~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

その時 大地は六種に震動す

2018-06-24 18:50:24 | 仏教関係
1995年の阪神・淡路大震災発生当時、

「蓄積されたエネルギーが解放されたのだから、
 もう阪神地域では向こう百年、大きな地震は起きない」

と、まことしやかに囁かれていたように記憶します。
そこには《もうこのような地震は起きて欲しくない・・・》
という願いが込められていたことと思います。

そうした願いもむなしく大阪北部地震が発生しました。
多くの活断層が複雑に絡み合う場所では、
いつでもどこでもマグニチュード6級の地震が繰り返される、
という専門家の指摘には、只うなだれるしかありません。

被災者の方々および被災地に、
一日も早く平穏な日常が戻ることを心から願うものであります。

               =◯◯◯=

本日は6月24日ですが、毎月24日は地蔵菩薩の御縁日。
仏教発祥の地、古代インドにおけるサンスクリット名を
「クシティ(大地)・ガルバ(蔵)」
大地を蔵するもの・・・という原義から、漢字圏においては
「地蔵菩薩」の名を冠せられることになりました。

因みに虚空蔵菩薩のサンスクリット名は
「アカシャ(虚空)・ガルバ(蔵)」
虚空を蔵する〈虚空蔵菩薩〉と大地を蔵する〈地蔵菩薩〉、
この二体の尊格を以って宇宙の一切を蔵するところから、
虚空蔵菩薩と地蔵菩薩は同体であるとも説かれます。

地蔵菩薩について説かれた経典には、
インドで成立した大乗経典「地蔵菩薩本願経」、
密教経典の「地蔵菩薩陀羅尼経」、
日本で生み出された「延命地蔵菩薩経」等々ありますが、
それらのいずれにおいても共通して描かれているのは、
仏の滅後を任され、仏のいない世の中を託された地蔵尊の姿。

「延命地蔵菩薩経」の中、地蔵菩薩が現われる場面では、

『その時 大地は六種に震動す』

と説かれています。
この大地が震動する現象は地蔵菩薩に限った事ではなく、
例えば如意輪観世音菩薩は、

『この如意輪陀羅尼を説き巳(お)わるに
 大地は六種に震動す』(如意輪陀羅尼神咒経)

また毘沙門天王は、

『大地 震動して毘沙門天 出で来たり』(毘沙門天功徳経)

というように仏尊が出現する際には大地が震動します。

「六種」の震動については諸説あるものの概ね、
仏尊の〈入胎・出胎・出家・成道・転法輪・入滅〉という
六つの契機に、大地が感応・共鳴する六種類の震え方とされ、
「動・起・湧・震・吼(く)・撃」の六震と呼ばれます。

               =◯◯◯=

『その時 大地は六種に震動す』

六つの契機とは言え、経典には「その時」とありますので、
それぞれのタイミングは別々の時期・事象ではなく、
その時その瞬間に六つの世界が並列して現われ、
その時その刹那に六つの震動が同時に起きると解釈できます。

震動は「振動」でありますので、物理学の超弦理論で説かれる、
振動数の異なる〈超対称性ひも状粒子〉が想起されます。
超対称性の弦は、
多次元時空(超弦理論では9次元)において振動し、
本質的には一つの弦が、観測時の振動数の違いによって、
異なる現象として立ち現れます。

「地蔵菩薩本願経・見聞利益品(けんもんりやくぼん)」には、

『夢中において無辺を見て』

とあります。
この「無辺」は宇宙に存在する全てのものという意味であり、
それゆえに〈延命地蔵菩薩経〉において地蔵尊は、
医療従事者・農業従事者・商業従事者・物流関係者・
薬草・医薬品・医薬部外品・馬・牛・山岳・海洋・・・等々、
在りとあらゆる存在に変身すると説かれています。

               =◯◯◯=

「さまざまな作物や資源を生み出す大地の徳が象徴された菩薩」
(下泉全暁著「諸尊経典要義」青山社刊)

大地あっての私たちであり、また大地は動かないものとして、
私たちは日常を営み、歩行を始めとする動作を紡いでいますが、
そもそも地球は時速約1700㎞という高速で自転しながら
太陽の周りを公転しているので、大地は常に動いています。

『その時 大地は六種に震動す』

地蔵菩薩が私たちに問うている事の本質に、
想いを馳せるものであります。




              










