~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

福運・吉祥をもたらす天空の龍

2019-12-29 16:12:00 | 神社仏閣
元号が変わり、消費税が上がり、超大型台風が襲来し・・・と、
変化・変動の多かった一年が終わろうとしています。

良かったこと悪かったこと、
人を傷つけたこと、人に傷つけられたこと、
叶ったこと、叶わなかったこと等々、悲喜交々を想うにつけ、
自らの未熟さに向き合い、反省しきりの年の瀬であります。

特に、自分の力不足を感じるのは「言葉の選択と使用」。
例えば、

「頑張れ」「頑張って下さい」「頑張りましょう」

というフレーズの選択と使用のタイミングは、
幾歳月に亘り試行錯誤を繰り返すも、正解が分かりません。
巷間よく言われているのは、

“ 頑張っている人に向けて、
「頑張って下さい」と言うのは失礼である ”

とする考え方。
確かにその通りなのかも知れませんが、語彙に乏しい早川は、
「頑張れ」「頑張って下さい」「頑張りましょう」
に代わるフレーズを持ち得ません。

「頑張らなくていいですよ」とか、
「そのままのあなたでいて下さい」などというフレーズも、
それなりのタイミングで多少の効用もあろうかとは思いますが、
知人の中には、

「なぜ頑張れ!と言ってくれないのか?」

と、いささか苛立ちを見せる人もいます。
どういうフレーズを選択するか、という以前に、
その人が置かれている状況の文脈なり流れなりというものを、
的確に把握することが求められます。

脊髄損傷により日常生活動作に大幅な制限のかかる方が、
闘病手記の中で、言われて嬉しかった励ましの言葉として、

「これから、これからですよ」

と書いておられるのを読んで感動し、
浅はかな私は状況の文脈もわきまえず、
「これから、これから」と連呼しておりましたら、

「なにがコレカラだよ・・・」

と、お叱りを受けました。

               

精神科医・神田橋條治先生は、多くの御著書の中で、
〈生体的発声〉ということを説いておられます。
〈生体的発声〉とは、
たった一言の相槌や、或いは、たとえ同じフレーズであっても、
声をかける相手への集中度、エネルギーの流れ、
発声時の心と身体の状態、声の出どころ、意識の在り方、
発声方法の違い等々によって、言語が伝える中身それ自体が、
大きく変容することの意と、現時点では受け止めています。

日本は古来、

“ 言霊(ことだま)の咲き笑(わ)う国 ”

と称されますが、同じ「頑張れ」の一言においても、
言語としての「頑張れ」、
言霊としての「頑張れ」、
二つの領域・レベルでの「頑張れ」があるように思われ、
当然のこと、相手の心に響くのは、
言霊としての「頑張れ」に違いありません。

今後は〈生体的発声〉〈言霊〉という辺りを念頭に置き、
あれこれ工夫してゆきたいと思います。

               

一年を振り返って想いを馳せる一喜一憂の全ては、
そもそも自分自身に生命活動が付与され、
人間として日々を生かされているがゆえのこと。

普段はすっかり忘れている、この根源的事実に思いを致し、
一年の感謝を捧げるべく、父祖の地・伊勢~鳥羽を訪れました。

風が強い日でもあり、

JR鳥羽線の車窓に広がる鳥羽湾には白波が。


父方・母方の故地を巡り、

外宮参拝へ。


外宮・御正殿前の拝所は、

令和元年・祈り納めの参詣者で溢れていました。


境内は、

新春を迎える準備が清々しく整えられ、


初詣に訪れる大勢の参拝客を迎えるにあたってか、

浄域の空気の中には、
どこか張り詰めたものがあるようにも感じられました。

               

参拝を終えた帰路の空には大きな虹がかかり、

写真では御確認頂けませんが、
主虹(しゅにじ)の外側には副虹(ふくにじ)も見えました。
古代中国において、虹は龍と見做され、
主虹は「虹龍(こうりゅう)」、副虹は「蜺龍(げいりゅう)」
と伝わります。
虹という気象現象も、太陽とは相対する方角に現れる、
虹蜺(こうげい)二体の龍と観想すれば、
朝日を浴びて虹蜺は西の天に舞い、
夕照を映して虹蜺は東の空に踊る、とも申せましょう。

