~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

名古屋市西区の宗像神社

2024-03-31 15:11:30 | 神社仏閣
名古屋市西区に鎮座する宗像神社に参拝してまいりました。

住宅街の中に建つ鄙びた佇まいには、
氏子の方々が守り伝えてきた歴史が滲みます。

境内には、
明治26年3月に記されたと思しき説明文があり、
それによりますと、創建の年は応永5年(1398)とも、
宝徳2年(1450)とも謂われ明らかではないそうです。
只、史伝 “ 尾張誌 ” には宗像神社の修造記録が遺され、
少なくとも慶長年間(1596~1615)までには、
その創建を遡ることが出来ると記されていました。

さて御祭神でありますが、
上記の説明文によりますと、本殿中央に、
宗像三女神の内の一柱 “ 田心姫命(たごりひめのみこと)” 。
左側(向かって右)に、
“ 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)” 。
右側(向かって左)に、
“ 源義直(みなもとのよしなお)” 。

明治の頃に書かれた説明文ということもあってか、
いささか分かりにくいのが “ 源義直 ” 。
同姓同名の武士が平安時代に実在していますが、
その方では無いはず。
“ 源義直 ” とは、諡(おくりな)を “ 源敬公 ” とする、
“ 徳川義直(とくがわよしなお)” のことでありましょう。
徳川義直(1601~1650)は、
徳川家康の九男(一説に十男)で尾張徳川家の祖。

今回参拝した宗像神社は名古屋城の近くに位置し、
元々は、広大な城地の一角に在ったものが、
明治期に現地へ遷座されたと伝わりますので、
そうした所縁から、
名古屋城の初代城主、義直が祭られているとも考えられます。
また義直という人は崇神の念に篤かった・・・、
いや、いっそ “ 神道オタク ” と呼べる人物だったようで、
日本各地の神社と祭神を調査考証し、
『神祇宝典』なる書物を編纂していますので、
そうした業績への顕彰という意味があったのかも知れません。

義直は義直として、
肝心の “ 田心姫命(たごりひめのみこと)” であります。
宗像三女神は、天照大神と須佐之男命によって行われた、
誓約(うけい・古代占術)により生まれた三人の女神。

生まれた順番が、古事記や日本書紀他でそれぞれ違い、
いわゆる「長女・次女・三女」といった考え方自体が、
あまり当てはまらないのですが、
福岡県宗像市の総本社:宗像大社では、
序列というよりは神祇の配列として、

沖津宮には “ 田心姫(たごりひめ)”
中津宮には “ 湍津姫(たぎつひめ)”
辺津宮には “ 市杵島姫(いちきしまひめ)”

を祀るとされています。

                 

「〇〇だよ、全員集合」ならぬ、
「日本だよ、神仏習合」ということで、
宗像三女神は、海を始め “ 水 ” との関わりから、
インド由来の “ 水 ” の女神:弁才天と習合しました。

中でも “ 市杵島姫(いちきしまひめ)” は、
全国に所在する厳島神社の御祭神。
一説に、厳島神社の “ 厳島(いつくしま)” とは、
“ 市杵島(いちきしま)” のこととも伝わりますが、
何にせよ弁才天と習合したことにより、
厳島神社は弁才天の聖地となりました。

「神仏習合」思想は、
「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」思想を基調とします。
インド発祥の仏教に説かれる様々な尊格を「本地」として、
その「本地」たる仏尊が、日本の衆生を救済するため、
仮に神道の神々として顕現したとする、
ある意味 “ ぶっ飛んだ ” 考え方で、
「垂迹」とは「仮に顕われる」という程の意。
その辺りの消息というものを、
鎌倉期の浄土真宗僧侶:存覚上人(1290~1373)は、

『それ仏陀は神明の本地、
 神明は仏陀の垂迹なり。』(存覚「諸神本懐集」)

と簡明端的に説いています。

例えば “ 市杵島姫(いちきしまひめ)” の場合、
アマテラスとスサノオの誓約によって生まれた、
この日本の女神の正体、つまり「本地」は、
サンスクリット名を “ エーカダシャムカ ” 、
中国で “ 十一面観世音菩薩 ” と訳された仏尊。
この仏尊が “ 市杵島姫 ” へと変身、即ち「垂迹」します。
そこに加えて、
神々の性格性質、得意分野、御利益等々と、
仏尊のそれらとが比較検証され、
“ 市杵島姫(神)” と “ 弁才天(仏)”とは、
似た傾向や同じ特性を持つとして「神仏習合」が果たされました。

