~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

「人体大解明の旅」

2019-05-26 17:05:26 | イベント・展覧会
物質を構成する基本粒子には幾つかのグループがあり、
中でも原子核を構成する陽子や中性子のような、
強い相互作用によって結ばれた複合粒子を作っているのが、
〈アップ・ダウン/チャーム・ストレンジ/トップ・ボトム〉の、
6種類の素粒子であり「クォーク」の名称で知られています。

この「クォーク」の名付け親、
物理学者マレー・ゲルマン博士(1929~2019)が旅立たれました。

「クォーク」という名称自体は、
ジェイムズ・ジョイス(1882~1941)の小説
「フィネガンズ・ウェイク」の中の一節、

“ Three quarks for Muster Mark ”

から、ゲルマン博士が命名しました。

「フィネガンズ・ウェイク」は、例えば上記の一節であれば、
“ three ”と“ tree ”、“ quark ”と“ ark ”、
“ muster ”と“ master ”等々、
一つの言葉に二つ以上の意味を含ませて書かれている為、
不協和音が連続する〈現代音楽〉の如く難解ではありますが、
粒子でありながら波動であり、波動でありながら粒子である・・
という素粒子の〈二重性〉という観点からすれば、
「クォーク」という名称自体に、
既にして量子力学の命題が込められていて、
ゲルマン博士の天才的洞察を偲びます。

               

こちらの球体建造物は



名古屋市・科学館のプラネタリウム



その科学館・地下2階で開催中(~6月2日)の

「人体大解明の旅・血液ツアーズ」展へ行ってまいりました。
このフライヤーを御覧になって「なんだ子供だましか・・」と、
お思いの方もあろうかと存じますが、それは違います。

例によってフリッカーの浮いた画像で申し訳ありませんが

会場入り口には精巧な循環器系モデル・・・萌えます!


分かりやすい骨標本

いいですねぇ、ステキですねぇ


数多く展示されていた臓器模型の内

こちらは膵臓とその周辺器官


どうしても見たかったのが、こちらの

心臓・解剖模型


こちらは

内耳・三半規管から蝸牛にかけての部位

感覚器官は概ね、眼は視覚、鼻は嗅覚という具合に、
それぞれの器官が、対応する感覚情報を専一に捉えますが、
内耳はそうした感覚器官と違い、
平衡感覚と聴覚という異なる情報を、ほぼ同じ領域で扱います。

これは大変不思議なことで、もしかしたら、
地球上で重力を感じバランスを取って生きる事と、
音を聴くこととは、
人類にとって同義であることの証しなのではないか?と、
密かに想いを馳せるものであります。

この辺りのことは、
ベルリオーズ先生の手記なども参考にして、
改めて考えたいと思います。





              









マイアの息吹き

2019-05-19 14:14:36 | 自然
お見苦しい写真で申し訳ありませんが、
気ノ森周辺で感じられる、
5月の女神“ Maia・マイア ”の息吹きをいくつか・・・。

               

別段何ということもないスズカケの樹なのですが、

そのそばを通る度、
自分でも奇妙な程しみじみとしたものを覚えます。

おそらくはそれは、
「スズカケ」という名前が、その名の通り季節によっては、
無数の鈴が枝に掛けられたように見えることに由来するので、
樹木のままに楽器・大きなベルツリーに思えること。
あるいは、
「スズカケ」が修験道の法衣「鈴懸(すずかけ)」に通じて、
かつて参拝したところの大和の吉野山や
出羽の湯殿山・月山・羽黒山の光景が脳裡に浮かぶこと。
そして、それらの場所で授けて頂いた教えが、
在家を本義とし、俗世間をこそ尊い曼荼羅と見なすこと。

そうした諸々の事と想いとが錯綜して、樹に近づく度、
「しみじみ」とした感興を覚えるのかも知れません。

               

キンセンカは、その花弁の重なりが、

千手観世音菩薩の御手の重なりに思えて、
しばらく訪れていない京都・蓮華王院・三十三間堂の、
あの圧倒的コラールの御前に額づく日を夢見ます。

               

