~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

ヨーダ

2024-03-17 16:47:11 | 映画
そろそろ桜の便りが聞かれ始めました。
気ノ森、手前の緑地公園に根を下ろす桜樹の蕾は、

未だ、これくらい。

                 

職場の先輩から、
スターウォーズ全作を時系列順に視聴することを薦められ、
久しぶりに「エピソードⅠ~ファントム・メナス」から観直し、
先ほど「エピソードⅧ~最後のジェダイ」まで見終わり、
残すは「エピソードⅨ~スカイウォーカーの夜明け」。

なるほど、制作年・公開年の順で観るのとは違い、
“ サーガ ” の時系列を追うことで、
キャラクターの感情なり心情なりに添うことが出来、
より一層、物語の世界観を楽しめました。

ジェダイマスター・ヨーダから発せられる言葉は、
その時代その時代で水の流れの如く変わり、
若きルーク・スカイウォーカーには、
『ジェダイの聖典をよく読み、よく学べ』と教え、
年老いたルーク・スカイウォーカーには、
『ジェダイの聖典など燃やしてしまえ』と命じます。
単発で観ると矛盾を孕んだように思える台詞も、
時系列を追えば、

「学び、身に付け、そして捨てよ」

という “ 道 ” の蘊奥が語られているように感じます。

実際「エピソードⅧ~最後のジェダイ」では、
ジェダイの寺院も貴重な聖典も灰燼に帰すのですが、
その燃え上がる炎を見つめながら、

『強さ、熟達の技のみならず、
 弱さ、愚かさ、失敗の数々をも伝えよ。
 失敗こそは最高の師である。』

老境のルークに語るヨーダの言葉は一片の真理。

「学び、身に付け、そして捨てよ」。
とは言え、その心は、

捨てて捨てられるものは捨てられるけれど、
捨てても捨てても捨てられないものが確固として有る。
滅んで滅ぶものは滅ぶけれど、
滅んでも滅んでも滅ばないものが厳然として在る。

ということでもありましょうか。


“ Something in KINOMORI ”
~ 気配 ~

皆様、良き日々でありますように!


               









「ブータン 山の教室」

2022-02-20 14:30:22 | 映画
パオ・チョニン・ドルジ監督による、2019年制作のブータン映画、

「ブータン 山の教室」(日本公開は2021年)を観ました。

主人公の青年ウゲン・ドルジは、
教員資格を持ちはするものの教育に対する熱意はカケラも無く、
一日も早くブータンを出国してオーストラリアに渡り、
歌手としての成功を夢見る、いまどきの “ チャラい ” 若者。
ある日、政府から呼び出され、案の定、
その教員態度の悪さを咎められると同時に、
ブータン北部に位置するルナナ村への赴任を命じられます。
そこは、ウゲンが祖母と暮らすブータンの首都ティンプーから、
実に8日間を要する所謂 “ 僻地 ” 。
ウゲンは嫌々ながらルナナ村へ向けて出発します。

丸一日、長距離バスに揺られて着いたガサは、標高3000m。
そこには案内人のミチェンがロバを引いて待っていました。
ガサからは、ロバに荷物を載せて約1週間に及ぶ徒歩の旅。
峠の向こうに在るであろうルナナ村を目指します。

標高5240mのカルチュン峠では、案内人のミチェンが、
タルチョ(経文を記した五色旗)を仏塔に結んで旅の安全を祈り、
ウゲンにも祈ることを勧めるのですが、
ウゲンには、それが迷信にしか思えず、低酸素の苦しさもあり、
ミチェンを蔑むように見て先を急ぐのでした。 

野営を重ね、ようやく辿り着いたルナナ村は、
標高4800m地点に所在する人口わずか56人の村。
電気(ソーラー発電)こそ通ってはいるものの停電がち、
トイレは地面に穴を掘ったもので、用を足す際は木の葉で拭き、
調理や暖を取るための燃料は乾燥させた “ ヤク ” の糞・・等々、
都会ティンプー育ちのウゲンには到底耐えられない環境で、
村民からは敬意を払われ歓待されもするのですが、
ウゲンは、着任早々にして「自分には無理っすよ」と、
一日も早く帰りたい旨を村長に告げるのでした。

