~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

11月と言えば・・・

2023-11-12 14:14:50 | 歴史
11月も半ばに差し掛かりました。

“ Waterfall Ⅲ ” ~ 瀧 其の参


                 

11月と言えば、
京都河原町通りに所在した醤油商・近江屋において、
坂本龍馬(1836~1867)が、
何者かの手によって暗殺された月。
今を去る156年前、時は幕末、
慶応3年11月15日のことでありました。

龍馬は、新しい国家体制に思いを馳せる中、
長崎から上京する船内で書いた「船中八策」を元にして、
大政奉還後、新たに「新政府綱領八策」を記しています。
この「新政府綱領八策」の末尾には、

“ 慶応丁卯 十一月 ”

と墨書されていて、
暗殺される直前辺りに書かれたことを伝えています。

坂本龍馬が、
幕末のヒーローだったのかどうか?
現代に語り継がれるような活躍をしたのかどうか?
特に近年、
そのような疑問を持たれる向きも多いと聞きます。
確かに歴史検証は大事なこと。

只、「新政府綱領八策」の内容は、
たとえそれが “ 独創 ” ではなかったとしても、
充分に時代を先駆けるものであり、
フィクションを読まずとも、
遺された資料や手紙の数々に当たれば、
その活動ぶり活躍ぶりは一目瞭然。

そもそも、活動も活躍もせず、
何ら特異な光芒を放つことのない人間には、
アンチが生じることもなければ、
暗殺の対象となることもありません。

“ ヒーロー ” かどうかは措くとしても、
幕末史における重要人物であったことには違いないと、
個人的には、そのように思います。

幕末当時、「藩」とは「国家」でありました。
薩摩藩と長州藩という、
敵対する二つの「国家」が手を結ぶなど、
誰も考えさえ出来なかったこと。
それを、
龍馬は「薩長同盟」として成就させました。

今なお世界各地では、
国と国が戦い、民族と民族が争い、
無辜の市民が血を流し命を落としています。

過去の経緯により対立せざるを得ない二者、
決して相容れないはずの二者は、
一体どうすれば歩み寄れるのか?

坂本龍馬と幕末史から学ぶことは尽きないと、
11月が巡る度、
龍馬への想いを新たにするものであります。

よさこい幻想 ~ 龍馬の歌 ~(作曲 早川太海)

皆様、良き日々でありますように!


               









名古屋城

2022-08-07 13:06:47 | 歴史
この堀は、手前から奥まで短いように見えましたが、
その距離は優にバス停2駅分ほど有りました。

この日の名古屋は、アスファルト上の気温40度という酷暑日。
歩くうち次第にボーッとしてまいります・・・、
いや、ボーッとしているのはいつものこと、申し上げたいのは、
この日訪れた場所が、いかに広大かということであります。


目的の場所に辿り着くまでに、

こうした重厚な門を幾つかくぐり、


巨大な石垣建築を堪能しながら、

奥へと歩を進めてゆきます。


すると見えてまいりました。

既にお気づきのことかと存じます。
え?、気づくも何も既に本日のブログ題に書いてある?
アァそうでした!
因みに、手前に写っているのは “ マルバチシャ ” の樹。
(「丸葉萵苣」と書かれ「萵苣(ちしゃ)」の一種)

というわけで名古屋城であります。
当地に転居して5年、ようやく訪れることが出来ました。

慶長15年(1610)に築城計画が立てられ、
慶長17年(1612)に建設が本格化、元和元年(1615)に完成。
以来300年以上に亘り尾張名古屋の空に聳え立ち、
昭和20年(1945)太平洋戦争末期の空襲により焼失。

現在の名古屋城天守閣は、

昭和30年代に鉄筋コンクリートで復元されました。

石垣は、下部から上部へ向けて弓なりに反る構造で、
「扇勾配(おうぎこうばい)」と呼ばれるもの。

こうした石積みにすることで加重が分散され、
石垣崩落の一因となる「石のせり出し」現象、
通称 “ はらみ ” を抑えることが出来るのだそうです。

それにしても、石による構造物というのは不思議。

エジプトのピラミッド、ペルーのマチュピチュ、
メキシコのテオティワカン、イギリスのストーンヘンジ、
カンボジアのアンコールワット、イースター島のモアイ群、
アナトリアのギョベクリ・テペ等々、

