~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

平等院 ~ 音楽は愛と光

2022-10-30 14:14:52 | 神社仏閣
JR宇治駅近くを流れる宇治川。



名高き “ 茶処(ちゃどころ)” だけあって、



宇治茶の老舗が立ち並びます。

こうしたお店にも入りたいなぁ・・と思うのですが、
つまらない性分とでも申しましょうか、
ひとりで入る勇気が出ないのであります。


宇治駅から少しばかり北へと歩みを進めた山峡に建つのは、

“ 紫陽花の寺 ” として名高い三室戸(みむろと)寺。


“ あぢさいの 色をあつめて 虚空とす ”

俳人:岡井省二(1925~2001)の代表作は、
この三室戸寺で詠まれたものなのだそうです。
ここに謡われている「虚空」とは、
広大無辺の宇宙を指すのでしょうか、それとも、
個々人の内側に広がる宇宙を意味するのでしょうか。
どちらにせよ “ 果てなきもの ” 、それが「虚空」。

「紫陽花の色を集めて虚空とす」

句碑に佇んでおりますと、花期では無いにも拘らず、
とりどりの色彩を放つ無数の紫陽花が、
三室戸の風に揺れているかのようでありました。

                 

さて平等院であります。



世界遺産に登録される、ずっと以前から、

日本人の心を、また世界中の人々の心を惹きつけてやまない寺院は、


訪れたのが日曜日とあって、御覧の通りの人出。

鳳凰堂の内部参拝は2時間待ちという混雑ぶりでありました。

                 

平等院リニューアル後に訪れるのは、これが初めてで、

今回の奈良旅の目的、その一つが “ 鳳翔館 ” に安置された、
26体の “ 雲中供養菩薩 ” への参拝であります。

御承知置きの通り “ 雲中供養菩薩 ” は、
元々鳳凰堂内部の壁面に掲げられていた菩薩群で、総数52体。
52人の菩薩は、各々が楽器を奏で、歌を歌い、踊りを舞いと、
自らのパートを担いつつ全員で妙なる音楽を響かせていることから、

「天上のオーケストラ」

とも呼ばれる音声荘厳(おんじょうしょうごん)の菩薩管弦楽団。
現在は、半数の26体が鳳凰堂の内部に、
半数の26体が鳳翔館に安置され、特に鳳翔館内の菩薩は、
ガラスケース越しながらも間近に拝観することが出来ます。

“ 雲中供養菩薩 ” は、鳳凰堂内・南北それぞれの壁面の、
どの位置に在ったのかを示す意図の下、
「北3号」とか「南17号」というように番号が付けられています。

「南24号」の菩薩は、右の前腕部が遺失していますが、
何らかの楽器を演奏していたとされています。
(平等院発行「雲中供養菩薩」より転載)

注目すべきはその背中、

『愛』

と墨書されています。

「南21号」の菩薩は “ 笙(しょう)” を演奏する菩薩。
(平等院発行「雲中供養菩薩」より転載)

その背中には、

『光』

と墨書されています。
制作年は、今を去ること約千年前の1053年頃。

平等院の “ 雲中供養菩薩 ” は、
今まさに “ あの世へ旅立つ ” という人々を迎える菩薩。
奏でられる音楽は、肉体から解き放たれる魂に寄り添いつつ、
その魂が迷うことなく浄土へ向かうよう導いてゆく音楽であり、
その演奏家の背中に書かれているのが “ 愛 ” と “ 光 ” の文字。

尤も、これには理由があります。
元々墨書されていたのは「金剛愛」「金剛光」だったのですが、
経年により「金剛」の字が薄れ「愛」と「光」が残存したもの。
実はこの「金剛愛」「金剛光」というのは、
密教で用いられる “ 曼荼羅 ” に説かれる菩薩で、
その名を「金剛愛菩薩」「金剛光菩薩」。

密教の諸尊名には「金剛」が付きもので、
例えば「金剛歌菩薩」「金剛嬉菩薩」「金剛笑菩薩」等々、
曼荼羅には数多くの「金剛◯◯菩薩」が集まっています。

つまり平等院は、その建立経緯からして、
浄土思想・阿弥陀信仰の “ 顕教 ” 寺院と捉えられがちですが、
平等院境内に建つ、こちらの最勝院不動堂からも察せられる通り、

実際には “ 密教 ” の道場でもありました。

                 

