東京・台東区の浅草寺は、観世音菩薩を祀って1400年。
観音信仰の一大霊場であり、この観音信仰の常用経典は、
「観音経」と呼びならわされている“ お経 ”で、正式名を、
「妙法蓮華経・観世音菩薩・普門品(ふもんぼん)・第二十五」。
「普門品」の「普門」は、その字義の通り、
「普(あまね)き門」「普(あまね)く人々を迎え入れる門」
「観音経」の中には、観世音菩薩が“ 三十三 ”の姿を取りつつ、
人々を救済すると説かれ、「観音経」の数量概念では、
“ 三十三 ”は“ 無数 ”を表しますので「普門品」の「普門」は、
無数の命に通じる門、つまりは普遍に通じる門ということで、
観世音菩薩の救済手段が極めてバラエティーに富み、
老若男女や上下優劣といった“ 隔て ”なく、また“ 限り ”なく、
「普(あまね)く」行き渡るということを謳っています。
世の中がコロナ禍の暗雲に覆われる以前、行きつけの古書店で、
精神科医・神田橋條治先生が青年期から壮年期にかけて発表された、
論文・講演録・書評等を時代順に収録した、
「発想の航跡」(岩崎学術出版社)と巡り合い購入しました。
ページを繰ることが出来ないまま時間が過ぎましたが、
“ STAY HOME ”の副産物に与り、読了しました。
神田橋先生の他の著作物と同様、多くの気付きや示唆を授かる中、
特に、心を震わせられた一文が以下、
『精神療法という人間関係では、
関係を客体視する作業も不可欠である。とはいえ、
ただひたすら その関係を生きることが 人の変化のための
強烈な作用力を持つことも思い出して欲しいと思う。
ともあれ、「転移・逆転移」などの認識ラベルの対象となる
人間関係の事象は、認識の以前に、しみじみと触れ味わうことが、
変化のためにはもちろん、
きめ細やかな認識のためにも必要であると思う。
味わい生きることをとばして認識へ逃げるのは、
もったいない。』
精神医学で扱われる「転移・逆転移」等の、
医療者⇔患者間に交わされる精神の和声進行は大変に難しく、
愚昧な私には理解が及びません。
只、重要なことが語られていることは分かります。
現行の科学や科学的思考というものは、
対象者・対象物・対象事象を客体化し、観察し、分析し、計測し、
評価し、判断することの上に成り立ち、
その作業を「専(もっぱ)ら」とする人が「専門家」と呼ばれ、
科学は、この専門家が受け持つ専門分野の専門性によって、
発展を遂げてきたという側面が有ります。
只この「専」というのは両義的〈諸刃の剣〉でもあり、
専一・専心・専念・専修などは〈活人剣〉と成り得ますが、
専横・専断・専有・専制などは〈殺人剣〉の危うさを孕みます。
広島・長崎に投下された原子爆弾などは、
専門家によって振るわれた〈殺人剣〉の最たるものかも知れません。
それはともかく、
精神医学という科学の専門家である神田橋先生が、
科学が専らとする、対象を「客体視する作業」を不可欠としつつも、
「ただひたすら」に、対象との「関係を生きる」ことが、
「変化のための強烈な作用力を持つ」と説かれ、「認識の以前に」、
つまり対象を客体化し、観察し、分析し、計測し、評価し、
判断する以前に、関係そのものを「しみじみと触れ味わうこと」が、
更なる認識のためには「必要である」としておられるところに、
私は、暗闇の中で光に出会うような感覚を覚えるのであります。
「専(もっぱ)ら」を旨とする「専門」に対置されるものが、
「普(あまね)く」事象に通じる「普門」であるとするならば、
「専門家」と「普門家」とでは視線の方角が違い、
その目的も存在意義も異なって然るべきなのかも知れません。
ではなぜ、精神医学の「専門家」である神田橋先生の言葉が、
「普門」の扉を開き、分野・職種を超えて多くの人々に、
気付きやヒントを届けるのか?
