パオ・チョニン・ドルジ監督による、2019年制作のブータン映画、
「ブータン 山の教室」(日本公開は2021年)を観ました。
主人公の青年ウゲン・ドルジは、
教員資格を持ちはするものの教育に対する熱意はカケラも無く、
一日も早くブータンを出国してオーストラリアに渡り、
歌手としての成功を夢見る、いまどきの “ チャラい ” 若者。
ある日、政府から呼び出され、案の定、
その教員態度の悪さを咎められると同時に、
ブータン北部に位置するルナナ村への赴任を命じられます。
そこは、ウゲンが祖母と暮らすブータンの首都ティンプーから、
実に8日間を要する所謂 “ 僻地 ” 。
ウゲンは嫌々ながらルナナ村へ向けて出発します。
丸一日、長距離バスに揺られて着いたガサは、標高3000m。
そこには案内人のミチェンがロバを引いて待っていました。
ガサからは、ロバに荷物を載せて約1週間に及ぶ徒歩の旅。
峠の向こうに在るであろうルナナ村を目指します。
標高5240mのカルチュン峠では、案内人のミチェンが、
タルチョ(経文を記した五色旗)を仏塔に結んで旅の安全を祈り、
ウゲンにも祈ることを勧めるのですが、
ウゲンには、それが迷信にしか思えず、低酸素の苦しさもあり、
ミチェンを蔑むように見て先を急ぐのでした。
野営を重ね、ようやく辿り着いたルナナ村は、
標高4800m地点に所在する人口わずか56人の村。
電気(ソーラー発電)こそ通ってはいるものの停電がち、
トイレは地面に穴を掘ったもので、用を足す際は木の葉で拭き、
調理や暖を取るための燃料は乾燥させた “ ヤク ” の糞・・等々、
都会ティンプー育ちのウゲンには到底耐えられない環境で、
村民からは敬意を払われ歓待されもするのですが、
ウゲンは、着任早々にして「自分には無理っすよ」と、
一日も早く帰りたい旨を村長に告げるのでした。
その一方で、
黒板さえ見たことのない生徒たちが持つ学びへの渇望、
父親がアル中のため人知れず苦労する生徒ペム・ザムとの交流、
物資が乏しいため、有る物を出来る限り大切にする村人の生活、
過去に深い悲しみを負った村長の言葉と眼差し、
ルナナ村へ案内してくれたミチェンの誠実な人柄、そして何よりも、
山岳・渓谷・風といった南ヒマラヤ山脈の大自然が、
ウゲンから少しずつ “ チャラさ ” を剝ぎ取ってゆきます。
そんな中、ウゲンの耳に不思議な歌が聴こえてきます。
歌声を頼りに向かった丘には一人の女性の姿がありました。
名前はセデュ。彼女は村一番の唄い手とされていました。
ウゲン『それ何の歌なんすか?』
セデュ『「“ ヤク ” に捧げる歌」よ』
“ ヤク ” とは、哺乳綱・ウシ目・ウシ科の “ ヤク ” 。
その乳はチーズやバターに、その肉は貴重なタンパク源に、
その毛皮は厳しい寒さを凌ぐ衣服に、その糞は燃料にと、
村民にとっては無くてはならない大切な存在。
村人たちは敬意と愛情を以て “ ヤク ” を飼い、
セデュは “ ヤク ” への感謝を込めて唄っているのでした。
(いやいや、“ ヤク ” に捧げるって・・・)
ウゲンにとって歌や音楽というものは、
まず以て自己顕示欲や承認欲求を満たす為のもの、
上手くなって聴衆から報酬を受け取れるようになる為のもの、
オーストラリアで一旗上げる為のもの、といった要素が強く、
目の前でセデュが行っている、
誰も聞く人のいない丘の上で唄うという行為、ましてや、
歌を “ ヤク ” に捧げるという行為に理解が及びません。
その様子を見て取ったセデュは、優しく言葉を紡ぎます。
『私はね、歌を万物に捧げているのよ。
人、動物、神々、この谷の全ての精霊たちにね。
オグロヅルは鳴く時、誰がどう思うかなんて考えない。
ただ鳴くの。 私も同じ。』
そして再び「“ ヤク ” に捧げる歌」を朗々と唄い始めます。
それはルナナ村の山と谷に反響しながら風に運ばれ、
峠の仏塔に結ばれた五色旗の祈りと一つになり、
