“ 天地・アメツチ ”という巨大交響曲は、
晩秋から初冬へと、その響きを変えてゆきます。
作曲技法の一つ〈転調〉の源は、紛れもなく自然界の移ろい。
水質が改善されつつある〈気ノ池〉の姿を観ることが、
いま最も嬉しく、有り難く感じることであります。
昨11月28日(土)は、不動明王の御縁日に当たり、
「名古屋、栄(さかえ)の成田山」として親しまれている、
成田山新勝寺・栄分院〈萬福院〉に参拝してまいりました。
本堂の外には、柄杓で水を汲んで明王像にかける、
所謂“ 水かけ不動 ”の石像が奉安されていて、
その手前には、般若心経が書かれた〈マニ車〉があります。
こちらは空海上人を祀る、弘法堂前の〈マニ車〉ですが、
御承知置きの通り〈マニ車〉なるものは、
回した数だけ読経したことになるという、修行不足の私にとっては、
もってこい?の仏具ということもあり、“ これ幸い ”と、
クルクルクルクル回してまいりました。
申し上げるまでもなきことながら、
萬福院は真言宗・智山派ですので、密教寺院であります。
顕教・密教、それぞれが尊い教えでありますが、
真言密教においては、教主を大日如来としていて、
この大日如来は、私たちの内界及び外界の全て、
素粒子や細胞等の極微から、銀河やブラックホール等の極大まで、
万事・万物・万象と、それら万事・万物・万象を、
万事・万物・万象たらしめている“ 縁 ”の働きとを象徴し、
つまり、大日如来とは“ 宇宙 ”そのもの、と説かれます。
巷間、大日如来をして、太陽の象徴と解説される場合があり、
無学の私はつい誤解しそうになりますが、上述の観点に立てば、
大日如来が太陽でも、太陽の象徴でもないことが分かります。
太陽を太陽たらしめている働きが大日如来であって、
太陽の誕生も、いずれ訪れる太陽の消滅も、
大日如来のシステム・・・と個人的には、そのように心得ます。
そもそも密教とは何か?
限られた紙幅の中に答えを示すだけの能力を持ち合わせません。
只、浅薄な私見として、
この宇宙たる大日如来、大日如来たる宇宙が時々刻々に行っている、
密やかにして微細、密やかにして壮大な活動を「密」と呼び、
この「密」を身体活動・言語活動・意識活動の三領域に分け、
それぞれを、
身密(しんみつ)口密(くみつ)意密(いみつ)の“ 三密 ”とし、
それら宇宙の“ 大なる三密 ”と、
人間の身体活動・言語活動・意識活動という“ 小なる三密 ”とを、
一つに融け合わせる為の理論と技法の体系・・・それが密教と、
概ねそのように捉えております。
“ 大なる三密 ”と“ 小なる三密 ”とが融け合うことで、
宇宙と人とが「二つのままに一つ、一つのままに二つ」、
このことが個々人の「身に即して」深く了知され得るがゆえに、
『即身(そくしん)』
と説かれ、また、
「宇宙」と書いて「みほとけ(御仏)」と読む密教なれば、
個々人が「その身に即して御仏と成る」がゆえに、
『即身成仏(そくしんじょうぶつ)』
と謳われていることは、既に知られているところ。
何にせよ、“ 三密 ”という概念こそは、
「密」の教えの中核を為しているということであります。
翻って現況、
新型コロナウィルス感染拡大を防ぐために推奨され、
私自身も日々に心掛けている行動様式の中の一つに、
密集・密接・密閉の“ 3密 ”を避けるというものがあります。
コロナ禍の重大性・危険性が指摘され始めた2月半ば頃から、
連日に亘り、
「3密を避けましょう!」
「3密に注意しましょう!」
という文言を目にし耳にする度、その「サンミツ」は、
密集・密接・密閉の“ 3密 ”であって
身密・口密・意密の“ 三密 ”ではないことは承知しつつも、
なぜなのでしょうか・・・身の縮むような思いが致します。
一日も早いコロナ禍終息を、心から祈るものであります。
