~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

年の瀬恒例、外宮参拝

2022-12-25 14:51:08 | 神社仏閣
この1年、小禍小病は数あれど、

まずまず無事に過ごすことが出来たことへの感謝を捧げに、
年の瀬恒例、外宮参拝に行ってまいりました。

外宮参拝に先立ち、まずは父祖の地巡拝ということで、
こちらは早朝の鳥羽駅前。

大きな鳥居は、金刀比羅宮・鳥羽分社の鳥居であります。

言わずもがなのことながら、鳥羽は海の町。
昭和31年(1956)、
漁業を主とした海事・海運従事者人口の多い鳥羽市民から、
海業安全を願い「海の町に海の神を」という強い要望の下、
金刀比羅宮本宮から御分霊が勧請され、
上掲の鳥居から少し離れた “ 樋の山(ひのやま)公園 ” に、
金刀比羅宮・鳥羽分社が建立されました。
したがって、この大鳥居から数キロ先に在る分社への道は、
金刀比羅宮・鳥羽分社の「参道 」なのでであります。
「参道」という特殊な場所は、
文字通り人々が参拝の為に通るがゆえの「参道」であると共に、
参拝による再生や回生を願う形而上的な「産道」でもあり、
帰りには感謝と歓びの念を以て財を散じる「散道」でもあると、
個人的解釈ではありますが、そんな風に感じます。

回り諄いことを書きましたが、何が言いたいのか?と申しますと、
この大鳥居こそは、往時の “ 鳥羽 ” という土地が、
人々の押し寄せる一大観光地であったことの証であり、
ケタ違いの活況ぶりを誇っていたことを今に伝えるモニュメント、
ということであります。
その辺りの事柄については稿を改めることと致しましても、
鳥羽駅に降り立ち大鳥居を仰ぎ見る度、“ 世の移ろい ” と、
当ブログテーマの一つ・・・

「全ての場所には歴史があり、全ての人には物語がある。」

このことを想うものであります。

因みに写真左側に写るのは、
鳥羽湾一帯で獲れた新鮮な海の幸を提供するお店。
開店前なのでシャッターが閉まっていますが、
この中の数件は “ 海女(あま)” の方々が営んでおられます。

                 

鳥羽に所在するこちらの古刹を訪れ、



墓石の水鉢を洗って新しい水を差し上げるつもりが、
カンカンに凍っています。

素手で叩いてみたのですが、痛いばかりで割れる気配もなく、
されど石などを用いては墓石を傷つけそうなのでやめました。
毎年この時期、この時間帯に訪れておりますが、
そこは暖流 “ 黒潮 ” を望む志摩半島であれば、
薄く氷が張ることはあっても、ここまで凍結するのは初めて・・、

などと書いておりましたところ、巡拝から3日後の昨日(24日)、
クリスマス寒波襲来で、名古屋も今年初の雪化粧。

今冬の寒気は例年にも増して厳しいようで、
北国、雪国にお住まいの方々の御不便は如何ばかりかと存じます。

                 

さて、伊勢市駅であります。

前回2013年に執り行われた第62回《式年遷宮》時に、
神宮が「新魂(あらたま)る」と共に、遷宮の余慶を受け、
駅および駅周辺も大きく「改(あらた)まった」感が有ります。


伊勢市駅前に立つ鳥居をくぐって真っ直ぐ進みますと、



程なくして外宮。

伊勢市駅前から外宮境内へと歩みを進める内に、
道はアスファルトから玉砂利へ、景観は市街地から蒼古の森へ、
音響はエンジン音・信号機音などの人工音から、
樹々のさざめき・鳥の囀りといった自然音へと変化してゆき、
その変化に伴い、同じ大気、同じ空間であるはずのものの中に、
いつしか名状しがたい “ 尊さ ” が醸されてくるのを感じます。