「金剛愛菩薩」の「金剛愛」ですが、
「南24号」音楽菩薩が背中に負う「愛」というのは、
現代の私たちが想起する「愛」とは次元を異にします。
「金剛愛」は、「愛」の対極にある「憎しみ」をも含み、
愛する歓びだけではなく、愛する苦しみや悲しみをも包み込んで、
それらの全てを「愛」と捉えます。

「金剛光菩薩」の「金剛光」も同様で、
「南21号」音楽菩薩が背中に負う「光」というのは、
「光」の対極にある「闇」をも抱え、
絶望の黒闇も又、希望の光を生む種子であり、
絶望も希望も、共に “ 望(のぞみ)” の一形態であるとします。

曼荼羅に説かれる「金剛歌菩薩」の「金剛歌」然り。
天籟・地籟・人籟、全ての音楽・音響、或いはまた夏の終わり、
地に落ちてもがく蝉の羽ばたき、その微細な振動さえをも、
「歌」として捉えます。
「金剛笑菩薩」の「金剛笑」も、笑顔のみならず、
悲嘆の涙、慟哭、嗚咽までをも「笑」の “ 因 ” と見做します。

なぜなのでしょうか?

人間が心に宿すネガティブな気持ちや感情、それらのことを、
仏教では概ね「煩悩(ぼんのう)」と呼ぶわけですが、
顕教が「煩悩を捨てよう、煩悩を払おう」とするのに対し、
密教は「煩悩を活かそう、煩悩を使おう」とするから・・・、
などと個人的にはそのように考えてみたりもします。

早川の浅薄な私見はお笑い頂くとしても、
この宇宙に存在するもの、この世界に生起する事象には、
何一つとして否定されるものは無いのだよ・・・と、
大きな愛を奏でる菩薩がいて、大きな光を唄う菩薩がいて、
千年という時の篩にかけられて尚、
菩薩の背に遺っているのは “ 愛 ” と “ 光 ” の文字。

『音楽は、愛と光』

平等院 “ 雲中供養菩薩 ” から届けられたメッセージと心得ます。


“ Phoenix and Dragon ”

皆様、良き日々でありますように!


               







信貴山 朝護孫子寺

2022-10-23 15:15:02 | 神社仏閣
「猪が出ます。
 見ても無視すれば襲いません。」

なんかこうジワジワきます・・・が、
反射神経の働きと “ 感情 ” というものを持つ人間にとっては、
この「見ても無視」することが結構難しいのであります。

というわけで、今回早川が訪れてまいりましたのは、
イノシシが出没するような山間部。
奈良県は、近畿日本鉄道の信貴山下駅からバスで約20分、



信貴山・朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)へ。



上掲の鳥居をくぐって参道を登ってゆきますと、

信貴山のシンボル、“ 大寅 ” あり。


その隣には、二体の “ 小寅 ” あり。

信貴山を参拝致しましたのは、実に12年ぶりですが、
12年前に訪れた際には “ 小寅 ” は設置されていませんでした。

                 

本年令和4年は “ 寅年 ” に当たります。
“ 寅 ” との縁深き信貴山では、
12年に1度巡り来る寅年の限られた期間内において、
全山挙げての伝統儀式が執り行われるとあって、
その儀式に参列すべく訪れたわけであります。

信貴山は、歴史と由緒のある有名寺院でありますので、
もはや書かずもがなのこととは思いますが、
今を去る1440年前の敏達天皇11年(582)、
聖徳太子(574~622)が偶々分け入った山の中において、
“ 毘沙門天王 ” を感得し、心願成就を祈ったところ叶えられます。
そこで太子は、この山のことを、
「信じ貴ぶべき山」として「信貴山(しぎさん)」と名付け、
寺伝では、この年を “ 信貴山開創 ” の年としています。

又この年が、
十二支と十干(じゅっかん)の組み合わせで謂うところの、
“ 壬寅(みずのえ とら) ” の年回りであり、
更に太子が毘沙門天王を感得したのが寅の月・寅の日・寅の刻と、
“ 寅づくし ” であったことから《毘沙門天王・信貴山・寅》は、
言わば “ 三点セット ” 、切っても切れない結びつきとして、
広く世の中に知られるようになったとも伝わります。

