JR宇治駅近くを流れる宇治川。
名高き “ 茶処(ちゃどころ)” だけあって、
宇治茶の老舗が立ち並びます。
こうしたお店にも入りたいなぁ・・と思うのですが、
つまらない性分とでも申しましょうか、
ひとりで入る勇気が出ないのであります。
宇治駅から少しばかり北へと歩みを進めた山峡に建つのは、
“ 紫陽花の寺 ” として名高い三室戸(みむろと)寺。
“ あぢさいの 色をあつめて 虚空とす ”
俳人:岡井省二(1925~2001)の代表作は、
この三室戸寺で詠まれたものなのだそうです。
ここに謡われている「虚空」とは、
広大無辺の宇宙を指すのでしょうか、それとも、
個々人の内側に広がる宇宙を意味するのでしょうか。
どちらにせよ “ 果てなきもの ” 、それが「虚空」。
「紫陽花の色を集めて虚空とす」
句碑に佇んでおりますと、花期では無いにも拘らず、
とりどりの色彩を放つ無数の紫陽花が、
三室戸の風に揺れているかのようでありました。
さて平等院であります。
世界遺産に登録される、ずっと以前から、
日本人の心を、また世界中の人々の心を惹きつけてやまない寺院は、
訪れたのが日曜日とあって、御覧の通りの人出。
鳳凰堂の内部参拝は2時間待ちという混雑ぶりでありました。
平等院リニューアル後に訪れるのは、これが初めてで、
今回の奈良旅の目的、その一つが “ 鳳翔館 ” に安置された、
26体の “ 雲中供養菩薩 ” への参拝であります。
御承知置きの通り “ 雲中供養菩薩 ” は、
元々鳳凰堂内部の壁面に掲げられていた菩薩群で、総数52体。
52人の菩薩は、各々が楽器を奏で、歌を歌い、踊りを舞いと、
自らのパートを担いつつ全員で妙なる音楽を響かせていることから、
「天上のオーケストラ」
とも呼ばれる音声荘厳(おんじょうしょうごん)の菩薩管弦楽団。
現在は、半数の26体が鳳凰堂の内部に、
半数の26体が鳳翔館に安置され、特に鳳翔館内の菩薩は、
ガラスケース越しながらも間近に拝観することが出来ます。
“ 雲中供養菩薩 ” は、鳳凰堂内・南北それぞれの壁面の、
どの位置に在ったのかを示す意図の下、
「北3号」とか「南17号」というように番号が付けられています。
「南24号」の菩薩は、右の前腕部が遺失していますが、
何らかの楽器を演奏していたとされています。
(平等院発行「雲中供養菩薩」より転載)
注目すべきはその背中、
『愛』
と墨書されています。
「南21号」の菩薩は “ 笙(しょう)” を演奏する菩薩。
(平等院発行「雲中供養菩薩」より転載)
その背中には、
『光』
と墨書されています。
制作年は、今を去ること約千年前の1053年頃。
平等院の “ 雲中供養菩薩 ” は、
今まさに “ あの世へ旅立つ ” という人々を迎える菩薩。
奏でられる音楽は、肉体から解き放たれる魂に寄り添いつつ、
その魂が迷うことなく浄土へ向かうよう導いてゆく音楽であり、
その演奏家の背中に書かれているのが “ 愛 ” と “ 光 ” の文字。
尤も、これには理由があります。
元々墨書されていたのは「金剛愛」「金剛光」だったのですが、
経年により「金剛」の字が薄れ「愛」と「光」が残存したもの。
実はこの「金剛愛」「金剛光」というのは、
密教で用いられる “ 曼荼羅 ” に説かれる菩薩で、
その名を「金剛愛菩薩」「金剛光菩薩」。
密教の諸尊名には「金剛」が付きもので、
例えば「金剛歌菩薩」「金剛嬉菩薩」「金剛笑菩薩」等々、
曼荼羅には数多くの「金剛◯◯菩薩」が集まっています。
つまり平等院は、その建立経緯からして、
浄土思想・阿弥陀信仰の “ 顕教 ” 寺院と捉えられがちですが、
平等院境内に建つ、こちらの最勝院不動堂からも察せられる通り、
実際には “ 密教 ” の道場でもありました。
「金剛愛菩薩」の「金剛愛」ですが、
「南24号」音楽菩薩が背中に負う「愛」というのは、
現代の私たちが想起する「愛」とは次元を異にします。
「金剛愛」は、「愛」の対極にある「憎しみ」をも含み、
愛する歓びだけではなく、愛する苦しみや悲しみをも包み込んで、
それらの全てを「愛」と捉えます。
「金剛光菩薩」の「金剛光」も同様で、
「南21号」音楽菩薩が背中に負う「光」というのは、
「光」の対極にある「闇」をも抱え、
絶望の黒闇も又、希望の光を生む種子であり、
絶望も希望も、共に “ 望(のぞみ)” の一形態であるとします。
曼荼羅に説かれる「金剛歌菩薩」の「金剛歌」然り。
天籟・地籟・人籟、全ての音楽・音響、或いはまた夏の終わり、
地に落ちてもがく蝉の羽ばたき、その微細な振動さえをも、
「歌」として捉えます。
「金剛笑菩薩」の「金剛笑」も、笑顔のみならず、
悲嘆の涙、慟哭、嗚咽までをも「笑」の “ 因 ” と見做します。
なぜなのでしょうか?