“ 尊さ ” と申せば、

元禄二年(1689)、松尾芭蕉(1644~1694)は伊勢を訪れ、
外宮・第46回《式年遷宮》の儀式を拝して、こう詠んでおられます。

『尊さに 皆おしあえぬ 御遷宮』

生あるものは必ず滅ぶのが定めである以上、私たちは「必滅」。
しかしながら、生滅を超えた存在の “ 尊さ ” は「不滅」。

『尊さに 皆おしあえぬ 御遷宮』という句からは、
「必滅」の存在が「不滅」の存在を信じ、敬い、慕い、祈り、
押し合いへし合いしつつ集う、333年前の光景が伝わってきます。


次回、第63回《式年遷宮》は、2033年に執り行われる予定。
現在の御正殿に隣接する、こちらの場所に、

新しい御正殿が建てられます。


境内に立つ神杉



夏の炎暑に灼かれて千年、冬の寒風にさらされて千年、
自らを誇ることなく立ち続けながらも、

否応無く樹皮に現れ出るのは、尊き “ 青 ” 、神さびた “ 蒼 ” 。

                 

カメラ絞りの具合で写真に現れる光条が、
天空から降りて来る無数の光の糸のようにも見えますが、

光の “ 糸 ” を、光の “ 意図 ” と観想してみますと、
“ いと ” は何を結ぼうとし、何をほどこうとするのでしょうか?

想えば私たち人間は、ある意味 “ 操り人形 ” 。
人に操られ、お金に操られ、自らの欲に操られ、情報に操られ、
物に、言葉に、思考に、日々に移り変わる心身の状態に操られ、
主体的に何かを操っているつもりでも、
その操作自体が既に操られているものでもあろうかと思います。

何かに操られて生きざるを得ないのであれば、
人は、何に操られて生きることを旨とすべきなのか・・・、
浄域の気に打たれたせいでしょうか、
ひととき神妙な心持ちに包まれるものでありました。

この1年、当ブログに御訪問いただき心より感謝を申し上げます。
ありがとうございました。

皆様、良いお年をお迎え下さい!


         それでも世界は希望の糸を紡ぐ







基督弥撒・・・?

2022-12-18 15:18:29 | 雑感
名古屋駅及び駅周辺の代表的な待ち合わせスポットの一つ、
名鉄百貨店本店入り口に立つ、巨大 “ ナナちゃん ” 人形。

“ ナナちゃん ” は、
春夏秋冬それぞれの季題に合わせて “ お色直し ” が施されます。
今はクリスマスに合わせて、天使のような、ケーキのような装い。
背中の翼は柊でしょうか?・・・洋の東西を問わず、
古来ヒイラギは魔除け厄よけの霊的植物とされてきました。
世は未だコロナ禍に在り。
“ ナナちゃん ” の背に生えたヒイラギの羽根には、
コロナ禍収束の願いが託されているのかも知れません。

そのコロナ禍も、予てより第8波の到来が伝えられていますが、
良くも悪くも “ with corona ” の生活が浸透したものか、

師走の雑踏には、以前のような緊張感は感じられません。


というわけで、
1週間先んじましての「メリー “ 基督弥撒 ” 」。

その昔、中国や日本では、

「基督弥撒」

と書いて「クリスマス」と読んだ・・・もしくは、
「クリスマス」を「基督弥撒」と書き表したのだとか。
「基督」が「キリスト」の意であることは分かりますが、
「弥撒」が「ミサ」を示すのだそうです。
尤も、現在ではこのように表記されることはないと聞きます。

仏教発祥の地、古代インドでは、
如来から放たれる広大無辺にして普く満ちる光のことを、
“ アミターバ ” と称し、“ アミターバ ” なる光は大きくて、
「量り知ることが出来無い」いうところから、
漢字圏において「無量光」と訳され “ アミダ ” と音写された上で、
「阿弥陀」の字が当てられたと謂います。
したがって「阿弥陀如来」と「無量光如来」は同義同体。

日本では「阿弥陀」の「阿」を省いて「弥陀(ミダ)」とし、
「弥陀の本願」と説かれたり「弥陀ヶ原」なる地名になったりと、
「弥陀」の用例が散見されます。

                 