先に「本年令和4年は “ 寅年 ” に当たり」と書き、
信貴山開創は「1440年前の敏達天皇11年(582)」と記しました。
つまり本年令和4年は、
聖徳太子が毘沙門天王を感得した “ 寅年 ” から数えて、
120回めの “ 寅年 ” であり、
24巡めの “ 壬寅(みずのえ とら) ” ということであります。
《巷間既知のことながら一応簡略に書かせて頂きますと、
 十二支(子・丑・寅など12種)十干(甲・乙・丙など10種)を、
 その組み合わせで表したもの、
 例えば甲子(きのえ ね)乙丑(きのと うし)等々は、
 古来「十二支・十干暦法」として年々に当てはめられ、
 この暦法では、同じ組み合わせが、60年に一度巡ります。
 生まれ年の「暦」が、60年の歳月を経て再び巡り「還」るため、
 「還暦」とされます。上記の場合、1440年 ÷ 60年 = 24巡 》

こうした節目の中の節目に厳修される法会・法要とあって、
信貴山には大勢の参拝者が訪れ、儀式に臨んでおられました。

只、この日の奈良は朝から天候不順。
儀式後は、信貴山を隈無く巡拝しようと思っていたのですが、
雨強くして足元おぼつかず、幾つかの堂宇参拝にとどまり、
また片手に傘、片手に授かり物で、カメラの構えようもなく、
上掲写真以外には撮ることも出来ず山を下りてまいりました。

               

信貴山は山全体が一つの寺院であり、言わば「山岳伽藍」。
こちらは信貴山で配られているMAPですが、御覧のように、

朝護孫子寺の本堂、千手院、成福院、玉蔵院、本坊の他、
開山堂、三宝堂、虚空蔵堂を始め、大小の祠堂が林立していて、
それらの全てを参拝し、なお弁財天の滝や奥の院まで巡るとなれば、
半日でも足りるかどうか。

歳月人を待たず、光陰矢の如し。
前回から12年という歳月を経ての参拝となってしまいましたが、
出来れば早い時期に再訪したいと思います。

“ toward the Light ”

皆様、良き日々でありますように!


               







住宅街の “ 五芒星 ”

2022-10-16 06:56:34 | 神社仏閣
当ブログでは、

既に度々訪れておりますところの晴明山(せいめいやま)。


「山」と名付けられてはいるものの、近代以降、
長きに亘り宅地造成が進められ「山」の面影は見当たりません。

只、この一帯は起伏に富んだ地形でもあり、遠くから眺めれば、
未だ「山」と呼ばれ得るような地勢なのかも知れません。


戸建て、マンション等が建ち並ぶ清明山の住宅街、
その一角に浮かぶのは “ 五芒星 ” 。

名古屋・晴明神社であります。


清明山の「晴明」とは、

この神社の主祭神:安倍晴明(921~1005)のこと。

社伝によりますと安倍晴明は、寛和2年(987)の頃、
尾張国狩津荘上野邑(かりつのしょう うえのむら)辺りに、
暫くの間、居を構えていたのだそうですが、

「晴明此処に在りし時、当邑蝮蛇多きを見て加持して是を封ず。
 是より一村蝮蛇を見ず。」

つまり “ マムシ ” が多く、村民が困り果てているのを見て、
晴明が修法を以てマムシを封じ込めたと伝えています。
そうした謂われを抱く土地ゆえの「晴明山」なのでしょうが、
それから時は流れに流れて安永7年(1778)、
修法の効力が失われたものか?、またもやマムシが出始めた為、

「晴明の神霊を勧進し密噴を修し、法楽をなし、
 再び蝮蛇を見ずという」

晴明の神霊を招き、祈願供養の祀りを催行したところ、
マムシは姿を消したというのであります。
「晴明の神霊を勧進し密噴を修し」た場所というのが、

名古屋・晴明神社の起こりであると社伝には綴られています。

「密噴を修し」というのは聞き慣れない文言でありますが、
おそらくは護摩行などが修されたものと思われます。
神道・密教・天文・暦法・占星・陰陽五行等々、
様々な思想文化の混交混在が透けて見える辺りは、
個人的に大変面白く感じるところ。
何かと何かの境界を厳格に定め、
それぞれの世界を固守することも大切とは思いますが、
日本的心性の奥底には、人と人、文化と文化、世界と世界、
総じては何かと何かの、

“ 自由往来・交流自在 ”

といったような精神が息づいているように思われます。
そこに在るのは “ 排他 ” の理よりも “ 包摂 ” の理。
平たく言えば「それもイイよね」「それもアリだよね」の世界。
この辺りに少なからぬ魅力を感じます。

                 