晩秋から初冬へと、その響きを変えてゆきます。
作曲技法の一つ〈転調〉の源は、紛れもなく自然界の移ろい。
水質が改善されつつある〈気ノ池〉の姿を観ることが、
いま最も嬉しく、有り難く感じることであります。
昨11月28日(土)は、不動明王の御縁日に当たり、
「名古屋、栄(さかえ)の成田山」として親しまれている、
成田山新勝寺・栄分院〈萬福院〉に参拝してまいりました。
本堂の外には、柄杓で水を汲んで明王像にかける、
所謂“ 水かけ不動 ”の石像が奉安されていて、
その手前には、般若心経が書かれた〈マニ車〉があります。
こちらは空海上人を祀る、弘法堂前の〈マニ車〉ですが、
御承知置きの通り〈マニ車〉なるものは、
回した数だけ読経したことになるという、修行不足の私にとっては、
もってこい?の仏具ということもあり、“ これ幸い ”と、
クルクルクルクル回してまいりました。
申し上げるまでもなきことながら、
萬福院は真言宗・智山派ですので、密教寺院であります。
顕教・密教、それぞれが尊い教えでありますが、
真言密教においては、教主を大日如来としていて、
この大日如来は、私たちの内界及び外界の全て、
素粒子や細胞等の極微から、銀河やブラックホール等の極大まで、
万事・万物・万象と、それら万事・万物・万象を、
万事・万物・万象たらしめている“ 縁 ”の働きとを象徴し、
つまり、大日如来とは“ 宇宙 ”そのもの、と説かれます。
巷間、大日如来をして、太陽の象徴と解説される場合があり、
無学の私はつい誤解しそうになりますが、上述の観点に立てば、
大日如来が太陽でも、太陽の象徴でもないことが分かります。
太陽を太陽たらしめている働きが大日如来であって、
太陽の誕生も、いずれ訪れる太陽の消滅も、
大日如来のシステム・・・と個人的には、そのように心得ます。
そもそも密教とは何か?
限られた紙幅の中に答えを示すだけの能力を持ち合わせません。
只、浅薄な私見として、
この宇宙たる大日如来、大日如来たる宇宙が時々刻々に行っている、
密やかにして微細、密やかにして壮大な活動を「密」と呼び、
この「密」を身体活動・言語活動・意識活動の三領域に分け、
それぞれを、
身密(しんみつ)口密(くみつ)意密(いみつ)の“ 三密 ”とし、
それら宇宙の“ 大なる三密 ”と、
人間の身体活動・言語活動・意識活動という“ 小なる三密 ”とを、
一つに融け合わせる為の理論と技法の体系・・・それが密教と、
概ねそのように捉えております。
“ 大なる三密 ”と“ 小なる三密 ”とが融け合うことで、
宇宙と人とが「二つのままに一つ、一つのままに二つ」、
このことが個々人の「身に即して」深く了知され得るがゆえに、
『即身(そくしん)』
と説かれ、また、
「宇宙」と書いて「みほとけ(御仏)」と読む密教なれば、
個々人が「その身に即して御仏と成る」がゆえに、
『即身成仏(そくしんじょうぶつ)』
と謳われていることは、既に知られているところ。
何にせよ、“ 三密 ”という概念こそは、
「密」の教えの中核を為しているということであります。
翻って現況、
新型コロナウィルス感染拡大を防ぐために推奨され、
私自身も日々に心掛けている行動様式の中の一つに、
密集・密接・密閉の“ 3密 ”を避けるというものがあります。
コロナ禍の重大性・危険性が指摘され始めた2月半ば頃から、
連日に亘り、
「3密を避けましょう!」
「3密に注意しましょう!」
という文言を目にし耳にする度、その「サンミツ」は、
密集・密接・密閉の“ 3密 ”であって
身密・口密・意密の“ 三密 ”ではないことは承知しつつも、
なぜなのでしょうか・・・身の縮むような思いが致します。
一日も早いコロナ禍終息を、心から祈るものであります。