~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

世界最高齢プログラマー

2020-02-23 17:00:17 | 日常
朝方は陽が射しておりましたので、

傘も持たずに出かけましたところ、
一天にわかに掻き曇り、
霰(あられ)とも雹(ひょう)ともつかない大小の氷粒が、
ピシピシバラバラと降り注ぎ、加えて雨風共に強まって、
すっかり濡れネズミに。

普段の行いや心掛けが悪いとこうなるのであります。

城山八幡宮に着く頃には、

霰も雹も降り止んで、薄日が射し始めました。

               

政府主催「人生100年時代構想会議」有識者メンバーの一人で、
1935年生まれの若宮正子さんは、60歳を過ぎてから、
退職金で初めてのパソコンを購入し、独学でPC操作を習得、
81歳の時にゲームアプリ“ hinadan ”を開発・公開し、
世界最高齢プログラマーとして、米アップル社に特別招待され、
また国連会議でもスピーチされました。

84歳となられた現在、
「全てのサービスを、車いすを一歩も降りなくても共有できる」
という理念で運営されるウェブサイト〈メロウ俱楽部〉副会長、
NPO法人ブロードバンドスクール協会理事等を務められ、
シニア世代へのデジタル機器普及活動に尽力されています。
   (参考資料:月刊福祉2020年3月号/全国社会福祉協議会刊)

偶々手に取りました上記福祉系月刊誌上において、
若宮さんに対するインタビュー記事を読ませて頂きました。
その発言に溢れる創意、語られる内容の瑞々しさは、
若宮さんの御年齢やプロフィールを存じ上げなかったならば、
新進気鋭IT起業家のものと勘違いするところでした。

(高齢になるとデジタル機器の操作を)
『「誰も教えてくれない」と嘆く人がいますが、
 ◯◯して「くれない」族になるのではなく、
 自分から開拓していこうという気持ちが必要です。』
            (引用元:前掲書/以下『』内は同誌)

(いくつになろうと)
『失敗しても経験になりますから、失敗しても構わないのです。』

『生きがいは、もたされるものではなく、
 自分でつくるべきものです。』

               

若宮さんが、老人ホームを訪れた時のこと。
そこでは手芸など様々な講座が開かれてはいたものの、
参加している方々の顔が少しも楽しそうではなかったそうです。
老人ホームの所長から相談を受けた若宮さんは、
入所しているお年寄りの方々が作った作品をバザーで販売し、
その収益を〈子ども食堂〉のイベント等に活用するなど、
社会に役立ててみては?・・・と提案されたそうです。

この提案を読んで思い出しましたのは、
厚生労働省・医政局・統括調整官他を務められる江崎禎英氏が、
JPTA NEWS誌上で語られた体験談。
江崎氏は職務の特性上、介護施設を訪れる機会が多く、
それら施設の内の一つで、職員の方から聞かされたのが、

“施設に入所しているお年寄りの方々は、
何をするにつけても介護・介助者の手を借りなければならず、
食事をするにも「ありがとう」、トイレへ行くにも「ありがとう」、
朝から晩まで誰か彼かに「ありがとう」を繰り返し言い続け、
就寝時には、夜間の介護スタッフに向け、

「生きてて、ごめんね」

と謝りながらベッドに入る。”
        (参考資料:JPTA NEWS vol.322/JPTA発行)

という事実・実情。
「ありがとう」「ごめんね」を言い続けることが、
お年寄りにとって、精神的な負担であることに気付かされ、
江崎氏は、どんな小さなことでも良いので、
お年寄りが役割を持つことで、逆に誰かから「ありがとう」と
言って貰える環境作りが大切なのだと痛感したといいます。

               

人は、「ありがとう」と言うより、
「ありがとう」と言われることに喜びと生きがいを感じます。
そのことを想うとき、若宮さんが先の老人ホームに提案した、
誰かに役立つような活動、誰かから感謝されるような活動は、
お年寄りに「ありがとう」と言わせてしまうのではなく、
お年寄りに向けて若い世代が「ありがとう」と伝えられる、
そうした環境や状況を作り出すことに通じ、その辺りを含んで、
若宮さんはこう語られます。

