~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

「3密を避けよ」と聞く度に

2020-11-29 15:28:00 | 仏教関係
“ 天地・アメツチ ”という巨大交響曲は、

晩秋から初冬へと、その響きを変えてゆきます。
作曲技法の一つ〈転調〉の源は、紛れもなく自然界の移ろい。


水質が改善されつつある〈気ノ池〉の姿を観ることが、

いま最も嬉しく、有り難く感じることであります。

               

昨11月28日(土)は、不動明王の御縁日に当たり、

「名古屋、栄(さかえ)の成田山」として親しまれている、
成田山新勝寺・栄分院〈萬福院〉に参拝してまいりました。


本堂の外には、柄杓で水を汲んで明王像にかける、
所謂“ 水かけ不動 ”の石像が奉安されていて、

その手前には、般若心経が書かれた〈マニ車〉があります。


こちらは空海上人を祀る、弘法堂前の〈マニ車〉ですが、

御承知置きの通り〈マニ車〉なるものは、
回した数だけ読経したことになるという、修行不足の私にとっては、
もってこい?の仏具ということもあり、“ これ幸い ”と、
クルクルクルクル回してまいりました。

               

申し上げるまでもなきことながら、
萬福院は真言宗・智山派ですので、密教寺院であります。

顕教・密教、それぞれが尊い教えでありますが、
真言密教においては、教主を大日如来としていて、
この大日如来は、私たちの内界及び外界の全て、
素粒子や細胞等の極微から、銀河やブラックホール等の極大まで、
万事・万物・万象と、それら万事・万物・万象を、
万事・万物・万象たらしめている“ 縁 ”の働きとを象徴し、
つまり、大日如来とは“ 宇宙 ”そのもの、と説かれます。

巷間、大日如来をして、太陽の象徴と解説される場合があり、
無学の私はつい誤解しそうになりますが、上述の観点に立てば、
大日如来が太陽でも、太陽の象徴でもないことが分かります。

太陽を太陽たらしめている働きが大日如来であって、
太陽の誕生も、いずれ訪れる太陽の消滅も、
大日如来のシステム・・・と個人的には、そのように心得ます。

               

そもそも密教とは何か?
限られた紙幅の中に答えを示すだけの能力を持ち合わせません。
只、浅薄な私見として、
この宇宙たる大日如来、大日如来たる宇宙が時々刻々に行っている、
密やかにして微細、密やかにして壮大な活動を「密」と呼び、
この「密」を身体活動・言語活動・意識活動の三領域に分け、
それぞれを、
身密(しんみつ)口密(くみつ)意密(いみつ)の“ 三密 ”とし、
それら宇宙の“ 大なる三密 ”と、
人間の身体活動・言語活動・意識活動という“ 小なる三密 ”とを、
一つに融け合わせる為の理論と技法の体系・・・それが密教と、
概ねそのように捉えております。

“ 大なる三密 ”と“ 小なる三密 ”とが融け合うことで、
宇宙と人とが「二つのままに一つ、一つのままに二つ」、
このことが個々人の「身に即して」深く了知され得るがゆえに、

『即身(そくしん)』

と説かれ、また、
「宇宙」と書いて「みほとけ(御仏)」と読む密教なれば、
個々人が「その身に即して御仏と成る」がゆえに、

『即身成仏(そくしんじょうぶつ)』

と謳われていることは、既に知られているところ。
何にせよ、“ 三密 ”という概念こそは、
「密」の教えの中核を為しているということであります。

翻って現況、
新型コロナウィルス感染拡大を防ぐために推奨され、
私自身も日々に心掛けている行動様式の中の一つに、
密集・密接・密閉の“ 3密 ”を避けるというものがあります。

コロナ禍の重大性・危険性が指摘され始めた2月半ば頃から、
連日に亘り、

「3密を避けましょう!」
「3密に注意しましょう!」

という文言を目にし耳にする度、その「サンミツ」は、
密集・密接・密閉の“ 3密 ”であって
身密・口密・意密の“ 三密 ”ではないことは承知しつつも、
なぜなのでしょうか・・・身の縮むような思いが致します。

