~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

宝塚記念 2023

2023-06-25 18:50:02 | 音楽関係
言わずもがなのことながら、
管弦楽には管弦楽ならではの魅力があり、
吹奏楽には吹奏楽ならではの魅力があります。

奉職しております学び舎には、吹奏楽部があり、
放課後には、教室から、廊下から、時によっては校庭から、
金管・木管・ティンパニ・パーカッション等の響きが聴かれます。

至らぬ早川は、若い命たちの練習風景に出くわすと、
つい我を忘れて聴き入ってしまい、
名状しがたい想いのままに立ち尽くすのですが、
彼ら彼女たちにしてみれば、その振る舞いは不審者そのもの。

怪訝そうな視線を浴びて我に返る私は、
「ありがとうございます。頑張って下さい」とだけ告げて、
その場をソソクサと去るのであります。

“ Sounds of Green ” ~ 緑龍、音を養い蓄える


                 

さて本日は、宝塚記念。
宝塚記念?・・・なんのこっちゃ、
と思われる向きも在ろうかとは存じますが、
阪神競馬場において「宝塚記念」なるレースが行われ、
その出走ファンファーレを作曲したという経緯があり、
毎年、ブログの御題として触れさせて頂いております。

で、先程テレビ視聴ではありますが、
阪神の空に鳴り渡るファンファーレを聴かせて頂きました。
競馬を始めとする勝負事には、全く縁の無い早川ですが、
本命馬 “ イクイノックス ” とルメール騎手との人馬一体、
後方に控えたまま溜めに溜め、
最後の直線で一気に全馬を抜き去る姿には圧倒されました。

                 

ファンファーレと申しますと、
吹奏楽編成で演奏される場合が多いものですが、
こちらは、
フレデリック・ショパン(1810~1849)へのオマージュ楽曲、
“ フレデリック・ファンファーレ ” 、その管弦楽版。

皆様、良き日々でありますように!


               










自己の真影

2023-06-18 14:43:06 | 
先程(6月18日 昼過ぎ頃)城山八幡宮を参拝しましたところ、
木喰い虫の害から守る為 “ 連理木 ” が養生されていました。

養生シートが外されるのは、秋半ばと思われます。

                 

『一生のうちには、ぬきさしならず、
 人としての真影をみせねばならぬときが、
 一度はあるように思う。』
(宮城谷昌光「鳳凰の冠」文藝春秋刊より)

御承知置きの通り、宮城谷昌光氏の世界は、
国々が興亡を繰り返し戦乱絶えることなき古代中国を舞台とし、
野心と欲望の渦巻く人間世界に在って尚、
又そのような人間世界だからこそ、
徳義を尊び、道心に生きようとする人物が、
読み手の心闇を照破するような筆致で描かれます。

上掲引用文は、春秋時代(紀元前771年から約300年間)、
晋(しん)の国の太傅(たいふ / 司法長官)として政務を執った、
“ 叔向(しゅくきょう)” の生きざまを著した「鳳凰の冠」の一説。

「鳳凰の冠」に描かれる叔向は、
権謀術数入り乱れて混濁する政治世界という海の中、
博識と情誼を以て「真っ直ぐに生きる」ことを自らに課す人物。
しかしながら古代から現代に至るまで、いつの時代に在っても、
「真っ直ぐに生きる」などということが許されるほど、
世の中は優しくも甘くもありません。

真っ直ぐに生きようとすれば、
そうはさせまいという有形無形の力が働くのが人生の常。
紆余曲折を強いられる日々において、叔向は、
自分自身の “ 真影 ” というものに想いを巡らせます。
“ 真影 ” とは、つまり自己の偽らざる本当の姿。

この “ 真影 ” なるものが、
鮮やかな光を放つものであれば良し、
さもなくば生きる甲斐なし・・・というのが、
叔向の人生指針なのであります。

                 

『人としての真影』

物語を読み返す度、いつもこの言葉の傍らで立ち尽くします。
なぜと申して、
私が私自身の “ 真影 ” を捉えるためなのでありますが、
実際のところ、自己の “ 偽影 ” を “ 真影 ” と誤認したまま、
日々、“ 偽影 ” に振り回されているのではないか・・・などと、
不明瞭な想いが湧くばかりで、自己の “ 真影 ” を捉えきれません。

そもそも「真っ直ぐに生きよう」などと思わぬ質の早川、
その “ 真影 ” は、いびつなものでありましょう。
それゆえにこそ叔向のような人物に憧れ、
ひいては宮城谷昌光氏の描く世界に惹かれるのであります。


“ Dragon stream ” ~ 彩ノ帯、縒り合わさりて龍となる



“ Purple Dragon ” ~ 紫龍、天と地を往来す

皆様、良き日々でありますように!


               










自然か 不自然か・・?