その一方で、
黒板さえ見たことのない生徒たちが持つ学びへの渇望、
父親がアル中のため人知れず苦労する生徒ペム・ザムとの交流、
物資が乏しいため、有る物を出来る限り大切にする村人の生活、
過去に深い悲しみを負った村長の言葉と眼差し、
ルナナ村へ案内してくれたミチェンの誠実な人柄、そして何よりも、
山岳・渓谷・風といった南ヒマラヤ山脈の大自然が、
ウゲンから少しずつ “ チャラさ ” を剝ぎ取ってゆきます。

そんな中、ウゲンの耳に不思議な歌が聴こえてきます。
歌声を頼りに向かった丘には一人の女性の姿がありました。
名前はセデュ。彼女は村一番の唄い手とされていました。

ウゲン『それ何の歌なんすか?』
セデュ『「“ ヤク ” に捧げる歌」よ』

“ ヤク ” とは、哺乳綱・ウシ目・ウシ科の “ ヤク ” 。
その乳はチーズやバターに、その肉は貴重なタンパク源に、
その毛皮は厳しい寒さを凌ぐ衣服に、その糞は燃料にと、
村民にとっては無くてはならない大切な存在。
村人たちは敬意と愛情を以て “ ヤク ” を飼い、
セデュは “ ヤク ” への感謝を込めて唄っているのでした。

(いやいや、“ ヤク ” に捧げるって・・・)

ウゲンにとって歌や音楽というものは、
まず以て自己顕示欲や承認欲求を満たす為のもの、
上手くなって聴衆から報酬を受け取れるようになる為のもの、
オーストラリアで一旗上げる為のもの、といった要素が強く、
目の前でセデュが行っている、
誰も聞く人のいない丘の上で唄うという行為、ましてや、
歌を “ ヤク ” に捧げるという行為に理解が及びません。

その様子を見て取ったセデュは、優しく言葉を紡ぎます。

『私はね、歌を万物に捧げているのよ。
 人、動物、神々、この谷の全ての精霊たちにね。
 オグロヅルは鳴く時、誰がどう思うかなんて考えない。
 ただ鳴くの。 私も同じ。』

そして再び「“ ヤク ” に捧げる歌」を朗々と唄い始めます。
それはルナナ村の山と谷に反響しながら風に運ばれ、
峠の仏塔に結ばれた五色旗の祈りと一つになり、
ブータンの空と大地を渡り、大気圏を巡り、地球を潤す歌。

ウゲンは、
自分が考えていた歌や音楽の概念を覆される思いがし、
ウゲンの中に「いま、ここに生かされている自分」、
とでも言うような謙虚な気持ちが芽生えます。
それは又、セデュへの淡い恋の芽生えでもあったのでしょう、
ウゲンは村に残ることを決め、
ミチェンたちと協力して黒板やチョーク作りに精を出し、
麓から教材を送ってもらい、熱心に授業に取り組み始めます。

幾つかのエピソードを挿みつつ、物語と共に季節も進み、
ある日、ルナナ村を囲む山々の頂上が白く変わります。
ヒマラヤ山脈の南端、標高4800m。
冬の訪れは、学校の長期閉校をも意味していました。

ペム・ザムを始め、別れを惜しむ生徒たちと村の人々。
後ろ髪を引かれる想いのウゲン。
別れの挨拶を交わし、村を離れた辺りで人影が近づきます。
セデュでした。
春になり、再び開校されたとしても、
おそらくウゲンとは違う教員が赴任することになります。
もう二度と会うことはない二人。