5月賛歌の美しい声部を担うのは、ヒルザキツキミソウ。

アカバナ科の月見草は、文字通り、
月の光に呼応するかのように夕方から咲き始めますが、
同じアカバナ科の月見草でも、こちらは昼に咲くということで、
「昼咲き月見草」と名付けられたのだとか。

昼は太陽の光が強くて見えないだけで、月も星もそこに在り、
それらの光も又、地球に届けられているということを、
ヒルザキツキミソウは歌っているようにも感じられて、

『青いお空のそこふかく、
 海の小石のそのように、
 夜がくるまでしずんでる、
 昼のお星はめにみえぬ。
 見えぬけれどもあるんだよ、
 見えぬものでもあるんだよ。』(「星とたんぽぽ」より)

ふと、金子みすゞ先生の一節を思い出しました。

               

日々に色づく桜の実

実の中には種があるわけですが、
思えば「種」という漢字は「禾(のぎ)」+「重」。

「おまえの重心はどこなのか?」

心の重心、身体の重心を見失いがちなワタクシめには、
耳の痛い問いかけを聞く思いがします。

               

何となく気持ちがほぐれるのは、今年もまた

ホタルブクロに巡り逢えたからでしょうか。

心の耳に聴こえてきたのは、自然という、
堂宇なき聖堂・社殿なき神社・楼閣なき寺院にあって、
5月の風が揺らして鳴らす、釣り鐘の音でありました。



              









諸行無常

2019-05-12 14:59:43 | 仏教
いつもは静かな気ノ森・手前の公園も

野外イベントで賑わっていました。


5月の英語名“ May ”は

ローマ神話の豊穣の女神:マイア/Maia に由来するとかで


耳を澄ますまでもなく

マイアが奏でる5月の変奏曲


マイアが唄う5月の賛歌の数々を

至る所で聴く事が出来ます。

               

先週は、城山八幡宮への「令和」初参拝を書かせて頂きました。
今週は、覚王山・日泰寺へ「令和」初参拝。

こうした〈ストゥーパ〉いわゆる仏塔を眺めておりますと、
自分自身の内側なのか外側なのか判然としないところから、

「諸行無常」

という声なき声、歌なき歌とでも言うべきものが、
寄せては返す大波小波のように聴こえてきます。

元号は改まり、時は流れ、世相は変わり、命は移ろうがゆえに、
心眼曇りがちなワタクシめは、

「諸行無常」

という教えを、
「存在の全ては常態を留めておけない・・」という風に、
どこか空しさを伴った日本的情緒で解釈してしまいますが、
この季節に普遍の世界へと旅立った父のことを偲びながら、
仏塔の前に静かに佇んでおります内に、

私たちが「諸行無常」なのではなく、
「諸行無常」が私たちを生きている。

という原義を、あらためて思い出しました。

               

仏教は、四苦八苦を説きます。

根本的な四つの苦しみとして、
生苦(しょうく):食べてゆくことに関わる全ての苦しみ
老苦(ろうく):老いてゆくことに伴う全ての苦しみ
病苦(びょうく):病いによって引き起こされる全ての苦しみ
死苦(しく):死ぬことにまつわる全ての苦しみ

それらに加えて、
愛別離苦(あいべつりく):愛する者と別れ離れる苦しみ
怨憎会苦(おんぞうえく):怨み憎む者に会う苦しみ
求不得苦(ぐふとくく):求める物が得られない苦しみ
五蘊盛苦(ごうんじょうく):心と身体(五蘊)に関わる苦しみ

今を去る約2500年前、仏教の開祖ゴータマ・シッダールタは、
これら四苦八苦と向き合い、四苦八苦をよく観察し、

食べてゆく為に抱えざるを得ないストレス・
歳を取ること・病気にかかること・
好きな人と別れること・嫌いな人と会うこと・
欲しいものが得られないこと・描いた夢が実現できないこと等々、
いかにも苦しみと思えることの数々も、

