城山八幡宮のヒトツバタゴが花期を迎えています。
〈菩薩(ぼさつ)〉については、以前にも触れました。
〈菩薩〉は、私にとって親しみを覚えつつも謎、近いようで遠く、
憧れでありながら理解が及ばないという存在であり、
それゆえにこそ、音楽・宇宙・自然・生命と同様、
想いを馳せ続けたい“ テーマ ”の一つ。
今回は、この〈菩薩〉について、二週に亘り浅慮を巡らせます。
愚考駄文はもとよりのこと・・・と、お許しを願った上で、
お付き合い頂けましたら幸いに存じます。
仏教には、夥しい数の尊格が登場し、それらは御承知置きの通り、
阿弥陀如来・大日如来・薬師如来等の〈如来〉部、
観世音菩薩・弥勒菩薩・地蔵菩薩等の〈菩薩〉部、
不動明王・愛染明王等・孔雀明王等の〈明王〉部、
毘沙門天・弁財天・大黒天等の〈天〉部にカテゴライズされるため、
仏教解説書、或いは法話を講じる僧侶の方々の中には、
上記カテゴライズを人間世界の社会集団や会社組織に重ね、
〈如来〉を社長、〈菩薩〉を部長、〈明王〉を係長、
〈天〉を現場の社員になぞらえて説いておられる場合があります。
それは「分かりやすさ」という観点からは良いのかも知れません。
しかしながら、そもそも仏天・仏尊の世界と人間の世界とは、
別次元の秩序、異なったオーダーで生起しているのであり、
上記のような“ 比喩 ”は、
あたかも仏尊の世界に“ 階級 ”や“ 職階 ”があるかのような、
誤解を生むことに繋がりかねません。
私見ながら、仏尊の世界に、
“ 人間社会のような上下関係 ”や、
“ 人間社会のような地位・職階 ”といったものは存在しません。
確かに経典の中には、
「〈明王〉が〈菩薩〉の命を受けて立ち上がり・・・」とか、
「〈菩薩〉が〈如来〉の許しを得て説法を始め・・・」といった、
さも上下関係や命令系統が有るかのような記述が随所に見られます。
しかしそれらは“ 人間社会のような上下関係 ”ではなく、
あくまでも“ 仏尊世界の上下関係 ”と受け止められるべきもので、
人間世界と仏尊世界とでは、
この“ 上下関係 ”という言葉の定義自体が全く異なり、
人間の生活感覚で推し量ることは出来ない事象であると思います。
平たく申せば、
〈明王〉が〈菩薩〉の意向を忖度したり、
〈菩薩〉が〈如来〉の顔色を伺ったりする・・・、
そういうことは一切無いということであります。
仏教は、のちに開祖となるゴータマ・シッダールタが、
コーサラ国に属するシャ―キャ族の王子としての、
「“ 地位 ”を捨てる」ところから始まりました。
にも拘わらず、仏教が開かれた初期段階から、
「“ 修行 ”を積む」ということと、
「“ 地位 ”を得る」ということとが、
少しずつ結びつけられるようになってゆきます。
つまり、
“ 修行 ”を積んで“ 悟り ”を得ることで、
“ 偉いひと ”になるという誤解が生まれます。
仏教の原点から考えるならば、「“ 修行 ”を積む」ことで、
「“ 地位 ”を捨てる」ことが出来る、もしくは、
「“ 地位 ”を得よう」という心を捨てることが出来る、或いは、
「偉いひと」ではなくなることが出来る・・・はずなのですが、
そうはいかないのが、人間の半ば哀しく、半ば面白いところ。
釈迦に付き従った〈十大弟子〉と呼ばれる方々は、
仏道精進において極めて優れた方々なのでありますが、
その優れた方々の中においてでさえ、
力関係・優劣・地位の上下などが自ずと生じています。
どのような理念・理想・共同幻想を謳ったとしても、
およそ集団化し、組織化されてしまえば、
それら理念・理想等を抱く人々自身でさえも、いつしか、
それら理念・理想等から離れてゆかざるを得ないのであり、
卑近なところで考えてみますと、それは例えば、