『私はね、歌を万物に捧げているのよ。
 人、動物、神々、この谷の全ての精霊たちにね。
 オグロヅルは鳴く時、誰がどう思うかなんて考えない。
 ただ鳴くの。 私も同じ。』

かつてセデュが語った言葉を、ウゲンは嚙みしめます。

およそ半年前、ルナナ村へ向かう時に越えたカルチュン峠。
往路ではミチェンの勧めにも応じなかった祈りの作法も、
復路ではウゲンがミチェンに先んじて仏塔に神酒を捧げ、
タルチョを結んで旅の安全を祈ります。

自分が天地であると思っていた “ チャラい ” 若者が、いま、
天地の中に生かされている自分を見出して祈りを捧げている。
生徒に教育を授けに山を登ってきた “ 不熱心な ” 教師が、いま、
生徒・村人・大自然から学びを授かって山を下りようとしている、
ミチェンの瞳に映っているのは、成長したウゲンの姿でした。

               

「ブータン 山の教室」は、大部分の出演者および生徒たちが、
現地で暮らす本人であり、実名で登場していることを思えば、
一種のドキュメンタリーと言えるかも知れません。
特に何が起きるということもなく、淡々と進む物語ですが、
それがかえって「“ ヤク ” に捧げる歌」を際立たせ、
歌がコダマする大自然の美しさ厳しさが胸に迫ります。

尤も、「ブータン 山の教室」は、
僻村での暮らしを通して成長する青年教師の物語・・・という、
ありきたりな学園ドラマではありません。

映画の中では、ルナナ村へ着任早々、
村人たちの余りに貧しい暮らしぶりを目の当たりにして、
こんなところには居られない、早く帰りたい、
自分はオーストラリアへ行って歌手になるのだ、
と漏らすウゲンに、村長が言います。

『この国は世界一幸せな国と言われているそうです。
 だけどウゲン先生は、幸せを求めて外国へ行くのですね。』

パオ・チョニン・ドルジ監督が、
「ブータン 山の教室」を通して世に問いたかったこと、
その一端が、村長のセリフに滲んでいるような気がします。

御承知置きの通り、2008年前後のブータンは、
「世界幸福度ランキングにおいて上位」と謳われていました。
しかし2021年には、100位辺りまで下降しています。
その原因の一つとして、格安スマホ等の機器が出回り、
多くの国民が世界の情報を知り得るようになったと同時に、
自分たちの現状が「いかに貧しいか」ということを、
否が応でも知らされることになったからとも謂われています。

他者との “ 比較 ” といったことさえ意識しなければ、
人は「自分にとっての幸せ」を感じる、唯それだけで、
満ち足りた感覚や喜びに包まれることが出来ます。
この満ち足りた感覚や喜びが、言わば「幸福感」と呼ばれるもの。
しかし、ひとたび他者との “ 比較 ” に意識が向き、
他者と自分とを比べるという事態に晒された途端、
それまで「自分にとっての幸せ」と感じられていたものが色褪せ、
その代わりに他者が持つものが鮮やかに見え始め、
他者よりも高い収入、他者よりも高い学歴、他者よりも優れた伴侶、
他者よりも大きな家、他者よりも快適な暮らし等々、
総じて「他者に勝る幸せ」を渇望することになります。

「自分にとっての幸せ」が「幸福感」をもたらすものだとすれば、
「他者に勝る幸せ」は「優越感」をもたらすとも考えられますが、
当然のことながら「幸福感」と「優越感」は、似て非なるもの。

只、そうは分かっていたとしても、
これだけの情報社会、競争社会の中に在っては、
もはや他者との “ 比較 ” を意識せずに生きることは出来ません。

“ 比較 ” 社会の中で、常に「他者に勝る幸せ」を獲得し続け、
「優越感」に浸り続けられる人は、それで良いでしょう。
しかし早川自身を含め、多くの人々はそうはいかないはず。
他者との “ 比較 ” からもたらされるのは、おおよそ「劣等感」。
そこから生まれるのは、妬み、嫉み、羨ましさ、といった、
ネガティブな感情ではないでしょうか。
しかし同時に、そうしたネガティブな感情が着火剤となり、
あの国には負けない、あの企業には負けない、あいつには負けない、
といった心の炎を生み、その燃える力を推進力として、
世界は、社会は、個人は、そして科学は、文化は、発展してきたと、
そういう側面も有ろうかと思います。