「モネ それからの100年」展

2018-06-17 15:50:28 | 日常
名古屋市美術館で開催中の

「モネ それからの100年」展に行ってまいりました。

モネの実物絵画は過去に何度か観ていますが、
今回受けた感銘は、これまでとは別次元のものでありました。
その理由の一つは、
モネの絵画とは何か?について先賢によって書かれた文章を、
今年に入ってから折に触れて読んでいたことに在ります。

それが、この一文

『モネが到達した地点は「みる」というよりも、
 それに先立つ「みえる」であり、環界とひとつながりになった
 眼球の経験ではなかったのだろうか』
(内海健著「自閉症スペクトラムの精神病理」医学書院刊)

〈見る〉という行為は、
〈見る〉という行為の主体と〈見られる〉対象とが、
分断・分節されることによって拓かれる経験であり、
{主体と主体を取り巻く環境世界(環界)との分断・分節}が、
いったん獲得されてしまうと、それこそが「正しい見方」として
生活の隅々にまで浸透してしまう。

つまり、
私たちが「見ている」と思い込んでいる世界は、
それを見ている主体から切り離され、
知覚細胞・知覚神経の経路・信号に従って構成された世界。
在りて在るがままの世界ではなく、
あくまでも「構成」された世界・・・しかしながら、

『モネは、この堅固に構成された知覚の構造を逆行し、
 「みえる」世界を現出せしめた。
 それは「知覚」というより「感覚」と呼ぶ方がふさわしい、
 心的距離がゼロまで縮減した、
 視覚の故郷のようなものである。』
               (引用元:同書)

先賢の洞察に導かれるまま絵画の前に立ってみますと、
そこには、
あなたとわたしが分断されていない世界、
私と森羅万象とが分節されていない世界、
文脈をまるごと保った、在りて在るがままの世界、
誰しをも受け入れ、何人たりとも拒絶することのない世界が、
時空の限りに大きく扉を開いているのでありました。

               

「トム・ソーヤの冒険」等の著者として知られる
マーク・トウェイン(1835~1910)は、
子供の頃からミシシッピ川の美しさに魅了されていましたが、
長じてからいざミシシッピ川を下ろうとして、その為に必要な
〈川の長さ・深さ・流れの速さ〉等々の知識を獲得した途端、

「彼のなかから、川の美しさが消失してしまったという」
(モイラ・スチュワート著「患者中心の医療」診断と治療社刊)


ワーズワース(1770~1850)は

「われわれのおせっかいな知識が
 物事の美しい形を崩してしまう
 分析することで死をもたらしている」
         ("The Tables Turned"より)

と書き付け、
南方熊楠(1867~1941)は

「天地間に
 これが特に種なりと極印を打ったような品は一つもなく、
 自然界に属の種のということは全くなきものと悟るが
 学問の要諦に候」(上松氏宛て書簡より)
(生命は、その系統を明確に分ける事は出来ない。
 自然界に存在するものは、そこに全体が集約されていて、
 これが〈属〉これが〈種〉という分類は、
 本来不可能である事を知るのが学問の要である。)

と説いておられる等々の事から察せられるように、
分断・分節・分析・脱文脈は、人間の文明を発展させつつも、
人間の精神にとってはネガティブな側面を合わせ持ちます。

               

「ジヴェルニーの積みわら、夕日」「チャリング・クロス橋」
「バラの小道の家」「霧の中の太陽」「睡蓮」等々、

そこに広がるのは只々豊かとしか言いようのない、
分断・分節を超えた、あるいは分断・分節を包み込んだ世界。
時間と空間とが微細に共振し、光と影とが交響する世界。
そうした世界と、内海健氏が前掲書の中に記された

「心的距離がゼロまで縮減した、視覚の故郷・・・」

という言葉の旋律とが脳内のどこかで共鳴するのか、
今回はじめてモネの絵画世界に触れたような気がしました。

それは絵画を鑑賞するという行為でありながら、
私自身がモネの五感を借り受け、モネの絵画を介して、
ひととき宇宙と溶け合う体験でありました。



(Claude Monet 1840~1926)



              













ガブリエルの左手には 2018

2018-06-10 14:10:05 | 自然
名古屋市・千種公園は面積こそ広くはありませんが、
ユリの名所として知られており、訪れた日(6/3 日曜)は、
早朝にもかかわらず既に多くの方々が来園されていました。



