~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

観自在

2020-05-31 12:50:27 | 
東京・台東区の浅草寺は、観世音菩薩を祀って1400年。
観音信仰の一大霊場であり、この観音信仰の常用経典は、
「観音経」と呼びならわされている“ お経 ”で、正式名を、
「妙法蓮華経・観世音菩薩・普門品(ふもんぼん)・第二十五」。
「普門品」の「普門」は、その字義の通り、

「普(あまね)き門」「普(あまね)く人々を迎え入れる門」

「観音経」の中には、観世音菩薩が“ 三十三 ”の姿を取りつつ、
人々を救済すると説かれ、「観音経」の数量概念では、
“ 三十三 ”は“ 無数 ”を表しますので「普門品」の「普門」は、
無数の命に通じる門、つまりは普遍に通じる門ということで、
観世音菩薩の救済手段が極めてバラエティーに富み、
老若男女や上下優劣といった“ 隔て ”なく、また“ 限り ”なく、
「普(あまね)く」行き渡るということを謳っています。

               

世の中がコロナ禍の暗雲に覆われる以前、行きつけの古書店で、
精神科医・神田橋條治先生が青年期から壮年期にかけて発表された、
論文・講演録・書評等を時代順に収録した、
「発想の航跡」(岩崎学術出版社)と巡り合い購入しました。

ページを繰ることが出来ないまま時間が過ぎましたが、
“ STAY HOME ”の副産物に与り、読了しました。
神田橋先生の他の著作物と同様、多くの気付きや示唆を授かる中、
特に、心を震わせられた一文が以下、

『精神療法という人間関係では、
 関係を客体視する作業も不可欠である。とはいえ、
 ただひたすら その関係を生きることが 人の変化のための
 強烈な作用力を持つことも思い出して欲しいと思う。
 ともあれ、「転移・逆転移」などの認識ラベルの対象となる
 人間関係の事象は、認識の以前に、しみじみと触れ味わうことが、
 変化のためにはもちろん、
 きめ細やかな認識のためにも必要であると思う。
 味わい生きることをとばして認識へ逃げるのは、
 もったいない。』

精神医学で扱われる「転移・逆転移」等の、
医療者⇔患者間に交わされる精神の和声進行は大変に難しく、
愚昧な私には理解が及びません。
只、重要なことが語られていることは分かります。

現行の科学や科学的思考というものは、
対象者・対象物・対象事象を客体化し、観察し、分析し、計測し、
評価し、判断することの上に成り立ち、
その作業を「専(もっぱ)ら」とする人が「専門家」と呼ばれ、
科学は、この専門家が受け持つ専門分野の専門性によって、
発展を遂げてきたという側面が有ります。

只この「専」というのは両義的〈諸刃の剣〉でもあり、
専一・専心・専念・専修などは〈活人剣〉と成り得ますが、
専横・専断・専有・専制などは〈殺人剣〉の危うさを孕みます。
広島・長崎に投下された原子爆弾などは、
専門家によって振るわれた〈殺人剣〉の最たるものかも知れません。
それはともかく、
精神医学という科学の専門家である神田橋先生が、
科学が専らとする、対象を「客体視する作業」を不可欠としつつも、
「ただひたすら」に、対象との「関係を生きる」ことが、
「変化のための強烈な作用力を持つ」と説かれ、「認識の以前に」、
つまり対象を客体化し、観察し、分析し、計測し、評価し、
判断する以前に、関係そのものを「しみじみと触れ味わうこと」が、
更なる認識のためには「必要である」としておられるところに、
私は、暗闇の中で光に出会うような感覚を覚えるのであります。

「専(もっぱ)ら」を旨とする「専門」に対置されるものが、
「普(あまね)く」事象に通じる「普門」であるとするならば、
「専門家」と「普門家」とでは視線の方角が違い、
その目的も存在意義も異なって然るべきなのかも知れません。

ではなぜ、精神医学の「専門家」である神田橋先生の言葉が、
「普門」の扉を開き、分野・職種を超えて多くの人々に、
気付きやヒントを届けるのか?
私には、その理由を的確には表現する能力はありませんが、
「専門用語」が避けられ、普く人々に通じるような、
「普門用語」に置き換えられながら語られているから、
或いはまた、神田橋先生が「専門家」であると同時に、
常に〈命の全体性〉という高い視座から事象を観る、
言わば〈普遍のまなざし〉を宿した「普門家」でもあるから・・と、
そのようなことを想います。

               

冒頭、
「観世音菩薩・普門品(ふもんぼん)」の「普門」に触れました。
観世音菩薩は、またの名を“ 観自在菩薩(かんじざいぼさつ)”。
生起する事象を、あらゆる立場、あらゆる方角から、
「自在に観る」がゆえに「観自在」の名が冠せられ、
日本人には馴染みの深い〈般若心経〉は、この菩薩によって、
「色即是空・空即是色・・・」と説かれます。

