名古屋市西区に鎮座する宗像神社に参拝してまいりました。
住宅街の中に建つ鄙びた佇まいには、
氏子の方々が守り伝えてきた歴史が滲みます。
境内には、
明治26年3月に記されたと思しき説明文があり、
それによりますと、創建の年は応永5年(1398)とも、
宝徳2年(1450)とも謂われ明らかではないそうです。
只、史伝 “ 尾張誌 ” には宗像神社の修造記録が遺され、
少なくとも慶長年間(1596~1615)までには、
その創建を遡ることが出来ると記されていました。
さて御祭神でありますが、
上記の説明文によりますと、本殿中央に、
宗像三女神の内の一柱 “ 田心姫命(たごりひめのみこと)” 。
左側(向かって右)に、
“ 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)” 。
右側(向かって左)に、
“ 源義直(みなもとのよしなお)” 。
明治の頃に書かれた説明文ということもあってか、
いささか分かりにくいのが “ 源義直 ” 。
同姓同名の武士が平安時代に実在していますが、
その方では無いはず。
“ 源義直 ” とは、諡(おくりな)を “ 源敬公 ” とする、
“ 徳川義直(とくがわよしなお)” のことでありましょう。
徳川義直(1601~1650)は、
徳川家康の九男(一説に十男)で尾張徳川家の祖。
今回参拝した宗像神社は名古屋城の近くに位置し、
元々は、広大な城地の一角に在ったものが、
明治期に現地へ遷座されたと伝わりますので、
そうした所縁から、
名古屋城の初代城主、義直が祭られているとも考えられます。
また義直という人は崇神の念に篤かった・・・、
いや、いっそ “ 神道オタク ” と呼べる人物だったようで、
日本各地の神社と祭神を調査考証し、
『神祇宝典』なる書物を編纂していますので、
そうした業績への顕彰という意味があったのかも知れません。
義直は義直として、
肝心の “ 田心姫命(たごりひめのみこと)” であります。
宗像三女神は、天照大神と須佐之男命によって行われた、
誓約(うけい・古代占術)により生まれた三人の女神。
生まれた順番が、古事記や日本書紀他でそれぞれ違い、
いわゆる「長女・次女・三女」といった考え方自体が、
あまり当てはまらないのですが、
福岡県宗像市の総本社:宗像大社では、
序列というよりは神祇の配列として、
沖津宮には “ 田心姫(たごりひめ)”
中津宮には “ 湍津姫(たぎつひめ)”
辺津宮には “ 市杵島姫(いちきしまひめ)”
を祀るとされています。
「〇〇だよ、全員集合」ならぬ、
「日本だよ、神仏習合」ということで、
宗像三女神は、海を始め “ 水 ” との関わりから、
インド由来の “ 水 ” の女神:弁才天と習合しました。
中でも “ 市杵島姫(いちきしまひめ)” は、
全国に所在する厳島神社の御祭神。
一説に、厳島神社の “ 厳島(いつくしま)” とは、
“ 市杵島(いちきしま)” のこととも伝わりますが、
何にせよ弁才天と習合したことにより、
厳島神社は弁才天の聖地となりました。
「神仏習合」思想は、
「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」思想を基調とします。
インド発祥の仏教に説かれる様々な尊格を「本地」として、
その「本地」たる仏尊が、日本の衆生を救済するため、
仮に神道の神々として顕現したとする、
ある意味 “ ぶっ飛んだ ” 考え方で、
「垂迹」とは「仮に顕われる」という程の意。
その辺りの消息というものを、
鎌倉期の浄土真宗僧侶:存覚上人(1290~1373)は、
『それ仏陀は神明の本地、
神明は仏陀の垂迹なり。』(存覚「諸神本懐集」)
と簡明端的に説いています。
例えば “ 市杵島姫(いちきしまひめ)” の場合、
アマテラスとスサノオの誓約によって生まれた、
この日本の女神の正体、つまり「本地」は、
サンスクリット名を “ エーカダシャムカ ” 、
中国で “ 十一面観世音菩薩 ” と訳された仏尊。