そこに横たわるのは “ 葛藤 ” と “ 矛盾 ” 。
人間誰しもが生きてゆく上で必然的に抱えざるを得ない、
“ 葛藤 ” と “ 矛盾 ” 。

映画「ブータン 山の教室」は、
かつては「心の幸福度」が高いとされたブータンの光と影、
首都ティンプーと僻地ルナナ村との格差を背景として、
この “ 葛藤 ” と “ 矛盾 ” を浮き彫りにします。

勿論のこと、解答は示されません。
人類が抱える “ 葛藤 ” と “ 矛盾 ” に解答などありません。

映画のラストで映し出されるのは、
オーストラリアに渡り、バーの片隅でギターを弾きながら、
誰もが知るポップスの定番を唄うウゲンの姿。
けれども、酔客は誰一人としてウゲンの歌など聞きはしません。

憧れの地、念願だった歌手・・・夢の幾つかは叶ったはず。
けれどもなぜだろう? 少しも「幸福感」が感じられない。
自分が追い求めてきたのは、他者との “ 比較 ” から得られる、
僅かばかりの「優越感」だったのではないか?
もしかしたら、いま目の前で楽しそうに飲食を楽しんでいる人達も、
皆「幸福感」と「優越感」を混同したままに生きているのでは?

そんな空しさを帯びた問いが、心の内に湧いたのかも知れません。
ウゲンは、定番ポップスの弾き語りを曲半ばで止めます。
酔客たちは、歌は聞いていなかったものの、
音が鳴り止んだことには気付き、それを不審に思ったのでしょう、
皆が会話を止めて怪訝な視線をウゲンに向け始めます。
束の間、静寂に包まれる店内。

その静寂の中、ウゲンはギターを脇に置き、居ずまいを正し、
定番ポップスとは違う歌を唄い始めます。
それはセデュから習い覚えた、あの「“ ヤク ” に捧げる歌」。

セデュは、今日もルナナ村の丘で唄っているだろうか?
“ ヤク ” に、空に、大地に、神々に、精霊に、そして万物に、
歌を捧げているだろうか?

上手いか下手か、優れているか劣っているか、
売れているか売れていないか、若いか老いているか、
美しいか醜いか、元気か病気か、勝者か敗者か等々・・・、
あらゆる面に於いて、又それを意識するしないに関わらず、
他者との “ 比較 ” の中に日々を送らざるを得ない私たち、
本当はどうでもいい「優越感」を求め続けざるを得ない私たち、
本当は大事にしたい「幸福感」に別れを告げざるを得ない私たち。

「“ ヤク ”に捧げる歌」が映画の最後で唄われた時、
この歌が “ ヤク ” に捧げられるのみならず、
“ 葛藤 ” と “ 矛盾 ” に生きる私たちに捧げられる歌として、
早川には、切なくも温かな賛歌のように聴こえました。




               









映画「パーフェクト・センス」

2020-03-29 15:39:33 | 映画
こちらの桜は、毎年、他の品種に先駆けて、
新緑の葉と共に白い花を開きますので、

察するに「大島桜」かとも思いますが、
200種を超える桜樹のこと、違うかも知れません。


今年は記録的な暖冬だったので、休眠打破の法則に照らして、
あまり花を付けないのではないか?と気を揉んでおりましたが、

杞憂でありました。

               

エヴァ・グリーン、ユアン・マクレガーという、
二大スター俳優の競演も話題となった2011年のイギリス映画、
「パーフェクト・センス」(監督:デヴィッド・マッケンジー)。