先に記しました「弥撒(ミサ)」。
キリスト教門外の早川ゆえ間違っていたらお許しを願いますが、
確か「ミサ」とは、

キリスト(紀元年~紀元33年頃)の《最後の晩餐》に由来する、
所謂《聖体の秘跡》に関わる典礼を指すと、
概ねそのように習った記憶があります。
尤も、
カトリックとプロテスタントでは、この辺りの解釈や捉え方、
また呼び方などにも違いがあると聞き及びますが、何にせよ、
重要な祭儀であることには違いないのでありましょう。

インド発祥の仏教と同様、キリスト教もまた唐代(607~907)、
その教えと文物とが大量に長安へともたらされ、
長安城内には幾つもの礼拝堂が建てられていたと伝わります。
当時は「景教」と呼ばれたキリスト教ネストリウス派の教義は、
救世主 “ Missiah(ミシア)” 信仰だったようで、
この “ Missiah ” には「弥施訶」と漢字が当てられています。
「弥施訶」とは、英語で綴られるところの “ Messiah ” 、
つまりは「メサイア」でありましょうか。

私には「弥施訶」と示されても「ミシカ」としか読めず、

アラン・シルヴェストリ大師匠の2006年作品、
「レジェンド・オブ・ミシカ」の音楽が脳内再生されるに留まり、
とてものこと千五百年という時の彼方で信じられていたであろう、
メサイアの余韻を聴き分けることは出来ません。

仏教では「阿弥陀」「弥勒(みろく)」「須弥山(しゅみせん)」、
景教では「弥撒」「弥施訶」と、この辺りを想ってみますと、
もしかしたら当時の中国人翻訳者の間には、
外国から入ってきた言葉で、それが何か宗教的意義を持つ場合、
“ Mi ” と聞こえる発音には「弥」を当てよう・・・という風な、
決めごとなりマニュアルなりが在ったのかも知れません。

“ 基督弥撒 ” から、取り止めも無い話になってしまいましたが、
音写・音訳からの漢字選択および漢字訳出の流れというものは、
たった一文字の中にも、
歴史・地理・民族・言語・文化といった広大な領域を含み、
それゆえに複雑難解、又それゆえに興味尽きせぬ世界。 
弘法大師・空海上人(774~835)の言葉に、経典の文字は、

『一字に千理を含む』

とありますが、この『千理』には「千の理法」という意味と共に、
過去と現在、現在と未来といった時間的な距離を喩える「千里」、
遠く隔たった場所と場所との空間的な距離を表す「千里」、
そのような意味も宿っているように思われてまいります。


“ Purple Dragon ” 〜 紫龍 〜

皆様、良き日々でありますように!


               








同じ “ トライ&エラー ” でも

2022-12-11 15:03:08 | 雑感
名古屋市・矢場町に鎮座する若宮八幡宮には、
来年の干支「癸卯(みずのと う)」に因んで、

ウサギの木彫りが置かれていました。


こちらは若宮八幡宮境内に建つ若宮龍神社。
宝珠を大きく掲げた龍神像が参拝者を迎えてくれます。

御祭神は白龍大神。


若宮八幡宮から名古屋駅まで歩く道すがらに、
白龍神社が在りました。初めて参拝致します。
境内は撮影が禁じられておりますので外観のみ。

御祭神は、
高龗神(たかおかみのかみ)・須佐之男命(すさのおのみこと)。
なんでも江戸時代前期頃、この一帯に疫病が蔓延した際、
天から神示が下り、それに従って神祀りを為して以来幾星霜、
いつの頃からか高龗神・須佐之男命の二柱を総称して、
「白龍大神」と尊崇されるようになったのだそうです。

                 

さて、およそ5年半ぶりに五線紙に音符を書いてみたり、
DAWソフトを触り始めてみたりするものの、

これが “ トライ&エラー ” の繰り返しであります。


只、この “ トライ&エラー ” は、

ずっと自分自身が渇望していたことであったと、
作業を行いながら、そのように思われてきました。


食べてゆく為の “ ライスワーク ” における “ トライ&エラー ” は、
どこかストレスの方が先に立ち、心身を疲弊させがちですが、

魂と共に取り組む “ ライフワーク ” での “ トライ&エラー ” は、
“ 苦楽一体 ” の世界が広々と開け、“ トライ ” は苦しくとも楽しく、
“ エラー ” からは多くの学びを授かることの出来る世界。