神田橋先生の著作の中には、

「では視点を変えて」
「ここで一度、観方を変えて」
「これを患者側から観てみると」

という思考法が随所に現れます。

「観自在」ということであろうか、と思います。


              








“ Silent Air ”

2020-05-24 14:17:00 | 音楽
こちらの動画、御視聴頂けましたら幸いに存じます。

“ Silent Air ”

2007年作曲/TBS系「世界遺産」特番用楽曲から抜粋して改題

               

上掲“ Silent Air ”の御視聴をお願いしたわけでありますが、
“ air ”という単語を辞書で引いてみますと、
当然のこと「空気・大気・空・雰囲気」等々とあり、
それら以外の意味として、解説項目の一番最後あたりに、
例えばライトハウス英和辞典(研究社)には、

「楽曲・旋律」

プログレッシブ英和辞典・第2版(小学館)には、

「音楽の節(ふし)・旋律・メロディー・ソプラノ」

と載せられていて、どちらの辞書も、その用例として、
“ Londonderry Air(ロンドンデリーの歌)”を挙げています。

               

音の波が、空気を媒質として、その振動を伝えるということは、
空気の存在と、音の存在とは二つで一つということであり、
この物理現象が意味するところは、

音楽あるところ、必ずや空気あり。
空気なきところ、また音楽もなし。

という極めて自明の理でありますが、自明の理というものは、
それが自明であるがゆえに、普段は意識されることがありません。

この自明の理に想いを巡らせてみますと、
地球上で音楽を聴く、作る、奏でることが出来るということは、
地球が大気に包まれ、空気に恵まれた惑星であればこそ、
ということが浮かび上がってきます。

これを逆に申せば、
地球上で音楽を作ったり奏でたりするという行為は、
地球が大気に包まれ、空気に恵まれた惑星であるということを、
それを意識する、しないに拘わらず、
行為者自身が明らかにしている行為、ということになります。

すると、
地球上のありとあらゆる音楽は、どのようなジャンルや内容であれ、
また上手いとか下手とか、プロとかアマといった差異分別を超え、
その本質は、大気の存在を証明し、空気の恩恵を賛える・・・、
言わば〈大気圏賛歌〉であるようにも感じられ、
何気なく発し、また発せられる、ただ一つの音にさえ、
原始地球に生じた大気圏が、その後辿った46億年の歳月と、
現在の窒素主体空気へと変遷する数十億年の歳月が凝縮している、
そのようにも思われてきます。

人間と多くの生命にとって、欠くことの出来ない“ air ”。
「空気」と「音楽」、二つの意味を併せ持つ“ air ”。

一音を紡ぐ、一音を奏でる、一音を歌う・・・その一音には、
大気圏の存在と、地球が大気圏を持つに至った宇宙の全経緯と、
地球上での生命進化の全行程が宿っている。

“ air ”という言葉の魅力にいざなわれ、
ついついバイアスのかかった妄想の翼を広げてしまいました。
言葉の解釈としては、誇大に過ぎたかも知れません。
しかしながら、
〈音の細道〉を往く者、一音と向き合う者の心構えとしては、
少しも誇大ではなく、むしろ基本姿勢と心得ます。





              









ヒトツバタゴ

2020-05-17 15:13:50 | 音楽関係
城山八幡宮・拝殿に向かって左側に歩を進めますと、
大山祇神(オオヤマツミノカミ)を始めとする三柱の神々が、
それぞれ三宇の小社に祀られていて、その手前には、

ヒトツバタゴの樹が花期を迎えていました。(写真は5月9日)

この「ヒトツバタゴ」という名称の分節点を、
私は長らく「ヒトツ・バタゴ」と思い込んでおりましたが、
正しくは「ヒトツバ・タゴ」で「複葉ではなく、ひとつ葉のタゴ」、
という意味なのだそうです。分節点と言えば、
「ヘリコプター」は「ヘリコ・プター」
「キリマンジャロ」」は「キリマ・ンジャロ」等々、
正しい分節点を知って驚く類例は少なくありません。

そのヒトツバタゴの樹。
現況下にあって人数は少ないものの、訪れた参拝者の方々は、
降り積もった白雪のような花を見上げては、

「きれいだねぇ、気持ちが楽になるね」と感に堪えておられました。

               

コロナ禍による不安な日々の中、静かに立つヒトツバタゴの姿が、
束の間なりとも、その心に明かりを灯すのを見ております内に、
ふと脳裡をよぎりましたのは、折に触れて想いを巡らせる、