及ばずながら、福運・吉祥をもたらす天空の龍にかけて、
来たる年、皆様に善き事がたくさんありますよう、
心より祈念申し上げます。

この一年、
当ブログに御来訪を賜り、誠にありがとうございました。
来年も宜しくお願い申し上げます。
皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。


              










樅ノ木は残った

2019-12-22 15:12:55 | 
年の瀬を迎えた名古屋駅前

写真・中央のビルは大名古屋ビルヂング。
他府県にお住まいの方の中には「ビルディングでは?」
と思われるかも知れませんが「ビルヂング」なのであります。


この季節、

各所にクリスマス・ツリーが設置されています。


申し上げるまでもなく、
古来よりクリスマス・ツリーに多く用いられてきたのは、

マツ科モミ属の常緑針葉樹〈モミの木〉。
常緑樹信仰の歴史は古く、マツ科のモミが、
春夏秋冬を通して緑を保ち、人目を惹く花は付けずとも、
風雪に耐えながら大きく成長する姿が、
人々の心を捉え続けてきたとも言われています。

ドイツ民謡を起源とするクリスマスキャロル「もみの木」では、
“ O Tannenbaum  O Tannenbaum ”と、
このマツ科モミ属の常緑樹を讃えますが、
日本でも古来「松・竹・梅」として「松」を最上と謳います。
洋の東西を問わず、クリスマス・ツリーを仰ぐ私たちの基層には、
常緑樹信仰の賛歌が流れているということでしょうか。

               

もみの木の「もみ」は漢字で「樅」と書かれ、想起されるのは、
山本周五郎(1903~1967)作品「樅ノ木は残った」。

江戸時代前期、仙台藩で起きた伊達騒動を題材に取り、
主人公・原田甲斐(はらだ かい)の生き様を描いたこの作品は、
数ある山本作品の中でも特に読み継がれている逸品であります。

私欲を満たす為に組織を牛耳ろうとする巨悪の企みを阻止し、
藩の存続と人々の暮らしを守るため、敢えて巨悪の内懐に入り、
誰にも本心を打ち明けることなく巨悪の一味を演じ、
そのことによって起きる汚名・悪評・誹謗・中傷に甘んじ、
本懐を遂げる日に向けて忍従し続ける侍・原田甲斐。

伊達藩を揺るがす事件によって両親を殺害された13歳の少女、
宇乃(うの)に向けて、甲斐は樅ノ木を指して言います。

「私はあの木が好きだ」
 (山本周五郎「樅ノ木は残った」/新潮文庫/引用元・以下同)

その樅ノ木は、仙台から江戸へ甲斐自身の手で移し植えたもの。
両親を失って尚、気丈に振る舞う宇乃の胸中を察する甲斐は、
静かに言の葉を紡ぎます。

「宇乃、この樅はね、親やきょうだいからはなされて、
 ひとりだけ此処にうつされてきたのだ、ひとりだけでね、
 わかるか」

「ひとりだけ、身も知らぬ土地へ移されてきて、
 まわりには助けてくれる者もない、
 それでもしゃんとして、風や雨や、雪や霜にもくじけずに、
 ひとりでしっかりと生きている・・・」

それは樅ノ木に寄せて、宇乃へ贈る励ましであり又、
樅ノ木の姿は、原田甲斐その人の姿に重なります。

               

伊達騒動の波紋は、藩の内外に広がり、
甲斐の友人・仲間たちは、甲斐の本心・本懐を見抜けないまま、
侍の意地と面目を立てるあまり、非業の最期を遂げてゆきます。

そうした中、
甲斐が冷徹を装う裏には何かがあることを察し、
甲斐を信じつつ、それでも血気にはやろうとする青年を、
甲斐は諭します。

「意地や面目を立てとおすことはいさましい、
 人の眼にも壮烈にみえるだろう、
 しかし侍の本分というものは堪忍や辛抱の中にある、
 生きられる限り生きて御奉公することだ、
 これは侍だけに限らない、
 およそ人間の生き方とはそういうものだ、
 いつの世でも、
 しんじつ国家を支え護立(もりた)てているのは、
 こういう堪忍や辛抱、
 人の眼につかず名もあらわれないところに働いている力なのだ」

               