一日も早いコロナ禍終息を、心から祈るものであります。




              







人の心と風の心

2020-11-22 14:17:18 | 神社仏閣
海底の白真珠は、阿古屋貝に宿ると聞きますが、

地上の黒真珠は、楠(クスノキ)の枝先に実っていました。

               

春頃から濁りが増し始め、それに伴って水面の大半が藻に覆われ、
ある種の病態を呈していた“ 気ノ池 ”でありましたが、
池を管理する自治体により、藻の撤去と水質の改善が図られ、

水面に晩秋の樹影を映すまでになりました。
これを「池の健康回復」と呼んで良いのかどうかは分かりません。

只、不思議と申しましょうか、この「池の健康回復」を巡って、
私には身を以って知る、ある種の実感というものがあります。

地域住民の方々、特に御高齢の方々は、早朝などの時間帯、
池を周回されていて、私自身そうした方々と会釈を交わす内に、
お一人お一人の判別が付き、印象・雰囲気の違いも分かってきます。
そして、その表情・歩容・姿勢等を拝察しておりますと、
池の水が濁り、水面が藻に覆われてゆくにつれ、
その表情・歩容・姿勢等が、どこか塞ぎがちなものへと変わり、
逆に水面の藻が取り除かれ、池水の濁りが消え始めるにつれ、
今度は、その表情・歩容・姿勢等が伸びやかなものになってゆく、
漠然とではありますが、そのような変化が感じられました。
ある種の実感と申し上げたのは、このこと。

尤も、これは私の思い過ごしに過ぎず、ただ景観の良し悪しが、
観る人の心身に影響を及ぼしただけのことなのかも知れません。
その上で尚、
環境のどこかに、滞り・詰まり・汚濁などが生じて環境が病むと、
その環境内に生きる人間もまた自ずと病態に傾いてゆき、また、
たとえ病んだ環境であっても、そこに浄化と循環がもたらされ、
環境が健康を回復すれば、その環境内に生きる人間もまた、
いつしか元気を回復し健康を取り戻してゆく・・・と、
久しぶりに“ 気ノ池 ”が微笑んでいるかに観えた喜びに任せて、
いささか子供じみたことを想うものであります。



               

城山八幡宮・拝殿の両脇には、
邪気祓いの橘(タチバナ)が植えられていて、

少し前までは、緑色の果皮だったのですが、


日々に色付いて、ここ一両日は御覧の通りであります。

これからは日に日に寒気が強まりますが、それに反比例して、
橘の果皮を染める色合いは、暖気を増してゆきます。


大山祇神・天照大神・建速須佐之男命を祀る、
神さびた摂社の屋根瓦には落ち葉が降り積もり、

浄域の風情は、秋の名残り。


帰りしなの参道脇、ふと転じた視線の先には、
落ち葉の集まりが、ハートの形を成していました。

境内を掃き清める職員の方の遊び心でしょうか、
ただ単に風のいたずら心でしょうか、それとも、
人の心と風の心、二つの心の共作でしょうか。


              










心妙剣と無想剣

2020-11-15 14:24:34 | 音楽関係
本日11月15日は、坂本龍馬(1836~1867)の生誕日にして命日。
思い入れの強い楽曲でもあり、貼るだけは貼らせて頂きます。

“♪勇気出して 手にした武器捨てて 大きな未来の扉あけよう!”

               

人間の器が大きい、緻密かつ大胆、新しいもの好き、明るい、
夢と現実のバランス感覚に優れている、他人の目を気にしない、
常識や既成概念を超える、人の内懐にスッと入る・・・等々、
現行流布する坂本龍馬のイメージを決定づけたものと言えば、
司馬遼太郎(1923~1996)著「竜馬がゆく」。
この中に、竜馬の剣術師匠・千葉貞吉が、貞吉の兄であり、
北辰一刀流開祖・千葉周作が好んだ兵法噺を語るくだりがあります。
題して“ 心妙剣と無想剣 ”。
国民文学とも言われるほど人口に膾炙する小説でもあり、
この奇譚を好まれる方も多いことと思います。