スローガンとして「真の平等」を掲げた組織が在ったとしても、
その組織で働く従業員の方々には歴然とした職階があり、
給与等々も「真の平等」とはゆかないようなものでありましょう。
この辺りの事情には、“ 世界 ”と“ 業界 ”との違い・・・、
といったこともあろうかと思います。
つまり、
ゴータマ・シッダールタが感得したのは“ 仏教世界 ”。
その後の修行者集団や教団組織が生き、
近現代の宗教団体や宗教法人が生きているのは、
“ 仏教世界 ”のように見えて、実は“ 仏教業界 ”。
“ 世界 ”は、独りで探求し、一人で歩むもの。
“ 業界 ”は、集団で維持し、組織で経営するもの。
仏陀(=釈迦=ゴータマ・シッダールタ)が語った、
『犀(サイ)の角のように、ただ独り歩め』
という言葉には、
人間が「“ 世界 ”寄り」から「“ 業界 ”寄り」へと、
変遷しやすい生き物であることへの警句、
そういった要素が含まれているのかも知れません。
仏教に限らず、これを“ 音楽 ”に置き換えた時、
“ 音楽世界 ”は、宇宙開闢から宇宙終焉まで、
もしくは宇宙開闢以前から宇宙終焉以降も存在し続けるため、
個人が、人間生命として感得できる部分だけを感得し、
独りで探り、一人で浸り、ひとりで深め、
ひとりで楽しむことが出来るものと言えます。
引き換えて、
“ 音楽業界 ”は、個人によって感得されたものを金銭に変え、
広め、利益を上げ、特定集団の維持を図らなければなりません。
“ 世界 ”と“ 業界 ”とは似ているようで、
依って立つ原理や秩序が、まるで違うものと思います。
さて〈菩薩〉であります。
古来、仏教において〈菩薩〉は仏道修行者であり、
修行を成就した後には〈如来〉になるとされます。
こうした考えが流布したがゆえに、あたかも〈菩薩〉が、
修行の報酬として〈如来〉へ“ 昇進 ”するかような誤解、
もしくは〈菩薩〉が〈如来〉への“ 昇格 ”を目指して、
修行するかのような誤解が生じることは、
すでに冒頭に記させていただきました。
お恥ずかしい話でありますが、
私自身、そうした誤解を持ち続けておりました。
〈菩薩〉は〈如来〉になりたいわけでもなく、
〈菩薩〉は〈如来〉を目指して修行するわけでもなく、
〈如来〉が〈菩薩〉より偉いわけでもなく、
〈菩薩〉が〈如来〉より劣っているわけでもなく、
〈如来〉と〈菩薩〉との間に資格的境界があるわけではない。
では〈菩薩〉とは、いったい何者なのでありましょうか?
その答えの一つが、今を去ること約1600年ほど前、
中国大陸の北西部に実在した“ 北涼(ほくりょう)” 国において、
曇無讖(385~433 / 本名 “ ダルマクシェーマ ” が音訳され、
通常「どんむせん」と呼ばれる、中インド出身の訳僧)によって
漢訳された、大方等大集経(だいほうどう だいじっきょう)・
巻第十六・虚空蔵菩薩品(こくうぞうぼさつ ほん)・第八ノ三に、
以下の如く謳われています。
“ 空相を相となすも、空はまた無相なり、
この相を体する者、これを菩薩となす。
滞(たい)なく礙(げ)なく、戯(け)なく動(どう)なく、
始めなく終わり無き、これを菩薩となす。
衆生を離れず、衆生の数に非(あら)ずして、
衆生の性(しょう)の如くなる、これを菩薩となす。 ”
(偈文引用元:下泉全暁「諸尊経典要義」青山社刊)
本日は紙幅の都合を以って、ここまでとさせて頂き、
次回、この感動的な〈菩薩〉の定義に想いを巡らせます。
“ 空相を相となすも、空はまた無相なり、
この相を体する者、これを菩薩となす。
滞なく礙なく、戯なく動なく、
始めなく終わり無き、これを菩薩となす。
衆生を離れず、衆生の数に非ずして、