考古学者により、石の調達および運搬方法は解明されようとも、
そこには一抹の “ 疑問 ” が残り “ 謎 ” を感じざるを得ません。

“ 疑問 ” や “ 謎 ” は措くとしても、
実際にこうした巨大石造建築物の前に立ちますと、

建造時に払われたであろう途方もない “ 労力 ” というものに、
身が竦むとでも申しましょうか、名状しがたいものを覚えると共に、
あらためて「“ 石 ” とは何か?」ということを想います。

地球は木星のような「ガス型惑星」ではなく「岩石型惑星」なので、
そもそも地球は “ 石造り ” と申せましょう。
つまり “ 石(石材)” は地球材の最たるものであり、“ 石 ” には、
溶岩球として誕生して以来46億年の歴史が宿っていて、
“ 石 ” を用いることは、地球そのものを用いることかと思います。
そこで、
採掘・運搬・加工・建築といった様々な行程や、その流れを、
地球そのものである “ 石 ” の変容と考えてみますと、
“ 石 ” を用いて造られた建造物や構築物というものは、
「岩石型惑星」である地球が、その姿かたちを変えたもの、
言わば “ もうひとつの地球 ” といういう風にも思われてきます。

古代文明を今に伝える世界各地の巨石建造物は、
太古の人々が、地球から地球を切り出して創造しようとした、
“ もうひとつの地球 ” ・・・などと埒もない妄想ではありますが、
名古屋城の石垣と、堀跡に転がる夥しい “ 石 ” を眺めるうち、

“ 石 ” に宿る力や不思議さというものに、
ついぞ感じたことのない魅力を覚えるものでありました。

                 

帰路に通りがかった名古屋市役所の屋上部も、この通り。



地下鉄「市役所前」の出入り口も又、この通り。

城の周辺には、名古屋城のシンボルに因んだ新しい商業施設、
“ 金シャチ・ゾーン ” も展開されていました。
名古屋城については、その再建計画および維持管理等々、
市政を二分する論争や賛否を分つ問題も伝えられていますが、
それもまた名古屋城在ればこそ。
それらの全てを含めて、昔も今も、

『尾張名古屋は城で保(も)つ』

ということでありましょう。


「オミャーサンノコト、イッツモミマモットルデヨー、
 オソガイコトアラセンテ、イキヤーテ!ススミャーテ!」
何となくイタリア語のようでもありますが名古屋弁であります。
翻訳致しますと、

「あなたのことを、龍神がいつも見守っているので、
 恐れることはありません、生きよ! 進め!」

皆様、良き日々でありますように!


               









杉田玄白のマネジメント力

2021-06-06 15:41:49 | 歴史
昨日(2021年6月5日)の千種公園。

どの品種も、ほぼ満開であります。


週末しか訪れることは出来なかったものの、

三週に亘って御覧頂きましたユリの数々。


このピンク色の“ アルブフェイラ ”なる品種が、

今週は花期を迎えていました。


同じピンク系のユリでも、こちらはまた異なる品種。

確か“ ボードウォーク ”だったと記憶しますが、
間違っておりましたら申し訳ありません。

                

江戸時代・中後期の医師、前野良沢(1723~1803)は、
鎖国体制下の日本にあって、46歳からオランダ語を学び始め、
江戸と長崎において短期間の講義を受けた後、
ヨハン・アダム・クルムス(1689~1745)が著わした、
オランダ語・解剖学書「ターヘル・アナトミア」を、
3年5ヶ月という長年月をかけて翻訳・編集し、
「解体新書」として世に出したことで知られています。