ブータンの空と大地を渡り、大気圏を巡り、地球を潤す歌。
ウゲンは、
自分が考えていた歌や音楽の概念を覆される思いがし、
ウゲンの中に「いま、ここに生かされている自分」、
とでも言うような謙虚な気持ちが芽生えます。
それは又、セデュへの淡い恋の芽生えでもあったのでしょう、
ウゲンは村に残ることを決め、
ミチェンたちと協力して黒板やチョーク作りに精を出し、
麓から教材を送ってもらい、熱心に授業に取り組み始めます。
幾つかのエピソードを挿みつつ、物語と共に季節も進み、
ある日、ルナナ村を囲む山々の頂上が白く変わります。
ヒマラヤ山脈の南端、標高4800m。
冬の訪れは、学校の長期閉校をも意味していました。
ペム・ザムを始め、別れを惜しむ生徒たちと村の人々。
後ろ髪を引かれる想いのウゲン。
別れの挨拶を交わし、村を離れた辺りで人影が近づきます。
セデュでした。
春になり、再び開校されたとしても、
おそらくウゲンとは違う教員が赴任することになります。
もう二度と会うことはない二人。
『私はね、歌を万物に捧げているのよ。
人、動物、神々、この谷の全ての精霊たちにね。
オグロヅルは鳴く時、誰がどう思うかなんて考えない。
ただ鳴くの。 私も同じ。』
かつてセデュが語った言葉を、ウゲンは嚙みしめます。
およそ半年前、ルナナ村へ向かう時に越えたカルチュン峠。
往路ではミチェンの勧めにも応じなかった祈りの作法も、
復路ではウゲンがミチェンに先んじて仏塔に神酒を捧げ、
タルチョを結んで旅の安全を祈ります。
自分が天地であると思っていた “ チャラい ” 若者が、いま、
天地の中に生かされている自分を見出して祈りを捧げている。
生徒に教育を授けに山を登ってきた “ 不熱心な ” 教師が、いま、
生徒・村人・大自然から学びを授かって山を下りようとしている、
ミチェンの瞳に映っているのは、成長したウゲンの姿でした。
「ブータン 山の教室」は、大部分の出演者および生徒たちが、
現地で暮らす本人であり、実名で登場していることを思えば、
一種のドキュメンタリーと言えるかも知れません。
特に何が起きるということもなく、淡々と進む物語ですが、
それがかえって「“ ヤク ” に捧げる歌」を際立たせ、
歌がコダマする大自然の美しさ厳しさが胸に迫ります。
尤も、「ブータン 山の教室」は、
僻村での暮らしを通して成長する青年教師の物語・・・という、
ありきたりな学園ドラマではありません。
映画の中では、ルナナ村へ着任早々、
村人たちの余りに貧しい暮らしぶりを目の当たりにして、
こんなところには居られない、早く帰りたい、
自分はオーストラリアへ行って歌手になるのだ、
と漏らすウゲンに、村長が言います。
『この国は世界一幸せな国と言われているそうです。
だけどウゲン先生は、幸せを求めて外国へ行くのですね。』
パオ・チョニン・ドルジ監督が、
「ブータン 山の教室」を通して世に問いたかったこと、
その一端が、村長のセリフに滲んでいるような気がします。
御承知置きの通り、2008年前後のブータンは、
「世界幸福度ランキングにおいて上位」と謳われていました。
しかし2021年には、100位辺りまで下降しています。
その原因の一つとして、格安スマホ等の機器が出回り、
多くの国民が世界の情報を知り得るようになったと同時に、
自分たちの現状が「いかに貧しいか」ということを、
否が応でも知らされることになったからとも謂われています。
他者との “ 比較 ” といったことさえ意識しなければ、
人は「自分にとっての幸せ」を感じる、唯それだけで、
満ち足りた感覚や喜びに包まれることが出来ます。
この満ち足りた感覚や喜びが、言わば「幸福感」と呼ばれるもの。
しかし、ひとたび他者との “ 比較 ” に意識が向き、
他者と自分とを比べるという事態に晒された途端、
それまで「自分にとっての幸せ」と感じられていたものが色褪せ、
その代わりに他者が持つものが鮮やかに見え始め、