さて、晴明神社から歩いても約20分程度の近さに在るのは、
名古屋天神・上野天満宮。
こちらは、その境内に建つ晴明殿。

上野天満宮の「上野」とは、
名古屋・晴明神社の社伝に記されていた「上野邑」の「上野」。
この一帯のどこかに晴明が住まいしていたということでしょうか。

先に、晴明がこの地に出没する “ マムシ ” を封じ込めた、
という伝説を引きましたが、古来、
道士・傑僧・武侠・英雄等々に纏わる伝説や伝承において、
「◯◯を封じ込め、退治した」という風に伝えられる時、
「〇〇」とは喩えに過ぎず、実は盗賊・暴力集団・不良不貞の輩、
であったという場合が少なくありません。

ひととき東海の地に住まいした晴明は、
もしかしたらそのような悪徳勢力と対峙した上、これを一掃し、
地域に平和と安定をもたらすことに一役買ったのかも。

日本では「晴明紋」とも呼ばれる “ 五芒星 ” は、

洋の東西、時代の古今を超えて “ 除災招福 ” のシンボル。
歴史の彼方を想うと共に、戦禍、病禍の収束を祈ります。


晴明「天龍どの、此度は我が願いに応じ御来臨を賜り、
   国々に起こりし災いごとをお収め頂きましたること、
   誠に有り難く存じ申し上げまする。
   霊泉酒など用意しておりますれば、いざお召し上がりの程を」
天龍「これはこれは、お気遣い痛み入り申す。
   無辜の人々を苦しめる災いを収めんとする晴明どのの願いは、
   我が願いでもござるよ。」

皆様、良き日々でありますように!


               








笠覆寺

2022-10-09 13:50:11 | 神社仏閣
天林山 笠覆寺(りゅうふくじ)に参拝してまいりました。
笠覆寺は十一面観世音菩薩を本尊として祀り、

古来「笠寺(かさでら)」と呼ばれ親しまれる、
真言宗智山派の寺院であります。


「笠覆寺」と大書された扁額。



御本尊は “ 秘仏 ”(定めの年に公開あり)とされていますので、
奥に観えるのは、

秘仏の収まる厨子の前に在って参拝者の祈りを受け止める、
所謂 “ お前立ち ” でありましょうか。
(視力の弱い早川にはボンヤリとしか見えませんでしたので、
間違っているかも知れません)

寺伝によりますと、天平(729~749)の頃、
“ 善光 ” なる僧侶が自ら彫り上げた十一面観音像を本尊として、
「小松寺」という寺名で創建したのが起こりだそうですが、
星霜を経る内、いつしか寺は荒廃し観音像は野ざらしの状態に。
平安時代(794~1185)も半ばに差し掛かった頃、
貴族・藤原兼平(875~935)が小松寺を通りがかった際、
雨ざらしの観音像に笠をかぶせている女性の姿を目にします。
その心根に惹かれた兼平は、彼女を “ 玉照 ” と名付け結婚。
後年、兼平・玉照夫妻により現在地に寺院が建立され、
玉照が観音像を「笠で覆った」ことに因んで、
「笠覆寺」と命名されたのだそうです。

そういった縁起なり由来なりを持つ寺院だけに、

“ 笠 ” が描かれた幔幕を始め、


屋根瓦等々、境内のそこかしこには、

“ 笠 ” の意匠が散見されます。
かくも “ 笠 ” を視界のどこかに映しておりますと、
“ 笠 ” なるものが、何かの “ 隠喩 ” なのではないか?
などと思えてくるのは自然のこと。

兼平・玉照を巡る奇譚のきっかけは、
玉照が雨ざらしの観音像を気の毒に思い、
像に “ 笠 ” をかぶせるという行為でした。

雨ざらしの像を気遣う辺りは “ Sympathy ” 、
具体的に “ 笠 ” をかぶせる辺りは “ Empathy ” と、
仮にそう観想してみますと、
兼平と玉照の伝説、その奥底に宿るものが、
“ 笠 ” に託された “ 温もりのある心 ” 、換言するならば、
他者への関心・気遣い・思いやり、総じて “ 共感能力 ” 、
といったものであるかのようにも感じられます。

我が身を振り返りますと、
他者からの “ ひとこと ” によって救われ、
他者からの “ 一音 ” によって導かれ、
他者からの “ 微笑み ” によって癒されたこと数知れず。

時に野ざらし、時に雨ざらしの自分を覆い守ってくれた、
あの “ ひとこと ” 、あの “ 一音 ” 、あの “ 微笑み ” 、
全ては “ 笠 ” であったのだと、
そんな風にも思えてくるのでありました。


陰陽太極・双龍一対

皆様、良き日々でありますように!


