当地、本日は雨模様ですが、
昨日は“ 花曇り ”の中に時折は陽も射して、
〈気の池〉の桜は、ほぼ満開でありました。
名古屋市、覚王山・日泰寺
“ 京都への渇き ”とでも申しましょうか、
そんな想いを常日頃抱きながら生きておりますが、
特に“ 渇き ”が昂じる季節は、やはり桜の春と錦繍の秋。
旅に出られぬ私に出来ることと申せば、せいぜいが“ エア京都 ”。
せめて気分だけでも・・・と日泰寺を訪れ、
「いま僕は京都に来ている」などと自らに思い聞かせながら、
桜樹の根元に佇んで五重塔を見上げておりましたが、
どうも“ エア京都 ”には無理があるようで、
かえって“ 渇き ”は増すのでありました。
どれほど以前から在る御堂なのか?は存じ上げませんが、
覚王山・日泰寺の門前に建つ〈千躰(せんたい)地蔵堂〉は、
経年劣化のため、相当に古びた印象の建物でありました。
「古びた印象」と申しましても、
それは京都や「小京都」と呼ばれるような古都に歳月を刻む、
所謂「古建築」が醸し出す“ 風情 ”や“ 味わい ”とは異なり、
木材・コンクリート材・トタン材等が入り混じった建物のせいか、
その老朽化した姿には疲労感が滲んでいました。
今年に入って改修工事が施され、先月その工事が完了し、
新しくなった〈千躰地蔵堂〉への参拝が可能になりました。
ガタガタと引き開けていた格子戸は、自動ドアへと変わり、
堂内正面には、
新しくお祀りされた〈地蔵菩薩〉が立っておられます。
以前は雑然としていた内部も清々しく片付けられ、
堂内すべての壁面には〈千躰地蔵堂〉の由来でもある、
数多くの地蔵菩薩・立像(りゅうぞう)が並んでいます。
(仏像は慣習的に「立像」と書いて「りゅうぞう」と読みますので、
私もそれに倣います。)
こちらは城山八幡宮の桜。
春は何かが終わり何かが始まります。
来週のブログ更新時には既に新年度。
この時期、自ずと胸中に想われるのは「反訓(はんくん)」。
「卒業」の「卒」の字には、
「終わる」という意味と同時に「始まる」の意が、
「閉鎖」の「閉」の字には、
「閉じる」という意味と同時に「開く」の意が、
「反逆」の「逆」の字には、
「逆らう」という意味と同時に「迎える」の意が、
という具合に、一つの漢字の中に、
その漢字が表わす意味とは正反対の意味が含まれる働き、
それが「反訓」とされ、人類が操る多くの文字文化の中にあって、
極めて稀有な作用とされます。
文字に秘められた陰陽思想・・・と言えば大袈裟に過ぎますが、
それでも季節は、出会いと別れの春。
「別れ」が、次の「出会い」をもたらし、
「出会い」があれば、いつかは「別れ」が訪れることを想えば、
一見したところ真逆の現象・正反対の働きと思えるもの、
それら二つが一つを為し、一つは二つを包含していることを、
「反訓」は声なき声を以って歌っているようにも感じられます。
なお「反訓」の説くところによれば、
「苦痛」の「苦」という字には、
「愉快」の「快」の意が含まれているのだとか。
そうであるのならば、
現況、コロナ禍の「苦」の奥底には、
きっと新たな「快」が潜み、芽生えているはず。
いや、コロナ禍に限らず、
人が味わう様々な「苦」は、「苦」それ自体の中に、
「快」への鍵、地図、ヒント、道、といったものが宿っているはず。
お粗末な考えと承知しつつも、そう願い、そう信じます。
昨日は“ 花曇り ”の中に時折は陽も射して、
〈気の池〉の桜は、ほぼ満開でありました。
名古屋市、覚王山・日泰寺
“ 京都への渇き ”とでも申しましょうか、
そんな想いを常日頃抱きながら生きておりますが、
特に“ 渇き ”が昂じる季節は、やはり桜の春と錦繍の秋。
旅に出られぬ私に出来ることと申せば、せいぜいが“ エア京都 ”。
せめて気分だけでも・・・と日泰寺を訪れ、
「いま僕は京都に来ている」などと自らに思い聞かせながら、
桜樹の根元に佇んで五重塔を見上げておりましたが、
どうも“ エア京都 ”には無理があるようで、
かえって“ 渇き ”は増すのでありました。
どれほど以前から在る御堂なのか?は存じ上げませんが、
覚王山・日泰寺の門前に建つ〈千躰(せんたい)地蔵堂〉は、
経年劣化のため、相当に古びた印象の建物でありました。
「古びた印象」と申しましても、
それは京都や「小京都」と呼ばれるような古都に歳月を刻む、
所謂「古建築」が醸し出す“ 風情 ”や“ 味わい ”とは異なり、
木材・コンクリート材・トタン材等が入り混じった建物のせいか、
その老朽化した姿には疲労感が滲んでいました。
今年に入って改修工事が施され、先月その工事が完了し、
新しくなった〈千躰地蔵堂〉への参拝が可能になりました。
ガタガタと引き開けていた格子戸は、自動ドアへと変わり、
堂内正面には、
新しくお祀りされた〈地蔵菩薩〉が立っておられます。
以前は雑然としていた内部も清々しく片付けられ、
堂内すべての壁面には〈千躰地蔵堂〉の由来でもある、
数多くの地蔵菩薩・立像(りゅうぞう)が並んでいます。
(仏像は慣習的に「立像」と書いて「りゅうぞう」と読みますので、
私もそれに倣います。)
こちらは城山八幡宮の桜。
春は何かが終わり何かが始まります。
来週のブログ更新時には既に新年度。
この時期、自ずと胸中に想われるのは「反訓(はんくん)」。
「卒業」の「卒」の字には、
「終わる」という意味と同時に「始まる」の意が、
「閉鎖」の「閉」の字には、
「閉じる」という意味と同時に「開く」の意が、
「反逆」の「逆」の字には、
「逆らう」という意味と同時に「迎える」の意が、
という具合に、一つの漢字の中に、
その漢字が表わす意味とは正反対の意味が含まれる働き、
それが「反訓」とされ、人類が操る多くの文字文化の中にあって、
極めて稀有な作用とされます。
文字に秘められた陰陽思想・・・と言えば大袈裟に過ぎますが、
それでも季節は、出会いと別れの春。
「別れ」が、次の「出会い」をもたらし、
「出会い」があれば、いつかは「別れ」が訪れることを想えば、
一見したところ真逆の現象・正反対の働きと思えるもの、
それら二つが一つを為し、一つは二つを包含していることを、
「反訓」は声なき声を以って歌っているようにも感じられます。
なお「反訓」の説くところによれば、
「苦痛」の「苦」という字には、
「愉快」の「快」の意が含まれているのだとか。
そうであるのならば、
現況、コロナ禍の「苦」の奥底には、
きっと新たな「快」が潜み、芽生えているはず。
いや、コロナ禍に限らず、
人が味わう様々な「苦」は、「苦」それ自体の中に、
「快」への鍵、地図、ヒント、道、といったものが宿っているはず。
お粗末な考えと承知しつつも、そう願い、そう信じます。