『老人ホームにはいっていても、
 誰かのためになりたいのですよ。
 自分も支える側になりたいと思っている方は
 少なくないはずです。』

               

我が身を振り返るに、
他者から「ありがとう」と言われるよう努めることはあっても、
他者に「ありがとう」と伝えること、及び、
「ありがとう」と伝える状況を生み出すことの方は、
随分とおろそかになっていることに思い当たります。

精神科医・神田橋條治先生は御著書の中で、
相手を尊重する方法の一つは、
自分の知らないことを教えて貰う事だ、と書かれていました。

思えば旅立った両親も、その最晩年、
末期がんにより痩せ衰えて横たわっている時でさえ、私が、
「昔は、◯◯はどんな風だった?」とか、
「◯◯は、どうやって調理するんだっけ?」とか尋ねますと、
急に瞳を輝かせ、ひととき病気を忘れたかのように、
滔々と、また生き生きと語り始めたものでした。
当然のこと私も、
「へぇ、そんな風だったんだ、知らなかった、ありがとう」
「あぁ、味醂を加えるんだ、知らなかった、ありがとう」
と自然かつほぼ無意識に感謝の言葉を伝えるわけですが、
その度に父も母も、何となく口辺に笑みが漂うようでした。
おそらくは私が何かを尋ねる都度、

「自分は息子の知らないことを知っている・・・」
「自分が教え伝えなければ・・・」
「自分は必要とされている・・・」
「自分は尊重されている・・・」

そのような感覚を体内に蘇らせていたのかも知れません。

               

若宮正子さんの言葉で、印象深いものをもう一つ、

『80代はまだこれからで、70代は若手です。』





              









名古屋の信貴山

2020-02-16 13:03:03 | 神社仏閣
“ 信貴山(しぎさん)”と言えば、
いにしえに曰く「大和ノ國」、現在の奈良県生駒郡平群町に所在し、
その山懐には、信貴山真言宗総本山・朝護孫子寺を始め、
成福院・千手院・玉蔵院といった塔頭、また数々の礼拝旧跡を擁し、
千四百年の法灯を今に伝える聖なる山のことであります。

一説に、
若き日の聖徳太子(574~622)が、寅の年・寅の日・寅の刻、
この山中において毘沙門天王を感得して霊験を授かったがゆえに、
「信ずべき、貴ぶべき山」と呼んだことが、
“ 信貴山 ” の命名由来とも伝わります。

私自身は、2010年に信貴山を訪れ、12年に1度巡り来る寅の年、
朝護孫子寺が全山を挙げて斎行される伝統行事に、
塔頭・千手院との御縁を導きの手綱として参列させて頂きました。
その時に、観たこと、聴いたこと、感じたこと、
そして授けられたことの全ては、十年という月日を経た今なお、
日々に鮮やかさと濃度を増すことこそあれ、
けっして色褪せるようなことはありません。

               

その時以来、
また信貴山を訪ねたい、参拝したいと願いつつも中々機会なく、
歳月の河を下るうちには、当時在住しておりました市川市から、
名古屋市へと転居の身の上と相成ったわけでありますが、
この名古屋の地に、信貴山の名古屋別院が在ると聞き及び、

信貴山・名古屋別院・毘沙門寺に参拝してまいりました。


如何なる経緯・ゆくたてを以って、この地に創建されたのか、
その仔細は存じ上げませんが、こちらが御本堂。

御本堂のすぐ前は、切り立った壁面になっていましたので、
この角度からしか撮ることが出来ませんでしたが、
御覧頂きたいのは、奉納された幟(のぼり)旗のデザイン。
“ 毘沙門 ”の文字の上にある意匠は二匹の〈ムカデ〉であります。

神仏にも、悩める衆生を救うにあたっては、
得意分野・得意技・供えられたら嬉しい好物等々があります。
そうした、いわば神仏の個性を補佐・象徴するものの一つとして、
〈眷属〉や〈つかいもの〉と呼ばれる、護法善神・童子・霊鳥・
霊獣・実在生物などが存在します。