「諸行無常」という普遍的法理・法則が、

私たち人間を通して行っている、
極めて自然かつ健全・健康な活動の一環ではないのか・・と、
洞察したのでありました。

凡夫のワタクシめには、何をどう説かれようと、
苦しみは苦しみでしかありませんが、ただ、

人間生命というものを、
「諸行無常」を容れる《器》・「諸行無常」が働く《場》、
として観るという発想の豊かさと視点の自在さには、
ギスギスしたところが無く、何となく大らかで、
仏教の魅力の一つであるように感じます。





              









令和への祈り

2019-05-05 14:00:01 | 日常
視界の至る所、五月の風に揺れているのは

ヒメジョオン(姫女苑)・・・と分かっていながらも、
同属のハルジオンと発音上の混同をきたすワタクシめ、
つい「ヒメジオン」と呼んでしまいます。

               

城山八幡宮

「令和」になって初参拝。


参道には

改元を言祝ぐ登り旗が並びます。


境内、本殿に向かって左側へ足を運びますと

ヒトツバタゴの樹が白い花を咲かせていました。


分かりにくくて申し訳ありませんが、
ヒトツバタゴの根元辺りと写真右側の手前、
紙垂が結い付けられた二つの石を御覧頂けますでしょうか?

奥が〈桃取石(青石)〉、手前側が〈揖斐石(赤石)〉。

なんでも、
桃取石に願をかけた後、目を閉じて揖斐石に向けて歩き、
何ら支障なく揖斐石に辿り着けたならば、
その願いは成就するのだそうです。

確か京都・東山の地主神社には、恋愛の行方を占う目的で、
やはり目を閉じて渡る二つの石があったと記憶しますが、
城山八幡宮の石渡りは、男女の縁に限らず、
様々な願いにおいて何らかの神意が示されるのだとか。

GW中ということもあって、
多くの女性参拝客の方々が、眼を閉じて挑んでおられました。

上記〈桃取石・揖斐石〉、地主神社の〈恋占いの石〉、
持ち上げた時の重い軽いの感じ方で神意を量る〈おもかる石〉、
巨石・奇岩を神々の依り代とする磐座(いわくら)信仰、
伊勢の浄域に敷き詰められる〈御白石(おしらいし)〉、
古代の勾玉から現代に流行する宝石やパワーストーン等々、
特殊な「石(いし)」と神々の「意思(いし)」、
二つの“ ISHI ”の間に交わされる深い関わりを想います。

               

さて先月の新元号発表時には、
「令和」という漢字を見て「令」の字が「冷」を想わせ、
冷たい心や冷えた感情の冷めた世の中になるのかなぁ・・・と、
いささかネガティブな想いを抱きもしましたが、
その意味を知り、日々に「令和」を眺めておりましたら、
すっかり馴染みました。

「令和」の典拠となった「万葉集」巻五の中に詠まれた、

「初春の令月にして 気淑く風和ぎ」

という一節からは文意の通り、
澄みわたった気と、やわらかな風を感じますが、
一説に、ここで謳われている〈気〉と〈風〉は、
ただの〈気〉と〈風〉ではないのだそうで、
詠み人・大伴旅人(665~731)が〈気〉と〈風〉に寄せたもの、
それが一体何であったのか?興味をそそられます。

「令和」の「和」という漢字の字義・字形には、
人々が輪になって笑い合うという原風景が宿っていると聞けば、
「輪(WA)」と「和(WA)」、
「笑い(WARAI)」と「和らい(WARAI)」という風な、
音とイメージの喜ばしい重なりも浮かんできますが、

元号に込められた期待とは裏腹に、
「昭和」の時代には大きな戦争と混乱が在り、
「平成」の時代には震災を始めとする天災と人災が続きました。
「令和」の時代も例外ではないと考えるのが自然であります。

およそ138億年前、宇宙開闢の時点では、
物質と反物質とが同量で存在したものの、宇宙史のどこかで、
〈CP対称性の破れ〉と呼ばれる現象によって、
物質がわずかに反物質を上回ったが為に、
現在のような物質宇宙の成立が可能になったのだとか。

希望と絶望もまた表裏一体であり同量とは思いますが、
それでも希望が絶望を少しでも上回ることを願い、
令和の時代が、自然災害の少ない、
調和のとれた豊かな時代であることを祈ります。



original score composed by Taikai HAYAKAWA