当地は、午前9時頃まで強い雨。
雨が上がるのを待ちきれずに訪れた気ノ池のほとりには、
アガパンサスが咲いていました。
テレビから流れる〈宝塚記念ファンファーレ〉を聴きながら、
この曲を作った頃は髪の毛があったし元気だったなぁ・・などと、
当時を振り返って寂寥の感に身を縮めておりましたところ、
画面に映し出された優駿たちの尻尾が、疾駆するスピードのため、
地面と平行にたなびくさまに連想が触発されたせいでしょうか、
ふと脳裡に浮かびましたのは〈ヴァイオリンの弓〉。
御承知おきの通り、ヴァイオリンの弓は、
主にペルナンブーコ(ペルナンブコ・フェルナンブコ)材の弓身に、
馬のシッポの毛(尻尾毛・馬毛)を張って作られています。
以前、ヴァイオリン演奏家の方にお話を伺ったところでは、
一口に「馬のシッポの毛」と言っても、
馬の種類・性別・年齢などによって毛質は異なり、とりわけ、
モンゴル産・カナダ産・ロシア産・イタリア産・アフリカ産等々、
馬の生息地により毛質が違い、その違いは“ 音 ”に現れるため、
好みが分かれ、何より“ お値段 ”が変わるのだそうです。
ヴァイオリンの本体が大事なのはもちろんのこと、
その本体から音を引き出す〈弓〉がまた重要ということを教わり、
その時、何となくではありますが、
〈弦〉と〈弓〉との摩擦によって音が生まれ出るという、
〈擦弦楽器〉の在り方なり宿命なりとでもいうものが、どこかこう、
人と人とが擦り合わされることで刻々に移りゆく“ 人間関係 ”、
人と人との摩擦熱が原動力となって動いてゆく“ 人間社会 ”、
そうしたものに重なるような気がしました。
親子・兄弟・夫婦・師弟・上司部下等々のあらゆる関係においては、
どちらが弦側で、どちらが弓側かということは措くとしても、
その擦れ合いが美しい音を奏で、心地よい響きを醸す関係もあれば、
その摩擦が耳障りな音を立て、双方が傷つく関係もあります。
人間関係・組織・集団というものも、一つの擦弦楽器と考えた時、
良い音を奏でるための演奏技量・技術の必要性はもとよりのこと、
おろそかにできないのは、常に楽器の状態を把握することと、
細やかなメンテナンスでしょうか。
〈弓〉ということで、最近興味深い文献を読みました。
奈良県立医科大学耳鼻咽喉・頭頚部外科特任講師、
和田耳鼻咽喉科医院(大阪府)医院長、
和田佳郎先生がお書きになった、
「脳は自分の周囲の空間をどう捉えるか」という論文。
(月刊“ 臨床神経科学 ”vol.38 no.6 / 中外医学社刊に掲載)
内容は表題にあるように、空間における自己の位置・方向・姿勢・
傾き・動きの認識を意味する〈空間識〉を扱ったもので、
この空間識の概要を、
「視覚から入力した外界情報と前庭(半規管、耳石器)感覚や
体性感覚から入力した自己情報を前庭神経核、小脳、上丘、海馬、
頭頂連合野の各レベルで統合・抽出し、
最終的に大脳の前庭皮質で形成されると考えられている」
とした上で、弓道選手の空間識についての実験報告が為されます。
◎弓道選手の大学生24人
◎野球・テニス・サッカーなどの球技を行っている大学生35人
◎弓道も球技も行っていない大学生34人
上記の3グループに対して、
静的視覚外乱(特殊な眼鏡をかけてもらい視覚誤差を起こす)、
動的視覚外乱(被験者の周りの壁を動かして身体動揺を起こす)、
という2種の外乱を加え、その反応を観察・計測・分析します。
実験手法は複雑で、ここに記すには煩瑣に過ぎるため、
実験結果のみを紹介させて頂きますと、
弓道選手は、他の2グループに比べて、静的・動的双方の、
「外乱に対する復元力が優れている」
ことが明らかになり、
「弓道選手は視覚よりも体性感覚にウエイトを置いた空間識を
獲得している可能性が強く示された。」
つまり、弓道選手は姿勢制御などにおいて、
外側から揺さぶりをかけられた際の立ち直りが速い、
ということでありますが、私が個人的に惹きつけられたのは、
実験報告の最後に記された、以下の考察。
「弓道の根幹である胴造り(足踏みを基礎として両脚の上に
上体を正しく安静におき、腰を据え、左右の肩を沈め、
脊柱および項を真直ぐに伸ばし、総体の重心を腰の中央におき、
心気を丹田に納める動作)が、その決め手なのかもしれない。」
「心気を丹田に納める」
実際のところ「心気」も「丹田」も科学では証明できません。
しかし証明できないから存在しない、というのではなく、
今回の実験結果に対する和田先生の考察に見られるように、
〈エビデンス〉と〈論理性〉に基づく科学的アプローチが、
〈ナラティブ〉と〈情緒性〉を背景とする「心気」や「丹田」、
といった存在を、図らずも暗示する・・・という、
この辺りの消息に、ある種の感動を覚えるものであります。
弓道に限らず、
およそ“ 道 ”なるものの一端を体現する体系的な身体動作は、
「心気を丹田に納める」ことを旨とし、