               







大須

2022-10-02 15:02:02 | 神社仏閣
名古屋市地下鉄:大須観音駅の周辺地域は、
その名の通り “ 大須観音 ” を祀る寺院の街であると同時に、

名古屋有数の商店街・繁華街、そして電気街という側面があり、
東京とは、その規模において比較のしようもありませんが、
「名古屋の秋葉原」という風に言われたりもします。

早川は、いま “ BTOパソコン ” について勘案中でありまして、
M社、D社といった “ BTOパソコンの雄 ” とされる企業の実店舗で、
色々と話を伺ってみようと思い立ち、それら実店舗が所在する、
名古屋の秋葉原・大須を訪れたような次第であります。

最新の “ i7 ” と2世代前の “ i9 ” との処理能力の違いや特徴、
スペック表を見ただけでは分からない “ コア数 ” の実態、
CPUグリスの熱伝導比、内臓SSDを有効活用する方法等々、
対面ならではの有益な情報を授かることが出来ました。

                  

さて店舗を後にして歩いておりますと、
こ、これは・・・噂には聞いておりました、

亀岳林・万松寺(きがくりん・ばんしょうじ)。


外観こそ一般的な “ お寺 ” のイメージとはかけ離れていますが、
本尊を十一面観世音菩薩とし、不動明王を始め諸尊を祀る、

歴史ある寺院であります。


手水舎の向こうに並ぶのは、白雪稲荷堂の朱鳥居。

先に「歴史ある寺院」と書きましたが、
若き日の織田信長(1534~1582)が、
亡き父の位牌に向けて灰を投げつけたという有名なエピソードは、
現在地に移設される前の万松寺で起きた事と伝わります。

                 

大須観音周辺地に、三輪神社が在りました。

社伝によりますと、
元亀年間(1570~1573)大和国(現・奈良県辺り)桜井三輪町から、
尾張国(現・愛知県西部辺り)小林城へ移封した城主、
牧若狭守長清(まきわかさのかみ ながきよ)が、
生まれ故郷の三輪山に鎮座するところの神、
大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を祀ったことが始まり、
なのだそうです。

只、上記については不明な点も有ります。
社伝では「牧若狭守長清」とあり、確かに戦国時代において、
織田信長に仕えた「牧長清」なる武将が存在しますが、
長清の父、牧長義(生没年不詳)は既に尾張国・小林城の城主で、
長清の代で移封した事実は見当たりません。
また元亀年間(1570~1573)に、
長清によって神社が創建されたとの事ですが、
長清は生年こそ不明ですが没年は1570年ですので、
神社を創建し、その年にお亡くなりになったということでしょうか。
或いは神社創建の遺志だけを表明し、
没後その遺志を継いだ方々によって創建されたのかも知れません。
社伝に説かれる「牧若狭守長清」と織田家の家臣「牧長清」は、
おそらく同一人物であると思われますが、
確かにそうであるかどうか、早川には判断しかねます。

その昔、この神社の境内には尾張藩の “ 矢場(やば)” 、
つまり弓術訓練所があり、現在大変に栄え賑わう繁華街、
「矢場町(やばちょう)」の名前は、
この “ 矢場(やば)” に由来するとも伝えられています。
現在矢場町には、百貨店の松坂屋本店、PARCO名古屋店、
アップルストア名古屋店等が林立しています・・と申し上げれば、
その繁華な様子がお察し頂けるかと思います。

言わずもがなのことながら、
上記名古屋・三輪神社を含む全国の三輪神社の本社は、
奈良県桜井市に鎮座する大神(おおみわ)神社。
社殿を持たず、
三輪山そのものを御神体とする自然崇拝・神奈備信仰を守り、
一説に二千年を超える歴史を刻むとも謂われる聖地であります。

大神(おおみわ)の「み」に「巳(み)」の字が当てられたり、
「みわ」が「水和・水輪」と読み解かれたりと、古来、
三輪山に鎮まる大物主大神は、時に応じ、人に応じ、
水を司る “ 龍神 ” の姿として感得されるとも聞き及びます。

何にせよ、大須の地というのは、
“ 旧き ” と “ 新しき ” とが軒を接し、
“ 神仏 ” と “ デジタル ” とが膝を交えるような場所。
エネルギーというものは、
異なる世界同士の “ 波打ち際 ” に生じるのだなぁと、
この地を訪れる度に思うものであります。


Sacred mountain and Dragon

皆様、良き日々でありますように!