この仏尊が “ 市杵島姫 ” へと変身、即ち「垂迹」します。
そこに加えて、
神々の性格性質、得意分野、御利益等々と、
仏尊のそれらとが比較検証され、
“ 市杵島姫(神)” と “ 弁才天(仏)”とは、
似た傾向や同じ特性を持つとして「神仏習合」が果たされました。
では今回訪れました宗像神社の御祭神、
“ 田心姫(たごりひめ)” の場合、
一体どのような仏尊が「本地」とされたのかと言えば、
これが “ 大日如来 ” なのであります。
言わずもがな、密教の根本仏。
やはり中世の想像力は “ ぶっ飛んで ” ます。
さて、本当はこの辺りを手掛かり足掛かりと致しまして、
江島(えのしま)神社が “ 金亀山与願寺 ” だったこと、
千葉神社が “ 北斗山金剛授寺 ” だったこと等々、
「カミ」と「ホトケ」の交流往来の謎について、
何よりも “ ぶっ飛んだ ” 理由とその背景について、
浅慮を巡らせたいのですが長くなりそうなので、
また機会を改めます。
最後に、名古屋市西区の宗像神社において、
“ 田心姫(たごりひめ)” と共に祀られている、
“ 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)” 。
社伝には、
「伊勢の外宮に祀られる “ 豊受大神 ” と同体」
とあります。
実は「神仏習合」に限らず、
神と神とでも「習合」が行われてきました。
それが「神々(しんしん)習合」と謂われるもの。
当然のこと「仏々(ぶつぶつ)習合」もあるわけで、
もうこうなりますと「習合」にして「融合」。
宗像三女神は弁才天と習合し、
弁才天は宗像三女神と融合することで、
新たな世界が生まれました。
弁才天は音楽の神。
「音楽史を振り返ってみるがよい。
違うジャンルの音楽同士が習合し、
異なる領域の音楽同士が融合することで、
いつも新たな世界は開かれてきた・・・」
去り際、ふと声なき声。
“ Cherry blossoms transform into the Dragon Ⅰ ”
~ 桜龍飛翔 ~
皆様、良き日々でありますように!
住宅街の中に建つ鄙びた佇まいには、
氏子の方々が守り伝えてきた歴史が滲みます。
境内には、
明治26年3月に記されたと思しき説明文があり、
それによりますと、創建の年は応永5年(1398)とも、
宝徳2年(1450)とも謂われ明らかではないそうです。
只、史伝 “ 尾張誌 ” には宗像神社の修造記録が遺され、
少なくとも慶長年間(1596~1615)までには、
その創建を遡ることが出来ると記されていました。
さて御祭神でありますが、
上記の説明文によりますと、本殿中央に、
宗像三女神の内の一柱 “ 田心姫命(たごりひめのみこと)” 。
左側(向かって右)に、
“ 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)” 。
右側(向かって左)に、
“ 源義直(みなもとのよしなお)” 。
明治の頃に書かれた説明文ということもあってか、
いささか分かりにくいのが “ 源義直 ” 。
同姓同名の武士が平安時代に実在していますが、
その方では無いはず。
“ 源義直 ” とは、諡(おくりな)を “ 源敬公 ” とする、
“ 徳川義直(とくがわよしなお)” のことでありましょう。
徳川義直(1601~1650)は、
徳川家康の九男(一説に十男)で尾張徳川家の祖。
今回参拝した宗像神社は名古屋城の近くに位置し、
元々は、広大な城地の一角に在ったものが、
明治期に現地へ遷座されたと伝わりますので、
そうした所縁から、
名古屋城の初代城主、義直が祭られているとも考えられます。
また義直という人は崇神の念に篤かった・・・、
いや、いっそ “ 神道オタク ” と呼べる人物だったようで、
日本各地の神社と祭神を調査考証し、
『神祇宝典』なる書物を編纂していますので、
そうした業績への顕彰という意味があったのかも知れません。
義直は義直として、
肝心の “ 田心姫命(たごりひめのみこと)” であります。
宗像三女神は、天照大神と須佐之男命によって行われた、
