~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

映画「パーフェクト・センス」

2020-03-29 15:39:33 | 映画
こちらの桜は、毎年、他の品種に先駆けて、
新緑の葉と共に白い花を開きますので、

察するに「大島桜」かとも思いますが、
200種を超える桜樹のこと、違うかも知れません。


今年は記録的な暖冬だったので、休眠打破の法則に照らして、
あまり花を付けないのではないか?と気を揉んでおりましたが、

杞憂でありました。

               

エヴァ・グリーン、ユアン・マクレガーという、
二大スター俳優の競演も話題となった2011年のイギリス映画、
「パーフェクト・センス」(監督:デヴィッド・マッケンジー)。

映画の中で描かれている社会と世界の状況が、
新型コロナウィルス感染拡大という現況と重なるところが多く、
見直し或いは思い起こされた方もおられることと思います。
私もその一人であります。

ある日突然、謎のウィルスによって嗅覚を失う人々。
その感染力は強大で、瞬く間に世界に拡がり、その症状は、
嗅覚喪失のみならず、味覚、聴覚・・・と、
人間から五感を奪ってゆきます。

世界各地で感染症が発生し始めた頃、
感染症研究者のスーザン(エヴァ・グリーン)と、
料理店シェフのマイケル(ユアン・マクレガー)は出会い、
どこか心の距離を隔てつつも付き合い始めますが、
急速に蔓延する感染症に罹患します。

五感の一つ一つを失いゆく中で、それに反比例するかのように、
お互いの心を開き合い、結ばれてゆく二人。
しかし、人間と人間が心を開いて距離を縮めるということは、
お互いが近くなった分、自らの影を相手の内界に落とすということ。
落とし合う影の濃さに耐えかねてか、二人は激しく傷つけ合い、
かつて魅かれ合ったチカラと同じチカラで離れ合うことに。

社会が恐慌状態にある中、
奪えるものは奪おうとする人、
希望を失わず人間らしくあろうとする人、
平常時には覆われている個々人の本質も露わになる中、
感染は拡大し続け、崩壊してゆく世界の中で人々は考えます。

本当に大事なもの、大切にすべきものは何なのか?
本当に大事な人、大切にすべき人は誰なのか?

やはりお互いが必要であると悟ったスーザンとマイケル。
しかし、ふたりに訪れたのは視覚の喪失。
閉じられる肉眼、そして開かれる心眼。
その時、心の眼は何を観、心の耳は何を聴くのか。

スーザンのモノローグで進行する1時間半の映像詩は、
観方しだいでは、全編がスーザンの心象世界とも受け取れます。
何にせよ現況が現況だけに、考えさせられます。


それでも世界は希望の糸を紡ぐ

HOPE , REBIRTH !!

              








植物園に行くつもりが・・・

2020-03-22 15:40:18 | 日常
気ノ池周辺には、多くの桜が植えられていて、
ここ一両日の開花具合は、

二分~三分咲きといったところ。


見頃を迎えるのは、

いま少し先かも知れません。

               

子供の頃に訪れて以来、久しく足が遠のいておりました、
名古屋市・東山動植物園に行ってまいりました。
言わば東山動植物園セカンドデビューでありますが、
私の“ 天然&方向音痴 ”に私自身が振り回されることに。

東山動植物園は「動・植物園」と謳われている通り、
動物園ゾーンと植物園ゾーンとが隣り合っているのですが、
そこは日本有数の動植物園だけあって敷地面積が実に広大で、
入出場のゲートが、何か所も設けられています。

今回私は、世界の植物・折々の草花を目当てに植物園を訪ね、
入場ゲートでは確かに「植物園」との表示を確認しました。

どんな植物、どんな草花と巡り会えるのか?
心を躍らせながら歩き始め、まず眼に飛び込んで来ましたのが、

こちらの、アメリカンバイソン

眼を開いているように見えますが、立ったまま眠っています。


こちらは、トナカイ

冬毛の多くが抜け落ちています。


こちらは、ハクトウワシ

さすが精悍な面構え。


こちらは、ヤマアラシ

顔が見たくて20分ほど待ちましたが、ずっとこんな感じ。


こちらは、ユキヒョウ

“ ウォーン ”と独特の鳴き声を上げます。


そしてこちらは、オオアリクイ

アリだけを食べているのではないそうです。

と、様々な動物の姿や動きに感動を覚えつつも、
いや待て、たしか自分は植物園に来たはず・・・。
植物園と謳いつつ、まさかの“ どうぶつ推し ”なんだなぁ、
発想が凄いなぁ、などと感心していたのですが違っていました。
植物園に入ったつもりが、ここは紛れもなく動物園。