人知れず「道」を求め、
人知れず「道」を歩み、
人知れず「道」を行う。

山本周五郎先生が謳われた主題は、
薄徳の私には為し得ない生き方でありますが、
為し得ない生き方であるからこそ、折に触れて味わいたい、
人間生命の一つの指標、普遍的旋律と心得ます。


                       








「発掘された日本列島」展

2019-12-15 16:07:11 | イベント・展覧会
名古屋市博物館にて開催中(~12月28日)の、

「発掘された日本列島 2019」展に行ってまいりました。

文化庁により、
平成七年度から行われている「発掘された日本列島」展。
今年度は『新発見考古速報』として、旧石器時代から近代まで、
多くの人々の耳目を集める遺跡の速報展示という内容であります。

ごく一部を記させて頂きます。
(会場内は撮影許可有り、フラッシュ撮影は禁止)

               

青森県・西目屋村、
白神山地東麓・縄文遺跡群から出土した土偶。

手前側は蹲踞(そんきょ)土偶/川原平遺跡【縄文後期~晩期】。
奥側2体は遮光器土偶/川原平遺跡【縄文後期~晩期】。
蹲踞土偶は、その名の通り蹲踞のような姿勢を取っています。
高さ21.6㎝で、腕と膝頭の一部が欠損していますが、
〈手を合わせた土偶〉の可能性があるとのこと。


上掲写真・奥側の遮光器土偶を正面から。

高さ26.5㎝で、素朴な中に一種の迫力を感じます。
「遮光器土偶」という言葉が持つ、イメージ拘束力は未だに強く、
命名の由来となった、
イヌイットの「遮光器」とは関係が無いにも拘わらず、
どうしても「遮光器」に見えてしまいます。


長野県・松本市、エリ穴遺跡から発掘された、
こちらの数々は、

土製の耳飾り【縄文後期~晩期】直径2.1~5.8㎝。
装着イメージ図によると、耳たぶに穴をあけ、
それを大きく拡げて、そこに土製耳飾りを嵌め込んだのだとか。
耳飾りの数々は、その円輪・円環形状や、
相対するものを内包しながら回転するような意匠から、
どこか月の巡りや潮の満ち引きを想起させられました。


栃木県・足利市、行基平(ぎょうきだいら)山頂古墳から出土の、

女子人物埴輪【古墳時代後期(6世紀初頭)】高さ69.5㎝
作製当時はカラフルな彩色が施されていたそうです。

               

今回の「発掘された日本列島」展の中で重要な企画の一つが、
「福島の復旧・復興と埋蔵文化財」であります。
企画意図として、こう記されています。

“ 福島第一原子力発電所事故の影響を強く受けた、
 福島県沿岸部市町村から出土した遺物を展示することにより、
 これら地域の豊かな歴史文化の一端を多くの人々に知って頂き、
 そのことが、引き続き多くの人々に、
 これら地域への関心を持ち続けて頂くことに繋がり、また、
 福島県に生まれ育った方々には、
 改めて故郷の魅力を知って頂く機会になることを期する企画 ”
  (「発掘された日本列島」展・公式図録・文化庁編より要約)

福島県・南相馬市、史跡 真野(まの)古墳群は、
弥生時代から古代までの重要な遺跡が集中しています。

写真手前右/絵画土器/八幡林遺跡【古墳時代前期】。
写真手前左/金銅製双魚佩/真野古墳群【古墳時代中期~後期】。
金銅製双魚佩(そうぎょはい)は刀の飾り。
写真右奥/須恵器壺の底/大六天遺跡/【平安時代前半】。
須恵器(古代陶質土器)には「小毅(しょうき)殿」と刻書され、
この「小毅殿」は、軍団の次官の意。
相馬地域は、
「奈良~平安時代にかけて日本最大級の製鉄遺跡が出現」し、
また蝦夷討伐の為、行方(なめかた)軍団が置かれ、
「律令国家の東北経営を支える地域として重要な役割」を果たし、
先の「小毅殿」と刻書された須恵器の発見は、行方軍団の次官が、
この地域に存在したことの証しとして貴重なのだそうです。
          (「」内は公式図録より引用。以下同じ。)


福島県・浪江町、七社宮(しっちゃみや)遺跡は、
縄文時代の動物祭祀遺構。

写真右/人面装飾付き注口土器/七社宮遺跡【縄文後期~晩期】。
写真中央/土版/出土地・年代は上記に同じ。
写真左/双頭熊形石製品/出土地・年代は上記に同じ。
双頭熊形石製品は、なかなか熊には見えませんが、
約5m四方の方形マウンドの中央に、この双頭熊形石製品を置き、
「熊を中心とする動物祭祀が行われた」とされます。