深山で、キコリが斧をふるっていると、いつの間にか、
異獣が背後に現れて、キコリの伐採作業を見ています。
気付いたキコリが異獣に名を問うと、“ サトリ ”と答えます。
キコリはサトリを生け捕ろうと思いますが、そう思った途端、

『そのほう、いまわしを生け捕ろうと思ったであろう』
(司馬遼太郎「竜馬がゆく」文春文庫、以下引用は同書)

内心を言い当てられたキコリは生け捕りを諦めて、
斧で打ち殺してやろうと思いますが、そう思った途端、

『そのほう、斧でわしをうち殺そうと思うたであろう』

こちらの考えを、こうも読まれていては致し方ないので、
サトリの相手になるのをやめて木を伐っていようと思ったキコリに、

『そのほう、いま、もはや致し方なし、
 木を伐っていようと思うたであろう』

キコリはサトリの相手にならず、一心不乱に木を伐り進めます。
そのうち、ふとした弾みで斧の頭が柄から抜け、

『斧は無心に飛んで、異獣の頭にあたった。
 頭は無残にくだけ、異獣は二言と発せず死んだという。』

               

千葉周作は、弟子に免許皆伝を与える際、必ずこの噺を伝え、

『「剣には、心妙剣と無想剣とがある」と言った。』

心妙剣とは、相手の考えや動きの逐一が手に取るように分かり、
それゆえに自分が相手に加えようとする一打一撃が全て決まり、
ことごとく外れることのない剣の境地を指し、ここでは、
異獣サトリが、この心妙剣に該当します。言わば、剣の達人。
尤も、サトリは“ 異獣 ”であって“ 人 ”ではないので、
「達人」という表現を非とするならば、剣豪とでも。

そんな剣豪・異獣サトリの頭を打ち砕いたのは斧の頭でした。
キコリではなく、キコリが使っていた斧の頭。
司馬遼太郎先生は、この武道説話に託して、こう記します。

『無想剣とは「斧の頭」なのだ。
 斧の頭には、心がない。ただひたすらに無念無想でうごく。
 異獣サトリは心妙剣というべきであり、無想剣は斧の頭なのだ。
 剣の最高の境地であり、ここまで達すれば百戦百勝が可能である』

剣の術理は剣の道のみにあらず、
世間一般の職業・仕事にも通じる術理と捉えてみますと、
それらに通底するのは、意・念・心・想といったものの処方・
用い方・扱い方であろうかと思われます。
そのような観点から日常を眺めますと、世の中には、
“ 心妙剣 ”の達人と思しき方々がおられますし、また、
“ 無想剣 ”の遣い手と察せられる方々もおられます。

只、“ 無想剣 ”なる境地は、
目指そうと想って目指せるものではないはず。なぜならば、
「目指す」という目的意識が明確な“ 想 ”となり、
“ 無想 ”への道を閉ざすから。

               

「無念無想」と言いますが、
そもそも「斧の頭」は“ 物 ”であって“ 人 ”ではありません。
“ 物 ”は、基本的に無念無想を常としますが、
“ 人 ”は、本来的に有念有想あり、考えようによっては、
“ 物 ”と“ 人 ”を分ける条件の一つとして大きいのは、
“ 念 ”や“ 想 ”の有無であるとも言えます。

そう考えますと「無念無想」は、
生きている人間である限り、ほぼ不可能なこと。
それでも「無念無想」は、厳然として在り、
古来あらゆる《道》の奥義として尊ばれてきました。

こうした「無念無想」を巡る“ ややこしさ ”は、
言葉としての「無念無想」と、
体感としての「無念無想」との間に開きがある、
というところに起因しているように感じます。

あくまでも浅薄な個人的感想に過ぎないことをお断りした上で、
「無念無想」という状態は、
けっして“ 念 ”や“ 想 ”が「無い」のではなく、
極めて純度の高い精神状態や意識状態において、
唯一の“ 念 ”、唯一の“ 想 ”、唯一つの“ 心 ”に、
全身全霊が集中するといった境地を指すかと思います。