このあと、道順を丁寧に教えてもらい、理解したはずのルートを、
いつの間にか外れてみたり、同じ区域をグルグル回ってみたり、
例によって、出来の悪い〈ひとりコント〉を繰り返し、その間に、
ペンギンに見惚れ、アシカに拍手を送り、キリンに心を奪われ等々、
いつしか植物園へ向かうことを忘れていました。

天然&方向音痴等の、つまらないところには磨きがかかり、
磨きをかけたい部分は曇りゆくばかり。
植物園には、また機会をあらためて訪れます。





              







星の光は過去から届く

2020-03-15 14:19:15 | 日常
夜空を彩る無数の星々。
あの瞬きは、遙か遠い昔、それぞれの星々から放たれた光。
広大な宇宙空間を、数万年あるいは数十億年に亘る旅路の末、
私たちの網膜に〈光量子(光の素粒子)〉として飛び込みます。

光の旅路は、長いものだけには限りません。
太陽の光は8分20秒、月の光はおよそ1.3秒で地球に到達しますが、
それら到達時間に遅い速いの差こそあれ、物理上どうあっても、
光は過去から届くということに違いはなく、言い換えるならば、
私たちは、過去の光に照らされて生きている・・・、
ということになろうかと思います。

             =◯◯◯=

先年、宮城県名取市の下増田公民館において、
東日本大震災が起きた2011年3月11日の夜空を、
プラネタリウムに再現して映し出すというイベントが開かれ、
津波で家族を失った遺族およそ30人の方々が参加され、
亡き人に思いを馳せた・・・と各種メディアで報道されました。
その中で、娘さんを亡くされた父親の方が、

“ 星の光は未来の誰かに届く。
 震災の記憶も星の光と同じ。
 使命として語り継いでゆきたい。”

という旨のことを仰っておられるのを知り、深く感銘を受けました。

太古の昔より、あらゆる文明・人種の差異を超え、
“ 命は世を去りしのち星となる ”と物語られてきました。
近現代の科学は、超新星爆発の仕組みを解明し、
星の最期に訪れる大爆発時に生じる元素の数々こそが、
私たち生命の形成素材・創生材料であることを突き止め、
“ 星は世を去りしのち命となる ”を明らかにしています。

“ 星は世を去りしのち命となる ”というサイエンス。
“ 命は世を去りしのち星となる ”というストーリー。
二つは一つ・・・いや、二つで一つと言うべきでしょうか。

星は元素を生み、元素は億年の時空を巡って命となり、
命は元素に還り、元素は億年の時空を巡って星となる。
エビデンスの世界とナラティブの世界はお互いに連なり響き合い、
二つで一つの世界が、人間を支え、抱えるものと考えます。



             =◯◯◯=

震災遺構を保存するか撤去するかを巡っては、
震災で大切な人を失った方々それぞれの意向・願い・想い、
被災地自治体の財政状況、維持管理責任の所在等の諸事情を含んで、
各種各様の意見があると聞きます。

こちらは、
南三陸・志津川湾から内陸へ約200メートル地点に在る、
冠婚葬祭施設・高野会館の外壁部。

矢印で示される津波の水位は、施設3階・天井に達しています。
震災発生時、327人の方がおられましたが、
日頃の防災訓練等による従業員の方々の的確な判断が為され、
全員が速やかに屋上へ退避し無事生還されました。

高野会館は、南三陸ホテル観洋及び多くの方々の御尽力により、
震災遺構・震災伝承施設として保存されることが決まりました。


こちらは、南三陸町・防災対策庁舎。
津波により職員43名の方々の命が失われました。

防災対策庁舎は、暫定的に2031年まで保存されるとのこと。
数々の震災遺構も又、それぞれが星であるように感じられ、
星の光は過去から届く、という物理現象を想い合わせますと、
震災遺構という哀しみの色を湛えた星の光は、現在から発せられ、
遠い未来の人々に届き、訴えかけるものと思います。