他者よりも高い収入、他者よりも高い学歴、他者よりも優れた伴侶、
他者よりも大きな家、他者よりも快適な暮らし等々、
総じて「他者に勝る幸せ」を渇望することになります。
「自分にとっての幸せ」が「幸福感」をもたらすものだとすれば、
「他者に勝る幸せ」は「優越感」をもたらすとも考えられますが、
当然のことながら「幸福感」と「優越感」は、似て非なるもの。
只、そうは分かっていたとしても、
これだけの情報社会、競争社会の中に在っては、
もはや他者との “ 比較 ” を意識せずに生きることは出来ません。
“ 比較 ” 社会の中で、常に「他者に勝る幸せ」を獲得し続け、
「優越感」に浸り続けられる人は、それで良いでしょう。
しかし早川自身を含め、多くの人々はそうはいかないはず。
他者との “ 比較 ” からもたらされるのは、おおよそ「劣等感」。
そこから生まれるのは、妬み、嫉み、羨ましさ、といった、
ネガティブな感情ではないでしょうか。
しかし同時に、そうしたネガティブな感情が着火剤となり、
あの国には負けない、あの企業には負けない、あいつには負けない、
といった心の炎を生み、その燃える力を推進力として、
世界は、社会は、個人は、そして科学は、文化は、発展してきたと、
そういう側面も有ろうかと思います。
そこに横たわるのは “ 葛藤 ” と “ 矛盾 ” 。
人間誰しもが生きてゆく上で必然的に抱えざるを得ない、
“ 葛藤 ” と “ 矛盾 ” 。
映画「ブータン 山の教室」は、
かつては「心の幸福度」が高いとされたブータンの光と影、
首都ティンプーと僻地ルナナ村との格差を背景として、
この “ 葛藤 ” と “ 矛盾 ” を浮き彫りにします。
勿論のこと、解答は示されません。
人類が抱える “ 葛藤 ” と “ 矛盾 ” に解答などありません。
映画のラストで映し出されるのは、
オーストラリアに渡り、バーの片隅でギターを弾きながら、
誰もが知るポップスの定番を唄うウゲンの姿。
けれども、酔客は誰一人としてウゲンの歌など聞きはしません。
憧れの地、念願だった歌手・・・夢の幾つかは叶ったはず。
けれどもなぜだろう? 少しも「幸福感」が感じられない。
自分が追い求めてきたのは、他者との “ 比較 ” から得られる、
僅かばかりの「優越感」だったのではないか?
もしかしたら、いま目の前で楽しそうに飲食を楽しんでいる人達も、
皆「幸福感」と「優越感」を混同したままに生きているのでは?
そんな空しさを帯びた問いが、心の内に湧いたのかも知れません。
ウゲンは、定番ポップスの弾き語りを曲半ばで止めます。
酔客たちは、歌は聞いていなかったものの、
音が鳴り止んだことには気付き、それを不審に思ったのでしょう、
皆が会話を止めて怪訝な視線をウゲンに向け始めます。
束の間、静寂に包まれる店内。
その静寂の中、ウゲンはギターを脇に置き、居ずまいを正し、
定番ポップスとは違う歌を唄い始めます。
それはセデュから習い覚えた、あの「“ ヤク ” に捧げる歌」。
セデュは、今日もルナナ村の丘で唄っているだろうか?
“ ヤク ” に、空に、大地に、神々に、精霊に、そして万物に、
歌を捧げているだろうか?
上手いか下手か、優れているか劣っているか、
売れているか売れていないか、若いか老いているか、
美しいか醜いか、元気か病気か、勝者か敗者か等々・・・、
あらゆる面に於いて、又それを意識するしないに関わらず、
他者との “ 比較 ” の中に日々を送らざるを得ない私たち、
本当はどうでもいい「優越感」を求め続けざるを得ない私たち、
本当は大事にしたい「幸福感」に別れを告げざるを得ない私たち。
「“ ヤク ”に捧げる歌」が映画の最後で唄われた時、
この歌が “ ヤク ” に捧げられるのみならず、
“ 葛藤 ” と “ 矛盾 ” に生きる私たちに捧げられる歌として、
早川には、切なくも温かな賛歌のように聴こえました。