久しぶりに訪れましたのは、
名古屋市・丸の内に所在する桜天神社。
この春までは、毎朝の出勤時に参拝し、及ばずながら、
職場で触れ合う学生諸氏の学徳向上を祈念しておりました。
若者たちとの交流を思い出してなのか、
何となく懐かしさを覚えます。
先程、オクラを刻んでいて、ふと気づいたのですが、
オクラの断面は、
“ 天神梅花紋 ” のようにも観えます。
ゆく夏を惜しむシオカラトンボ
晩夏に憩う琉球三筋(リュウキュウ ミスジ)
今夏、気ノ池の蓮は、その数こそ少ないものの、
凛とした姿を現していました。
気ノ池の蓮は、白を基調としつつ、
花びらの周縁から先端部にかけては薄桃色。
よくよく観察しますと、
花びらには大小の葉脈が幾筋も通っているのが観て取れ、
その構造原理は、私たちの体内に張り巡らされている、
大小の血管と全く同じであることが分かります。
御承知置きのように、
蓮は “ 汚泥 ” の中に在ってさえ美しい花を咲かせることから、
損得勘定や欲望渦巻く人間社会、苦悩煩悩にまみれた人間世界、
言わば “ 汚泥 ” を生きる人間生命へ向けた指針の一つとして、
仏教を象徴する華として採用されたと伝わります。
毎日のように蓮を眺めておりますと、
“ 汚泥 ” とは言うものの、“ 汚泥 ” こそは、
栄養豊富であるということに、自ずと気づかされます。
“ 汚泥 ” の中に在ってさえ美しい花を咲かせる蓮は蓮として、
その蓮を美しく咲かせている、
もしくは美しく咲かせることが出来るのは、
他ならぬ “ 汚泥 ” でありましょう。
すると蓮という花は、
“ 汚泥 ” の利用・活用に長けた生命体・・・、
という風に捉えることができるのかも知れません。
人間は誰しもが、その内界に闇を抱え、時には怨み、憎しみ、
嫉妬、嫌悪等々の感情に悩まされることがあろうかと思います。
そうした所謂 “ 汚泥 ” とも表現できるような心的状態の数々は、
実のところ、エネルギーに満ち、滋養・栄養に富むものであり、
そうした “ 汚泥 ” を存分に利用・活用して、
「自分だけの花を咲かせよ」と、
蓮は、そのように歌っているようにも思われてまいります。
“ 蓮龍協奏 Concerto for Lotus and Dragon ”
皆様、良き日々でありますように!
名古屋市・丸の内に所在する桜天神社。
この春までは、毎朝の出勤時に参拝し、及ばずながら、
職場で触れ合う学生諸氏の学徳向上を祈念しておりました。
若者たちとの交流を思い出してなのか、
何となく懐かしさを覚えます。
先程、オクラを刻んでいて、ふと気づいたのですが、
オクラの断面は、
“ 天神梅花紋 ” のようにも観えます。
ゆく夏を惜しむシオカラトンボ
晩夏に憩う琉球三筋(リュウキュウ ミスジ)
今夏、気ノ池の蓮は、その数こそ少ないものの、
凛とした姿を現していました。
気ノ池の蓮は、白を基調としつつ、
花びらの周縁から先端部にかけては薄桃色。
よくよく観察しますと、
花びらには大小の葉脈が幾筋も通っているのが観て取れ、
その構造原理は、私たちの体内に張り巡らされている、
大小の血管と全く同じであることが分かります。
御承知置きのように、
蓮は “ 汚泥 ” の中に在ってさえ美しい花を咲かせることから、
損得勘定や欲望渦巻く人間社会、苦悩煩悩にまみれた人間世界、
言わば “ 汚泥 ” を生きる人間生命へ向けた指針の一つとして、
仏教を象徴する華として採用されたと伝わります。
毎日のように蓮を眺めておりますと、
“ 汚泥 ” とは言うものの、“ 汚泥 ” こそは、
栄養豊富であるということに、自ずと気づかされます。
“ 汚泥 ” の中に在ってさえ美しい花を咲かせる蓮は蓮として、
その蓮を美しく咲かせている、
もしくは美しく咲かせることが出来るのは、
他ならぬ “ 汚泥 ” でありましょう。
すると蓮という花は、
“ 汚泥 ” の利用・活用に長けた生命体・・・、
という風に捉えることができるのかも知れません。
人間は誰しもが、その内界に闇を抱え、時には怨み、憎しみ、
嫉妬、嫌悪等々の感情に悩まされることがあろうかと思います。
そうした所謂 “ 汚泥 ” とも表現できるような心的状態の数々は、
実のところ、エネルギーに満ち、滋養・栄養に富むものであり、
そうした “ 汚泥 ” を存分に利用・活用して、
「自分だけの花を咲かせよ」と、
蓮は、そのように歌っているようにも思われてまいります。
“ 蓮龍協奏 Concerto for Lotus and Dragon ”
皆様、良き日々でありますように!