人間が心に宿すネガティブな気持ちや感情、それらのことを、
仏教では概ね「煩悩(ぼんのう)」と呼ぶわけですが、
顕教が「煩悩を捨てよう、煩悩を払おう」とするのに対し、
密教は「煩悩を活かそう、煩悩を使おう」とするから・・・、
などと個人的にはそのように考えてみたりもします。
早川の浅薄な私見はお笑い頂くとしても、
この宇宙に存在するもの、この世界に生起する事象には、
何一つとして否定されるものは無いのだよ・・・と、
大きな愛を奏でる菩薩がいて、大きな光を唄う菩薩がいて、
千年という時の篩にかけられて尚、
菩薩の背に遺っているのは “ 愛 ” と “ 光 ” の文字。
『音楽は、愛と光』
平等院 “ 雲中供養菩薩 ” から届けられたメッセージと心得ます。
“ Phoenix and Dragon ”
皆様、良き日々でありますように!
名高き “ 茶処(ちゃどころ)” だけあって、
宇治茶の老舗が立ち並びます。
こうしたお店にも入りたいなぁ・・と思うのですが、
つまらない性分とでも申しましょうか、
ひとりで入る勇気が出ないのであります。
宇治駅から少しばかり北へと歩みを進めた山峡に建つのは、
“ 紫陽花の寺 ” として名高い三室戸(みむろと)寺。
“ あぢさいの 色をあつめて 虚空とす ”
俳人:岡井省二(1925~2001)の代表作は、
この三室戸寺で詠まれたものなのだそうです。
ここに謡われている「虚空」とは、
広大無辺の宇宙を指すのでしょうか、それとも、
個々人の内側に広がる宇宙を意味するのでしょうか。
どちらにせよ “ 果てなきもの ” 、それが「虚空」。
「紫陽花の色を集めて虚空とす」
句碑に佇んでおりますと、花期では無いにも拘らず、
とりどりの色彩を放つ無数の紫陽花が、
三室戸の風に揺れているかのようでありました。
さて平等院であります。
世界遺産に登録される、ずっと以前から、
日本人の心を、また世界中の人々の心を惹きつけてやまない寺院は、
訪れたのが日曜日とあって、御覧の通りの人出。
鳳凰堂の内部参拝は2時間待ちという混雑ぶりでありました。
平等院リニューアル後に訪れるのは、これが初めてで、
今回の奈良旅の目的、その一つが “ 鳳翔館 ” に安置された、
26体の “ 雲中供養菩薩 ” への参拝であります。
御承知置きの通り “ 雲中供養菩薩 ” は、
元々鳳凰堂内部の壁面に掲げられていた菩薩群で、総数52体。
52人の菩薩は、各々が楽器を奏で、歌を歌い、踊りを舞いと、
自らのパートを担いつつ全員で妙なる音楽を響かせていることから、
「天上のオーケストラ」
とも呼ばれる音声荘厳(おんじょうしょうごん)の菩薩管弦楽団。
現在は、半数の26体が鳳凰堂の内部に、
半数の26体が鳳翔館に安置され、特に鳳翔館内の菩薩は、
ガラスケース越しながらも間近に拝観することが出来ます。
“ 雲中供養菩薩 ” は、鳳凰堂内・南北それぞれの壁面の、
どの位置に在ったのかを示す意図の下、
「北3号」とか「南17号」というように番号が付けられています。
「南24号」の菩薩は、右の前腕部が遺失していますが、
何らかの楽器を演奏していたとされています。
(平等院発行「雲中供養菩薩」より転載)
注目すべきはその背中、
『愛』