その為に行われるのが“ 稽古 ”であることは論を俟ちません。
“ 稽古 ”とは「古(いにしえ)を稽(かんがえ)る」の意。
この「稽る」は、「考える」という意味のほかに、
「尊ぶ・留まる・身につける」といった意味があるとされます。
そうであるならば“ 稽古 ”とは、古い時代の文化や思想、
古い時代の技法や智慧、古い時代の創作物等々を尊び、
自己の何割かを、過去数千年のどこかに敢えて留め置き、
普遍的な“ 流れの力 ”というでも言うべきものを学び、
身につける、ということが本義であるのかも知れません。
私自身は、そうした“ 稽古 ”の本義からは程遠いものですが、
それでも何か新しいものを創造したいと願う人間である以上、
歴史を学び、古典・古伝の世界に想いを寄せるぐらいの姿勢は、
保持してゆきたいと思います。
冒頭、宝塚記念に触れましたが、
このレースが開催される阪神競馬場の北部近位には、
歳月の風雪に耐えて法灯を今に伝える名刹、
中山寺(なかやまでら)があります。
中山寺には、
本尊の十一面観世音菩薩を始めとした多くの尊格が祀られ、
その中の一尊に〈愛染明王〉が含まれていると聞きます。
古来、愛染明王(あいぜんみょうおう)は、
六本の腕を持つ“ 多臂像(たひぞう)”として表され、
その内の左右一対の手に〈弓と矢〉を執ります。
愛染明王は、その尊名に「愛」を掲げ、手に執る弓矢が、
ヨーロッパ神話“ 愛のキューピッド ”の弓矢を想わせるためか、
愛染明王をして、縁結びの尊格のように捉えがちですが、
これは中世以降の民間信仰によるもの。
では愛染明王が弓矢を手に執ることの真意とは何か?
ワタクシめごときに分かろうはずもありません。
只、愛染明王が登場する唯一の経典が、
「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経
(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)」で、
弘法大師・空海上人が開いた高野山・金剛峯寺(こんごうぶじ)の、
「金剛峯」は、この「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経」に因むもの、
ということを想ってみますと、
その真意の大きさ・広さ・深さが伝わってくるように感じられ、
愛染明王の本願が、少なくとも縁結びのようなものでは無い、
ということだけは察することが出来ます。
雨が上がるのを待ちきれずに訪れた気ノ池のほとりには、
アガパンサスが咲いていました。
テレビから流れる〈宝塚記念ファンファーレ〉を聴きながら、
この曲を作った頃は髪の毛があったし元気だったなぁ・・などと、
当時を振り返って寂寥の感に身を縮めておりましたところ、
画面に映し出された優駿たちの尻尾が、疾駆するスピードのため、
地面と平行にたなびくさまに連想が触発されたせいでしょうか、
ふと脳裡に浮かびましたのは〈ヴァイオリンの弓〉。
御承知おきの通り、ヴァイオリンの弓は、
主にペルナンブーコ(ペルナンブコ・フェルナンブコ)材の弓身に、
馬のシッポの毛(尻尾毛・馬毛)を張って作られています。
以前、ヴァイオリン演奏家の方にお話を伺ったところでは、
一口に「馬のシッポの毛」と言っても、
馬の種類・性別・年齢などによって毛質は異なり、とりわけ、
モンゴル産・カナダ産・ロシア産・イタリア産・アフリカ産等々、
馬の生息地により毛質が違い、その違いは“ 音 ”に現れるため、
好みが分かれ、何より“ お値段 ”が変わるのだそうです。
ヴァイオリンの本体が大事なのはもちろんのこと、
その本体から音を引き出す〈弓〉がまた重要ということを教わり、
その時、何となくではありますが、
〈弦〉と〈弓〉との摩擦によって音が生まれ出るという、
〈擦弦楽器〉の在り方なり宿命なりとでもいうものが、どこかこう、
人と人とが擦り合わされることで刻々に移りゆく“ 人間関係 ”、
人と人との摩擦熱が原動力となって動いてゆく“ 人間社会 ”、
そうしたものに重なるような気がしました。
親子・兄弟・夫婦・師弟・上司部下等々のあらゆる関係においては、
どちらが弦側で、どちらが弓側かということは措くとしても、
その擦れ合いが美しい音を奏で、心地よい響きを醸す関係もあれば、
その摩擦が耳障りな音を立て、双方が傷つく関係もあります。
人間関係・組織・集団というものも、一つの擦弦楽器と考えた時、
良い音を奏でるための演奏技量・技術の必要性はもとよりのこと、
おろそかにできないのは、常に楽器の状態を把握することと、
細やかなメンテナンスでしょうか。
〈弓〉ということで、最近興味深い文献を読みました。
奈良県立医科大学耳鼻咽喉・頭頚部外科特任講師、
和田耳鼻咽喉科医院(大阪府)医院長、
和田佳郎先生がお書きになった、
「脳は自分の周囲の空間をどう捉えるか」という論文。