「ターヘル・アナトミア」翻訳にまつわる艱難辛苦の数々は、
前野良沢と共に作業に当たった杉田玄白(1733~1817)の、
「蘭学事始」に明らかにされています。

外国語の習得や理解が極めて困難な時代に、
邦語であってさえ難解な医学専門書を訳出しようとする試みは、
流木にまたがって太平洋を横断するようなものであり、
装備の無いまま厳冬期のヒマラヤ登頂に挑むようなもの。
加えて最も問題となるのが、
鎖国体制下において洋書を翻訳し出版すること自体が、
国禁に触れる犯罪行為と見做され、ひとつ間違えば、
命にかかわる刑罰の対象となること。

その辺りの危うさを充分に認識していた杉田玄白は、
翻訳作業に携わった桂川甫周(1751~1809)の縁故を頼りに、
まずは将軍家の大奥に要約版「解体新書」を献上し、
また京都の公家たちにも同じものを配布するなどして、
一種の“ 売り込み ”工作を図り、事前に評判を取り付けつつ、
後々問題が生じた場合に備えて布石を打ってゆきます。

「解体新書」の要約版を、あらかじめ大奥に献上するあたり、
玄白先生が人心世情に通じていた人物であったことが窺われます。
こうした歴史の流れを俯瞰して、
整形外科医・川嶌眞人先生は、このように記されます。

『このようにして本が国禁に触れないための
 周到な根回しをしてようやく出版に漕ぎつけた。
 江戸時代に外国語の解剖書を翻訳するという
 パイオニア精神の旺盛な前野良沢の所業を生かすには、
 杉田玄白のようなマネジメントとしてのコーディネートがなければ
 出版を成し遂げることは
 到底できなかったのではないかと思われる。』
 (引用元:川嶌眞人著「前野良沢とパイオニア精神」/
  臨床スポーツ医学 33巻2号 / 文光堂)

前野良沢が時代に先駆けて挑んだ「解体新書」出版。
その挑戦が偉業であることに間違いありません。
只、偉業を偉業たらしめた力の一つに、
杉田玄白の“ 根回しのチカラ ”、現代に言うところの、
“ マネジメント能力 ”があったのだということを、
上記引用元の玉稿に教わりました。

良沢先生を“ アーティスト ”、玄白先生を“ マネージャー ”、
などとお呼びしては、冗談が過ぎると叱責も受けましょうが、
いつの時代、どのような場所にあっても、
“ モノ作り ”と“ モノ売り ”とが両輪となって機能しなければ、
“ モノ ”という車両が動くことはないものと思われます。

〈創造・アート・クリエイティブ〉の領域を「才」、
〈収益・マネジメント・マーケティング〉の領域を「財」、
という風に想ってみますと、やはり本来的に望ましいのは、
「才財相乗・才財協同・才財和合」の世界でありましょうか。

                

千種公園を訪れた方々は、
ユリ園に入ると皆一様に「ワァー」と声を上げたきり、

あとはもう只々感に堪えないといった表情で、
カメラ片手に園内を巡っておられます。


私自身を含め、人々のそうした姿を見るにつけ、
花の力とは、つくづく偉大なものと思います。

花には、人々を喜ばせようとか感動させようといった、
意図や魂胆など微塵も有りはしません。
にもかかわらず、人々は喜びを覚え感動に心を震わせます。
それは作為なきがゆえにこそ生まれる“ 偉大さ ”の為せる業。
真の“ 偉大さ ”とは、おそらくそうしたものなのでしょう。


うつろいゆく花の在りよう、総じては自然界の在り方すべてを、
至上の音楽、至高の楽譜と受け止めて生きることの喜びは、

その“ 偉大さ ”に打たれる喜びであろうかと思います。


               






山脇東洋の言葉

2021-04-04 12:31:44 | 歴史
『理 或いは顛倒すべくも、
 物 いずくんぞ誣いるべけんや。
 理を先にして物を後にすれば、
 則ち上智も失う無き能わぬ也。
 物を試みて言を其上に載すれば、
 則ち庸人も立つ所ある也 』