誓約(うけい・古代占術)により生まれた三人の女神。
生まれた順番が、古事記や日本書紀他でそれぞれ違い、
いわゆる「長女・次女・三女」といった考え方自体が、
あまり当てはまらないのですが、
福岡県宗像市の総本社:宗像大社では、
序列というよりは神祇の配列として、
沖津宮には “ 田心姫(たごりひめ)”
中津宮には “ 湍津姫(たぎつひめ)”
辺津宮には “ 市杵島姫(いちきしまひめ)”
を祀るとされています。
「〇〇だよ、全員集合」ならぬ、
「日本だよ、神仏習合」ということで、
宗像三女神は、海を始め “ 水 ” との関わりから、
インド由来の “ 水 ” の女神:弁才天と習合しました。
中でも “ 市杵島姫(いちきしまひめ)” は、
全国に所在する厳島神社の御祭神。
一説に、厳島神社の “ 厳島(いつくしま)” とは、
“ 市杵島(いちきしま)” のこととも伝わりますが、
何にせよ弁才天と習合したことにより、
厳島神社は弁才天の聖地となりました。
「神仏習合」思想は、
「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」思想を基調とします。
インド発祥の仏教に説かれる様々な尊格を「本地」として、
その「本地」たる仏尊が、日本の衆生を救済するため、
仮に神道の神々として顕現したとする、
ある意味 “ ぶっ飛んだ ” 考え方で、
「垂迹」とは「仮に顕われる」という程の意。
その辺りの消息というものを、
鎌倉期の浄土真宗僧侶:存覚上人(1290~1373)は、
『それ仏陀は神明の本地、
神明は仏陀の垂迹なり。』(存覚「諸神本懐集」)
と簡明端的に説いています。
例えば “ 市杵島姫(いちきしまひめ)” の場合、
アマテラスとスサノオの誓約によって生まれた、
この日本の女神の正体、つまり「本地」は、
サンスクリット名を “ エーカダシャムカ ” 、
中国で “ 十一面観世音菩薩 ” と訳された仏尊。
この仏尊が “ 市杵島姫 ” へと変身、即ち「垂迹」します。
そこに加えて、
神々の性格性質、得意分野、御利益等々と、
仏尊のそれらとが比較検証され、
“ 市杵島姫(神)” と “ 弁才天(仏)”とは、
似た傾向や同じ特性を持つとして「神仏習合」が果たされました。
では今回訪れました宗像神社の御祭神、
“ 田心姫(たごりひめ)” の場合、
一体どのような仏尊が「本地」とされたのかと言えば、
これが “ 大日如来 ” なのであります。
言わずもがな、密教の根本仏。
やはり中世の想像力は “ ぶっ飛んで ” ます。
さて、本当はこの辺りを手掛かり足掛かりと致しまして、
江島(えのしま)神社が “ 金亀山与願寺 ” だったこと、
千葉神社が “ 北斗山金剛授寺 ” だったこと等々、
「カミ」と「ホトケ」の交流往来の謎について、
何よりも “ ぶっ飛んだ ” 理由とその背景について、
浅慮を巡らせたいのですが長くなりそうなので、
また機会を改めます。
最後に、名古屋市西区の宗像神社において、
“ 田心姫(たごりひめ)” と共に祀られている、
“ 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)” 。
社伝には、
「伊勢の外宮に祀られる “ 豊受大神 ” と同体」
とあります。
実は「神仏習合」に限らず、
神と神とでも「習合」が行われてきました。
それが「神々(しんしん)習合」と謂われるもの。
当然のこと「仏々(ぶつぶつ)習合」もあるわけで、
もうこうなりますと「習合」にして「融合」。
宗像三女神は弁才天と習合し、
弁才天は宗像三女神と融合することで、
新たな世界が生まれました。
弁才天は音楽の神。
「音楽史を振り返ってみるがよい。
違うジャンルの音楽同士が習合し、
異なる領域の音楽同士が融合することで、
いつも新たな世界は開かれてきた・・・」
去り際、ふと声なき声。
“ Cherry blossoms transform into the Dragon Ⅰ ”
~ 桜龍飛翔 ~
皆様、良き日々でありますように!