太陽・月・星々の光・・・のみならず、
過ぎし日を生きた人々の存在そのものも、また光。
過ぎし日を生きた人々が、
どのように生き、何を思い、何を行い、何を語ったのか。
それら無数無量の全ても又、無数無量の光であると知る時、
私たちは、過去の光に照らされて生きている・・・、
再度この感を強くするものであります。

星の巡礼~東日本大震災を忘れない

soprano:Sumiko SHINDO words&music:Taikai HAYAKAWA


              








東日本大震災から9年

2020-03-08 13:17:13 | 日常
東日本大震災から、9年が過ぎようとしています。

死亡者数  :15,899人
行方不明者数:2,529人
(令和元年12月10日 警察庁緊急災害警備本部/発表資料より)

震災でお亡くなりになられた方々の御霊に、
慎んで供養の誠を捧げます。

             =◯◯◯=

佐伯敏子さんは、広島で被爆し、御自身は一命を取りとめたものの、
母・兄二人・妹を始めとする親類・縁者13人を失い、
戦後は原爆供養塔を守りながら、被爆体験の証言者として、
核廃絶を訴え続け、2017年に旅立たれました。

「原爆供養塔 忘れられた遺骨の七十年」(文藝春秋社)は、
作家・堀川惠子氏が、佐伯敏子さんと交流を重ね、
培われた信頼関係の中から聴き得た証言、
当時の記憶を宿す方々や関係機関への取材、及び、
埋もれていた歴史資料への調査等によって著わされたもの。
原爆投下という人類史上最も劣悪な惨禍に翻弄された人々を辿り、
原爆供養塔に収められていた遺骨の真相が明らかになってゆく中で、
堀川氏は、こう述懐します。

『引き取り手のない、多くの遺骨。
 納骨名簿にすら記されることのない「ひとりひとり」には
 みんな、かつて家族がいた。
 現代社会では、交通事故で一人が亡くなったとしても、
 それは悲劇だ。医療事故も殺人事件も、人の命が失われれば
 家族はみな深い傷を負い、人生だって狂わされる。
 家族を失うことは、
 人が生きていくうえで最も深い悲しみの一つだろう。』

続けて、

『それなのに戦争は、広島の“ 七万柱 ”のように
 死者のことを何千人、何万人とひとくくりにしてしまう。
 死者ひとりひとりの存在は、
 何千、何万分の一という乾いた数字となり、
 分母が大きくなればなるほど小さくなっていく。
 それでも、どんな命も失ってしまえば代わりはきかない。
 だから一つの命は、本来は「一分の一」でしかない。』
 (堀川惠子「原爆供養塔 忘れられた遺骨の七十年」文藝春秋社)

『だから一つの命は、本来は「一分の一」でしかない。』

             =◯◯◯=

私はブログの冒頭に、東日本大震災の犠牲者数として、

死亡者数  :15,899人
行方不明者数:2,529人

と、数字を掲載させて頂きましたが、

『一つの命は、本来は「一分の一」』

という、命が本来的に備えている絶対性からすれば、
犠牲者数という「乾いた数字」を挙げることは、
失われた命を悼んでいるように見えて、実は、
失われた命を軽んじる危うさを孕んでいるのかも知れません。

『一つの命は、本来は「一分の一」』

一つの命が失われるということは、
一つの世界が失われるということに他ならず、
一つの命が生まれるということは、
一つの宇宙が生まれるということに他ならず、
一の命は、他のいかなるものも代わることが出来ない。

とは言え、
他者と優劣を競い、能力を争い、成果を比べざるを得ない社会、
人間生命を経済的価値に換算せざるを得ない社会に在っては、
自他の生命が持つ絶対性、非・比較性は影を潜め、
そうした感覚を日々の中で自覚するというのは、
誰にとっても大変難しいことのように感じます。

それゆえにこそ、せめて3月が巡る度、
せめて震災物故者の御霊に手を合わせる度、
一人一人の命は、世界の人口78億分の1ではなく、

『一つの命は、本来は「一分の一」』

この根源的な在りように心を据え、
東日本大震災が起きたことの意味と、
いのちの意味とに思いを致すものであります。

富士の山 不死の国 ~ 東日本大震災を忘れない ~

I'll never forget Great East Japan Earthquake.