そうした境地を体験した人々が、
あとからその時の印象・感覚・感興・感動等を振り返り、
実際のところは、確かに一念・一想・一心・一意は有ったものの、
そうした境地は説明しようにも説明できないものであるがゆえに、
その境地に近い雰囲気を表すと思われると同時に、
四字熟語としての、魅力と怪しさを備えた便利な言葉、

「無念無想」

を使い廻してきたという経緯があるように感じます。

               

先に「“ 物 ”は、基本的に無念無想」と書きましたが、
それは「基本的に」であって、状況や条件次第によっては、
“ 物 ”もまた“ 念 ”や“ 想 ”を宿すと、私自身は考えます。
何にせよ「無念無想」を巡る宇宙は広大にして深遠なので、
この辺りについては稿を改めますが、本日は駄文の終わりに、
音楽の世界にも“ 心妙剣と無想剣 ”があるのでは?・・・と、
このことにだけ少し触れさせて頂きます。

個人的経験に照らして、何となくではありますが、
演奏家の方々にも“ 心妙剣 ”タイプと“ 無想剣 ”タイプ、
大別して二つのタイプがあるように常々感じてきました。
“ 心妙剣 ”タイプとは、
音楽を利用し、音楽を活用して、自己を表すタイプ。
言わば音楽を自己表現の手段とするタイプであり、それゆえに、
音楽もさることながら、演奏家の個性がより際立つ傾向にあり、
簡略に申し上げるならば「音楽を愛し、音楽を使う」タイプ。
個性の輝きで人々を感心させ、大いに魅了する方々と思います。
比して、
“ 無想剣 ”タイプとは、
自己を用い、自己の存在を通り道として、音楽を表すタイプ。
言わば自己を音楽表現の手段とするタイプであり、この場合、
演奏家が消えて、音楽と音楽の魂が現れるというタイプで、
簡略に申し上げるならば「音楽に愛され、音楽に使われる」タイプ。
そこには、ただ感動だけが在るように感じます。


              









気ノ森 11月初旬

2020-11-08 14:50:24 | 自然
11月に入ってからというもの、当地も日々に寒暖の差が増し、
それに伴って樹々の色味も変わってきました。
短い動画ですが、本日11月8日の〈気ノ森 〉御覧下さい!


使用楽曲“ little autumn ”(2007)作曲:早川太海

               


昨11月7日(土)は、二十四節気の〈立冬〉でした。
立冬の一つ前の節気は〈霜降〉で、それぞれの節気を、
さらに初候・次候・末候の三期に分けた〈七十二候〉において、
今頃の時期は、おおよそ〈霜降の末候〉から〈立冬の初候〉。
〈霜降の末候〉には、こう記されています。

「楓蔦黄(楓、蔦の葉、黄ばむ)」

晩秋の大気に初冬の調べが忍び始め、
その微かな響きが紅葉に拍車をかける様子を表すものですが、
この「楓蔦黄」を“ ふうちょうおう ”と音読して呟いてみますと、
楓や蔦のみならず、
「楓」という漢字の中に吹き渡っている「風」や、
「蔦」という漢字の中に身を潜めている「鳥」までもが、
どこか冬めいた印象を伴って浮かんできます。

古来より伝わる〈七十二候〉なるものに見入っておりますと、
七十二の段階に分けられた季節・気象の移ろいの諸相が、
単に季節・気象の移ろいの諸相を示すのみに留まらず、
有情なる天地とフラクタル的に照応する、人間の心の諸相、又は、
有情なる自然とフラクタル的に呼応する、人間の状態の諸相、
あたかも〈七十二候〉が、そのまま〈七十二心・七十二態〉と、
そんな風にも思えてきます。例えば、

小雪の初候「虹蔵不見 ~ 虹、蔵(かく)れて見えず」
大雪の初候「閉塞成冬 ~ 気は塞ぎ、道閉じて、冬となる」

人は、時として八方塞がりに追い込まれ、どこをどう探しても、
希望の虹を見出すことが出来ない状況に陥ることもあれば、
気が塞ぎ、何のやる気も起こらないような精神状態にもなります。
それでも心の天地を季節が移り、内界の山河に時節が至れば、

春分の次候「桜始開 ~ 桜、開き始める」
清明の次候「虹始見 ~ 虹、はじめて見(あらわ)る」

といった心身の状態へと転じることも充分に有り得ます。

コロナ禍の暗雲は未だ晴れず、先行き不安な現況ではありますが、
大きな自然の力を信じ、大きな時の巡りを待つものであります。

皆様、良き日々でありますように!