〈眷属〉として広く知られているところでは、
千手観世音菩薩の二十八部衆、不動明王の三十六童子。
〈つかいもの〉として古くから私たちの生活に馴染み深いのは、
稲荷神のキツネ、大黒天のネズミ、弁財天のヘビ、天神のウシ。
珍しいところでは、摩利支天のイノシシ、虚空蔵菩薩のウナギ。
そして毘沙門天王においては、これがトラとムカデであります。

ムカデが毘沙門天王の〈つかいもの〉となった由来はさて置き、
もしも現代を生きる私たちの日常生活空間に、
やれネズミだ、ヘビだ、ムカデだ、と這い出て来たならば、
「大黒さま、毘沙門さま、ようこそお越し下さいました。」
とはゆかず、むしろ気味悪く、また不衛生でもありましょう。
〈つかいもの〉の歴史から聴こえてくるのは、
そうしたものと暮らしを共にせざるを得なかった時代の余韻。

その余韻の中に潜み流れる普遍性に耳を澄ませば、
この地球に命を営むのは、人間だけでは無い、
という歌が聴こえてくるような気もします。

               

毘沙門寺の境内には、石造りの地蔵尊が祀られていました。

地蔵菩薩の尊容は、
概ね右手に錫杖、左手に摩尼(マニ)宝珠を執られますので、


こちらの、端座合掌しておられる御尊像は、

地蔵尊のようで地蔵尊ではないのかも。

お顔や全体の雰囲気から察するに、
宗祖・弘法大師・空海上人のようでもあり、また毘沙門寺が、
信貴山・名古屋別院を謳われているところから推し量るに、
かの〈信貴山縁起絵巻〉に登場する信貴山中興の祖・
命蓮(みょうれん)上人そのひとのようでもあります。
しかし・・・おや?
撮影時には気付きませんでしたが、こうして写真を見直しますと、
額の辺りに〈白毫(びゃくごう)〉が在るようにも見えます。
白毫は如来・菩薩に特有の相とされますので、
こちらはやはり地蔵菩薩なのかも知れません。

               

さて晩冬と早春の汽水域、奥側に広がる気ノ森から手前側へ、
枯葉の道を降りてまいりますと、冬枯れた桜が立っています。

染色家・志村ふくみ先生によれば、冬枯れた桜の体内では、
春に向けて桜色が生まれ、養われ、蓄えられているのだとか。

一見すると花の色とは程遠い、
この幹の中は桜色なんだなぁ・・と、自然の奥深さに打たれつつ、
冬枯れの桜に慕わしさと愛しさを感じながら触れております内に、
ふと耳辺に甦りましたのは空海上人の言葉。

『 それ禿(かぶろ)なる樹、定(さだ)んで禿なるに非ず 』

「禿なる樹」とは、枯れ果てた木の意。
「日々を生きてゆく中では、
 逆境・困難・挫折・病気・別離・失敗等の苦しみ悲しみにより、
 あたかも冬枯れの如き境遇や心の状態に陥ることもある。
 しかし、その状態が定まり、ずっと続くことはあり得ない。
 冬枯れの時期こそは、
 命の奥の奥で、新たなる力を生み、静かに力を養い、
 人知れず力を育て、深く力を蓄える好機ではないか。」

駄訳は御容赦を願うとして、
空海上人の人間観と、志村ふくみ先生の自然観との間には、
重なり合い、響き合うものを感じます。






              









ネコと腎臓病

2020-02-09 16:10:03 | 自然科学
本日の空は、

普段にも増して青く、


青いが上にも、

なお青く、


さらに青く、

どこまでも青く、


ずっと青いので、

こう眺めております内に〈青酔い〉しました。

               

日本人の死亡原因、その第1位は言わずもがなのこと、
悪性新生物・・・いわゆる〈がん〉でありますが、
ネコの死亡原因の第1位は、これが〈腎臓病〉なのだとか。

なぜネコにおいて腎臓の機能不全いわゆる腎不全が多発するのか?
この長年に亘る謎を、東京大学大学院・医学系研究科 /
疾患生命工学センター分子病態医科学部門教授の、
宮崎徹先生が明らかにされたという記事を読みました。