福島県・双葉町、陣場沢(じんばさわ)窯跡(かまあと)群は、
古代(7世紀)陸奥国(むつのくに)標葉郡衙(しねはぐんが)に、
須恵器の甕(かめ)・杯(つき)等を供給していた窯場遺構。

写真右奥/甕の欠片/陣場沢窯跡群【古代(7世紀)】。
写真右手前/鴟尾(しび)の欠片/出土地・年代は上記に同じ。
写真左/蓋/出土地・年代は上記に同じ。

陸奥国・標葉郡衙の「郡衙」とは、古代律令制度下において、
郡の役人(郡司)が政務を行った役所のこと。
鴟尾は、寺院など瓦屋根の大棟の両端に設置されたものなので、
標葉郡衙には大きな寺院が在ったことが推測されます。
陣場沢窯跡群は、
「平成2年に双葉高校史学部の生徒が窯壁が付いたままの
 須恵器片を採集したことがきっかけとなり、
 その存在が明らかに」なったのだそうです。


福島県・大熊町、梨木平(なしきだいら)遺跡。
福島県・大熊町、南沢(みなみさわ)遺跡。

写真右下/石槍(いしやり)/梨木平遺跡【縄文早期~前期】。
写真中央から右回り4種/土器/南沢遺跡【縄文前期~後期】。
石槍の長さは18㎝で、その丁寧な作り方から、
「縄文人が作った特別な宝物」とも言われているそうです。

上記、梨木平遺跡・南沢遺跡がある福島県・大熊町では、
中間貯蔵施設の建設が進められています。
中間貯蔵施設とは、

「除染による汚染土壌や廃棄物を最終処分までの間、
 安全かつ集中的に貯蔵する施設」

のことで、大熊町と双葉町に整備されることが決まり、
中間貯蔵施設予定地・総面積16平方キロメートルの内、
11平方キロメートルが大熊町に属しています。
先の福島県・大熊町・梨木平遺跡では、
奈良時代の竪穴式建造物跡が発見されたものの、
放射線量が高いため、調査員の方々が防護服に身を固めて、
遺跡調査に当たっておられる写真が掲げられ、
また解説文には、こう書かれていました。

「大熊町では、いまだすべての住民が帰還していませんが、
 中間貯蔵施設地内に住民が帰還できるのは、
 貯蔵開始から30年後、県外に最終処分場が完成し、
 土壌や廃棄物の処分が完了してからと想定されています。」

住民の帰還は、汚染土壌や廃棄物の貯蔵開始から30年後・・・。

              =◯◯◯=

今回の「発掘された日本列島」展は、
日本各地の豊かな歴史遺産を知る機会になったと同時に、
東日本大震災と、
その震災によって発生した福島第一原子力発電所事故、
双方の爪痕を考古学の視点から考える機会となりました。

全ての人には物語があり、全ての場所には歴史がある。
浅薄ながらも学び続けてゆきたいと思います。


          
              









「奏でる~楽器と調べ」展

2019-12-08 15:38:07 | イベント・展覧会
名古屋市・東区の一角に広がる徳川園は、

尾張藩・第二代藩主・徳川光友(1625~1700)の隠居所跡地に、
池泉回遊式庭園として造営され現在にまで伝えられています。


その徳川園に隣接する徳川美術館で開催中(~2020年1月31日)の、

企画展「奏でる~楽器と調べ」に行ってまいりました。

館内は撮影禁止につき掲載できる写真はありませんが、
展示物の全ては、只々感嘆のタメ息を漏らすしかないような、
古伝の楽器や墨譜(はかせ)等々で、眼福に与ると同時に、
音楽の原義、人間と音楽との関わりというものに、
あらためて想いを馳せる機会となりました。

               

江戸時代制作の、雅楽で使われる釣太鼓(つりだいこ)は、
太鼓を釣る為の円輪枠の頂上に三弁摩尼宝珠が置かれ、
鼓面には三体の霊獣獅子が描かれていて、
釣太鼓を叩くことで、そこに吉祥の降臨を期するというもの。