ユリには50種を越える品種があるそうで、
こちらはコラーロビーチ品種

その名の通り、陸地に広がるサンゴ礁。

こちらはエル・ディーヴォ品種

「エル」はミカエル・ラファエル・ガブリエルの「エル」。
「ディーヴォ」は「ディーヴァ(歌姫)」の男性形と解き、
いささか強引ではありますが「神々の調べ」とでも。

こちらはフレミントン品種の立ち姿

皆さま御存知のように、
ユリの茎は意外なくらい強く丈夫に出来ています。

天空に向かい真っ直ぐに伸びる姿は、
世界の神話に共通して現れる宝剣や霊杖のイメージと重なり、
花の構造は円錐曲線を始めとする幾何学的特徴に溢れ、
花弁の枚数〈6〉・雌しべ雄しべの総数〈7〉は、
洋の東西を問わず全文明の根底で響き続けている数字・・・、

と諸賢によって既に語り尽くされたことの数々も、
こう実際に観察するうちに神秘の輪郭が浮かび上がり、
大天使ガブリエルが捧げ持つ花として、
なぜユリが選ばれたのか?が、あらためて実感されます。

こちらはクーリエ品種

日本では、慶び事・祝い事に白いユリが尊ばれます。

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)や
ヤン・ファン・エイク(生年不詳~1441)他多くの画家は、
白いユリを手にした大天使ガブリエルが、
神の意志や言葉を伝達する為に降臨する場面を描きました。

白いユリが「クーリエ(使者)」と名付けられているのは、
大天使のそうした役割に由来するのでしょうか。

大天使ガブリエルの起源は

メソポタミア文明に遡るという説もあるそうで

花響(はなゆら)の中、アレコレと想いを巡らせるうちに

飛天を始め、天翔けるアジアの天使たちまでもが降臨し、
ユリの園はひととき幻想の海・・・

と、いつも以上にボーっとするワタクシめを

現実に引き戻してくれるのはヒメハナバチの羽音でありました。

               

金管楽器・開口部のような花の姿を観て

うろ覚えながら思い出しましたのは、
旧約聖書の中で語られる「最後の審判」。

聖なるトランペットを吹き鳴らし、音と音楽の力を以って、
この世を去った人々や、生きながらにして心を滅ぼした人々、
それら全てに向けて、復活・再生の道を示すのが、
大天使ガブリエルではなかったかと記憶します。

               


cantabile con sentimento



sonare con passione


これからは雨模様の日々、
皆さま、御体調等崩されませんように!



              











ミツバチとホタルブクロ

2018-06-03 13:52:35 | 日常
初夏の訪れを告げるホタルブクロの花



その釣り鐘の音色に誘われて



花弁の内側を確認したら



素早く中へ!

画像では分かりにくいのですが中にいます

ミツバチは花から花へと飛び回るだけなのですが、
その胴部には、しっかりと花粉が付着していました。

蜜を集めることに成功したミツバチと、
受粉・交配へ向けての目的を達成した花。
分かりきった生態も、あらためて間近に触れますと、
その〈循環型・超=等価交換システム〉の精妙さに、
驚異と畏敬の念を禁じ得ません。

引き換えて私たちの社会が基盤とする現行の等価交換は、
人間を経済的価値に換算するシステム・・・言わば、
命に値段を付け、命を値踏みするシステムですので、
いざ価値の妥当性について認識の違いや齟齬が生じますと、

「君には失望した」
「おまえには、これだけのことをしてやったのに」
「誰のおかげで生活できているのか」
「あなたの変わりは、たくさんいる」

等々の言葉が飛び交うことになります。

自身の経済的価値については残念無念なワタクシめ、
ついつい「隣の芝生は青く見える」的発想で、
自然はいいよなぁ・・・などと浅はかに考えがちですが、
それぞれの生命システム、それぞれの社会システムは、
進化の過程・歴史的必然の上に成り立っているのでありました。

               

気ノ池の畔で交わされていたミツバチとホタルブクロの唄は、

「いま人間として生かされているおまえは何なのか」

そのことを自然の側が、こちら側に問いかけている音楽と心得て、
折に触れ耳辺に甦らせたいと思います。


皆さま、良き日々でありますように!