宮崎先生は、AIM(Apoptosis Inhibitor of Macrophage)という、
血中タンパク質を発見し、その機能解析を通して、
ネコに腎不全が頻発する原因を究明し、
それに対する革新的治療法の開発に取り組んでおられます。

通常、腎臓に何らかの急性的な障害が生じると、
尿細管にゴミ(細胞の死骸)がたまり、
ヒトの場合は、AIMが直接ゴミを除去するのではないものの、

「AIMが発動してゴミが取り除かれ、腎機能が改善する。」
 (“ネコと腎臓病とAIM研究”/ New Medical World Weekly・
  第3357号 / 医学書院発行 / 以下、引用元は全て同記事)

しかしながら、
ネコでは、血中に含まれるAIMの値がヒトより高いにも拘わらず、
AIMが発動しないため尿細管のゴミ詰まりが解消できず、
腎機能が低下してゆくのだそうです。

なぜネコでは、AIMが発動しないのか?
AIMはIgMというタンパク質と結ばれていて、
体内にゴミを感知すると、AIMはIgMを離れてゴミに付着し、
ゴミの存在を知らせる役割を担いますが、ネコにあっては、
AIMとIgMとの結合親和性(結び付きの度合い)が高いために、
AIMはIgMを離れようにも離れられず、
結果的にAIMが発動しない、とのことで、宮崎先生は、

「さらに言えば、ライオン・トラ・チーター・ヒョウも
 最期は慢性腎不全になる。全てネコ科の動物で、
 同じようにAIMの機能に問題があるようです。」

と、ネコ及びネコ科の動物にとっては、
腎不全が遺伝病であることを解き明かされています。

               

今後、生体内の不要物質除去システムの核とも言える、
このAIMの解明を進め、ヒトへの応用研究を加速し
生活習慣病や難治性疾患、また脳内にアミロイドβタンパク等の
不要物質がたまることによって発症するとされる、
アルツハイマー型認知症などにおいても、
AIMを活用した新規治療法の開発が期待される、として、

「つまり、体内では細胞の癌化や死、
 タンパク質の変性などの異常が常に発生しているのでしょう。
 これら“ 病気の芽 ”が蓄積することによって“ 疾患 ”となる。
 AIMが“ 病気の芽 ”の認識とその速やかな除去を促し、
 組織の修復を誘導することによって、
 生体の恒常性が維持されていると考えられます。」

と語られています。

私たちの体は、
損傷と修復が時々刻々に繰り返されている〈場〉、
微細な生成と消滅、小さな生と死が日々に紡がれている〈場〉、
ということであろうかと思いますが、
宮崎先生ご自身が音楽に造詣の深いこともあってか、
〈場〉をオーケストラに例えて次のように述べておられます。

「(疾患というものは)オーケストラでいう
 “ 響きの濁り ”に近いかもしれません。
 個別の楽器奏者(=各臓器)が悪いというよりも、
 全体の響き(=生体の恒常性)が調っていない。
 そこで全体のバランスを調えて美しい響きを組み立てるのが、
 指揮者の重要な役割となります。
 AIMは体内で、オーケストラの指揮者のような役割を
 果たしているのかもしれません。」

生命現象の奥底で繰り広げられる生理の体系と、
オーケストラの響きが生み出される楽理の体系とが、
事象の根源において相似的に照応され得るように感じます。
いや、もしかしたらその逆で、
生命譜とでも申しましょうか、
事象の根源で扱われている楽譜は同じものでありながら、
歌われ方・奏でられ方が違うということかも知れません。

               

ネコの宿命とも言える腎臓病ですが、
AIMタンパク質の人為的投与による腎機能改善に、
大きな期待が寄せられていて、
2020年中にAIM製剤の薬事申請に必要な臨床試験が開始され、
2022年までの商品化が目指される、とのこと。
さて、
ネコを愛する方々にとって、朗報となりますかどうか?