映画の中で描かれている社会と世界の状況が、
新型コロナウィルス感染拡大という現況と重なるところが多く、
見直し或いは思い起こされた方もおられることと思います。
私もその一人であります。

ある日突然、謎のウィルスによって嗅覚を失う人々。
その感染力は強大で、瞬く間に世界に拡がり、その症状は、
嗅覚喪失のみならず、味覚、聴覚・・・と、
人間から五感を奪ってゆきます。

世界各地で感染症が発生し始めた頃、
感染症研究者のスーザン(エヴァ・グリーン)と、
料理店シェフのマイケル(ユアン・マクレガー)は出会い、
どこか心の距離を隔てつつも付き合い始めますが、
急速に蔓延する感染症に罹患します。

五感の一つ一つを失いゆく中で、それに反比例するかのように、
お互いの心を開き合い、結ばれてゆく二人。
しかし、人間と人間が心を開いて距離を縮めるということは、
お互いが近くなった分、自らの影を相手の内界に落とすということ。
落とし合う影の濃さに耐えかねてか、二人は激しく傷つけ合い、
かつて魅かれ合ったチカラと同じチカラで離れ合うことに。

社会が恐慌状態にある中、
奪えるものは奪おうとする人、
希望を失わず人間らしくあろうとする人、
平常時には覆われている個々人の本質も露わになる中、
感染は拡大し続け、崩壊してゆく世界の中で人々は考えます。

本当に大事なもの、大切にすべきものは何なのか?
本当に大事な人、大切にすべき人は誰なのか?

やはりお互いが必要であると悟ったスーザンとマイケル。
しかし、ふたりに訪れたのは視覚の喪失。
閉じられる肉眼、そして開かれる心眼。
その時、心の眼は何を観、心の耳は何を聴くのか。

スーザンのモノローグで進行する1時間半の映像詩は、
観方しだいでは、全編がスーザンの心象世界とも受け取れます。
何にせよ現況が現況だけに、考えさせられます。


それでも世界は希望の糸を紡ぐ

HOPE , REBIRTH !!

              








映画「メッセージ」

2018-05-13 15:31:33 | 映画
本日は、路面を叩く雨音も猛々しい天候ですが、
昨日は、爽やかな皐月晴れでした。

五月の青空へ勢いよく伸びる松の新芽は

密教法具の三鈷杵を彷彿とさせます。

弘法大師・空海上人が留学先の中国から帰国する際、
明州・現在の寧波(ニンポー)から出航するにあたり、

「日本における伽藍建立の地を示したまえ」

と祈願されつつ、海岸から東の空の遥か彼方へ、
三鈷杵を投げられた・・・という伝説が偲ばれます。


青もみじの種は

赤い羽根を左右に広げ、自らを遠くへ運んでくれる、
五月の風を待っていました。

               

映画「メッセージ」(原題:Arrival)は、
世界公開時、大きな話題となった作品ですので、
レンタルを含め、御覧になった方も多いことと思います。

それゆえ今更にして何を書くということではなく、
只、ワタクシめ自身の備忘録に過ぎませんが、
しばしお付き合いの程、お願い申し上げます

               

飛来したのは、一見するとアボカドのような宇宙船。
船内にはダイオウイカに似たエイリアン。

この地球外生命体とのコミュニケーションを図るため、
言語学者:ルイーズ・バンクスが招集されます。
言語解析は難航するものの、ルイーズの努力と天才により、
エイリアン言語の特徴が次第に明らかとなり、
不完全な質問形ながらも、彼らの飛来目的を尋ねてみると、

「我々は、3000年後の地球人に助けられる。
 そのために今、あなた達に手渡すものがある・・・」

エイリアンが時間を往来する能力を持つ事が判明したものの、
「手渡すもの」という言葉の解釈を巡って意見が分かれ、
これを「武器」と誤解した大国の軍隊が攻撃準備に入ります。