1754年(宝暦四年)、日本で初めての人体解剖を行った医師、
山脇東洋(1705~1762)は、それから5年後の1759年(宝暦九年)、
解剖から得た知識を「蔵志(ぞうし)」として出版します。

上掲の言葉は、その「蔵志」の中に記されたもの。
「顛倒(てんどう)」は、間違い、誤りの意。
「誣(し)いる」は、嘘をつく、あざむくの意。

「〈理〉は、時として間違うことがあるけれど、
 〈物〉は、嘘をつかない。
 〈理〉を先にして〈物〉を後にすれば、
 学識に秀でた人物であっても失敗を免れることができない。
 〈物〉を試して、そこから得られた知識を積み重ねれば、
 凡庸な人間であっても世の中の役に立つであろう。」

概ね、このような意味でありましょうか。
東洋先生が人体解剖を行い、実際に人間の内臓がどのような配置で、
どのように繋がっているのかが明らかになるまで、
日本の医学は、中国古来の生命論や身体観に由来する、
「おそらくこうだろう」といった曖昧な仮説に基づいたものでした。

1700年代には、長崎を経由して西洋の解剖学書が入手可能となり、
東洋先生は、自ら行った解剖によって実際に見た人間の内部と、
手に入れた西洋の解剖学書に載せられた人体解剖図とが、
驚くほど一致することに大きな感動を覚えると同時に、
それまで習い信じてきた中国伝来の観念的な人体内部像が、
あまりにも真実とはかけ離れたものであることに愕然とします。

冒頭に引いた「蔵志」の言葉は、
そうした背景から絞り出された言葉であることを想いますと、
〈理〉とは、おおよそ理論・理屈の〈理〉、
つまりは観念的・抽象的な机上の論を指し、
〈物〉とは、おおよそ実物・現物の〈物〉、
つまりは実地体験・実践経験を意味するものと思われます。
すると先の言葉は、

「理論・理屈や机上の論というものには誤りが生じるけれど、
 実際に自分の眼で見、自分の耳で聞いたことに誤りはない。
 理論に縛られ、或いは仮説や学説に捉われて、
 実地・実修・実践・実学をおろそかにすれば、
 優れた人物といえども間違いを犯す恐れがある。
 実際に挑み、行い、自分で実験し、実態を調べたりして、
 そうした試行錯誤の中から得られた実智に基づいてゆけば、
 誰しもが有用・有益なものを築き上げることができる。」

そのようなメッセージとして受け取れようかと思います。

               

精神科医・神田橋條治先生は著書の中で、こう語っておられます。

『わたくしは、
 種々の理論が彫琢精錬されていくのを目にするたびに、
 パーキンソンの法則を連想する。
 組織は完成の瞬間に機能を停止する。
 理論とて同じであるように思える。』

理論は自らの整合性と美しさを求めて完成へと突き進み、
その作用によって、いつしか理論は、

『実用性から遠ざかり、
 ただ論争というコトバ文化の場での力だけが強まる。』
    (神田橋條治著「精神療法面接のコツ」岩崎学術出版社)


音楽療法士・笠嶋道子先生も又、インタヴューに答えて、

『私もいろいろな理論を勉強しましたが、
 実践をしている人が書いたものでないのは、
 実際の現場には当てはまらないことが多かったですね。』

『確かに理論は必要ですが、
 実践の中から生まれた理論でなければ意味がありません。』
  (笠嶋道子著「そのままのあなたでいい」一橋出版株式会社)

神田橋先生の言葉も、笠嶋先生の言葉も、
今を去ることおよそ300年前に東洋先生が「蔵志」に記した、

『理 或いは顛倒すべくも、
 物 いずくんぞ誣いるべけんや。』

と、どこか通底し、響きあうもののように感じます。

               

〈理〉を理念・理想、〈物〉を現場・現実としてみた時、
東洋先生の言葉は医学を超え、
人間存在や社会病理といったものにも当てはまる気がします。

政府機関のパワーハラスメント相談員が、
部下の男性に対してパワハラを繰り返していた。
一流とされる企業のセクシャルハラスメント対策委員が、
部下の女性に対してセクハラを繰り返していた。