では今回訪れました宗像神社の御祭神、
“ 田心姫(たごりひめ)” の場合、
一体どのような仏尊が「本地」とされたのかと言えば、
これが “ 大日如来 ” なのであります。
言わずもがな、密教の根本仏。
やはり中世の想像力は “ ぶっ飛んで ” ます。

さて、本当はこの辺りを手掛かり足掛かりと致しまして、
江島(えのしま)神社が “ 金亀山与願寺 ” だったこと、
千葉神社が “ 北斗山金剛授寺 ” だったこと等々、
「カミ」と「ホトケ」の交流往来の謎について、
何よりも “ ぶっ飛んだ ” 理由とその背景について、
浅慮を巡らせたいのですが長くなりそうなので、
また機会を改めます。

最後に、名古屋市西区の宗像神社において、
“ 田心姫(たごりひめ)” と共に祀られている、
“ 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)” 。

社伝には、
「伊勢の外宮に祀られる “ 豊受大神 ” と同体」
とあります。
実は「神仏習合」に限らず、
神と神とでも「習合」が行われてきました。
それが「神々(しんしん)習合」と謂われるもの。
当然のこと「仏々(ぶつぶつ)習合」もあるわけで、
もうこうなりますと「習合」にして「融合」。

宗像三女神は弁才天と習合し、
弁才天は宗像三女神と融合することで、
新たな世界が生まれました。
弁才天は音楽の神。

「音楽史を振り返ってみるがよい。
 違うジャンルの音楽同士が習合し、
 異なる領域の音楽同士が融合することで、
 いつも新たな世界は開かれてきた・・・」

去り際、ふと声なき声。


“ Cherry blossoms transform into the Dragon Ⅰ ”
~ 桜龍飛翔 ~

皆様、良き日々でありますように!


               







経世済民

2024-03-24 15:50:01 | 雑感
去る令和6年3月21日、
日本銀行の「資金循環統計」において、
個人金融資産が “ 2141兆円 ” と、
過去最高を記録した、との報道がありましたが、
その翌22日には、
内閣府が行った調査結果として、
日本の “ 6割を超える ” 人々が、
「経済的にゆとりがなく、将来への見通しが立たない」
と発表されました。

相反する二つの報告、大きく矛盾する二つの結果は、
日本社会が「格差社会」であることの証左でしょうか。

先日、或る経済学者が過去に放ったとされる、
「高齢者は集団自決した方が良い」
という発言が取り沙汰されました。
前後の文脈ということがありますので、
切り取られた文言だけをあげつらうことは控えます。

只、小心者の早川は、こうした文言に接しますと、
「確かに自分などは早く死んだ方がいいのかもなぁ」
などと、ひととき暗澹たる想いに沈みます。

とは言え、沈んでばかりもいられません。
そもそも経済学者が専門とする「経済」とは、
「経世済民(けいせいさいみん)」の略語。
「経世済民」とは、

『世の中を経(おさ)め、民を済(すく)う』

ことに他なりません。
つまり「経済」活動というのは、
物を売ったり買ったりすることではなく、本来的には、
『世の中を経(おさ)め、民を済(すく)う』活動。

『世の中を経(おさ)め』の『世の中』には、
新生児から高齢者まで幅広い年代の方々が命を営み、
『民を済(すく)う』の『民』には、
健康な人、病気の人、能力の有る人、無い人、
多種多様かつ多岐多彩な人々が含まれているはず。
それらの誰しもを余すこと無く、また洩らすことなく、

『経(おさ)め、済(すく)う』

ことを目指すのが「経済」学者の使命であり、
「経済」事象の根幹ではないのかと、
青臭くも個人的にはそのように思うのであります。

“ 持つ者 ” と “ 持たざる者 ” とが明らかな社会というのは、
人と人とが、和合よりも分断に傾いてゆく社会。
「格差社会」とは “ 角(かど)の立つ ” 社会、
“ トゲトゲしい ” 社会と申せましょう。
この辺りのことについて、
鴨長明(1155~1216)は記しています。