              







四十八茶、百鼠

2020-03-01 14:16:24 | 雑感
『うばい合えば 足らぬ
 わけ合えば あまる』(相田みつを)

マスクやトイレ紙等々が足りない、という現況下にあって、
おそらくは既に取り上げられているであろう言葉。
相田みつを先生は、今の日本人を、
どのように御覧になっておられることでしょうか。
人とは浅ましいもの。
私もまた浅ましい人間の一人として、浅ましいなりに、
この言葉の灯し火を、心の片隅に点じたいと思います。

               

こちらは覚王山・日泰寺・本殿前の白梅。

遠目には花盛りのようにも見えましたが、
天地に早春を先触れる大役を務めただけあって、
近くに寄ってみますと花期は終盤を迎え、花びらはホロホロと、
さしたる風もないままに、こぼれ続けていました。

日泰寺の白梅を見上げておりましたら、
以前住まいしておりました市川市内に在る、
徳願寺のことを思い出しました。
こちらが、海巌山・徳願寺の山門(撮影は2017年3月)。

ここに写っておりますのは桜の蕾ですが、
境内には梅の樹も植えられていて、六月になりますと、
これがまた見事な梅の実をたわわに実らせるのでありました。

                

枯葉は、だいたい茶色であろうと思っておりましたが、

気ノ森の地面を覆い尽くす無数の枯葉を見続けておりますうちに、
例によってと申しましょうか、次第にボーッとしてまいり、
茶色にも様々な茶色があるのだなぁ、と気付かされ、
ふと脳裡をよぎりましたのは、

「四十八茶(しじゅうはっちゃ)、百鼠(ひゃくねずみ)」

なる言葉。
日本は春夏秋冬が醸す色合いのイメージが豊富だからでしょうか、
古来、日本人が養い育て続けてきた色彩感覚は非常に繊細で、
ひとくちに〈茶色〉と言っても、四十八種類の茶色を見分け、
〈鼠色〉に至っては、百種類もの鼠色を判別し、染め分けるとされ、
「四十八茶、百鼠」は、
そのように細やか、かつ透徹した日本的感性を謳った言葉であり、
これほどまでに複雑で豊かな色彩の文化を持つ民族は、
世界広しと雖も、他に類例を見ないのではないかとさえ思います。

「音色」という言葉は、音と色との密なる関係を説きますが、
全ての色の母体は“ 光 ”であることに想いを巡らせてみれば、
「音色」は、その原義の中に“ 音は光であり、光は音である ”
というメッセージを秘めているようにも感じます。

「音色」それ自体の世界に心を合わせ、
物体に光が反射して生じる色も、音響に伴って生まれる色も、
視覚か?聴覚か?という感覚器官の違いこそあれ、
“ 色 ” は “ 色 ” である、という風に考えてみますと、
「四十八茶、百鼠」が、
たった一つの音を、何十色にも聴き分け、弾き分け、
たった一つの和音を、何百色にも奏で分け、響き分け、
たった一つの旋律を、何千色にも作り分け、紡ぎ分けよ・・・、
という、音楽的感性の道しるべのようにも思われてきます。

そしてまた「四十八茶、百鼠」に照らして、
こわごわながら我が身を振り返ってみますと、これが哀しいかな、
自分が粗野な感性・粗雑な感覚しか持ち合わせていないことに、
あらためて気付かされるのであります。

               

さて、こちらは名古屋天神・上野天満宮、

本殿の手前に植えられている大きな紅梅。


先週の参拝時には、

どの枝の蕾もこういう状態でしたが、


本日(2020年3月1日)は、ほぼ満開でした。

梅にも多くの種類があるそうですが、この紅梅の花房は、
どことなく寒緋桜(カンヒザクラ)を想わせます。

上野天満宮・正面鳥居をくぐって右側奥には梅林があり、
そちらの紅梅・白梅は、開花の時期が早い分、
先の日泰寺の白梅と同様、花期も終わりにさしかかり、
一輪一輪に寄って撮るというわけにもゆきませんので、

〈天神くん〉にフォーカス。

皆様、くれぐれも御自愛下さい。