と墨書されています。
「南21号」の菩薩は “ 笙(しょう)” を演奏する菩薩。
(平等院発行「雲中供養菩薩」より転載)
その背中には、
『光』
と墨書されています。
制作年は、今を去ること約千年前の1053年頃。
平等院の “ 雲中供養菩薩 ” は、
今まさに “ あの世へ旅立つ ” という人々を迎える菩薩。
奏でられる音楽は、肉体から解き放たれる魂に寄り添いつつ、
その魂が迷うことなく浄土へ向かうよう導いてゆく音楽であり、
その演奏家の背中に書かれているのが “ 愛 ” と “ 光 ” の文字。
尤も、これには理由があります。
元々墨書されていたのは「金剛愛」「金剛光」だったのですが、
経年により「金剛」の字が薄れ「愛」と「光」が残存したもの。
実はこの「金剛愛」「金剛光」というのは、
密教で用いられる “ 曼荼羅 ” に説かれる菩薩で、
その名を「金剛愛菩薩」「金剛光菩薩」。
密教の諸尊名には「金剛」が付きもので、
例えば「金剛歌菩薩」「金剛嬉菩薩」「金剛笑菩薩」等々、
曼荼羅には数多くの「金剛◯◯菩薩」が集まっています。
つまり平等院は、その建立経緯からして、
浄土思想・阿弥陀信仰の “ 顕教 ” 寺院と捉えられがちですが、
平等院境内に建つ、こちらの最勝院不動堂からも察せられる通り、
実際には “ 密教 ” の道場でもありました。
「金剛愛菩薩」の「金剛愛」ですが、
「南24号」音楽菩薩が背中に負う「愛」というのは、
現代の私たちが想起する「愛」とは次元を異にします。
「金剛愛」は、「愛」の対極にある「憎しみ」をも含み、
愛する歓びだけではなく、愛する苦しみや悲しみをも包み込んで、
それらの全てを「愛」と捉えます。
「金剛光菩薩」の「金剛光」も同様で、
「南21号」音楽菩薩が背中に負う「光」というのは、
「光」の対極にある「闇」をも抱え、
絶望の黒闇も又、希望の光を生む種子であり、
絶望も希望も、共に “ 望(のぞみ)” の一形態であるとします。
曼荼羅に説かれる「金剛歌菩薩」の「金剛歌」然り。
天籟・地籟・人籟、全ての音楽・音響、或いはまた夏の終わり、
地に落ちてもがく蝉の羽ばたき、その微細な振動さえをも、
「歌」として捉えます。
「金剛笑菩薩」の「金剛笑」も、笑顔のみならず、
悲嘆の涙、慟哭、嗚咽までをも「笑」の “ 因 ” と見做します。
なぜなのでしょうか?
人間が心に宿すネガティブな気持ちや感情、それらのことを、
仏教では概ね「煩悩(ぼんのう)」と呼ぶわけですが、
顕教が「煩悩を捨てよう、煩悩を払おう」とするのに対し、
密教は「煩悩を活かそう、煩悩を使おう」とするから・・・、
などと個人的にはそのように考えてみたりもします。
早川の浅薄な私見はお笑い頂くとしても、
この宇宙に存在するもの、この世界に生起する事象には、
何一つとして否定されるものは無いのだよ・・・と、
大きな愛を奏でる菩薩がいて、大きな光を唄う菩薩がいて、
千年という時の篩にかけられて尚、
菩薩の背に遺っているのは “ 愛 ” と “ 光 ” の文字。
『音楽は、愛と光』
平等院 “ 雲中供養菩薩 ” から届けられたメッセージと心得ます。
“ Phoenix and Dragon ”
皆様、良き日々でありますように!