『音楽の由来するところは遠し。
 度量に於いて生じ、
 太一に於いて基づく。』

という、〈呂氏春秋〉に記された一節。
今を遡ること約2200年前に編纂された、この書の中において、
歴史上初めて『音楽』という言葉と文字が登場したと伝わります。

「度量において生じ」というのは、
音の高低(度)や音の大小(量)、又それらの様々な組み合わせ等、
主に聴覚で捉え得る音の組織や流れ、音響現象として生じ・・・、
という意味で、歴史の中で発展する音楽理論に依拠する音楽、
つまりは、人間が作ったり奏でたりする音楽のことを指します。

この人間が作ったり奏でたりする音楽には、
誰かを楽しませよう、勇気づけようといった願いや意思が入り、
悪意なく、むしろ善意を以って作られ奏でられるものだとしても、
そこには必ずや何らかの意図や作為というものが働きます。

それに引き換え、境内に立つヒトツバタゴの樹は、
人を喜ばそうとか、癒そうなどという意図や作為はさらさら無く、
只そこに在って自身の生命活動を紡いでいるに過ぎないものの、
結果的に、その姿に触れた参拝者の心身をして、
「気持ちが楽になる」という状態を導き出しています。

天地、いわゆる“ アメツチ ”の活動全体を音楽として捉え、
これを仮に〈大音楽〉と名付けて観想してみますと、
“ アメツチ ”が創り“ アメツチ ”が奏でる〈大音楽〉に比して、
人間が作り奏でる音楽は〈小音楽〉という風にも考えられます。

〈小音楽〉は、作為巧妙にして可聴の世界に成り立ち、
〈大音楽〉は、無為自然にして沈黙の世界に満ちる。

先の参拝者の方々が、
ヒトツバタゴの樹を観て「気持ちが楽」になったのは、
ヒトツバタゴの樹をよすがとして、
“ アメツチ ”が奏でる〈大音楽〉の一端に触れたから。
そのような気もしてくるのであります。

『音楽の由来するところは遠し。
 度量に於いて生じ、
 太一に於いて基づく。』

「〈小音楽〉の母体は〈大音楽〉なのだよ・・・」
いつもながらの浅はかな妄想とは知りつつも、
五月の風の中に、声なき声を聴く思いがします。


              







Hymnos ~ 賛歌 ~(2013)

2020-05-10 14:55:07 | 音楽
“ STAY HOME ”を心掛け、外出時には、
検温して平熱であることを確認しマスクを着用、
他者との社会的距離を保ち3密を避け、うがい手洗いを励行し、
その上で、コロナ禍を生きる人間としては、
祝詞(のりと)の中に謳われる、

『祓いたまえ 浄めたまえ』

の願いに心を合わせ、
この危機的事態が一日も早く収束することを祈るべく、
城山八幡宮に参拝してまいりました。

拝殿の両脇にはタチバナの樹が立っていて、冬場には、

御覧の通りの珠果を実らせます(写真は今年1月上旬)。


今の時期、そのタチバナには白くて小さな花が無数に結ばれて、

顔を近づけますと、これがまた〈結界香〉とでも申しましょうか、
拝殿両脇にあって、まさしく邪気を祓う芳香でありました。
“ コロナ禍退散、祓いたまえ浄めたまえ ”

               

“ Hymnos ~ 賛歌 ~”は、確か7年ほど前に作曲したもの。
聞けばキリスト教世界で“ Hymnos ”と言う時、
カトリック系の典礼で歌われるとか、歌詞はラテン語に限るとか、
色々と決まりがあるそうですが、不明にして私には分かりません。
広い意味での自然賛歌・人間賛歌といった感じで作曲しました。
ご視聴頂けましたら、幸いに存じます。

Hymnos ~ 賛歌 ~(2013)


この曲を作るに際しましては、まず旋律ありきで、
頭に浮かんだ旋律に、後から歌詞を当てていった経緯もあり、
大部分で歌詞のテロップ表示はしていませんが、
特にコレは、という歌詞は表示しました。その内の一つが、

“ Something is waiting you.
 Someone is waiting you. ”

これには参考元があり、臨床心理士・諸富祥彦先生が、
「100分de名著」(NHK出版)シリーズでお書きになった、
「フランクル・夜と霧」の中の一節がそれであります。

御承知置きの通り「夜と霧」は、
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害政策により、
両親、兄、新婚間もない妻を殺害され、自身も収容所に容れられ、
苛酷な日々にさらされながらも生還した精神科医、
V.E.フランクル(1905~1997)が収容所での体験を綴ったもの。

因みに、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害政策により、
推定1200万人のユダヤ人が収容所に送られ、
少なくとも800万人以上が死亡したと伝わります。

苛酷な状況、地獄とも言える日々にあって、
人間はどのように変わってゆくのか、
どういう人間が命を落とし、どういう人間が生き延びたのか、
精神科医としての眼差しと使命感を以って収容所を臨床の現場とし、
築き上げられた思想は「ロゴセラピー」として体系化されます。