衆生の性の如くなる、これを菩薩となす。 ”
〈菩薩(ぼさつ)〉については、以前にも触れました。
〈菩薩〉は、私にとって親しみを覚えつつも謎、近いようで遠く、
憧れでありながら理解が及ばないという存在であり、
それゆえにこそ、音楽・宇宙・自然・生命と同様、
想いを馳せ続けたい“ テーマ ”の一つ。
今回は、この〈菩薩〉について、二週に亘り浅慮を巡らせます。
愚考駄文はもとよりのこと・・・と、お許しを願った上で、
お付き合い頂けましたら幸いに存じます。
仏教には、夥しい数の尊格が登場し、それらは御承知置きの通り、
阿弥陀如来・大日如来・薬師如来等の〈如来〉部、
観世音菩薩・弥勒菩薩・地蔵菩薩等の〈菩薩〉部、
不動明王・愛染明王等・孔雀明王等の〈明王〉部、
毘沙門天・弁財天・大黒天等の〈天〉部にカテゴライズされるため、
仏教解説書、或いは法話を講じる僧侶の方々の中には、
上記カテゴライズを人間世界の社会集団や会社組織に重ね、
〈如来〉を社長、〈菩薩〉を部長、〈明王〉を係長、
〈天〉を現場の社員になぞらえて説いておられる場合があります。
それは「分かりやすさ」という観点からは良いのかも知れません。
しかしながら、そもそも仏天・仏尊の世界と人間の世界とは、
別次元の秩序、異なったオーダーで生起しているのであり、
上記のような“ 比喩 ”は、
あたかも仏尊の世界に“ 階級 ”や“ 職階 ”があるかのような、
誤解を生むことに繋がりかねません。
私見ながら、仏尊の世界に、
“ 人間社会のような上下関係 ”や、
“ 人間社会のような地位・職階 ”といったものは存在しません。
確かに経典の中には、
「〈明王〉が〈菩薩〉の命を受けて立ち上がり・・・」とか、
「〈菩薩〉が〈如来〉の許しを得て説法を始め・・・」といった、
さも上下関係や命令系統が有るかのような記述が随所に見られます。
しかしそれらは“ 人間社会のような上下関係 ”ではなく、
あくまでも“ 仏尊世界の上下関係 ”と受け止められるべきもので、
人間世界と仏尊世界とでは、
この“ 上下関係 ”という言葉の定義自体が全く異なり、
人間の生活感覚で推し量ることは出来ない事象であると思います。
平たく申せば、
〈明王〉が〈菩薩〉の意向を忖度したり、
〈菩薩〉が〈如来〉の顔色を伺ったりする・・・、
そういうことは一切無いということであります。
仏教は、のちに開祖となるゴータマ・シッダールタが、
コーサラ国に属するシャ―キャ族の王子としての、
「“ 地位 ”を捨てる」ところから始まりました。
にも拘わらず、仏教が開かれた初期段階から、
「“ 修行 ”を積む」ということと、
「“ 地位 ”を得る」ということとが、
少しずつ結びつけられるようになってゆきます。
つまり、
“ 修行 ”を積んで“ 悟り ”を得ることで、
“ 偉いひと ”になるという誤解が生まれます。
仏教の原点から考えるならば、「“ 修行 ”を積む」ことで、
「“ 地位 ”を捨てる」ことが出来る、もしくは、
「“ 地位 ”を得よう」という心を捨てることが出来る、或いは、
「偉いひと」ではなくなることが出来る・・・はずなのですが、
そうはいかないのが、人間の半ば哀しく、半ば面白いところ。
釈迦に付き従った〈十大弟子〉と呼ばれる方々は、
仏道精進において極めて優れた方々なのでありますが、
その優れた方々の中においてでさえ、
力関係・優劣・地位の上下などが自ずと生じています。
どのような理念・理想・共同幻想を謳ったとしても、
およそ集団化し、組織化されてしまえば、
それら理念・理想等を抱く人々自身でさえも、いつしか、
それら理念・理想等から離れてゆかざるを得ないのであり、
卑近なところで考えてみますと、それは例えば、