2023-06-11 13:49:34 | 雑感
「親や先生の言うことを、よく聞くお子さん」と、
「親や先生の言うことを、あまり聞かないお子さん」。

単純に分けられるものではありませんが、
いま仮に、上記二つのタイプに分類してみた上で、
どちらが「良いか悪いか」を問うた時、
一般的には当然のことながら、
「親や先生の言うことを、よく聞くお子さん」の方が、
良い存在であり、好ましい存在であろうかと思います。

では、どちらが「自然か不自然か」を考えてみた時、

皆様は、どのように判断なされますでしょうか。

「親や先生の言うことを、よく聞くお子さん」というのは、
幼児期から “ 後天的かつ人為的な矯正 ” や “ 習慣付け ” 、
それらを「躾(しつけ)」と呼んでも良いかと思いますが、
そうした或る種の文化的な強制力が加えられ続け、
又お子さん本人も、様々な「躾」を受け入れ続けてきた結果、
「親や先生の言うことを、よく聞く」性質に育った・・・と、
そういう過程なり経緯なり側面なりがあるように思われます。
仮にそうだとしますと、
「親や先生の言うことを、あまり聞かないお子さん」というのは、
そうした「躾」を受け付けにくい性質であり、
見方を変えれば、「躾」という、
外から加えられる力に対する抵抗力・反発力の持ち主、
という風に言えるかも知れません。

                 

「こうしなければならない」という人間社会の規則と、
「こうありたい」と活動する生命本来のエネルギー。
あるいは又、
「こういう場面では、こう在るべき」といった、
集団生活・社会生活を送る上での様々なルールと、
「ただ伸びたい方向へ伸びよう」とする自然生命の奔流。

人間生命という “ 場 ” の中で繰り広げられる、

“ Culture ” vs “ Nature ”

拮抗する二つのチカラに想いを馳せつつ、
今ひとたび “ 自然か不自然か ” を問うてみますと、
「親や先生の言うことを、よく聞くお子さん」というのは、
好ましくはあれど、実は “ 不自然 ” で、
「親や先生の言うことを、あまり聞かないお子さん」というのは、
悩ましくはあれど、むしろ “ 自然 ” なのではないか?

浅薄な感想に過ぎませんが、
学び舎の現場、その片隅に息を潜めつつ、
若い命たちの「心体」と「身体」、
その “ 動き・流れ・巡り・運び ” を眺めておりますと、
ふと、そのように感じる時があります。



皆様、良き日々でありますように!


               









ガブリエルの左手には 2023

2023-06-04 15:14:10 | 日常
東海地方も梅雨入りしました。
先日、その梅雨入り間際と開花のタイミングを見計らって、

名古屋市千種公園内に広がるユリ園を訪れてまいりました。


御承知置きの通り、大天使ガブリエルは、
左手に “ ユリの花 ” を捧げ持ち、右手に “ 印 ” を結び、

聖母マリアへの受胎告知や預言者ダニエルへの幻中降臨など、


神々の言葉や意思を伝える “ メッセンジャー ” として、

古来より神話世界に語り継がれ、


ヤン・ファン・エイク(1395~1441)、
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)といった、
名だたる画家達によって描かれてきました。

近現代においては、
その「伝達者」としての超越的能力にあやかろうということなのか、
「通信事業の守り神」としても尊崇を集めているのだとか。


「通信」を「 “ 信 ” を通じる」という風に考えてみますと、
「発信」とは「 “ 信 ” を発する」こと、
「受信」とは「 “ 信 ” を受ける」こと。

仮にそうであるとするならば、大天使ガブリエルという存在は、
「根源的な “ 信 ” の守護者」ということでありましょうか。

                 

現代社会、特には ツイッター・インスタグラム・ブログ 等々、
SNSを始めとしたインターネット上では、
日々膨大な量の情報が「発信・受信」されているわけですが、

では果たしてどの程度、
“ 信 ” を発するという意味での「発信」が行われ、
“ 信 ” を受けるという意味での「受信」が為されているのか?


その辺りは一概に判断し難いものがあるように感じつつ、
我が身を振り返りますと、

当ブログは私にとって一種の「発信」ツールでありますが、
どうしても私自身が持つ “ 思考のバイアス ” や、
“ 考え方のフィルター ” といったものを通るため、
“ 信 ” に基づき “ 信 ” を心掛けて書き進めてはいても、
“ 信 ” に違背するところもあろうかと思います。

                 

先に、大天使ガブリエルをして、
「根源的な “ 信 ” の守護者」と書きましたが、

なぜ「“ 信 ” の守護者」が左手にユリを携えるのでありましょうか?


早川の勉強不足で、未だ芳しい “ 答え ” を見出せていません。

しかしそれは、諸賢碩学の論旨論説の中に見出せていない・・・、
というだけのことであり、


ユリの花々を、こう飽くことなく眺めております内には、

その清温優美な姿そのものに、既に “ 答え ” は宿っていると、
そのようにも思われてまいります。



皆様、良き日々でありますように!