『自分が貧乏で、隣家が裕福であれば、
 朝晩、自分のみすぼらしさを恥じて、
 家を出入りするにも気兼ねしなければならない。
 自分の家族が金持ちの家庭をうらやむのを見たり、
 富裕な人々が自分を蔑む素振りを感じるにつけ、
 心は時々刻々に揺らいで、少しも休まることがない。』
(鴨長明「方丈記」~煩悩の俗世間より/早川意訳)

「方丈記」が書かれたのは、今を去ること約800年前。
「格差社会」は、今に始まったことではなかったんですね。

私自身、日々の労働によって生計を立てている以上、
広い意味で「経済」活動に従事する人間でありますが、
長明師の言葉を借りれば、
『自分のみすぼらしさを恥じ』ざるを得ない身の上。

『世の中を経(おさ)め、民を済(すく)う』

そのようなこと、出来るわけがありません。
それでも尚、
「経済」なる言葉の奥に仄めいているであろう、
『経世済民』の想いだけは、
心のどこかに灯し続けたいのであります。


“ Leaves transform into the Dragon ”
~ 樹葉、龍に変ず ~

皆様、良き日々でありますように!


               









ヨーダ

2024-03-17 16:47:11 | 映画
そろそろ桜の便りが聞かれ始めました。
気ノ森、手前の緑地公園に根を下ろす桜樹の蕾は、

未だ、これくらい。

                 

職場の先輩から、
スターウォーズ全作を時系列順に視聴することを薦められ、
久しぶりに「エピソードⅠ~ファントム・メナス」から観直し、
先ほど「エピソードⅧ~最後のジェダイ」まで見終わり、
残すは「エピソードⅨ~スカイウォーカーの夜明け」。

なるほど、制作年・公開年の順で観るのとは違い、
“ サーガ ” の時系列を追うことで、
キャラクターの感情なり心情なりに添うことが出来、
より一層、物語の世界観を楽しめました。

ジェダイマスター・ヨーダから発せられる言葉は、
その時代その時代で水の流れの如く変わり、
若きルーク・スカイウォーカーには、
『ジェダイの聖典をよく読み、よく学べ』と教え、
年老いたルーク・スカイウォーカーには、
『ジェダイの聖典など燃やしてしまえ』と命じます。
単発で観ると矛盾を孕んだように思える台詞も、
時系列を追えば、

「学び、身に付け、そして捨てよ」

という “ 道 ” の蘊奥が語られているように感じます。

実際「エピソードⅧ~最後のジェダイ」では、
ジェダイの寺院も貴重な聖典も灰燼に帰すのですが、
その燃え上がる炎を見つめながら、

『強さ、熟達の技のみならず、
 弱さ、愚かさ、失敗の数々をも伝えよ。
 失敗こそは最高の師である。』

老境のルークに語るヨーダの言葉は一片の真理。

「学び、身に付け、そして捨てよ」。
とは言え、その心は、

捨てて捨てられるものは捨てられるけれど、
捨てても捨てても捨てられないものが確固として有る。
滅んで滅ぶものは滅ぶけれど、
滅んでも滅んでも滅ばないものが厳然として在る。

ということでもありましょうか。


“ Something in KINOMORI ”
~ 気配 ~

皆様、良き日々でありますように!


               









東日本大震災から13年

2024-03-10 15:52:33 | 日常
先日、奉職する学び舎では卒業証書授与式が挙行されました。
昨年までは、
コロナ禍の影響で歌うことが出来なかった若い命たち。

新型コロナウィルスの5類移行後に迎えた卒業式では、
学び舎を巣立つ若い命たちが、
保護者へ、在校生へ、教職員へ、友人たちへ、
そして何よりも自己の内奥と自身の明日へ向けて、
高く、強く、深く、大きく、
その歌声を響かせたのでありました。
唄われたのは、

合唱曲「群青」。

御承知置きの通り、
合唱曲「群青」は、東日本大震災で被災した、
福島県南相馬市立小高(おだか)中学校の平成24年度卒業生、
小高中学校の音楽教員およびプロ編曲家によって作られた楽曲。

東日本大震災から13年、
未曾有の自然災害を契機として生まれた楽曲が、
東北から遠く離れた東海の地で、
当時は未だ幼児であったろう若い命によって唄われるのを聴き、
言い知れぬ想いに包まれました。

                 ◎◎◎

東日本大震災
死者:1万5900人
行方不明者:2520人(警察庁:令和6年2月時点)