同じく江戸期制作の大鼓(おおづつみ)の胴部には、
葡萄の蒔絵が施され、大鼓を打つことによって、
繫茂する葡萄の蔓(つる)の如く子孫繁栄が願われます。

楽器とは、文字通り「楽(がく)の器(うつわ)」。
いにしえの「楽の器」は、
現代のように音楽を奏で、人を喜ばせる為の器というより、
自身の内界を鎮め、音による〈祓い〉とでも申しましょうか、
その時その場所を浄め、人と天地との交流を図る為の器・・・、
そうした側面が強い事が観てとれます。

               

江戸期に作られた、工芸作品かと見まごうばかりに美しい、
12本で一組の調律管には、その一本一本に金泥を以って、

壱越(いちこつ)断金(たんぎん)平調(ひょうじょう)
勝絶(しょうぜつ)下無(しもむ)双調(そうじょう)
鳧鐘(ふしょう)黄鐘(おうしき)鸞鏡(らんけい)
盤渉(ばんしき)神仙(しんせん)上無(かみむ)と、

日本・十二律の音名が記されていました。
調律管は凛々としていて、こうした現物を目の当たりにしますと、
歳月の彼方に生きていた、日の本の国の音楽家の姿が、
まざまざと脳裡に蘇るように感じます。

日本・十二律・第八音に「黄鐘(おうしき)」とありますが、
ご承知置きのように「徒然草」の中で兼好法師は、

「凡そ、鐘の声は黄鐘調なるべし。
 これ、無常の調子、祇園精舎の無常院の声なり。」
(すべからく寺院の梵鐘の音は、黄鐘の音であってほしい。
 黄鐘の音は、世の無常、万物流転、盛者必衰を説く音、
 釈迦入滅の時、その場に鳴り響いたであろう音なのだから。)

と綴っておられます。
〈黄鐘〉は、
一般的に西洋音楽の〈ラ〉の音に相当するとされますが、
それは両者の音程・周波数が近いだけのこと。
放たれた音の余韻の奥深く、無常の響きを秘めるのは、
あくまでも〈黄鐘〉であって〈ラ〉ではないものと心得ます。

               

古伝の琉球楽器も展示されていました。
18世紀に作られた横笛(ホンテツ)は、長さが目測 80㎝程度。
中国の横笛・笛子(ディーズ)の影響が濃く感じられ、
吹き口の下に共鳴穴が穿たれ、その共鳴穴には笛子と同様に、
しっかりと葦の皮膜(共鳴膜)が貼られていました。

共鳴膜は破れやすく、貼り方にコツの要る消耗品なので、
展示されている笛に貼られていた共鳴膜は、
長きに亘って貼られているものとは考えにくいのですが、
もしかしたら時折は演奏される現役の楽器なのかも知れません。

今回の企画展「奏でる~楽器と調べ」は、
2020年1月4日から企画展の後期に入り、
展示替もあるそうなので、また訪れようと思います。

               

今回は入園しなかった徳川園は、

写真の右側に広がっています。


すでに紅葉の時期は過ぎましたが、徳川美術館を去り際、
赤い実から「こっちこっち」と手招きを受けました。

晩秋から初冬に赤い実をつける樹木は多くありますが、
おそらくはモチノキ科の樹木クロガネモチではないかと。





              








念珠の直し

2019-12-01 14:30:12 | 仏教関係
けっして粗末に扱っているわけではありません。
しかしながら、
日々に念珠を使い、念珠と共に歩み、念珠と共に雨に打たれ、
念珠と共に陽に焼かれ続けております内に、

念珠は、かくの如く傷んでまいります。

関東在住時に授かった際は真っ白だった紐は変色し、
房もボロボロになりましたので、名古屋・大須の地に、
永く御商売を営んでおられる老舗念珠店へ直しを依頼しました。

私は「念珠(ねんじゅ)」と呼んだり書いたりしておりますが、
数珠(じゅず)・珠数(じゅず)など、全て同じものを指します。
只、宗派によって呼び名・形状・珠(玉)の数等々が異なり、
仏具店においても、今回直しをお願いした老舗では、
「珠数」の文字を用いておられました。