こうした事件が連日のように報道されていますが、
こうしたことは今に始まったことではありません。
古来より、
高尚な理念や高潔な理想を声高に唱える個人や組織に限って、
その実情や現場の実態は、およそ嘆かわしいもの。
総じて、
「理を先にして物を後に」しているがゆえに起きる災い、
と言えるかも知れません。

以上の事をあれこれ考え合わせてみますと、
東洋先生が伝えたいこととは、つまるところ、

「論より証拠」

では私自身はどうなのか?
これが哀しいかな、どうも〈理〉や〈論〉が先走り、
〈物〉すなわち〈実〉や〈証拠〉がおろそかになる傾向にあり、
東洋先生の言葉を自戒とするものであります。


             










鳴海宿の高札

2019-03-31 14:50:00 | 歴史
本日(2019年3月31日)は全国的に〈戻り寒波〉だそうで、
当地も〈花冷え〉に震える寒さ。
気の森・入り口に命を営む桜樹の皆さんも

とまどいながらの7~8分咲きといったところでした。

               

さて先週のブログでは、
名古屋市緑区の成海神社に参拝したことを書かせて頂きました。

成海神社の所在地である鳴海の地は、
江戸期においては東海道五十三次・第四十番・鳴海宿として
大いに栄えたという土地柄だけに、こう歩いておりますと、
町のそこかしこに、
江戸の残り香・歴史の余韻というものが感じられました。

それらは又、時の潮騒とでも申しましょうか、形が無く、
大気に溶けて鼻腔や鼓膜を微細に震わせるだけのものから、
寺社建築・歴史遺構などの姿カタチ在るものまで様々ですが、
そのカタチ在るものの一つが・・・こちら、

江戸時代に鳴海宿の辻に立てられていた

〈高札(こうさつ)〉の数々であります。

現代のようにマスメディアが発達しておらず、
ましてやネット・SNS等の無い時代にあっては、
何らかの情報を大勢の人々に伝える手段として、
宿場町のように往来の盛んな場所に、
こうした高札を掲げるの一般的でありました。


こちらは正徳元年(1711年)に触れ出された

キリスト教禁止令

「きりしたん宗門は・・・云々」と書かれていますが、
無学にして正しく判読することが出来ません。
おそらくは〈潜伏キリシタン〉の情報提供者に対する
賞金の額などが列記されているものと思われます。

肝心の伝えるべき内容の文字は小さいながらも、
「奉行!」とだけは大きく書かれている辺り、
いつの時代でも人間社会が患う精神病理が垣間見えます。


こちらは大政奉還により江戸幕府が無くなった直後、
慶応4年(1868年)に太政官から出された

「外国人を殺害したり乱暴したりしてはならない」
という内容の触れ書き。

復元されたものとは言え、こうして、
宿場町に立っていた高札を、その宿場町で見上げておりますと、
髷を結った着物姿の人々から漏れ出るさざめき、
潜められた声や息遣い等々が伝わって来て、
禁教令や攘夷禁止令といった教科書的知識だったものが、
にわかに生々しく感じられて来ます。

               

当時のキリスト教禁止令等々を観るにつけ、
いつの時代も為政者・支配者・統治者・上位者というものは、
配下にある人間の精神的内面世界までをも統制したい・・と、
叶うはずも無い願いを抱きがちであることが分かります。

明日は新元号が発表されますが、
洋の東西を問わず歴史を観れば明らかなように、
国家の統治者が、その国民を統治する手始めは、
元号制定などの〈時間管理権〉を掌握することでした。

浅薄なワタクシめは、元号一新に浮かれるタイプの人間ですが、
いつの間にか管理された時間の中に生涯を送り、
知らぬ間に「右にならえ」で歩いているのかと思うと、
そこはそれ浮かれてばかりもいられないような気がします。