一方、時制を超えたエイリアン言語に通じ始めたルイーズは、
「使用言語が、脳の在り方と思考形態を変化させる」という
〈サピア=ウォーフ仮説〉の影響を受け、その脳裏には、
未来の出来事が映像として浮かぶように・・・。

その予知能力のお陰で、
エイリアンとの軍事衝突が回避され、世界は救われますが、
彼女の予知能力は、彼女自身の未来に起きるであろう
耐え難い悲しみをも容赦なく映し出してゆきます。

自分の歩む道の先に、
想像を絶する苦しみや悲しみが待ち受けている・・・。
はっきりとそう知ってしまったルイーズは、
そこから未来に向け、果たしてどういう選択をするのか。

断ちがたく結び合う希望と絶望。
分かちがたく紡ぎ合う生と死。
人間として生きるとは、どういうことなのか。
運命とは、時間とは、言語とは、そして愛とは?

VFX映像、カメラワーク、音響効果、
ヨハン・ヨハンソン作曲のサウンドトラック、
ラストシーンに寄り添うマックス・リヒター作曲の弦楽曲。

観る度に、心の波打ち際を彷徨い、
聴く度に、想いの淵に佇みます。



              














「午後8時の訪問者」

2017-11-05 13:35:31 | 映画
ジェニーは、小さな診療所を切り盛りする若き女医。
医師としての腕の良さと医療従事者としての真摯な姿勢とで、
ジェニーの診療所にはひっきりなしに患者さんが訪れます。
そのせいか彼女は少し疲れ気味。

その日、いつも通り午後7時に閉診し、
研修に来ている医学生へアドヴァイスを施すものの、
心を閉ざす研修生との間に些細な感情の行き違いが・・・と、
そんな中、午後8時に診療所のドアブザーが鳴ります。

研修生はドアを開けようと立ち上がりますが、
ジェニーは、彼に対する苛立ち紛れに言い放ちます。

「診察時間を過ぎているのだからドアを開けなくていい!」

翌日、診療所近くの川べりで少女の遺体が見つかります。
警察による周辺防犯カメラの映像解析により、
少女は死亡推定時刻直前の午後8時、何らかの助けを求めて
診療所のドアブザーを鳴らしていたことが分かりました。

その事実を知ったジェニーは後悔します。

「あの時、ドアを開けていたら、
 少女は死なずに済んだかも知れない」

少女は身元不明のまま、荒れた無縁塚に埋葬されます。
自責の念に駆られるジェニーは事件の真相を探りますが、
その過程で浮かび上がって来るのは、
人間が持つ表と裏・社会が抱える光と影・日常に潜む真実と嘘。
そして意外な事実が明らかに。

物語の終盤、犯人と思われる人物Aと対峙するジェニー。
Aは開き直り、彼女に訴えます。
「あれは事故だったんだ。事件を蒸し返して何になる。
 少女は身元不明なのだし、既に死んでいる。」

ジェニーは即座に言い返します。
「少女は私たちの中に生きている。」

               

私たち人間は、
日常において様々な選択を迫られながら生活しています。
昼食に何を食べるか?というような小さな選択から
何の職業に就いて生きてゆくか?というような大きな選択まで、
数ある選択肢の中から一つだけを選ぶことしか出来ません。

「あの時、もしドアを開けていたら・・・」

割り切れない思いを引きずり続ける女医ジェニーの姿は、

「あの時、もし違う学校に入学していたら」
「あの時、もし違う会社に入社していたら」
「あの時、もし違う誰かと結婚していたら」

そんな想いを抱く多くの人々の姿と重なります。

               

つえが手放せない御高齢の患者さんを介助しながら、
慎重に2段の段差を降り、そこでゆっくりと向きを変え、
右手の診察室に入ってゆく静かなラストシーン。

淡々とした流れの中に深い淵をのぞかせる小品。
名匠ダルデンヌ監督によるベルギー=フランス映画
「午後8時の訪問者」


秋の夜長。
皆さま、良き日々でありますように