念珠を預けた老舗をあとにして、

名古屋・大須の富士浅間神社を参拝し、


大須観音へ

「大須観音」として親しまれる真言宗・智山派寺院の正式名称は、
「北野山 真福寺 宝生院(ほうしょういん)」。
山号「北野山」の「北野」は北野天満宮の「北野」を示し、
その名の通り、元亨四年(1324年)後醍醐天皇の勅命により、
尾張・長岡庄・大須郡(ごおり)現在の岐阜県羽島市の地に、
北野天満宮からの御分霊を祀る天神社が建立され、
その別当寺(神社を管理する寺)として発祥したとされます。

慶長17年(1612年)に徳川家康の命令によって、
現在の場所に天神社と別当寺が共々移転されたと伝わります。
こちらが、

現・大須観音の北北東に鎮座するところの北野神社。

               

寺伝によると鎌倉時代後期、別当寺の住職に任じられた
能信上人(のうしんしょうにん)が伊勢神宮に籠って神意を仰ぎ、
夢の中で「別当寺には観世音菩薩を祀れ」というお告げを得て、
観世音菩薩が御本尊になったのだとか。
一説に能信上人は、伊勢神宮・神官の子息として、
伊勢の地に生を受けた人物という風にも伝えられています。

神仏習合時代には、このように僧侶が神社に参籠したり、
神官が仏閣に参拝したりすることが当たり前のように行われ、
先の伊勢神宮で言えば、
多くの神職が神宮北東の朝熊山(あさまやま)に建つ寺院・
金剛證寺(こんごうしょうじ)に詣でていた記録が遺っています。

往時は、現代のように神道なのか仏教なのかという区別が曖昧で、
神(カミ)と御仏(ミホトケ)とが融合したところの

「カミホトケ」

なる存在として拝まれていたのでは?という説もあり、事実、
平安時代には〈巫僧(ふそう)〉という、文字通り、
巫女(神官)でもあり僧侶でもあるという職業さえ存在しました。

真偽・是非はともかく、実に大らかで寛容と申しましょうか、
近現代に蔓延する、「自分の考えや領分が一番正しい」とする、
排除の論理・分断の思想とは異なる感性を観る思いがします。

因みに古都・奈良においては今も尚、正月の伝統行事として、
興福寺の僧侶の方々が春日大社に参詣しての〈神前読経〉が、
時代を超えて厳修されています。

               

大須観音境内の一角、
堂宇なき露天に〈金剛界・大日如来〉が祀られています。
こちらは、

その〈金剛界・大日如来〉が結ばれる智拳印(ちけんいん)。
智拳印については、
グラフィックデザイナー・杉浦康平先生が、

「左手(胎蔵界を象徴する)の人差し指を上昇する流れが、
 右手(金剛界を象徴する)の人差し指から他の四指へと伝わる。
 金剛拳を握る右手の三指を下降する渦が、
 左手の三指に添って逆向きの渦を生み、舞い降りる。
 左手の掌をへて、ふたたび左手の人差し指へと回帰する。
 十本の指の渦巻く動きが、『二而不二』を具現する。」
 「宇宙を叩く~火炎太鼓・曼荼羅・アジアの響き」(工作舎刊)

と、この印相(いんそう)の本質を説いておられます。
引用文中の『二而不二(ににふに)』とは、
二つでありながら、二つではなく一つであり、
一つに見える世界も、実は二つの世界が結び合っている事の意。

私たち一人一人の生命を始め、生起する現象の全ては、
二つ、もしくは無数の相対するエネルギーが離合集散しつつ、
相互に働き合って成立しているとする考え方で、特に智拳印は、
右手と左手という二つの世界を螺旋状に結び合わせることにより、
『二而不二』の原理を身体的所作として説いているとされます。

また『二而不二』の思想は、
全ての事象を〈関係性〉において捉えようとするため、
対立・矛盾・葛藤は否定されず、むしろそれらに価値を見出し、
対立・矛盾・葛藤から、新たなる智慧・斬新な理論・深い洞察・
瑞々しい動き等々が生まれ出るものとします。

               

さて、冒頭に記しましたところの念珠が、
直しを終えて手元に戻ってまいりました。

広大な天地の間に在っては卑小に過ぎる私ではありますが、
念珠玉の青は、空と海の青。
念珠房の白は、空に浮かぶ白雲と海に立つ白波・・・と、
せめてイメージだけは大きく描きながら、
心新たに歩んでまいりたいと思います。

本日より師走。
皆様、御体調等崩されませんように!