若い命たちは「群青」を歌うに当たり、
どれくらい東日本大震災および原発事故について学び、
又どのような意識を持って唄っているのか、
その辺りのことは分かりません。

合唱曲「群青」は、
卒業式でよく歌われると聞きますので、
もはや東日本大震災や原発事故といったところを超えて、
出会いと別れ、それぞれの旅立ち、未来への希望、
そうした普遍性を謳う楽曲となっているのかも知れません。

楽曲とはそういったもので、国民学派と呼ばれる作曲家、
例えばスメタナ、ドヴォルザーク、グリーグ、シベリウス等々、
当時は「祖国独立・民族団結」を謳った作品の数々も、
時代の推移と共に元々の制作動機を離れ、
現代では普遍的な音楽として演奏され親しまれています。

ショスタコービッチ(1906~1975)然り。
“ 体制 ” への怒りと憎しみを込めて書き上げられた、
交響曲第5番も、
現代では人類の精神を鼓舞する楽曲として愛されています。

それはそれとして、
若い命たちが全身全霊で「群青」を唄う姿を観、
その声を聴いております内には、
歌う本人たちの心、気持ち、意識、想いがどこにあれ、
「群青」の合唱行為そのものが、

「東日本大震災を忘れない」

という “ 記憶の継承 ” に感じられるのでありました。


“ May your dreams come true ”
~ 若き竜たちに幸あれ ~

皆様、良き日々でありますように!


               








ベータ崩壊

2024-03-03 16:38:35 | 自然科学
本日は「備忘録」とでも申しましょうか、
ちょっと記しておきたいことがあります。

それは、

“ ベータ崩壊 ”

構造的に不安定な原子核が安定状態を求め、
“ ベータ線 ” という放射線を出しながら、
安定的な原子核の構造へと変移する現象とされます。

炭素14の原子核は “ ベータ崩壊 ” 時、
電子および反電子ニュートリノを放出し、
原子核を構成していた中性子は陽子へと変わり、
その結果、炭素14は窒素14へと変移します。

中性子は、
アップクォーク1個とダウンクォーク2個によって構成され、
陽子は、
アップクォーク2個とダウンクォーク1個によって構成されます。
つまり中性子が陽子へ変わる時、
アップクォークが1個増え、
ダウンクォークが1個減る、
という現象が起きていることになります。

科学雑誌「Newton」2020年4月号の特集は、

「存在とは何か」でした。

量子論や相対性理論では、
「存在」をどう考えるのか?ということが、
丁寧に解説されているのですが、
その中で、

「無から有は生じ、有は無に帰するのか?」

という問題について、

『あらゆる化学反応は原子の組みかえであり、
 反応の前後で原子が消えたり、生じたりすることは、
 決してありません。』
(「Newton」2020年4月号/ニュートンプレス刊)

として、
水素と酸素の化学反応を例として挙げるなど
マクロな物体および原子レベルでの物理事象では、
「無から有は生じず、有は無に帰さない」
ことを明らかにした上で、

『原子核レベル、素粒子レベルの反応では、
 この常識がなりたちません。
 無から有が生じたり、有が無になったりすることが、
 ごく普通におきるのです。』(引用元:同上)

そして紹介されるのが、
先述の “ ベータ崩壊 ” 。
いま一度 “ ベータ崩壊 ” を振り返りますと、
炭素14の原子核が “ ベータ崩壊 ” によって、
窒素14へと変移した際、
それまで存在していなかった、
電子・反電子ニュートリノ・アップクォークという、
3つの素粒子が生まれました。
つまり無から有が生じ、
ダウンクォーク1個が無くなりましたので、
有が無に帰しました。

これは何かが何かに、
組み変わるとか置き換わるといった物理事象とは、
全く異なるもの。

では、“ ベータ崩壊 ” によって生じた、
電子・反電子ニュートリノ・アップクォークという、
3つの素粒子は、一体どこから来たのでしょうか?

“ ベータ崩壊 ” によって失われた、
1個のダウンクォークは、どこへ去ったのでしょうか?


早川の安直な思考のクセと笑われもしましょうが、

どうもこの辺りの疑問は、結局のところ、

「私たちひとりひとりは、
 どこから来て、どこへ去るのか」

という問いかけと同義同根、同等同質、
そう思えて仕方ないのであります。


“ Purple cloud ”
~ 龍、紫雲に立つ ~

皆様、良き日々でありますように!