私には、その理由を的確には表現する能力はありませんが、
「専門用語」が避けられ、普く人々に通じるような、
「普門用語」に置き換えられながら語られているから、
或いはまた、神田橋先生が「専門家」であると同時に、
常に〈命の全体性〉という高い視座から事象を観る、
言わば〈普遍のまなざし〉を宿した「普門家」でもあるから・・と、
そのようなことを想います。
冒頭、
「観世音菩薩・普門品(ふもんぼん)」の「普門」に触れました。
観世音菩薩は、またの名を“ 観自在菩薩(かんじざいぼさつ)”。
生起する事象を、あらゆる立場、あらゆる方角から、
「自在に観る」がゆえに「観自在」の名が冠せられ、
日本人には馴染みの深い〈般若心経〉は、この菩薩によって、
「色即是空・空即是色・・・」と説かれます。
神田橋先生の著作の中には、
「では視点を変えて」
「ここで一度、観方を変えて」
「これを患者側から観てみると」
という思考法が随所に現れます。
「観自在」ということであろうか、と思います。
観音信仰の一大霊場であり、この観音信仰の常用経典は、
「観音経」と呼びならわされている“ お経 ”で、正式名を、
「妙法蓮華経・観世音菩薩・普門品(ふもんぼん)・第二十五」。
「普門品」の「普門」は、その字義の通り、
「普(あまね)き門」「普(あまね)く人々を迎え入れる門」
「観音経」の中には、観世音菩薩が“ 三十三 ”の姿を取りつつ、
人々を救済すると説かれ、「観音経」の数量概念では、
“ 三十三 ”は“ 無数 ”を表しますので「普門品」の「普門」は、
無数の命に通じる門、つまりは普遍に通じる門ということで、
観世音菩薩の救済手段が極めてバラエティーに富み、
老若男女や上下優劣といった“ 隔て ”なく、また“ 限り ”なく、
「普(あまね)く」行き渡るということを謳っています。
世の中がコロナ禍の暗雲に覆われる以前、行きつけの古書店で、
精神科医・神田橋條治先生が青年期から壮年期にかけて発表された、
論文・講演録・書評等を時代順に収録した、
「発想の航跡」(岩崎学術出版社)と巡り合い購入しました。
ページを繰ることが出来ないまま時間が過ぎましたが、
“ STAY HOME ”の副産物に与り、読了しました。
神田橋先生の他の著作物と同様、多くの気付きや示唆を授かる中、
特に、心を震わせられた一文が以下、
『精神療法という人間関係では、
関係を客体視する作業も不可欠である。とはいえ、
ただひたすら その関係を生きることが 人の変化のための
強烈な作用力を持つことも思い出して欲しいと思う。
ともあれ、「転移・逆転移」などの認識ラベルの対象となる
人間関係の事象は、認識の以前に、しみじみと触れ味わうことが、
変化のためにはもちろん、
きめ細やかな認識のためにも必要であると思う。
味わい生きることをとばして認識へ逃げるのは、
もったいない。』
精神医学で扱われる「転移・逆転移」等の、
医療者⇔患者間に交わされる精神の和声進行は大変に難しく、
愚昧な私には理解が及びません。
只、重要なことが語られていることは分かります。
現行の科学や科学的思考というものは、
対象者・対象物・対象事象を客体化し、観察し、分析し、計測し、
評価し、判断することの上に成り立ち、
その作業を「専(もっぱ)ら」とする人が「専門家」と呼ばれ、
科学は、この専門家が受け持つ専門分野の専門性によって、
発展を遂げてきたという側面が有ります。
只この「専」というのは両義的〈諸刃の剣〉でもあり、
専一・専心・専念・専修などは〈活人剣〉と成り得ますが、
専横・専断・専有・専制などは〈殺人剣〉の危うさを孕みます。
広島・長崎に投下された原子爆弾などは、
専門家によって振るわれた〈殺人剣〉の最たるものかも知れません。
それはともかく、
精神医学という科学の専門家である神田橋先生が、
科学が専らとする、対象を「客体視する作業」を不可欠としつつも、
「ただひたすら」に、対象との「関係を生きる」ことが、
「変化のための強烈な作用力を持つ」と説かれ、「認識の以前に」、
つまり対象を客体化し、観察し、分析し、計測し、評価し、
判断する以前に、関係そのものを「しみじみと触れ味わうこと」が、
更なる認識のためには「必要である」としておられるところに、
私は、暗闇の中で光に出会うような感覚を覚えるのであります。
「専(もっぱ)ら」を旨とする「専門」に対置されるものが、
「普(あまね)く」事象に通じる「普門」であるとするならば、
「専門家」と「普門家」とでは視線の方角が違い、
その目的も存在意義も異なって然るべきなのかも知れません。
ではなぜ、精神医学の「専門家」である神田橋先生の言葉が、
「普門」の扉を開き、分野・職種を超えて多くの人々に、
気付きやヒントを届けるのか?
私には、その理由を的確には表現する能力はありませんが、
「専門用語」が避けられ、普く人々に通じるような、
「普門用語」に置き換えられながら語られているから、
或いはまた、神田橋先生が「専門家」であると同時に、
常に〈命の全体性〉という高い視座から事象を観る、
言わば〈普遍のまなざし〉を宿した「普門家」でもあるから・・と、
そのようなことを想います。
冒頭、
「観世音菩薩・普門品(ふもんぼん)」の「普門」に触れました。
観世音菩薩は、またの名を“ 観自在菩薩(かんじざいぼさつ)”。
生起する事象を、あらゆる立場、あらゆる方角から、
「自在に観る」がゆえに「観自在」の名が冠せられ、
日本人には馴染みの深い〈般若心経〉は、この菩薩によって、
「色即是空・空即是色・・・」と説かれます。
神田橋先生の著作の中には、
「では視点を変えて」
「ここで一度、観方を変えて」
「これを患者側から観てみると」
という思考法が随所に現れます。
「観自在」ということであろうか、と思います。