同じ “ トライ&エラー ” でも、そこには差異が生じます。
有り体に申せば、この差異とは、
「やらざるを得ないからやること」と、
「やりたくてやること」の差異。

尤も、世の中には “ ライスワーク ” と “ ライフワーク ” とが、
「ピッタリと一致しているよ」という方も多くおられましょう。

不徳の早川には及びもつかないことで、羨望を禁じ得ません。


“ Early winter and Dragon ” 〜 白龍巡天 〜

皆様、良き日々でありますように!


               







Re start

2022-12-04 14:38:13 | 音楽関係
名古屋へ転居して5年半、自宅と職場の往復に明け暮れ、
情けないことに休日は木偶の如く何ら為す気力も無く過ごし、

作曲からは遠ざかるばかりの日々でありました。

音楽自体は、能動的に聴くことはありませんでしたが、
受動的には聞いておりました。どういうことかと申しますと、

奉職していた学び舎に通う学生さんたちが始業前に早川を訪れ、
それぞれが好む音楽をスマホで聞かせて下さるのでした。

多くが J-POP・K-POP・ゲーム音楽・アニメの主題歌 。
私は聞かせて貰う度に、
つくづく「いい曲だなぁ」「いい音だなぁ」と心震わされたので、
その感想をありのまま学生さんたちに伝えますと、
彼ら彼女たちは顔を輝かせて “ 推し ” について語り、
何となくスッキリした感じで授業に向かわれるのでありました。

不思議なことに、その後ろ姿を見送ったあと、
早川自身もまた、何となく元気になっているのであります。
音楽には、

聴く喜び・奏でる喜び・作る喜び、といった直接的な喜びの他に、
その音楽について語る喜び・その語りを聞く喜び、
といった間接的な喜びが有ることを改めて知る思いがしました。

                 

さて、自分自身の生活リズムが変わり、
次の “ 身の振り方 ” が未だ定まっていない今のうちに、

作曲に関することからDAWソフトの使用方法等々まで、
多少なりとも学び直しておこうと思い立ちました。

しかし、これが文字通りの “ 悪戦苦闘 ” ・・・なぜならば、
まこと恥ずかしいことに、色々と忘れているのであります。

若い頃の5年とは違い、
老いて5年のブランクには中々厳しいものを感じます。

各楽器の演奏可能音域や移調楽器の記譜法、読譜法等々、
総譜なりテキストなりを引っ張り出してきて勉強し直しの上、
DAWソフトのインストール&アクティベーションにもつまづき、

楽器店の方に教えを乞いながら、何とか起動できたものの、
え~っと・・・どこをどう操作するんだっけ?

                 

また海外メーカーが発売するオーケストラ音源の、
「60% OFF on BLACK FRIDAY !!」に、思わず決済した後、

自身が英語に不堪能だったことを思い出しましたが、
時すでに遅し。

ダウンロードからオーソライズの手順全てが英語で、
また幾つもの関連サイトでのアカウント作成と承認を要し、
結局のところ行き詰まり、現在なお手続き中であります。

お得な “ ブラック・フライデー ” のはずが、
お先真っ暗な金曜日に・・・一周まわって、
“ ブラック ” なフライデーとなってしまいました。


とは言え、失敗には何らかの学びもあるはず。

少しずつ感覚を取り戻せれば良いのですが、
おそらくは “ イチ ” から始まる道。
むしろ “ イチ ” から始めた方が良い道なのかも知れません。

Re start

既にして “ 珍道中 ” の雲行きでありますが、

少しずつ歩みを進めてまいりたいと思います。


翠龍 〜 命には限りあれど、道は果てなし

皆様、良き日々でありますように!