胡四王山の西北西4㎞弱の所に杉の大木が茂る森がある。そこの地名は西宮野目と云う。
場所を確認したい方は次をクリック。
三嶽神社の所在地
”釜石自動車道”や”三岳”の傍にある神社がそれである。
目印は
《1 脇のサンクス》(平成21年1月14日撮影)
である。この写真の左手に
《2 こんな神社》(平成21年1月14日撮影)
があり、名は三嶽(みたけ)神社と云うらしい。右手に
《3 三嶽神社歴史由来の石碑》(平成21年1月14撮影)
が建ててあり、大きな字で
《4 3つの神社名》(平成21年1月14日撮影)
が書いてある。もちろんお判りのように左から
胡四王神社
早池峰神社
羽山神社
と刻まれている。
《5 由来》(平成21年1月14日撮影)
には
右の標題につきましては兼ねて何かの機会にお話申し上げておりますが、神社氏子総代として三嶽神社の歴史については不明確でありましたが今日まで何年祭何百年祭も聞いた事もなく、ただ昭和四十一年頃今の神社建設百年祭がありました。しかし、古い事は何物も残っていないために不思議に思い今年二月総代数名三姫祭神大己貴命木花開夜姫命少名彦命祭神正す事によって、胡四王神社早池峯神社羽山神社三神社宮司様方を訪問致し、誠に神歴の古い三嶽祭神であることが判った。(後略)
とある。
まさかこんなところで”胡四王神社”の名前に出会えるとは思わなかった。つい、嬉しくなったのでここの報告したしだいである。
《6 拝殿は花巻指定文化財》(平成21年1月14撮影)
になっているとのこと。
元は花巻城外御堀内側、円城寺坂下にあった観音堂である。古くは延寿寺観音と呼ばれていた。江戸時代の延宝年間(一七世紀後半)頃より、蓬莱山観音寺(真言宗)の観音堂として江戸時代を通じて周囲の信仰を集め、幕末を迎えている。
明治に入ると廃寺となり、御堂も使用されなくなったため、明治三年西宮野目の三嶽神社で譲り受けて移築したものである。
と説明している。
お気づきのとおり、以前”ここにも庚申塔”の《7 延寿寺観音堂の由来》で触れた『観音堂(本堂)』そのものである。
《7 一の鳥居》(平成21年1月14日撮影)
をくぐると、境内の左手に
《8 三嶽観音》(平成21年1月14日撮影)
があり、
《9 〃由緒》(平成21年1月14日撮影)
《10 〃額》(平成21年1月14日撮影)
《11 観音堂脇の石塔群》(平成21年1月14撮影)
案の定ここにも庚申塔があり。ただの庚申塔が2基、七庚申塔が1基で計3基もある。ただし、やはり五庚申塔は見あたらない。
《12 三嶽神社拝殿》(平成21年1月14日撮影)
《13 〃 》(平成21年1月14日撮影)
《14 〃の額》(平成21年1月14日撮影)
《15 拝殿の右側にも鳥居などあり》(平成21年1月14日撮影)
《16 本宮の鳥居》(平成21年1月14日撮影)
その左脇にも
《17 庚申塔あり》(平成21年1月14日撮影)
《18 本宮》(平成21年1月14日撮影)
《19 祠など》(平成21年1月14日撮影)
《20 石塔》(平成21年1月14日撮影)
こうなれば、”羽山(はやま)神社”についても近々報告したい。
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”釜石自動車道”や”三岳”の傍にある神社がそれである。
目印は
《1 脇のサンクス》(平成21年1月14日撮影)
である。この写真の左手に
《2 こんな神社》(平成21年1月14日撮影)
があり、名は三嶽(みたけ)神社と云うらしい。右手に
《3 三嶽神社歴史由来の石碑》(平成21年1月14撮影)
が建ててあり、大きな字で
《4 3つの神社名》(平成21年1月14日撮影)
が書いてある。もちろんお判りのように左から
胡四王神社
早池峰神社
羽山神社
と刻まれている。
《5 由来》(平成21年1月14日撮影)
には
右の標題につきましては兼ねて何かの機会にお話申し上げておりますが、神社氏子総代として三嶽神社の歴史については不明確でありましたが今日まで何年祭何百年祭も聞いた事もなく、ただ昭和四十一年頃今の神社建設百年祭がありました。しかし、古い事は何物も残っていないために不思議に思い今年二月総代数名三姫祭神大己貴命木花開夜姫命少名彦命祭神正す事によって、胡四王神社早池峯神社羽山神社三神社宮司様方を訪問致し、誠に神歴の古い三嶽祭神であることが判った。(後略)
とある。
まさかこんなところで”胡四王神社”の名前に出会えるとは思わなかった。つい、嬉しくなったのでここの報告したしだいである。
《6 拝殿は花巻指定文化財》(平成21年1月14撮影)
になっているとのこと。
元は花巻城外御堀内側、円城寺坂下にあった観音堂である。古くは延寿寺観音と呼ばれていた。江戸時代の延宝年間(一七世紀後半)頃より、蓬莱山観音寺(真言宗)の観音堂として江戸時代を通じて周囲の信仰を集め、幕末を迎えている。
明治に入ると廃寺となり、御堂も使用されなくなったため、明治三年西宮野目の三嶽神社で譲り受けて移築したものである。
と説明している。
お気づきのとおり、以前”ここにも庚申塔”の《7 延寿寺観音堂の由来》で触れた『観音堂(本堂)』そのものである。
《7 一の鳥居》(平成21年1月14日撮影)
をくぐると、境内の左手に
《8 三嶽観音》(平成21年1月14日撮影)
があり、
《9 〃由緒》(平成21年1月14日撮影)
《10 〃額》(平成21年1月14日撮影)
《11 観音堂脇の石塔群》(平成21年1月14撮影)
案の定ここにも庚申塔があり。ただの庚申塔が2基、七庚申塔が1基で計3基もある。ただし、やはり五庚申塔は見あたらない。
《12 三嶽神社拝殿》(平成21年1月14日撮影)
《13 〃 》(平成21年1月14日撮影)
《14 〃の額》(平成21年1月14日撮影)
《15 拝殿の右側にも鳥居などあり》(平成21年1月14日撮影)
《16 本宮の鳥居》(平成21年1月14日撮影)
その左脇にも
《17 庚申塔あり》(平成21年1月14日撮影)
《18 本宮》(平成21年1月14日撮影)
《19 祠など》(平成21年1月14日撮影)
《20 石塔》(平成21年1月14日撮影)
こうなれば、”羽山(はやま)神社”についても近々報告したい。
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