(月刊“ 臨床神経科学 ”vol.38 no.6 / 中外医学社刊に掲載)
内容は表題にあるように、空間における自己の位置・方向・姿勢・
傾き・動きの認識を意味する〈空間識〉を扱ったもので、
この空間識の概要を、
「視覚から入力した外界情報と前庭(半規管、耳石器)感覚や
体性感覚から入力した自己情報を前庭神経核、小脳、上丘、海馬、
頭頂連合野の各レベルで統合・抽出し、
最終的に大脳の前庭皮質で形成されると考えられている」
とした上で、弓道選手の空間識についての実験報告が為されます。
◎弓道選手の大学生24人
◎野球・テニス・サッカーなどの球技を行っている大学生35人
◎弓道も球技も行っていない大学生34人
上記の3グループに対して、
静的視覚外乱(特殊な眼鏡をかけてもらい視覚誤差を起こす)、
動的視覚外乱(被験者の周りの壁を動かして身体動揺を起こす)、
という2種の外乱を加え、その反応を観察・計測・分析します。
実験手法は複雑で、ここに記すには煩瑣に過ぎるため、
実験結果のみを紹介させて頂きますと、
弓道選手は、他の2グループに比べて、静的・動的双方の、
「外乱に対する復元力が優れている」
ことが明らかになり、
「弓道選手は視覚よりも体性感覚にウエイトを置いた空間識を
獲得している可能性が強く示された。」
つまり、弓道選手は姿勢制御などにおいて、
外側から揺さぶりをかけられた際の立ち直りが速い、
ということでありますが、私が個人的に惹きつけられたのは、
実験報告の最後に記された、以下の考察。
「弓道の根幹である胴造り(足踏みを基礎として両脚の上に
上体を正しく安静におき、腰を据え、左右の肩を沈め、
脊柱および項を真直ぐに伸ばし、総体の重心を腰の中央におき、
心気を丹田に納める動作)が、その決め手なのかもしれない。」
「心気を丹田に納める」
実際のところ「心気」も「丹田」も科学では証明できません。
しかし証明できないから存在しない、というのではなく、
今回の実験結果に対する和田先生の考察に見られるように、
〈エビデンス〉と〈論理性〉に基づく科学的アプローチが、
〈ナラティブ〉と〈情緒性〉を背景とする「心気」や「丹田」、
といった存在を、図らずも暗示する・・・という、
この辺りの消息に、ある種の感動を覚えるものであります。
弓道に限らず、
およそ“ 道 ”なるものの一端を体現する体系的な身体動作は、
「心気を丹田に納める」ことを旨とし、
その為に行われるのが“ 稽古 ”であることは論を俟ちません。
“ 稽古 ”とは「古(いにしえ)を稽(かんがえ)る」の意。
この「稽る」は、「考える」という意味のほかに、
「尊ぶ・留まる・身につける」といった意味があるとされます。
そうであるならば“ 稽古 ”とは、古い時代の文化や思想、
古い時代の技法や智慧、古い時代の創作物等々を尊び、
自己の何割かを、過去数千年のどこかに敢えて留め置き、
普遍的な“ 流れの力 ”というでも言うべきものを学び、
身につける、ということが本義であるのかも知れません。
私自身は、そうした“ 稽古 ”の本義からは程遠いものですが、
それでも何か新しいものを創造したいと願う人間である以上、
歴史を学び、古典・古伝の世界に想いを寄せるぐらいの姿勢は、
保持してゆきたいと思います。
冒頭、宝塚記念に触れましたが、
このレースが開催される阪神競馬場の北部近位には、
歳月の風雪に耐えて法灯を今に伝える名刹、
中山寺(なかやまでら)があります。
中山寺には、
本尊の十一面観世音菩薩を始めとした多くの尊格が祀られ、
その中の一尊に〈愛染明王〉が含まれていると聞きます。
古来、愛染明王(あいぜんみょうおう)は、
六本の腕を持つ“ 多臂像(たひぞう)”として表され、
その内の左右一対の手に〈弓と矢〉を執ります。
愛染明王は、その尊名に「愛」を掲げ、手に執る弓矢が、
ヨーロッパ神話“ 愛のキューピッド ”の弓矢を想わせるためか、
愛染明王をして、縁結びの尊格のように捉えがちですが、
これは中世以降の民間信仰によるもの。
では愛染明王が弓矢を手に執ることの真意とは何か?
ワタクシめごときに分かろうはずもありません。
只、愛染明王が登場する唯一の経典が、
「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経
(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)」で、
弘法大師・空海上人が開いた高野山・金剛峯寺(こんごうぶじ)の、
「金剛峯」は、この「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経」に因むもの、
ということを想ってみますと、
その真意の大きさ・広さ・深さが伝わってくるように感じられ、
愛染明王の本願が、少なくとも縁結びのようなものでは無い、
ということだけは察することが出来ます。