古来、寺院への参拝月として推奨されてきたのは、
正月・五月・九月の三ツ月で、
「正五九(しょう ご く)参り」と呼び慣わされて来ました。
昨日は、その参拝月の御縁日とあって、
成田山新勝寺・名古屋・栄分院・萬福院には、
大勢の参拝客が訪れていました。
写真は、境内に祀られている〈水掛け不動尊〉。
境内・弘法大師堂前の香閣に線香を供えますが、
風が強いせいで、すぐに燃え上がります。
整形外科医にして作家の篠田達明先生により、1992年から、
月刊「整形・災害外科」誌上に連載が開始された、
「医療史回り舞台」が今月号(2019/No.10)で終了しました。
《連載期間27年、連載回数327回》
もう一度、書かせて頂きます。
《連載期間27年、連載回数327回》
平成4年から令和元年に至る長きに亘り、
現役医師の方が医療の歴史を巡るエッセイを紡ぎ続ける事自体が、
まさしく偉業と、敬服申し上げるものであります。
「医療史回り舞台」は、
整形外科医・篠田達明としての鋭い視点の縦糸と、
人間・篠田達明としての温かな眼差しの横糸とが織り合って、
堅苦しい医療書の中に、一服の清涼剤を投じるもので、
その内容は、
時に、平清盛・平重盛父子の死因に迫り、
時に、大岡越前守の慢性消化器症状を語り、
時に、禅僧・良寛の最期を巡り、
時に、モーツァルトに施された医療行為の謎を解き、
そして何より、
民衆と共に生きた名医たちの生涯に光を当てたもの・・・、
のみならず、博物学的多岐にわたり展開されます。
私は、未だ100篇ほどしか読ませて頂いておりませんが、
真の〈仁〉に生きた医療者の生き様の数々を、
篠田先生のエッセイから知ることが出来ました。
加えて、
〈仁〉とは、それを声高に標榜するものではなく、
〈仁〉とは、それを真摯に生きるもの、
ということを行間から学ばせて頂きました。
最終回(第327回)は「日本泳法と武士の“ 残心 ”の心得」
篠田先生は、
日本近代水泳の礎を築いた田畑政治(1898~1984)の足跡を辿り、
日本泳法の技術的側面に触れたあと、
“ 残心(ざんしん)”という、心の在り方について、
「武術における“ 残心 ”の心得とは、剣術の場合、
両者が激突して引いた後も相手の反撃に備えて緊張を保つこと。
弓術では、一の矢の着点をしっかりと見極めてから、
呼吸を鎮めて二の矢を放つこと。
古式泳法では刀や鉄砲を背負い、兜をかぶって長く泳ぐので、
体力の消耗がはげしく、水中から上がった後の戦いに備えて
余力を十分に残すこと。」
(引用元:「整形・災害外科」2019/No.10/増大号/金原出版)
と書かれ、
『これぞ臨床の場にも当てはまる心構えといえようか』(上掲書)
と結ばれています。
辛さを抱えた人、悲しみを背負った人は、その苦悩の重さゆえに、
床に座り、床に這い、床に横たわり、床に伏さざるを得ません。
その「床」・・・広い意味での病床の傍らに「臨」み、
「きっと大丈夫」「必ず良くなる」と寄り添い、
希望の一灯をともし続けるのが「臨床」の原義と聞きます。
されば「臨床」とは先ず以って、心の在り方、精神のたたずまい。
いかなる職種・業界にも通じ、また日常に活用され得るものであり、
“ 残心 ”も又、暮らしの中に工夫・応用し得るものと受け止めます。
門外にして若輩の私が、
篠田先生の労をねぎらうのは〈長幼の序〉に反すると考え、
そのような言辞は憚ります。
只、その連載から感銘を受けた読者の一人として感謝申し上げ、
末筆ながら篠田先生の御健康を心より祈念申し上げます。
正月・五月・九月の三ツ月で、
「正五九(しょう ご く)参り」と呼び慣わされて来ました。
昨日は、その参拝月の御縁日とあって、
成田山新勝寺・名古屋・栄分院・萬福院には、
大勢の参拝客が訪れていました。
写真は、境内に祀られている〈水掛け不動尊〉。
境内・弘法大師堂前の香閣に線香を供えますが、
風が強いせいで、すぐに燃え上がります。
整形外科医にして作家の篠田達明先生により、1992年から、
月刊「整形・災害外科」誌上に連載が開始された、
「医療史回り舞台」が今月号(2019/No.10)で終了しました。
《連載期間27年、連載回数327回》
もう一度、書かせて頂きます。
《連載期間27年、連載回数327回》
平成4年から令和元年に至る長きに亘り、
現役医師の方が医療の歴史を巡るエッセイを紡ぎ続ける事自体が、
まさしく偉業と、敬服申し上げるものであります。
「医療史回り舞台」は、
整形外科医・篠田達明としての鋭い視点の縦糸と、
人間・篠田達明としての温かな眼差しの横糸とが織り合って、
堅苦しい医療書の中に、一服の清涼剤を投じるもので、
その内容は、
時に、平清盛・平重盛父子の死因に迫り、
時に、大岡越前守の慢性消化器症状を語り、
時に、禅僧・良寛の最期を巡り、
時に、モーツァルトに施された医療行為の謎を解き、
そして何より、
民衆と共に生きた名医たちの生涯に光を当てたもの・・・、
のみならず、博物学的多岐にわたり展開されます。
私は、未だ100篇ほどしか読ませて頂いておりませんが、
真の〈仁〉に生きた医療者の生き様の数々を、
篠田先生のエッセイから知ることが出来ました。
加えて、
〈仁〉とは、それを声高に標榜するものではなく、
〈仁〉とは、それを真摯に生きるもの、
ということを行間から学ばせて頂きました。
最終回(第327回)は「日本泳法と武士の“ 残心 ”の心得」
篠田先生は、
日本近代水泳の礎を築いた田畑政治(1898~1984)の足跡を辿り、
日本泳法の技術的側面に触れたあと、
“ 残心(ざんしん)”という、心の在り方について、
「武術における“ 残心 ”の心得とは、剣術の場合、
両者が激突して引いた後も相手の反撃に備えて緊張を保つこと。
弓術では、一の矢の着点をしっかりと見極めてから、
呼吸を鎮めて二の矢を放つこと。
古式泳法では刀や鉄砲を背負い、兜をかぶって長く泳ぐので、
体力の消耗がはげしく、水中から上がった後の戦いに備えて
余力を十分に残すこと。」
(引用元:「整形・災害外科」2019/No.10/増大号/金原出版)
と書かれ、
『これぞ臨床の場にも当てはまる心構えといえようか』(上掲書)
と結ばれています。
辛さを抱えた人、悲しみを背負った人は、その苦悩の重さゆえに、
床に座り、床に這い、床に横たわり、床に伏さざるを得ません。
その「床」・・・広い意味での病床の傍らに「臨」み、
「きっと大丈夫」「必ず良くなる」と寄り添い、
希望の一灯をともし続けるのが「臨床」の原義と聞きます。
されば「臨床」とは先ず以って、心の在り方、精神のたたずまい。
いかなる職種・業界にも通じ、また日常に活用され得るものであり、
“ 残心 ”も又、暮らしの中に工夫・応用し得るものと受け止めます。
門外にして若輩の私が、
篠田先生の労をねぎらうのは〈長幼の序〉に反すると考え、
そのような言辞は憚ります。
只、その連載から感銘を受けた読者の一人として感謝申し上げ、
末筆ながら篠田先生の御健康を心より祈念申し上げます。