお祈り申し上げます。


“ 香龍 ”