スローガンとして「真の平等」を掲げた組織が在ったとしても、
その組織で働く従業員の方々には歴然とした職階があり、
給与等々も「真の平等」とはゆかないようなものでありましょう。
この辺りの事情には、“ 世界 ”と“ 業界 ”との違い・・・、
といったこともあろうかと思います。
つまり、
ゴータマ・シッダールタが感得したのは“ 仏教世界 ”。
その後の修行者集団や教団組織が生き、
近現代の宗教団体や宗教法人が生きているのは、
“ 仏教世界 ”のように見えて、実は“ 仏教業界 ”。
“ 世界 ”は、独りで探求し、一人で歩むもの。
“ 業界 ”は、集団で維持し、組織で経営するもの。
仏陀(=釈迦=ゴータマ・シッダールタ)が語った、
『犀(サイ)の角のように、ただ独り歩め』
という言葉には、
人間が「“ 世界 ”寄り」から「“ 業界 ”寄り」へと、
変遷しやすい生き物であることへの警句、
そういった要素が含まれているのかも知れません。
仏教に限らず、これを“ 音楽 ”に置き換えた時、
“ 音楽世界 ”は、宇宙開闢から宇宙終焉まで、
もしくは宇宙開闢以前から宇宙終焉以降も存在し続けるため、
個人が、人間生命として感得できる部分だけを感得し、
独りで探り、一人で浸り、ひとりで深め、
ひとりで楽しむことが出来るものと言えます。
引き換えて、
“ 音楽業界 ”は、個人によって感得されたものを金銭に変え、
広め、利益を上げ、特定集団の維持を図らなければなりません。
“ 世界 ”と“ 業界 ”とは似ているようで、
依って立つ原理や秩序が、まるで違うものと思います。
さて〈菩薩〉であります。
古来、仏教において〈菩薩〉は仏道修行者であり、
修行を成就した後には〈如来〉になるとされます。
こうした考えが流布したがゆえに、あたかも〈菩薩〉が、
修行の報酬として〈如来〉へ“ 昇進 ”するかような誤解、
もしくは〈菩薩〉が〈如来〉への“ 昇格 ”を目指して、
修行するかのような誤解が生じることは、
すでに冒頭に記させていただきました。
お恥ずかしい話でありますが、
私自身、そうした誤解を持ち続けておりました。
〈菩薩〉は〈如来〉になりたいわけでもなく、
〈菩薩〉は〈如来〉を目指して修行するわけでもなく、
〈如来〉が〈菩薩〉より偉いわけでもなく、
〈菩薩〉が〈如来〉より劣っているわけでもなく、
〈如来〉と〈菩薩〉との間に資格的境界があるわけではない。
では〈菩薩〉とは、いったい何者なのでありましょうか?
その答えの一つが、今を去ること約1600年ほど前、
中国大陸の北西部に実在した“ 北涼(ほくりょう)” 国において、
曇無讖(385~433 / 本名 “ ダルマクシェーマ ” が音訳され、
通常「どんむせん」と呼ばれる、中インド出身の訳僧)によって
漢訳された、大方等大集経(だいほうどう だいじっきょう)・
巻第十六・虚空蔵菩薩品(こくうぞうぼさつ ほん)・第八ノ三に、
以下の如く謳われています。
“ 空相を相となすも、空はまた無相なり、
この相を体する者、これを菩薩となす。
滞(たい)なく礙(げ)なく、戯(け)なく動(どう)なく、
始めなく終わり無き、これを菩薩となす。
衆生を離れず、衆生の数に非(あら)ずして、
衆生の性(しょう)の如くなる、これを菩薩となす。 ”
(偈文引用元:下泉全暁「諸尊経典要義」青山社刊)
本日は紙幅の都合を以って、ここまでとさせて頂き、
次回、この感動的な〈菩薩〉の定義に想いを巡らせます。
“ 空相を相となすも、空はまた無相なり、
この相を体する者、これを菩薩となす。
滞なく礙なく、戯なく動なく、
始めなく終わり無き、これを菩薩となす。
衆生を離れず、衆生の数に非ずして、
衆生の性の如くなる、これを菩薩となす。 ”