              









新しい明日へ ~ 気ノ森 編

2020-11-01 14:48:22 | 音楽
10年以上前に作りました楽曲「新しい明日へ」。
自身の動画チャンネル上で、既に公開済みの楽曲ですが、
作曲当時、別ヴァージョンも作成しており、
今回、気ノ森の風景と合わせてみました。
御視聴いただけましたら幸いに存じます。



               

上掲楽曲・冒頭の歌詞は、新約聖書に記され、
〈コリント人への手紙〉第1の第13章に記された一節。

『このように、いつまでも在り続けるのは、
 信仰と希望と愛の三つであり、
 これらの中で最も尊いのは愛である。』

ここで謳われているのは男女の“ 愛 ”ではなく、
より大きな“ 人間愛 ”なのでありますが、一般的に、
“ 愛の賛歌 ”として広く世の中に知られているものであり、
私自身、読む度に名状しがたい感銘を受けます。
只、歳月の河を下る内には、
この「感銘を受けている」自分というものを客観的に眺めては、
一体、自分が何に感銘を受けているのか?・・・という辺りを、
自らの心に問うようにもなりました。

そうして浮き彫りになってきたのは、
自分は“ 愛 ”に「感銘を受けている」のではなくて、
“ 愛について ”説かれた言葉と、
“ 愛 ”という抽象語がもたらす雰囲気やイメージ的なものに、
酔っているに過ぎない・・・ということ。

               

そもそも“ 愛 ”という言葉の意味するところは実に広大で、
試みに広辞苑・第六版を引いてみますと、そこには、

1、親兄弟のいつくしみ合う心。広く、人間や生物への思いやり。
2、男女間の、相手を慕う情。恋。
3、かわいがること。大切にすること。
4、このむこと。めでること。
5、愛敬(あいきょう)愛想(あいそ)
6、仏教においては、愛欲。愛着。渇愛。強い欲望。十二因縁では、
  第八支に位置づけられ、迷いの根源として否定的にみられる。
7、キリスト教で、神が、自らを犠牲にして、
  人間をあまねく限りなく いつくしむこと。

と書かれています。私自身は、
これを読んで“ 愛 ”の片鱗なりともが分かるというよりは、
これだから“ 愛 ”は分からない、というのが正直なところ。

“ 愛 ”は、言葉で理解するものではなく実感するものであり、
“ 愛について ”や“ 愛の周辺 ”は言語化され得たとしても、
“ 愛 ”は、言語化が不可能なものなのでありましょう。

先に触れた〈コリント人への手紙〉の一節も、これは、
あくまでも“ 愛について ”書かれた文言であって、
当然のことながら“ 愛 ”そのものではありません。
先人の遺した言葉の数々は、闇路を照らす灯火、鍵、地図、ヒント、
羅針盤、暗号等々といった、言わば優れたアイテムの数々。

肝心なのは、アイテムを駆使して“ 道 ”を歩むことなのですが、
アイテム自体(古典・名言・箴言の数々)が素晴らしいと、
私などはアイテムに酔い、アイテムを手にして事足れりとし、
肝心の“ 道 ”を忘れるのであります。

               

音楽はどうでしょうか。
音楽も又、音楽についての歴史・理論・解釈・意味などに、
千言万語を費やしたところで音楽に触れることは出来ません。
音楽は、実際に音楽を聴く、奏でる、作る、といった、
音楽行為の中に心と身体を置いている時にのみ、
現れては消え、消えては現れるもの。

“ 愛 ”について読んだり語ったりすることと、
“ 愛 ”を行い“ 愛 ”に生きることとが、
全くの別事象であることを想い合わせてみますと、
“ 愛 ”と“ 音楽 ”は、その性質において同義であり、
“ 愛 ”と“ 音楽 ”は、ほぼ同体と察せられます。


in silent harmony and endless symphony,

I pray to gods for shining on your way !