諸富先生が、その「ロゴセラピー」について解説なさっています。

『ロゴセラピーとは「ロゴス(意味)によるセラピー(癒し)」』

人それぞれが、それぞれ自らの生きる意味を見出し、
その人の人生を紡ぎあげてゆくことを支援する心理療法であるとし、
フランクル思想のエッセンスを、諸富先生はこう記されています。

『どんな時も、人生には、意味がある。
 なすべきこと、満たすべき意味が与えられている。
 この人生のどこかに、あなたを必要とする「何か」がある。
 あなたを必要とする「誰か」がいる。
 そしてその「何か」や「誰か」は、
 あなたに発見され実現されるのを「待って」いる。
 「何か」があなたを待っている。
 「誰か」があなたを待っている。
 私たちは、常にこの「何か」「誰か」によって必要とされ
 「待たれている」存在なのだ。
 だから、たとえ今がどんなに苦しくても、
 あなたはすべてを投げ出す必要はない。
 あなたがすべてを投げ出しさえしなければ、いつの日か、
 人生に「イエス」と言うことのできる日が必ずやってくるから。
 いや、たとえあなたが人生に「イエス」と言えなくても、
 人生のほうからあなたに「イエス」と光を差し込んでくる日が、
 いつか、必ずやってくるから。』(引用元:前掲書)

新型コロナウィルス感染拡大で不安と恐れが蔓延する日々、
誰しもが喪失感や閉塞感に陥り、不信や焦燥の念を抱きがちですが、
人生に期待できなくても、人生の側があなたに期待していて、
未来を信じられなくても、未来の側があなたを信じて待っている。
「何か」があなたを待っている。
「誰か」があなたを待っている。

フランクル思想の世界が、他の思想や哲学と一線を画するのは、
ユダヤ人大量虐殺の現場で篩にかけられ鍛えられた思想であり、
机上の空論ではないというところ。
フランクル思想の世界と、それを説く諸富先生の言葉は、
今あらためて心に刻みたいメッセージと思います。


              







Life goes on. 4

2020-05-03 16:01:33 | 音楽
「ショウちゃ~ん!」
近隣住民の方々からは、そう呼ばれています。

“ いま人間世界は大変みたいだニャア・・・”


“ では・・・ひとつ癒してあげちゃおっかニャア ”

ショウちゃん、ありがとう。

               

地球は北極が〈S極〉、南極が〈N極〉という巨大な磁性体であり、
地球上の各地には、各種各様の地磁気が流れていると言われ、
渡り鳥・ミツバチ・サケなどの生物は、
そうした地球の地磁気を利用しながら生きていると聞きます。

先年、東京大学とカリフォルニア工科大学の共同研究チームが、
従来までは“ 人間には無い ”とされてきた地磁気を感じる能力が、
実は人間も持っているということが分かった、と発表しました。

行われた実験の内容は煩瑣に過ぎて、私には書き得ませんが、
研究チームの東京大学・准教授、真渓歩(またにあゆむ)先生は、

「人間に未知の第六感があることが確認された。
 これを意識的に利用することは非常に難しいが、
 今後さらに詳しく調べて探っていきたい。」

と話されています。
(引用元などの詳細は遺失して手元にありませんが、
 各種報道で取り上げられた内容であり、当時何度も読み直し、
 ノートに書き写した部分を書かせて頂きました。)

先行き不安にして不透明な現況であればこそ、
私たち自身に備わる「未知の第六感」というものを信じ、
「これを意識的に利用することは非常に難しい」ものの、
地球の地磁気が、脳活動に何らかの作用を及ぼすと仮定し、
内界に震える〈心のコンパス〉が指し示す方角を探ってみる・・・、
つまりは、自らの正直な心の声に耳を澄ますという作業も、
“ STAY HOME ”の一環として意義あることのように思えます。

               

Life goes on. 4


使用楽曲は先週の動画“ Life goes on. 3 ”でお聴き頂きました、
「20世紀ララバイ」(1999年作曲)の後半部分であります。
約20年前に作った楽曲なれば恥ずかしい部分も多々ありますが、
お聴き頂けましたら幸いに存じます。

動画中に2回ほど登場する、こちらの大きな樹は栗の樹で、

毎年スズメバチが棲み家としていて、おいそれとは近づけません。
ある一定の距離を侵すと、途端に激しい威嚇と攻撃を受けます。

いま人間世界は“ social distance ”を掲げていますが、
そもそも自然界には“ natural distance ”というものがあり、
通勤・通学を始めとする混雑は、自然物であるヒトにとっては、
極めて不自然かつ非自然であることが想われ、コロナ禍終息の後、
またしても、あの乗車率150%の混雑が甦るのか、と思いますと、
いささか複雑な気持ちに捉われます。

皆様、くれぐれも御自愛下さい!