むむっ・・・見てる見てる、

腎臓いたわって元気でニャー!


              








非線形圧縮

2020-02-02 15:47:55 | 自然科学
満開だった山茶花も、その花期を終えようとしています。

寒中にあって、いつも心の暖を取らせて貰いました。


視線を地面に転じますと、

ハート型の花びらが散り敷かれています。


叶わなかった夢のひとひら、届かなかった想いのひとひらも、

やがて大地に還り、大きな時の輪の巡りの中で、
いつかまた命の歌を唄うものと思います。

               

〈音〉という、主に空気を媒質として伝わる疎密波は、
外耳から入り中耳の鼓膜を震わせ、その振動は、
ツチ骨キヌタ骨アブミ骨を経ながら増幅されて蝸牛に達します。
蝸牛(かぎゅう)には感覚上皮帯あり、この感覚上皮帯は、
「帯」という名称から察せられるように蝸牛内をベルト状に伸び、
次々に入ってくる音の周波数を識別しています。
その識別方法ですが、感覚上皮帯は上下に振動する器官で、
入って来る音の周波数に応じて上下動する部位が決まっていて、

「1000Hzに対応する場所は、1秒間に1000回、
 10000Hzに対応する部位は、1秒間に10000回、振動する。」
(太田岳・任書晃・日比野浩「内耳感覚上皮帯のナノ振動」・
 月刊 臨床神経科学37巻12号 / 以下「」内は全て同書より引用)

というシステムなのだそうで、その上下振動が、
内有毛細胞・外有毛細胞という感覚受容細胞を刺激し、

「ヒトでは約4000組の内・外有毛細胞が、
 蝸牛の基底部から頂上部へと整然と分布しており、
 聴覚の繊細な周波数分析を可能にしている。」

とのことで、
かくも精緻を極めた器官が自分自身の内側に存在し、
精妙に作動していることに驚きを覚えると共に、
私自身が、いささか音に関りを持つ身でありながらも、
こうした解剖生理学的仕組みがサッパリ分かっていないことに、
内心忸怩たる思いを抱くものであります。

               

今回読ませて頂いた文献「内耳感覚上皮帯のナノ振動」には、
〈非線形圧縮・非線形増幅〉についての論述がありました。

私たちが受容できる音圧の範囲は、
最小閾値0dB(囁き声のレベル)から、
最大閾値120dB(ジェットエンジンの駆動音)までの広範囲に亘り、
この広大な音圧差(100万倍の差)をそのまま受容していたのでは、
生体にとって大きな負担になるため、
感覚上皮帯において、これを数百倍の差に圧縮し、

「音圧が小さいほど振動の振幅が強く増幅される現象」

として、私たちの〈聴こえ〉を支えているのが、
〈非線形圧縮・非線形増幅〉と呼ばれる仕組みなのだそうです。
非線形というのは、小さな音ほど増幅される現象をグラフ化した際、
グラフ線が直線形にならないということの意。

思えば、小さな音ほど大きく聞こえるというのは、
日常的に経験している音響体験でもありますが、それらの背景に、
こうした〈非線形圧縮・非線形増幅〉の働きがあると考えて、
さほど間違いではないのかも知れません。

               

大変興味深いことに、死後の動物にあっては、
入力された音に対する応答が〈線形〉を示すことから、

「非線形増幅機構には、
 動物が “ 生きているがゆえに ” 発揮される
 生体固有の力学反応が関わることが容易に推察される。」

と述べられています。

生きている間は、小さな音・弱い音を増幅する力が働き、
死ぬと、それらを感知出来なくなる・・・、
『“ 生きているがゆえに ” 発揮される生体固有の力学反応』
という辺りを、〈心身一如〉の概念に投影し、
人間の心・人間の世界・人間の社会に敷衍して考える時、
小さな声・弱々しい声に耳を澄ますことが出来ない人間、
かすかな声・声なき声を拾い上げることの出来ない組織は、
限りなく〈死〉に近い・・・と諭されているようにも感じます。

自分はどうか?
残念ながら「生きている」と胸を張る事が出来ません。